(42)お義母さんと
黛の母、玲子が帰国しました。
玲子が帰国して一気に黛家が華やかになった。
玲子は所属事務所から二ヵ月の休暇を貰っていて、大抵防音室でピアノの練習をしている。
偶にフラリとジャズバーに顔を出したり、コンサートに行ったり、友人(本田家の茉莉花さん)を訪ねたりしているらしい。
そしてそれ以外の時間は居間でのんびりお茶を飲んでいる。
自然、七海と玲子の会話も増えた。
黛と話すのは楽しいが、休みが合わずゆっくり会話を楽しむ時間を確保するのは難しい。
七海は玲子と接する事で欠けていた部分が埋まる様な気持ちを感じた。女性とのおしゃべりは単純に楽しい。江島家は帰れば必ず祖母か母、たまに妹と世間話をする事が出来たので、こちらに引っ越し来てやはり自分は少し寂しかったのかもしれない……と七海は改めて実感した。
初対面で即、七海を『イイね!可愛いじゃな~い!』とかっる~く受け入れた玲子だが、時折難しい表情で七海を上から下まで眺めている時があるのに気が付いた。
何かマズイ事を仕出かしたのだろうか……?と心配になり始めた頃、玲子からお達しがあった。
「今日、七海に折り入ってお話があるの。会社帰りに寄り道したいから待合わせしましょう」
―――こうして七海は玲子と初めて外で待ち合わせする事になったのである。
** ** **
営業の小池が、総務に来たついでに七海の元を訪れた。
「今日同期で飲み会しようって話が出ているんだけど、どう?」
以前の飲み会を切っ掛けに、時折同期の間で声を掛け合って集まるようになった。フットワークの軽い小池が大抵言い出しっぺになる事が多い。
「ゴメン、今日約束あるの」
「旦那さん?」
「ううん、お義母さん。話があるって」
「えっ……もしかして……『貴女にお話があります……嫁の心得と言うものをどうお考えですか?七海さん?』ってヤツ?『嫁姑戦争』勃発か?!」
「いや……そう言うタイプじゃ無いんだよね。でも一緒に暮らしているのにわざわざ外で会おうって言うから……もしかして家だと言い辛い事なのかなぁ?とは思うけど」
「すげーなぁ、結婚って大変だな」
「いや、全然大変じゃないんだけど……」
全然全く大変じゃない。
肩透かしを食らったと思うくらい、楽ちんだ。
ただ読めない。
黛もそうだが、龍一も玲子も……七海と考え方のルートが違い過ぎて全く何を言われるのか予想が付かないのだ。
玲子が帰国してまだ一週間しか経っていないが、全くストレス無く暮らせてしまう。同じマンションの一室とは言え浴室も別だし、玲子は料理をしないからキッチンは完全に七海のテリトリーだ。率直な物言いで驚かされる事も多いが、裏表の無い玲子の口調は黛に似ていて七海には聞き易かった。
(あ、違うか。黛君が玲子さんに似ているんだ、きっと)
七海が考え込む様子を見せたので、小池はポンと励ます様に肩を叩いた。
「意地悪な姑にストレス溜まったら、言えよ!皆で飲みに付き合ってやるから」
「大丈夫。小池君はただ飲む口実が欲しいんでしょ?」
「バレたか!!まっ、今日は残念だけど、次は参加しろよ!」
「うん、アリガト」
そうして小池は手を振って去って行った。
就業時間を過ぎたので、七海はロッカー室でジャケットを羽織り鞄を持って廊下へ出た。
すると小池を含めた男女五人のグループと行き合った。
「七海、今日来れないんでしょ?」
同期の美代子が残念そうに言った。
「うん、ちょっと別用があって」
「お姑さんから『お説教』だって」
「ええー!大変だね」
小池が冗談めかして言ったので、美代子が目を見開いて同情を示した。
「お説教では無いと思うけど……」
七海は否定したが、要件が何か分からないので何と続けて良いか分からず歯切れが悪くなってしまった。
そうして同期の皆でビルの一階のエントランスまで降りて来た時、小池が「おい!すげえ派手な美女がいる!」と小さい声で囁いた。
何となく予感がして、その視線を辿ると―――いた。美女が。
大きいサングラスに碧いワンピース。高い位置に太めの黒ベルトでマークした腰は目が覚めるほど細く、スカート部分は複雑なプリーツになっていて彼女の体に纏わり付きそのスタイルの良さを引き立たせている。緩やかにうねる巻き毛がふわふわと肩と背を覆い、ゴージャスな雰囲気を醸し出していた。
彼女はスマホを手にし、メッセージを打っている。するとブーン……と七海のスマホが鞄の中で着信を知らせた。
『エントランスで待ってるね(^_-)-☆』
確認すると、送られたばかりの玲子からのメッセージが。やはり見た通り、エントランスで目立っている美女は玲子その人らしい。
隣を見上げると、小池が見惚れたように呆けている。
七海はどうしようかと暫し逡巡した。
するとメッセージを打ち終えて、スマホを持つ手を下げた美女がこちらを振り向いた。
そして目的の人物を見つけて、大きく手を振ったのだった。
「七海~!お疲れ!」
その途端、同期の皆の視線が七海に集まった。
小池が口をパクパクしながら、何かを言おうとしている。
七海は小さく玲子に手を振り返して、にへらっと笑って言った。
「うん、えっと……あれが、私の『お姑さん』……」
「マジで?!」
「うっそ」
「若っ」
「美女!」
「ありえな~い!」
「ハハハ、言われると思った……」
ちょっと遠い目をして力なく笑ってしまう。予想通りの反応と言うか何と言うか……。
七海は同期達に手を振って、玲子の元へ駆け寄った。
「玲子さん、お待たせしちゃってゴメンなさい」
「んーん、全然!さっ行こっ」
玲子は七海の腕に自分の腕を絡めて、促した。
七海が同期の皆を振り向いてもう一度小さく手を振るのを見ると、玲子もサングラスを外してニコリと華やかに笑い掛け、手を振って見せた。
(あ、小池君真っ赤だ)
同期の皆が、玲子に応えてペコリと頭を下げた。一人だけ顔を真っ赤にしている小池が目に入り、七海は何だかソワソワしてしまった。
翌日。案の定、七海は小池に玲子の事を根ほり葉ほり聞かれてしまう。
面倒なのでジャズピアニストだと言う事までは、言わなかった。ファンであればきっと一目で分かったかもしれないが……どうやら小池はジャズに興味が無いらしい。
七海はその日、小池が年上好きだと言う―――どうでもよい個人情報を一つ手に入れる事になったのだった。
七海の同期は、男女関係無く仲が良いです。
他の世代からは、尖った人材のいない『谷間世代』とか『ゆとり世代』とかよく揶揄われます。
お読みいただき、有難うございました。