(32)大晦日
大晦日のお話です。
元旦に籍を入れる予定の黛は、当直明けではあるが何とか大晦日と元旦の二日間休みを貰う事が出来た。以前当直の際、捕まらなかった加藤の代わりに黛が担当患者の対応をした事がある。その借りを返すと言って彼女が担当を譲ってくれたのだ。
遠野との仲を誤解して以来、加藤の黛に対する態度はサッパリしたものに変わった。彼女は尊敬しているメイクアップアーティストと同じ性質の人間に寛容だった。更に自分の価値に問題は無かったのだと納得できれば、黛に対しての苛立ちは綺麗に無くなってしまったらしい。
―――と言う訳で、都合が良いので未だに黛は積極的に誤解を解く真似はしていない。最近は嫌がる遠野が面白くて、冗談めかしてワザと加藤の前で意味深な発言をする事もあるくらいだ。
龍一の帰宅はおそらく深夜を過ぎる事になるだろう。休みは年明け帰国する玲子の動向に合わせて取得すると聞いている。入籍前の日を七海と二人きりでゆっくり過ごせるとあって、黛はウキウキしながら帰途に着いたのだった。
「たっだいまー」
「お疲れさま」
玄関まで出迎えに来た七海を、黛は満面の笑みで抱きしめた。
「んー疲れた!七海はもう風呂に入ったのか?」
「ううん、これから」
「一緒に入ろうぜ」
「え」
七海は一緒に浴室に入る事を嫌がる。どうせ断られるのは分かっているのだが、ついつい黛は軽口をきいてしまう。単純に七海が恥ずかしがる所を見るのが好き、と言うのもあるが、万に一つ『今日は一緒に入っても良いかも?』と彼女が考えないとも限らない。
実際の所七海が嫌がっているのは、勿論明るい場所で自信の無い自分の体を好きな相手に見られたくないと言う羞恥心の所為だが、お風呂で行う色々なケアに時間が掛かるし、その中には黛に見せたくない作業もある―――と言うのが一番の理由だ。
その微妙な事情を七海は黛に説明するつもりは無かった。つまり黛にはほとんどチャンスはないのだ。
「駄目、無理だよ。別々に入ろ?」
「ちぇ~」
黛はいつも通り大人しく引き下がった。
しかし明日はいよいよ婚姻届を提出する日だ。夫婦になるカウントダウンが始まる今、ちょっとだけ粘ってみる事にした。
「翔太とは入ったんだろ?」
「え?あ、うん」
七海は黛に尋ねられるままに、スマホで実家に帰った時の事を報告していた。
「俺……あんまり家族で風呂に入ったって記憶無いからさ。羨ましいな~って思ってさ」
そう呟いて、ちょっと肩を落としてみる。
「……黛君……」
「いーよ、いーよ。七海、恥ずかしがりだもんな。じゃあ、お風呂入ってからご飯食べよっかな。先入って良い?」
「うん……じゃあご飯、準備しとくね」
「やった!楽しみだな。よろしく~」
少しだけアピールしてみたが、こんな事で七海が方針を変える事は無いだろうと黛は思っていた。ただちょっとだけ……同情して甘やかしてくれないかな?と細やかな期待は持っている。
それから荷物を片付け着替えを取りに行く為に、七海を居間に残して黛は二人の寝室に足を向けた。
鞄を置きパジャマと部屋着兼用のジャージとTシャツ、替えの下着を持って黛が浴室へ向うと、既にお湯が張ってあった。体を軽く流してから入浴剤をチャポンと投入し、浴槽に浸かる。入浴剤のバスキューブが炭酸の泡をブクブク発しながら湯船に溶けて行くのを眺めながら―――温かいお湯に肩が沈むまで更に深く沈み込んだ。
これも七海が持ち込んだ習慣だ。黛には入浴剤を使うなんて発想は無かったが、一旦味わってみると、なかなか快適だと気が付かされた。今ではすっかりどのキューブを使うのか、選ぶのが彼の楽しみになっている。
七海と交際する事になって以来、黛には良い事ばかりしか起こっていない。
こんな事なら、もっとずっと前に告白するんだった。と思ったりもするが、七海が黛を好きになってくれたのがごく最近の事らしいので―――やはりこのタイミング以外無かったのだとも思う。まだまだ一人前の医師になるのは先の事だし、家族になれば今後簡単に乗り越える事が難しい困難に突き当たる事もあるかもしれない。
それでも七海がいない人生よりは七海がいる人生の方がずっと良い……なんて考えている時点で、もうかなり頭が恋と言う麻薬に侵されているのかもしれないと実感してしまう。
そんな事を考えながら、無意識に鼻歌など歌ってしまっている自分に気が付いた。
(フェニルエチルアミンの効果って長くて四年って言うけどな)
恋愛のドキドキを演出するホルモン、PEAが脳内に分泌される期間は、三カ月とも、長くて半年から三、四年とも言われている。
じゃあ自分の長い恋煩いは、どういう仕組みで続いて来たのだろう……と黛は考える。恋が叶った後、いつかこの衝動が消えてしまう事があるのだろうか?それとも自分の気持ちはそのまま残って―――七海の中の黛を好きだと言う気持ちだけ消えてしまうなんて日がいつか来るのだろうか?そうなった時、遠野は得意気に「さもありなん」と笑うのだろうな、と思う。
そうだとしても、七海を手放すなんて嫌だと、黛は思う。
もしかして、それを未然に防ぐための契約なのだろうか?『結婚』と言うのは。
科学や医学に照らして一般的に考えると、遠野の言うように一人の女性を思い続けるのは難しいのだろう。
けれども自分の両親は、それほど一緒にいないけれどそれなりに仲が良いようだし、少年時代入り浸った本田家の両親も、良好な関係を築いているように見える。全ての関係がそんな風に上手く行っている訳では無い……と言うのは承知している。実際遠野の両親はお互い外に恋人が居ても見て見ぬ振りをしているらしい。だからそれが当たり前だと信じている遠野みたいな人間がいてもおかしくは無い。
(休みを取るのにちょっと詰め込みすぎたか?)
グダグダ考えるのは性に合わない。今回纏まって休みを取る為に、直前まで仕事を連続して入れていた。自分は疲れているのだろう……と黛は思い至る。
ザブンと湯船に頭をまで浸かり、ギリギリまで我慢してザバっと飛び出す。
プルプルと頭を振ると、水の雫と一緒に淀んだ思考が遠心力で千切れて行くような気がした。
その時、浴室の扉から声が掛かった。
「黛君?」
七海だ。
「うん?何?」
「……あの……お背中流しましょうか……?」
「……」
時が止まった。
「……はぁあ?!」
驚きで、一瞬固まってしまった。
まさか今まで恥ずかしがるだけだった七海が、黛の願いを受け入れて一緒に浴室に入ろうとするとは……!黛の頭は沸騰寸前。疲れてブルーになっていた堂々巡りの思考も一遍に吹き飛んでしまった。
「入って良い……?」
「え!えっと……うん。勿論……」
落ち着いて聞こえるように返事をしたものの、黛の皮膚一枚の下はお祭りみたいに騒がしくなった。
(マジ?マジかよ~!)
と慌てつつ浮かれていた時、ガラリと扉が空いて―――黛はパチクリと瞬きを繰り返した。
「あれ?」
「何よ」
「一緒に入るんじゃ……ないのか?」
七海はショートパンツとタンクトップ姿だった。
あからさまにガッカリした様子の黛に向かって、真っ赤になった七海は唇を尖らせた。
「一緒に入るとは言ってない……『背中流す』って言ったの。翔太みたいにやって欲しいんでしょ?」
「何だ~~」
「~~~いらないなら良いよっ」
「うそ、うそ!いる!背中流して!」
七海は頬を染めてコクリと頷いた。
肩透かしを食らって少しがっかりしたものの、背中を洗う序でに頭も洗って貰いサッパリとした黛は直ぐに上機嫌を取り戻した。
気分良くその年の疲れを取る事が出来、思わず湯船につかった時『あ~~極楽、極楽』と呟いてしまった。
すると役目を終えて浴室を出て行こうとしていた七海が噴き出した。
七海が出て行った後、再び湯船にゆったりと体を弛緩させ、黛は自然とこう口にしていた。
「やっぱ、結婚っていいなぁ~」
来年は良い年になりそうだ―――と黛は思ったのだった。
浮かれまくっている黛でした。
お読みいただき、有難うございました。




