五十四、おかえりなさい
「ただいま」
居間のドアを開けて顔を出すと、ソファで縫物をしていた七海が顔を上げて微笑んだ。
「おかえりなさい」
万能薬だな、と黛は思う。
今日は仕事で疲れた上に、帰り道では少し見知った程度の女性に絡まれて更に疲労を深めてしまった。少しささくれだったその心を、七海の笑顔にふわっと包み込まれるような気がして、胸に安堵が広がった。
「親父、帰って来た?」
扉に手を掛けたまま尋ねると、七海は頷いた。
「お部屋でお仕事してるよ。今日は外で食べて来たから、ご飯いらないって」
「そっか。じゃ、シャワー浴びて来る」
「うん。その間にご飯、用意しとくね」
七海がよっこらせ、とでも言いそうなゆっくりとした仕草で立ち上がる。それを見守ってから、そのままシャワーを浴びるために浴室に向かうべく扉を閉めた。ここの所黛は、なるべく仕事から帰った後、居間に入る前にシャワーを浴びることにしている。
今の仕事先では風邪などの症状で訪れる患者も多い。もちろん手などは念入りに洗っているが、髪や顔に付いたウィルスや菌を洗い流すのも大事なのだ。人混みを潜り抜けて来た服も、全自動の洗濯機に放り込む。出産の近い七海に感染すると厄介なので、完全に防ぐとまではいかないが、出来る限り部屋の中に持ち込まないよう気を付けることにしている。
浴室には下着とバスローブが常備されている。黛はシャワーを浴びた後、体を拭いてからそれらを身に着けて居間へ戻る。以前は浴室を出た後、タオル一枚引っ掛けて部屋に服を取りに戻っていた。がそれを見かねた七海が、いつの間にかそのように整えてくれたのだ。
七海としては単に、ポタポタ雫を落として歩かれたり、裸でウロウロされるのは落ち着かない。注意しても夫は忘れるから環境そのものを変える方が早い……と言う理由が大きかったそうだが。理由はどうあれ、より生活しやすいようにと七海が配慮し、自分達の生活に与えるこんなちょっとした変化が黛には嬉しく思えて、自然とウキウキしてしまう。
普段黛のやることに口では抗議はしても、七海は実際には黛を無理矢理コントロールしようとはしない。やや放置されている……と言っても良いかもしれない。必要以上に世話をしようとはしないのだ。だからこそ、このようなちょっとした気遣いや、介入を嬉しく思う。
もともと黛は、女性から余計な世話を焼かれるのは好きでは無かった。
これまで付き合って来た女性を、黛は家に招いた事がない。スパンが短すぎて家に上げる前に別れに至ると言うのもあるが、先ず『家に入れたい』と考えた事が無かった。
ここは自分の家と言うより『家族の家』であり、若しくは龍一と玲子の『持ち物』だと言う意識が大きかったせいもある。だから自ら『家に来て欲しい』『ずっと一緒にいたい』『家族に会わせたい』と感じたのは、七海以外にはいなかった。
ある時付き合っている彼女に『家に行きたい』とハッキリせがまれた事があった。……が、何となく『嫌だ』と感じたので断った。するとその翌日に振られた。どうやらそれ以前から彼女は黛との関係に限界を感じていたらしい。それは踏ん切りをつけるための、最後の確認のようなものだったそうだ。
こんなこともあった。遠野に引っ張られて行った飲み会で、隣に腰を下ろした女性に『遊びに行こう』と言われた。興味を持てなかったので『忙しいから』と断ると『可哀想! 忙しくて出掛けられないのなら、私が家に遊びに行くよ。料理とか得意だし。洗濯とかして上げるよ?』などと持ち掛けられた。
友達でもない、初対面の女性を家に呼びたいなどと全く思わない黛は『別に必要ない。そんな時間あるなら―――勉強でもしたら?』と真顔で返した。
学生は勉強が本分なのだから、わざわざ他人の世話をする時間があったら勉強した方が良いと、黛は思うのだ。流行りの洋服や髪型、メイクで身を固めた目の前の女性が、自分で学費を出しているとは到底思えなかった。さすがに『遊ぶな』とまでは言わないが、自分で学費を払っているにせよ、親に負担させているのせよお金を掛けて学校に行っているのだから、無駄なことに時間を割いている暇はない、と黛は考える。だから黛も、効率を考えて無駄な家事に時間をかけるようなことはしないようにしている。つまり時間を買うと言う意識で、黛家の雑事は全てお金で解決しているし、そもそも他人が手を入れる余地は無かったのだ。
すると、ポカンと口を開けた彼女はみるみる内に顔色を変えた。蒼くなったかと思うと真っ赤になって、もの凄い形相で黛を睨みつける。フン! と鼻息荒く顔を背け、無言でスクッと立ち上がり、そのまま違う席に移ってしまった。それから友人らしい女性に「ねぇ、酷く無い?」と、悪態をつき始めたのだ。これ見よがしに黛に聞こえるように言っていたが、黛は気にならなかった。面倒臭い人間の相手をせずに済んだと、ホッとして目の前の皿に手を伸ばした。
そしていつの間にかその彼女の横には遠野が陣取っていた。遠野は涙声の彼女の話を神妙な顔で、根気良く聞いている。そのうち暫くすると……遠野の腕が彼女の肩に回っていて、二人は飲みながら、楽し気に笑っていた。一見すると、見るからにとても良い雰囲気である。
帰り際居酒屋を出たところで、飲み会が終わりやっと解放されたと溜息を吐く黛の前で、例の彼女が遠野の腕にべったりと身を寄せた。
「遠野君って本当に優しくて、素敵よね。顔だけ良くても、人の気持ちの分からない男なんかよりずっとイイよ……!」
周りにアピールするような、比較的大きな声だ。彼女は黛の顔を見てはいないが……黛に聞こえるように言っているのは、明白である。よくある事なので、黛はそれをマルッと無視して、同級生に手をあげて挨拶をし家路を急いだ。
翌日、その彼女を美味しくいただいたのだと、聞いてもいないのに遠野が黛に報告して来た。
「あんな言い方したら、盛り上がるものも盛り上がらないだろ? はー……俺がフォローしたから何とか収まったけどさ。お前、女の子には優しく接しなきゃ駄目だろ~! ったく、もったいないヤツだな。そう言うの『宝の持ち腐れ』って言うんだって何度も言ってるだろ? 俺を見習えよ……!」
と、何故か恩着せがましく、説教口調で諭されてしまう。もともと遠野が無理に誘った飲み会だ……と言う部分は、彼の中では綺麗に無かったことになっているようだ。
その時遠野には、口約束の清い関係とは言え良好な関係の婚約者がいた。更に定期的に合う関係の『付き合っている』と言える女性が、他大学に二人ほどいるらしい。そんな状態で他の女に優しく……と言われても、見習いたいとは思えなかった。いつも通り冷たい視線を投げ掛け無視すると、遠野は「分かったな!」と黛の肩を一つ叩いて、目の端に見つけた後輩の女子生徒に声を掛けるべく去って行った。
そんな事をチラッと思い出し『そう言えばさっき新にも似たようなことを言われたな』と黛は気が付いた。
「龍ちゃんって、何とも思っていない女子に対する態度……相当、厳しいよね」
「そうか?」
「唯とか七海には、そんなこと言わないじゃん」
と指摘され、歩きながら黛は首をかしげる。
「鹿島はそもそも、おかしなことは言わないからな。反論する余地がない。七海は……同意できないことがあったら、その都度いちいち言い返すだろ。それに納得できた時は、自分が間違ってたって、正直にそう言うしな」
黛の言葉に、新は記憶を掘り起こすように空を見上げる。そう言えば、そうかもしれない。黛は本田家でゲームをしている時にも、空気を読まない言葉を発して七海によく怒られていた。
しかし何というか……新の印象では、怒られている黛が妙に楽し気だったし、七海も七海で怒った直後に「あ! これ! ねぇ、これどうやって倒すの!」と、ゲーム機を手に黛に普通に話し掛けていたから、子どもだった新の目には、あまり二人が揉めているように映らなかったのだ。
「んー……確かにそうかも。昔は、けっこう言い合いしていたよね」
「だろ?」
何故か自分の手柄のように、得意げに口元を上げる黛を目にして、新は呆れて言った。
「それ、ただ単に七海が心広いってだけじゃん。普通は怒って口も聞いてくれなくなるよ……!」
大人になった新には、漸く理解できるようになった。七海が黛と普通に付き合ってこれたのは、七海の穏やかな性質のおかげでもあるし、彼女が後ろ暗い所を持って無いから、何を言われても大丈夫だったと言うのもあるのだろう。
ただし少しでも下心を隠して近づいて来る女性なら―――黛の発言に痛い所を突っつかれ、腹を立ててしまうに違いない。さきほど見掛けた遣り取りをみて、新はそう思った。
自分だったら、人に嫌われるのを避け、争いごとをわざわざ起こすのは面倒だからと、適当にお茶を濁して相手にとって険の無い言葉を選択するだろう。
黛のようにズバズバ言いたい事を言うのは、さぞ気持ちが良いいだろう……と何処か羨ましく思う一方で、このままではいつかトラブルに巻き込まれるのでは、と新は黛の今後がにわかに心配になってくる。
「みんな、七海みたいに優しいワケじゃないんだからさー。ちょっとは龍ちゃんも考えて……」
しかし鋭いツッコミを受けた筈の黛は、まるで痛痒を感じる風でなく、ただ大きく頷いたのだった。
「その通りだ。やっぱり俺には勿体無いほどいい女だよな……! 七海って」
「……」
「いやー、こんなに良い妻を持った俺って、最高に幸せ者だよな……!!」
全く悪びれずに真顔でノロケる黛に対して―――呆れつつ口を噤んだ新だったが。
やはり改めて『やっぱ、龍ちゃんってスゲーな……!』と、思わずにいられないのだった。
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