六十二、姉の里帰り4
大変間が空いてしまいましたが、続きを投稿します。
そして不甲斐ないことに、まだ終わりません……!<(_ _)>
あと一話くらいだと思いますが……
遅筆極まりなく誠に申し訳ありませんが、よろしくお願いします!
(あと、また誤字だらけだったら、すみません!)
「えっ……! お姉ちゃん?! どうしたの?」
「え? 何が?」
突然ハラハラと涙を流し始めた七海に、広美はギョッとする。
ところが当の七海は、驚くことに自分が泣いていることに気が付いていないらしい。涙を流したまま、キョトンとしている。
「なんで、泣いてるの?!」
「泣いて……? あれ?」
指摘されて初めて頬に手を当て、漸く自分の状況に気が付いたようだ。
これは、おかしい。
泣いたり怒ったりするのは、いつも広美の方の筈だった。
二人でいる時感情的になり情緒不安定なるのはいつも自分で、七海はいつも淡々と落ち着いている筈なのだ。
しかも、その異常事態に本人もその状態に気が付いていないとは……!
(さっき―――私たち、何の話をしていたっけ?)
広美は慌てて、自分の言動を振り返る。
『そういえば、この間友達のお姉さんが離婚するとか言って揉めたらしいんだよね。なんでも里帰り出産中に旦那が浮気したんだって。構ってくれないからとか言い訳してさ。ヒドイよね。奥さんが大変な時に、自分はよその女の人とって、何考えているんだろうね! お姉ちゃんも、気を付けなよ。なーんて……』
(まさか、そんな……あり得ないよね?? あの黛さんが浮気なんて。あんなにお姉ちゃんが大好きで、それに天然だかマイペースだか何だか分からないけど、隠し事とか全然できなさそうな、変わった人が……?)
広美は、それほど黛の事を知っている訳ではない。
ただ、観察眼には割と自信がある。(あまり認めたくはないが、それを自分の恋愛に活かせないのは、ただ広美の趣味が悪いだけだ)
何度か顔を合わせた時の印象や、姉から聞き出した情報を総合的に判断して―――黛は、七海の事を相当好きだと言うことを理解した。きっと浮気をするような(出来るような)器用な人間ではないだろう、と言うことも。
おそらく万が一、黛が七海以外の女性を好きになったとして、その場合は隠れて付き合うなんてことはせずに、正直に話すのではないか? とさえ考えるのだ。
だが、結局それは、広美の勝手な想像に過ぎない。
でなければ目の前の姉の、挙動不審な状態に説明が付かないではないか……!
「まさか……黛さん、浮気してるの……?」
広美はテーブルに体を伏せるようにして、七海の顔を覗き込む。ヒヤリとしつつ慎重に言葉を発した。余りの出来事に波立つ心臓を押さえながら。
「うわき……?」
七海は我に返ったように、ぱちくりと瞬きをした。
「え?! 違う……違うよ」
そしてフルフルと、首を振る。
けれどもその後―――へにゃりと眉を下げてテーブルに目を落とした。反論する声にも、何だか力がこもっていないように感じる。
七海は広美が差し出したティッシュケースからティッシュを引き出し、漸く涙をぬぐって溜息を吐いた。少し冷静さを取り戻したようだ。
しかし、広美の動悸は収まらない。
「だけど……最近……ずっと、会ってないの。最初にこの家に一緒に来て、それから二週間くらい……」
「二週間……」
長いな、と単純に思った。けれどもそれを安易に口に出さずに広美は言葉を飲み込み、ことさら冷静な声を出す。
「それって……仕事が忙しいんじゃない?」
実際、広美は医者の勤務事情に詳しくない。仕事でない、とは言い切れない。何より姉をこれ以上不安にさせたくないと思った。
「うん。……立ち会いとか、龍太郎が産まれた時に休みとったりしたから、代わって貰った分色々仕事が詰まってる、というのは聞いているんだ。多分……その所為」
「じゃあ……」
「でも何だか……さみしくて。普段は忙しくて何も考えられないんだけど。龍太郎も可愛いし。でもふとした時に、不安になるの。元々時間をすり合わせるの大変だったのに、私は自分の仕事と龍太郎ばっかりになって、彼もドンドン仕事が忙しくなって……すれ違って行くのかなって。お義父さんとお義母さんだって、ずっと別居しているし。私たちもそんな風になって、それに慣れて行くのかなって」
そうして再び目を潤ませる七海に、広美は慌てた。ハラハラしながら
「お姉ちゃん、そういうの気にしない感じだったのに」
「そうだよね。何だろう……急に不安になっちゃって。妊娠中に同僚に勧められたドラマの事思い出しちゃった。脇役の奥さんがちょうど広美の知り合いみたいに、妊娠中に浮気されてるって展開だったんだ。その時はなんとも思わなかってけれど……全然会えないとそういう事もあるのかもって……急に、思い出して……」
そしてまた、ハラハラと涙を流す。
「やっぱり里帰りしないで、家にいればよかったかも。……なんて考えたり。でも現実には、こんな状態であっちに居ても仕事の邪魔になるだろうし、私も龍太郎のお世話、一人じゃ全然できないし……」
かつてないほど、気弱で後ろ向きな言葉を口にする七海。
その様を目の前にして―――そこで漸く、広美は気が付いた。
明らかに変だ、絶対これ、いつものお姉ちゃんじゃない……!
おそらくホルモンバランスの変化か寝不足かで、七海は情緒不安定になっているのではないだろうか。
生まれてこの方、広美は彼女のことを『呑気過ぎる姉』としか認識していなかった。理不尽な目にあっても飄々として、相手に報復もしないし、ながながと愚痴を言う事もない。短気な広美は、そんな姉に勝手にイラつきを覚えて憤ったりしていたのだ。もっと自分の心に正直に、不満や不安、怒りを面に出せば良いのに! と思っていたし、本人にも面と向かってそう言っていた。
なのに、姉の弱音と泣き顔を目にした今、広美は激しくうろたえてしまう。
「あのえっと……そうだ! 連絡は? スマホで連絡はとってるんだよね?」
「スマホ……? ああ……そういえば最近触ってないかも。『枕元に置くと電磁波で悪い影響があるかも』って、彼が心配するから。ずっと居間に置いてあって……それにチェックしようとする時に限って、龍太郎が泣き出したり……そんな感じで、触るのが億劫になって……」
(うわー……何か、絵にかいたようなすれ違いパターン!)
育児中に夫が浮気をしたと言う知り合いの話も、確かそんな感じだった。と、広美は思いだす。奥さんの方が子供で手一杯になって、夫にかまけて居られなかったのだ。夫曰く、『妻に放っておかれて、寂しかった』とのこと。
……女性の立場からすれば、甚だ勝手極まりない言動だが。ならば、他の女をかまう前に、育児を手伝えよ……! と、広美も友人も憤慨したのは言うまでもない。
「そういえば私……ずっと龍之介のこと、頭から外してたかも。マイペースな人だし、あれで割と何でも出来るから、一人で大丈夫だって思って……」
七海はずっしりと、肩を落とし俯いた。
「よく考えたらずっと前から私って、そうだった。付き合う前なんか……いつもあっちから絡んできて、面倒くさいって思ってたくらいだし。いきなり『時間出来た』とか言って連絡して来て呼び出すのも、強引だし勝手だなぁって呆れてたけど。……考えてみたら、自分からアクション起こすのって、すごく気力がいるんだよね。自分がこんなに忙しくなって―――よく分かったよ。大学時代も研修医の時も……今だって龍之介は、すごく忙しくて。でも、そんなときでも……夜勤だってあって眠いのに、わざわざ私に連絡をとって時間作って会いに来てくれたんだよね」
「……」
ナニゲにすごいことを聞いてしまった、と広美は思う。
あんな……黙ってたら女性がフラフラ寄って来るような容姿とスペックの人が、七海にそんなに熱心にアプローチしていたのか……! と。
しかも、この平凡を絵に描いたような姉に……?!
見た目のスペックも、中の中(……いや、欲目を言えば『中の上』くらいか?)の、恋愛小説で言えばヒロインの周りに添え物にされているような……モブど真ん中! の、この姉に?
今まで馴れ初めに関して広美が尋ねても、恥ずかしいのか、するりと話を逸らされてきた。
付き合ったのは、働き始めて二人で会うことが増え、それからで、それまでは純粋に友人だったのだとか。七海の口ぶりでは、むしろ二人の関係は友人から派生した、成り行きのようなものである……と言う感じだった。
だから広美は、勝手にこんな風に想像していた。
元々ハイスペックイケメンだった黛。彼が医者を目指すことで更に付加価値が付き、飛んでもなくモテ始めただろう。昔からモテる事に慣れていた彼は、仕事が忙しいのに女性に付き纏われるのは迷惑だったはず。それに病院には、看護婦やら医療事務やら若い女性が多い。中にはかなり積極的に迫る女性もいたことだろう。
だからこそ、学生時代からよこしまな視線を向けず、変わらず友人付き合いをしてくれる七海との付き合いは、黛にとって心地よく気楽なものだったと想像できる。―――そしてそんな風に付き合っていく内に、姉の魅力にだんだんと気が付き、結果べた惚れになったのでは?
七海の方はもしかすると、こっそり黛のことを憎からず思っていたかもしれない。でも、彼女はそれを表に出したり、相手の気持ちを無視してぐいぐいアプローチするなんて芸当はできない、控えめを絵にかいたような性格だった。それで出会ってから付き合うまでに、これほどまでに時間が掛かったのだろう……と。
しかし今判明したように、黛からそのように積極的にアプローチを仕掛けていたのが事実だとするなら―――まるで、ネットで読む恋愛小説そのものの状況ではないか……!
それも付き合うだけでなく、結婚までしてしまったのだ。大団円、まさにハッピーエンドとはこのことだ。
けれども―――けれども、である。
棚ボタな彼氏を手に入れた姉の、この先が同じように恋愛小説で進むとは限らない。
恋愛の熱は急激に高まれば高まるほど―――冷めるのも早いのだ。
おそらく初めての彼氏とそのままゴールインしたであろう、恋愛初心者のままの七海に比べ、人並に恋愛を経験してきた広美には、痛いほどそれがよく分かる。
そう、こういう可能性もある。
黛にとって……子供を授かったこと、それは彼の恋愛小説のゴールだった、という可能性だ。彼はすでに、恋愛という夢から醒めてしまったのでは?
それに本人にその気がなくても、切っ掛けはいくらでも転がっていることだろう。医者というのは、見た目が悪かろうと性格が微妙だろうとモテるらしい。更に、あれだけの容姿とスペックだ。既婚者だとしても、新婚だとしても、きっと尋常じゃなくモテるだろう。
普段はそんな気がなくても、例えば仕事で疲れたり、一人寝が寂しかったり……そんな些細な心の隙をついてくる女は、いくらでも湧いて出ると思われる。
物凄く、あり得そうな仮説を思いついた広美の胸に、もやもやとしたものが湧き上がってくる。背筋を冷たい汗が落ちるような、そんな焦りのような気分だった。
「みんなに十分に手伝って貰ってるのに。龍太郎の世話で手一杯で寝不足だし、龍太郎のお風呂もなかなか慣れないし……お祖母ちゃんがいないと、全然一人でお世話できない。実家に来てからこっち、自分のことばっかりで龍之介を放って置いているくせに……なのに、それで勝手に寂しく感じたり、悲しくなるなんて。―――私って、ホントに駄目だなぁ……」
ポロリ、ポロリと再び七海の頬を、涙が伝う。
ああ、ドツボである。……広美が余計な話をしたばかりに。
こんな自虐的な姉、見ていられない!
初めて目にする、超呑気だった筈の、いつにない姉の情緒不安定な様子に。落ち着かない気持ちになった広美は、テーブルに手を付き立ち上がった。
「あ、あの! さ! 連絡してみれば? ほら、龍太郎の写真とか送ったり……」
「だって……ただでさえ、来れないくらい忙しいのに連絡するなんて……」
こんな弱気なセリフ、かつて七海が口にしたことがあるだろうか? いや、ない。
「そんな事ないって! 絶対喜ぶハズだから!」
ますます広美はおろおろして、下手なフォローを続ける。
「それにね、その……知り合いの話もね? もともとね、その旦那さんは子供生まれる前から、浮気しそうな雰囲気の男だったらしいし。そう! 本人の資質の問題だよ。黛さんは違うでしょ? 黛さんは(たぶん)浮気なんてしないって。彼には、お姉ちゃんが『タイプ』なんだから、どんな美女が目の前に現れても気にならないだろうし……!」
かなり失礼な事を言ってしまったが、黛の好みは世間一般から多少ズレている……と思う。
そう、きっと大丈夫だ。
付き合う前のエピソードを聞いて、広美は改めて考え直した。というかそれをよすがに、姉を励ます。
動転し過ぎて、なぜか黛の浮気疑惑が前提の励ましになってしまっていることに、本人は気づいていない。だからだろうか。七海は顔を上げ、泣きそうに眉を落とした。
「黛君が私の前に付き合っていた彼女……すっごい美人さんなの。モデルとかもやってた人で……」
「え?! で、で、で……でも! ほら、性格は? 性格はお姉ちゃんのほうがずっと美人(?)なんじゃない?」
知らない相手だから、と適当に下げてみる。
広美は、必死だったのだ。
しかし必死の取りなしは、あまり功を奏しなかった。
七海は溜息を吐いて、俯いたのだ。
「その人ね……すっごく……中身も素敵だったの……」
「え……」
広美には、もう、打つ手がない。
だって性格も容姿も優れている女性と付き合っていたなら、七海の何に黛が惹かれたのか、検討が付かない。(もちろん、地の底まで落ち込みまくっている姉に面と向かってそのようなことは言えないが……割と正直な意見だ)
……なら、付き合いの長さだろうか?
でも「付き合い長いから大丈夫!」って慰めは、我ながら、変だと思う。それなら世の中に離婚する夫婦は、いなくなってしまうからだ。
俯いた七海が、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
「お姉ちゃん……」
広美は居てもたっても居られずに、テーブルを回って七海の背に手を掛ける。
いつの間にか、部屋の外が徐々に暗くなっていた。
日が落ちかけたため、部屋の中は重苦しい空気を演出するように薄暗くなっている。
そこでカチャカチャと、玄関に続く廊下の方から音がした。
町内会の集まりの後、用事を済ませてくると言っていた祖母が帰ってきたのだと、広美は思う。七海もそう思っていたかもしれない。
彼女は乳幼児がいる環境のため、先に手や顔を洗って来る部屋に入ってくる筈だった。しかしそれにしては、遅い。それから暫く、扉は開かなかった。トイレに入っているのだろうか? それか、遣り掛けの洗濯でも思い出したのだろうか?
しかし五分ほどして現れたのは―――小さな祖母とは似ても似つかない、スラリとした体躯の男性であった。
「あれ? 七海……なんで泣いているんだ?」
そこに居たのは、何やら既視感を覚えるくたびれた服を身に着けた―――黛だった。
広美にも見覚えのある、絶妙にダサい柄のタオルで頭を拭きながら、当たり前のように扉を開けて入って来る。そしてこれも、どこか見覚えのある……くたびれたTシャツとチノパンを身に着けている。
次の瞬間、広美は、それが七海と広美の父がかつて着ていた物であると気が付いた。最近は少々お腹周りがキツクて着られない、ぼやいていた父の古着である。
違和感ありまくり、であった……!
キラキラとしたスタイルの良いイケメンが―――還暦間近なおじさんの、くたびれた古着を纏って、狭いアパートの居間になんでも無いような顔をして現れたのだから。