五十二、女子会ランチ
七海が会社の同僚、小日向と川奈と久し振りに会います。
休日の午後、七海は小日向、川奈と待ち合わせてランチに向かった。身重の七海を気遣って、二人は二子玉川まで出向いてくれると言う。予約したのは以前から気になっていたバスク料理の店だ。
「ネットで見て美味しそうだなぁって思っていたの。でも、実はバスク料理ってよく知らないんだよね」
「私も! まず『バスク』の意味が分からない。地名だなーとは思っても、どの辺りなのか見当も付かないもの。ヨーロッパの何処かってイメージはあるけど」
そう言って笑い合う七海と川奈に向かって、メニューを手にしていた小日向が少しシャンと背を伸ばし、コホンと咳払いを一つ。演技がかった仕草で説明を始めた。
「『バスク』は、地名ですね。ちょうどスペインとフランスの間にあります。バスク人が住み着いた地域を、バスク地方と言うそうですよ」
「さすが小日向ちゃん! 詳しいわね!」
「へぇー、そうなんだ」
川奈と七海が手を合わせて褒めたたえると、小日向はペロリと舌を出した。そしてメニュー表の一番後ろを開いて、二人にスッと差し出す。
「……と、こちらに書いてあります」
「なーんだ、そう言うこと。てっきり小日向ちゃんの、こだわりポイントがまた炸裂するのかと思ったのに」
「アハハ」
川奈のツッコミに、七海は思わず笑ってしまった。小日向は見た目フワフワな、可愛らしい今時女子だが、これで中身は理屈と拘りの塊だったりする。二人はこの後輩の、そのギャップにいつも驚かされるのだ。
運ばれてきた前菜は三種類。キッシュロレーヌとレバーのムース、キノコとさつまいものマリネ。メインは魚と肉のどちらかを選択するようになっていた。七海と小日向は若鳥のコンフィを、川奈はスズキのポワレを選ぶ。
「うーん、皮がパリッとしていて美味しい!」
川奈がメインのスズキを口にして、目を細めた。若鳥を口にした七海も、満足気に呻る。
「こっちの鳥皮もパリパリだよ。お肉もシットリしていてジューシーだし」
「一口味見して良い?」
「うん」
「私のも食べてね。小日向ちゃんもどう?」
「わーい。いただきます!」
美味しい料理に舌鼓を打ちながら、お互いの近況を報告し合う。穏やかな、楽しい時間が過ぎた。
お皿がすっかり空になった頃合いを見て給仕の女性が、デザートと飲み物を運んでくれる。七海にはハーブティで、川奈と小日向は珈琲だ。
七海が、ボロボロの黛ときちっと身なりを整えた黛を産婦人科の看護師が別人だと誤解した……と言う話をした所で。瓶入りのショコラクリームをペロリと平らげスプーンを置いた小日向が、重々しい声音でツッコミを入れた。
「ものすごくラブラブじゃないですか!」
「えっ……そ、そうかな?」
七海はパチパチと瞬きを繰り返した。笑い話のつもりで話したので、そんな反応が返って来るとは予想していなかたのだ。
名前呼びをしないとキスをする! と脅されて本当に公衆の面前でキスされた話や、お風呂に一緒に入って悪戯された……などと言った恥ずかしい話は、もちろんおくびにも出してはいない。
すると、小日向は溜息を吐いて訳知り顔に頷いた。
「江島さん、世の中の妊婦さんには……そのように心安らかな時間を過ごせない人もいるのですよ」
「えーと、それは……どういうことでしょうか」
まるで二~三人既に産んで育てて来た人間のような台詞を、口にする小日向。それに対して何故か、現役の妊婦である七海の方が神妙な態度で居住まいを正している。脇で見ていた川奈は、思わず噴き出しそうになった。
「江島さん、あんなイケメン研修医を捕まえて置いて、危機感が足りませんね……!」
険しい顔で、小日向が首を振る。
「えっ……あの、スミマセン」
反射的に謝ってしまう七海。川奈は今度こそ本当に噴き出してしまった。
「江島さん、謝らなくて良いわよ。小日向ちゃん、どうしたの? 今日、ちょっとテンションおかしいわよ?」
川奈が窘めると、小日向は真顔になってテーブルに両手を付いた。
「夫の浮気は妊娠中に多いって、ご存知ですか?」
「え?」
唐突な小日向の言葉に、思わず七海の目が点になる。
「遠野さんが研修している病院でですね、実際大騒ぎになったらしいですよ。奥さんが里帰り出産していた間に看護師と浮気して……それがバレて離婚調停中って案件が。婦長さんも巻き込んで大変なことになったそうです。その旦那さん、愛妻家で有名だったんですけれど……江島さん、結婚がゴールではありません。油断は禁物ですよ!」
「ちょっと小日向ちゃん、何言ってるの?」
ホラーめいた語り口の小日向を、川奈がとうとう眉を顰めて制した。
「その話は、今しなくても良いでしょう?」
「やっぱり川奈さんも知っているんですね。遠野さん達の先輩、だそうですよ」
遠野の先輩、と言うことは黛の先輩でもある。そして川奈が付き合っている二人の同期生の研修医、久石の先輩でもあると言うことだ。川奈は久石からその話を聞いていたので知っていたが、黛は話題にも出さなかった。七海には初耳のことだ。
「小日向ちゃーん。妊婦さんの胎教に悪い話、しちゃ駄目でしょう」
「そんにゃ……ッ」
にゅーッと。反論しかけた小日向の両頬を、川奈が指先で摘まんだ。
「いはいれす」
「『ゴメンなさい』は?」
「ほめんなさい……」
「よし、許しちゃる!」
川奈がお母さんのように小日向を叱っている。頬を解放された小日向が、おしぼりを頬にあてて涙目になっているのを見て、妙なことに七海はその状況を微笑ましく感じてしまった。
「大丈夫? 小日向ちゃん」
「はい、スイマセン」
「もしかして……何かあったの?」
大人しく肩を落とす小日向に、七海は尋ねた。小日向はチラッと顔を上げ、再びテーブルに視線を落とし―――それからもう一度、顔を上げた。七海に妹を見守るような温かい視線を向けられて、やがて心の内をポツポツと語り出す。
「立川さんとですね。その、今……お試しで付き合って貰っているんですよ」
「え!」
「そうなの?!」
小日向は以前、営業のエース、立川に狙いを定めると七海の前で宣言していた。
実際アプローチしていたようだが、妊娠中の七海は会社の飲み会に付き合うことも減っていたし産休に入ってからは特に会社の話題に疎かった。だから小日向と立川にそんな展開が訪れているなんて、全く知らなかったのだ。しかしそれは川奈も同じらしい。
「えー、知らなかった!」
「その、内緒にしていましたからね……それが、お試しの条件でもあったので」
ふうっと物憂げに溜息を吐く小日向に、再び七海と川奈は顔を見合わせる。小日向の憂い顔を見るに、どうやらその関係に暗雲が立ち込めているような気配を感じたのだ。そのため七海は躊躇したが、川奈は遠慮なくズバリと切り込んだ。
「なになに? どうして、そんなことになったの?」
「何度もアプローチしてですね……でも、とらえどころがないんですよ。立川さんって。スマートだし優しいんですけれど。でも彼女がいるって感じでもないですし。だから思い切って『まずは私を知って貰いたい』と言うことで、提案したんですよ。もしお試し期間中に彼がそんな気にならなかったら、もうスッパリ諦めるって条件で」
「スゴイ」
七海が感嘆の声を上げた。自分には逆立ちしても出来ない芸当だと思ったからだ。
「勇気あるなぁ、さすが小日向ちゃん! えーちょっとワクワクしちゃう展開だねぇ。まるでロマンス小説みたい。それでそれで? どうなったの?」」
川奈が身を乗り出して続きを促す。
「……まぁ、色々とね。行きましたよ? 立川さん、営業だけあって素敵なお店にも詳しいですし、会話も上手で一緒にいると本当に楽しくて。それに学生時代バレーボールで有望な選手だったみたいで、春高にも行ったらしいんですよ。実業団の試合を見に行った時には、レギュラーの選手が立川さんを見つけて、あっちの方から声を掛けて来て……」
立川とのデートがよほど楽しかったのか、小日向は頬を染めて珍しくポワンとした表情を浮かべている。小日向が彼にすっかり夢中になっているのは、目に見えて明らかだった。
「彼って、誰とも等しく距離を取っている、って感じがしていたんですよね。でも懐に入ると、とっても……」
そこまで言って、ふと小日向は言葉を切った。我に返ったように表情を曇らせる。
「……でも、ここの所ちょっと……まだお試し期間は終わっていないのに、誘っても断られてばかりで。私……避けられているんでしょうか」
「たまたま仕事で忙しい時期なんじゃない?」
川奈がそう言うと、小日向は溜息を吐いた。
「仕事じゃないみたいなんですよ。なのに都合が悪いって言われて」
「身内に何かあったとか……」
七海が思いつくのはそれくらいだ。家族の多い七海には、突発的に用事を頼まれることは日常茶飯事だった。弟の翔太の世話を頼まれたり、祖母の買い物に付き合ったり、妹の広美が失恋した時に愚痴を聞いたり……などなど。一つ一つは大した事のない用事なのだが、意外とそれが一遍に重なったりするものだ。
「そうなんでしょうか」
「きっと、そうだよ」
七海が励ますように請け負うと、川奈がすかさずツッコミを入れた。
「……で、小日向ちゃんは幸せそうな江島さんに意地悪なことを言って、八つ当たりをした、と言う訳なのね」
「―――っ! いえ、その……違いますよ!」
小日向は慌てて顔の前で手を振った。
「違わないんじゃなーい?」
川奈が面白がって揶揄うと、焦った小日向が珍しく動揺しつつ弁解した。
「そのですね、立川さんの態度がどういう意味なのか気になって……夜になるとつい悶々としちゃうんですよ。スマホで検索したり、知恵袋を覗いたりしてしまって。男性の態度の急変はどんな時に起こるのか、とか浮気する男性の心理とか。それでどんどん深みにはまってしまって―――その」
しかしアレコレ言い訳を並べていた小日向は、とうとう降参したようにガックリと項垂れたのだった。
「ゴメンなさい。順風満帆な江島さんが……ちょっぴり羨ましかったのは、本当です」
「あの、私は大丈夫だよ?」
七海は八つ当たりされている、と言った意識も無かったのだ。確かに小日向の様子が少しいつもと違うなぁ、とは感じていたが。すると突然、小日向は頭を抱えて呻いた。
「あああ~……こういうの、こういう所が……」
「あら、大丈夫? 小日向ちゃん。イジメ過ぎたかしら」
川奈がちょっと反省したように声を掛けると、小日向は首を振った。
「いえ。また気付かされたんです。江島さんのように、おおらかな人が結局幸せになるんですよ。私はまだまだです……! 自分のことで手一杯になってグルグルしているようじゃ……!」
拳を握り、ストイックな台詞を吐く小日向。
再び、川奈と七海は顔を見合わせた。
「小日向ちゃんって、本当に……意外と真面目だよね。根がスポコンって言うか」
「うん、あの。私別に……おおらかなんじゃなくて、何も考えていないだけだよ。いつも流されてるだけって言うか。小日向ちゃんは十分、頑張ってるよ。それに何と言ったって、可愛いし!」
「ほら、デザートもう一つ頼みな。ここは私が奢っちゃるから!」
「私も奢るよ!」
先輩二人に慰められ、やがて落ち着きを取り戻した小日向は少し心細げに顔を上げたのだった。
「……いいんですか?」
ウンウン、と頷く七海と川奈。
「うっ……ありがとうございます! じゃあ『フォンダンショコラ』食べても良いですか?」
すると割とちゃっかりと、小日向は希望を主張したのだった。
先輩達は何だかおかしくなって、笑いながらまたしても大きく頷いた。
「たんと、お食べなさい」
「うん、アイスクリームも付けると良いよ」
こうして女子会ランチの後半は、結局小日向の愚痴とノロケに終始したのであった。
川奈も七海も長女なので、年下の子の扱いは慣れています。そして甘えられると弱いです。
相変わらずヤマオチなしのお話でスミマセン。
お読みいただき、誠にありがとうございました!




