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(2)彼の特技

 『プールノート東京』と言う老舗ジャズ・クラブのボックスシートペア席で、何故か七海はジャズライブを聞いている。


 まるで夢の中にいるようだった。

 黒い革張りのL字型のソファにゆったりと腰掛け、膝を突き合わせる形で隣に座っているのはまゆずみだ。眠たげに瞼を半分閉じ、膝を組みくつろいだ様子でソファに寄り掛かっている。


 ステージの上で初めの一曲を弾き終え熱狂的な拍手を浴びているのは―――黛の美貌の母、玲子だった。

 楽し気に観客達にお礼を言いメンバーを一通り紹介した後、再び鍵盤に向き合い二曲目に取り掛かる。目まぐるしいほどの指捌き、恐ろしい速さで楽曲を奏でる。玲は速弾きを得意とする著名なジャズ・ピアニストで世界中を飛び回っているらしい。

 日本公演があるため帰国し、家族用にチケットを用意してくれた。黛の父親の龍一は今回仕事で出席できず、今日は黛と、両家に挨拶を済ませ晴れて黛の婚約者となった七海の二人で公演を聞きに来たのだ。


 ブイヨンと生クリームで煮込んだ柔らかい『鶏肉のフリカッセ』とサーモンとカブの『ミキュイ』に舌鼓を打つ。フルーティな白ワインで口直しをしつつ、熱気に包まれながら胸がドキドキするようなベースの低音に乗って転がり落ちるように奏でられるピアノの旋律に耳を傾けると、本当にここが現実なのか夢なのか七海には分からなくなってくる。

 一方の黛はと言うと、ペロリと食事を平らげた後はワインを飲みつつ眠たげにソファに埋もれているだけだ。しかしその様子に目を向けた七海と目が合うと、ニコリともせず黙ってソファに置かれた彼女の手を取って握り込んだ。

 その自然な仕草にドキリとしつつ、振り払うのも勿体無いような気がして七海はされるがままになっている。




 演奏の中盤で、玲子がゲストを呼び込んだ。

 赤茶色の豪華な巻き髪掛かったクセ毛を太陽のように誇らしげに広げた美女は、今回コンテストとライブツアーの為米国から来日したサックスプレーヤーだった。どうやら今日は玲子の公演を聞きに来ていて、飛び入りで一曲だけ合わせてくれる事になったらしい。

 玲子がそう告げると、常連客らしい塊から歓声が上がった。


 演奏に入る前、赤茶色の髪の美女がチラリとこちらを見たような気がした。

 黛の知り合いかと思い問いかけるように七海が彼の顔を見ると、変わらず眠たげな様子を保ったままついにウトウトと船を漕ぎ始めた所だった。しかしそれでも黛の指はしっかりと七海の指を捕らえていたので―――七海はクスリと笑ってステージ上の演奏に視線を戻したのだった。







 打上げ会場に顔を出すようにと玲子に頼まれ、黛は不機嫌そうに渋っていたが最後には頷いた。

 画面越しには何度か話しているものの、結局七海はほとんど玲子とは直接顔を合わせていない。七海と会いたいと言われると、黛も折れるしか無かったようだ。


「眠いでしょ?大丈夫?」

「いや、さっき寝たから」


 やはり眠っていたのか、と七海は思う。そしてもしかして自分の為に少し無理をしてくれているのかも……と感じ、ほんの少し胸が温まった。


 こじんまりとした洒落たバーは貸し切りになっていて、七海を連れた黛が扉を開けると人に囲まれた玲子が、パッと顔を明るくして手を振った。

 その仕草の無邪気さについ、七海も自然と笑顔になる。何度か話す内に黛の母が七海に好意を向けてくれる事を、彼女は実感していた。


「龍之介!七海!」


 四十五歳にはとても見えない美しく若々しい玲子が、豊かな長髪を揺らして黛に抱き着いて頬にキスをした。ちょっと吃驚したが、外国暮らしが長い所為なのかと七海は自分を納得させて心を落ち着けた。と、のんびり油断していたら、ガバっと玲子に抱き着かれて、目を白黒させる事になる。

 柔らかく女性らしい良い香りに包まれながら七海は小柄な彼女の体を受け止めた。一体この小さな体の何処にあんなパワフルな演奏をするエネルギーが秘められているのだろうと、不思議に思いながら。




「やっと、会えた」




 そう言ってニッコリと微笑んでくれた玲子は、少し照明の落ちた空間ではまるで少女のように見えた。元々黛の顔がドストライクの七海なので、彼のルーツである美しい顔に笑い掛けられると、悶えそうになってしまう。




(どうしよう……黛君のお母さんの顔、好きすぎる……!)




「はい。会えましたね」


 だから真っ赤になりながら、七海はそう答えるのが精一杯だった。

 するとその様子を隣で見守っていた黛に、声が掛かった。




「Ryu! It's been ages! How have you been?」




 そこには輝くばかりに笑顔を振りまく、赤毛の美女がいた。

 やはり知り合いだったんだ、と七海は思う。


「Hi, Meg. I've been fine. And you?」

「I've never. You know that I was sad when you weren’t around?」

「No, kidding!」


 黛の口から流暢な英語が飛び出して来たので、七海は目を丸くして会話を交わす二人を見守った。黛が困ったように肩を竦めると、赤毛の美女は首を振って眉を下げた。手を広げて黛の方に一歩踏み出そうとする。すると黛はそれを制するように手を差し出した。


「I'm glad to see you again.」

「Oh,……me,too」


 少しがっかりした様子で微笑む黛の手を握る赤毛の美女。

 抱き締めていた七海から体を離した玲子が、赤毛美女と黛を等分に眺め提案を告げた。


「龍之介、せっかくメグがいるんだからあれ弾いてよ。コルトレーンの『バラード』!」

「は?俺、暫く鍵盤触ってないんだけど」

「七海にカッコ良い所見せてやりなよ。ねっ七海も見たいよね!」


 急に話を振られて、七海は覚醒した。

 しかし初めて知る情報が多すぎてなんと言って良いか分からず、ただコクリと頷く事しか出来ない。

 黛の母親、玲子が著名なジャズ・ピアニストだと言う事もつい先日知ったばかりだ。

 それから黛が英語を流暢に話している処も、それを話している赤毛の美女がどうやら初対面では無いと言う事も、彼がピアノが弾けるのだと言う事も目新し過ぎてどう自分の中で処理して良いか判断する余裕も無い状態だった。


 しかし七海が黛を見上げて頷くのを見ると、彼は少し頬を染めて頭を掻きながら「あーそう?じゃあ、ちょっとだけ……」と恥ずかしそうに呟いた。


「間違ってグダグダになっても、笑うなよ」


 照れ隠しなのかそう言い残して、黛は一言二言メグと呼ばれた赤毛の美女と言葉を交わしてバーの片隅にあるピアノに向かって歩き出した。







「黛君にこんな特技があるなんて……!」


 手を繋いで帰る帰り道、熱気の籠った息を吐きながら七海は言った。

 黛の主張によると数カ所ミスタッチしたらしいが、素人の七海には全く分からなかった。うっとりするような旋律を奏でるサックスに絡まるように演奏されるピアノがあまりに綺麗で、再び夢見心地になってしまった。


「メグさんと合奏した事あるんだね?」


 二人が遣り取りしている英語の内容は七海には分からなかったが、何となくそう言う雰囲気は伝わって来た。


「ああ、学生の時に。玲子に頼まれてさ。最近鍵盤触ってないから、結構みっとも無い事になったけど―――」


 黛は母親の玲子の事を『俺の母親』若しくは『玲子』と呼ぶ。父親は『親父』呼びなのに。七海は理由までは尋ねていないのだが、二人は特に仲が悪いようには見えなかった。玲子が常に演奏旅行で飛び回っていおり、自宅にあまりいない事が原因なのかと七海は推測している。そしてこちらもまだ推測の範囲内なのだが、黛が本田の家の子供のように振る舞っているのも―――それと関係があるのかもしれない、と七海は考えた。


 黛があまりに恥ずかしそうに言うので、七海は少し大袈裟に気持ちを伝える事にした。


「全然!すっごく上手で驚いたよ」

「そっか……?」

「格好良かった」


 素直に褒めると、黛は嬉しそうに笑った。その笑顔が眩しくて、見上げながら七海は目を細める。だけどふと、メグの黛に向けられた熱の籠った視線を思い出して拗ねるように言った。


「でも黛君ってやっぱ、モテるね。もしかして、メグさんとも付き合っていた?」


 黛はニコニコと機嫌良く七海を見下ろしていたが、思っても見ない事を言われたらしく、ハテナマークが頭の上に出るくらいその表情が呆けたものに変わった。


「は?……いや、別に。彼女が来日したのも一週間くらいの間だし。その間家に泊まっていただけで……」

「えー!」


 思わず七海は声を上げてしまう。

 『付き合っていた』と聞くより、ショックを受けたかもしれない。七海も泊まった事の無い黛の家に赤毛美女が滞在していたとは。驚く七海を見て、黛は少し慌てたように弁明した。


「俺が泊めた訳じゃない。あれは親父と玲子の家だし―――その時はメグも高校生で、心配した玲子が気を利かせて日本にいる間家に招いたんだ。その時玲子に言われて、さっきのバーでメグとセッションする事になって練習したくらいで」

「あんな素敵な美人と一緒に練習していたら、クラクラしちゃうんじゃない?男の子は皆……」

「美人?普通だろ」


 黛が事も無げに言うので、七海は少し引いてしまった。


「ええ?―――黛君の目は節穴ですか??」

「日本で見ると目鼻立ちが珍しく見えるだけだろ。お前の方がメグよりモテるぞ、現地に行ったら」

「こんな地味な外見の私が?まさか……!」


 珍しくお世辞みたいな事を黛が言うので、七海は訝しく思う。有り得ない、と首を振って否定した。


「その薄味の顔がオリエンタルで魅力的なんだ。日本人女性は我が強く無いから、普段強気の女性に慣れている男どもはスッゴくそう言うのが嬉しいらしい」

「……」


 褒められているのか貶されているのか判断が付かず、七海はジットリと黛を睨みつけた。しかしそれには構わず、黛は真顔で続ける。


「とにかく―――俺にはメグよりお前の方が魅力的だってことは覚えとけよ!」


 とにかく彼が必死に七海に訴えかけて来ているのが、七海にも伝わって来た。どうでも良い事ばかり話すくせに肝心な事はあまり口に出さない黛だったが、七海への告白を切っ掛けに少しずつ変わろうとしているのは次第に七海も感じ取れるようになってきている。




「黛君って―――」




 七海は立ちどまり、マジマジと黛を見上げた。

 彼女が何を言い出すかいつも予想の付かない黛が緊張した面持ちで見返すと、七海が感心したように言った。




「私の事、本当に好きなんだね」

「は?今更なに?」




 何度も彼はそう告げているつもりなのに、改めて気付いたかのように頷かれて肩透かしを食らったような気分になった。




「そんな必死に慰めなくても、大丈夫だよ。あんな美女に勝てると思って無いから。でもアリガトね、気を使ってくれて。黛君が私に気を使ってくれるようになるなんて。―――本当に驚いたよ」

「……」







** ** **







(本当の事しか言っていないんだがな……)と黛は思った。




 実際七海のアッサリした東洋顔は、外国ではクールビューティーと受け取られるに違いない。主張のきつく無い優しい所やノリの良い朗らかな明るい雰囲気に惹かれる男は多いだろうと思う。多少流されやすい所はあるが―――。




 が、海外男性に興味を持たれるのも面白く無いので、黛は七海の誤解を否定しない事にした。とにかく七海の機嫌が良くなれば、黛には他の事は些末な事だったのだから。


黛は騒がれるのが面倒で、ピアノが弾ける事も母親の職業も口には出しません。

ちなみに玲子のCDは苗字は出さず『REIKO』でリリースしています。


お読みいただき有難うございました。



誤字修正 2016.7.13(雫隹 みづき様へ感謝)

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