(28)朝ご飯
少し遡りますが(26)話の翌日の小話です。
七海が引っ越し来てまず黛が驚いたのは、彼女の手際の良さだった。
同時に起きたのに、黛がシャワーを浴びて髭を剃っている間に殆ど朝ごはんの準備が終わっている。
一緒に暮らす以前いつも七海が料理を作る時、黛は何らか簡単な手伝いをさせられていた。
もしかして朝食の準備も手伝った方が良いのか?と、シャワーを浴びながら黛はそんな事をふと思い付いた。
脱衣室から出て七海にそう尋ねると、既に後はご飯とお味噌汁をよそうだけの状態になっていた。コーヒーメーカーで落とした珈琲を手渡され、入れ違いに七海は浴室に入って行く。珈琲を飲みながら新聞に目を通していると、脱衣室を出た七海はすっかり身支度を終えていた。仕事納め後で既に休みに入っている為白いVネックのプルオーバーにジーンズといった普段着だ。今日七海は、昨日片付け切れなかった残りの荷物を整理した後、住所異動等の手続きに向かうそうだ。
母親の玲子を見ていて女の身支度には時間が掛かると思っていた黛は、すっかり仕度を整えた七海を見て思わず、
「はやっ」
と驚嘆の呟きを上げた。
しかし七海はそれに気付く事無く、エプロンを付けてご飯と味噌汁をよそい始める。
「ご飯このくらいでいい?」
茶碗によそったご飯を見せられ、黛は頷く。味噌汁でも同様の工程を経て、食卓が整えられた。今度は黛も少しは手伝った。と言っても、ご飯をよそった茶碗と味噌汁の入ったお椀を渡され、ダイニングテーブルに運んだくらいだが……。
今朝は父は昼過ぎに帰宅する予定なので二人分の食事が並ぶ。
ご飯と具だくさんの味噌汁、鮭の切り身に味海苔、生卵と漬物。宣言通り以前七海とホテルに泊まった時の朝食メニューとそっくりの食卓に、黛は既視感を覚えた。
「じゃあ食べよっか。いただきまーす」
「あ、いただきます」
手を合わせる七海に合わせて、黛も手を慌てて合わせる。
七海に倣って生卵を割り、湯気の立つご飯に掛ける。醤油を渡され少し垂らすと、ふわっと良い香りが鼻腔を擽った。
味噌汁を飲んで、卵が絶妙に絡まった湯気の立ったご飯を口に入れると、美味しさに胸が震える。
その内止まらなくなって無言でガツガツ箸を進める黛に七海は少し目を瞠り、そして笑って言った。
「口に合う?ちょっとオカズ少ないかな?」
「うん、美味い。オカズはじゅーぶん」
朝はコンビニで買ったお握りかパンで済ませていた黛にとっては、今日の食卓はご馳走にしか見えない。
「納豆好き?なめたけとか……江島家だと、ご飯のおともを日によって変えるんだけど。アレルギーとか無かったよね?」
黛はご飯を頬張りながら、コクコクと頷いた。
もともと好き嫌いは全く無いし、朝ごはんがあるだけで有難いと思ってしまう。
「あ、お義父さんも好き嫌いとか無いのかな?」
七海に尋ねられ、そう言えば親父も一緒に住んでいたっけと思い出す。朝ご飯に浮かれすぎていて、すっかり現実を忘れていた。
「どうだろ?親父とご飯食べる事、ほとんど無いから分からないな」
「え?一緒に住んでるのに、知らないの?」
黛は頷いた。
「ほぼ外食だからな。昔は朝ここで食べてた時もあったんだけど……玲子は手料理禁止だったから、シリアルとかパンしか食べて無かったし。親父自体あまり口数の多い方じゃないからな。まあ、一緒に外食してて何かを残してる処は見た事ないけど」
「ふーん、じゃあ顔合わせたら聞いてみるかな?そう言えば、今日は作ってないんだけど―――私これから会社にお弁当持って行こうと思ってるんだ。黛君もいる?お弁当」
「……弁当?」
「うん」
「いる」
黛は即答した。七海は「じゃあ、朝会える日は作って渡すね」と言ってニコリと笑った。
素っ気ない回答をしつつ、ご飯を食べながらも黛の胸の内は高鳴っていた。朝御飯を作って貰えるだけでもスゴイと思っていたので、まさかお弁当まで用意する気が七海にあるとは予想していなかったのだ。
これまで父親の不在時に黛の家に七海が泊まり来た事は何度もあったが―――夕飯を一緒に作った事はあっても、七海が自ら積極的に朝食を用意したりする事は無かった。つまり彼女は『良い嫁アピール』的な行動を一切して来なかった。
そう言えば、と思う。黛は特に要求もしなかったし気にしてもいなかったが―――大学時代に付き合った女性から手の込んだ手料理を振る舞われた事があった。遠野に漏らすと「それは『良妻になります』ってアピールだろ」と指摘された事がある。確かに積極的に料理をしてくれた相手は、友達の結婚式の話題や、もしも将来結婚したら―――と言った話題を多く上げていたかもしれないと後から気が付いた。黛は聞き流していたので、リアルタイムでそのように認識はしていなかったが。
だからそう言う行動をこれまでして来なかった七海がこれほど手際良く朝食の準備が出来る事も知らなかったし、お弁当まで作るつもりがあったなんて、全く黛は予想も期待もしていなかったのだ。
感動しながら朝御飯を食べ終えた後バタバタと身支度を整え―――黛が玄関へ向かうと、七海が後ろから付いて来た。
「いってらっしゃい」
微笑んで手を振る七海に向かって黛はちょっと息を呑み、それからふうっと吐き出すように言った。
「……いってきます」
扉を閉めて、歩き出す。
駐輪場から自転車を出すと、ワクワクするような擽ったい気分が湧き上がって来た。
黛はマンションの入口でキビキビと左右を確認するとすぐ、公道へと勢いよく飛び出したのだった。
七海は何となく遠慮して『他人の家』の物に勝手に手を出せない性質です。昨日から漸く自分の家になったので、キッチンを好きに使えるようになりました。黛に教えながらやるより自分一人の方が早く作業できるので、本当は手伝わせない方が七海には楽ちんです。
前話(27)は今回のお話の少し後のお話となります。
お読みいただき、有難うございました。




