四十八、水入らず
前話のつづきです。
が、内容はほとんど繋がっておりません。
夕食を食べ終えた黛が、感慨深げにこう言った。
「今日は久しぶりに夫婦水入らずでゆっくり出来るな」
龍一は出張で不在、黛も明日休みだからだろう。
「……」
しかし七海は思う。いつも龍一がいようといまいとお構いなしに行動する黛が『二人きりだとゆっくり出来る』などと言うのは腑に落ちない、と。先日だって外だろうが人目があろうが、名前で呼ばせる為だけにこれ見よがしにキスしてきた非常識な夫だ。今更何故そんなことを言うのだろうと内心首を傾げたが、漸く休みに入って機嫌が良いだけなのかもしれないと聞き流した。
空いた食器に彼女が手を伸ばすと、残った食器を手に取りニコニコしながらキッチンまで付いて来る。やはり今日は、ご機嫌なのかもしれない。
職場が変わってからの黛は、食べ物をお腹に収めた後は眠そうにしていてお皿を下げる余裕も気力も無い事が多かった。それだけ精神的にも肉体的にも重労働な仕事なのだろうと、七海は想像している。
メイン料理は油汚れがこびりつかないようにクッキングシートで包み焼きにした。予洗いもせず食器洗い機に入れるだけでOKだ。乾燥までやってくれるから後は洗剤を入れて放置するだけなので、大変楽ちんである。
お皿や茶碗をセットしていると、大きな影がのっそりと背後に立っている。七海の手元を覗き込みながら「ふーん、形によって入れる場所が決まってるんだな」などと、彼女よりずっとこの食器洗い機と付き合いが長い筈の彼は、その仕組みにウンウンと頷きつつ新鮮に感心している。相変わらず忙しさもあって、黛はほとんど料理と言うものに手を出さないままだ。だから今ではすっかり七海の方が黛家のキッチンに詳しくなってしまった。
エプロンを外して手を洗い振り向くと、黛が笑顔で立っている。
「洗い物は終わりか?」
「うん」
いつも食後は疲れもあってソファでゴロンとしてしまう黛が、まだ其処にいた。
(やっぱりご機嫌?明日お休みだから、元気なのかな?)
勝手が違うと思いつつも頷くと、黛は満面の笑みで七海の両肩にポンと手を置いた。
「じゃ、今度は俺の番だな?」
「?」
洗い物は先ほど言った通り全部終わっている。まな板や包丁などの調理道具についても、七海は食事を出す時に全て食器洗い機にセットしてしまい、シンクも綺麗にしてしまうから後片付けの必要も無い。
「もう全部入れたよ?」
「『七海』を洗ってやる。そんなにお腹が大きくなったら、自分で洗うのは大変だろう?」
一瞬飲み込めずにいた台詞が、胸まで届いて七海はカッと目を見開いた。
「―――え……え?!」
動揺する七海にお構いなしで、黛は彼女の背に素早く回り込む。
「よし、行こうか」
七海の背に手を当て呆然とする彼女を黛は促した。そのまま廊下を数歩進んでしまった七海だが、漸く我に返る。直ぐに顔だけ振り向き「いやいやいや!」と手を振ってピタリと立ち止まった。
「大丈夫だから」
「ネットで読んだぞ。足先とか手が届かないだろう?背中だって洗い辛いよな?」
確かにお腹がつかえてしまう妊婦が夫に足の爪を切って貰うエピソードを、雑誌などで読んだことがある。しかしそれは人それぞれだ。七海は改めて黛に向き直り訴えた。
「私、体柔らかいから平気だよ!自分で爪切りだって出来るし」
「俺はな、子供が生まれる前に夫らしい事をしたいんだ」
「十分して貰っているから……!働いてお金入れてくれるだけで十分だよ」
むしろタクシーを手配してくれたり、荷物持ちのバイトを付けてくれたり過保護……いや余計な気遣い……いやいや、至れり尽くせり過ぎるくらいだ。だから産休中は体調もすこぶる万全だし、仕事でヘトヘトな黛にこれ以上何かして欲しいなどと、七海は全く思っていない。
「気を使わないで良いよ。それより先に入ってゆっくりしたら?」
「―――!―――」
落ち着いた声で黛の申し出を固辞する七海。その返答に何故か言葉を失い衝撃を受けたような顔で彼は固まってしまう。その横を通り過ぎ居間に取って返そうとした七海の前に、黛が再び立ちふさがった。
「一緒に入りたいんだ!」
と、何故か必死に食い下がる。
「え……」
若干引き気味の七海に、黛は拳を握って力説し始めた。
「翔太とは入るのに!何で俺はダメなんだ?せっかく親父もいないし時間があるんだから、一緒に入ってくれても良いだろう……!子供が生まれたら暫くそんな機会、全く無くなるじゃないか!今しかないんだ!今!」
「う、うーん……?」
お風呂に一緒に入りたいと言う黛の要求を、何度も突っぱねて来た七海である。サービスに背中を流した事はあったが、それも服を着た状態で誤魔化してしまった。『翔太とは入るのに……』と以前も指定された事もあったが、それはかなり前の事だったのですっかり納得してくれたものと思い込んでそんな要望があった事も今では思い出しもしないくらいだった。
確かに黛の言う通り、出産後は赤ちゃん中心の生活になる。きっと一緒にお風呂に入る余裕などもっとなくなるだろう。このまま有耶無耶になると考えていたし、夫も納得したものと思い込んでいたが……どうやら、黛はいまだに根に持っていたらしい。
「ええと、恥ずかしいから……」
「何を恥ずかしがるんだ。もう全部見ているのに」
身も蓋も無いことを言われて、七海はうっと詰まった。真っ赤になって言い返す。
「ならもう、見る必要ないでしょ!」
「違う!ベッドと風呂は別腹なんだ……!」
黛の物言いに呆れて言い返そうとした七海に、畳みかけるように黛は訴えた。
「一回くらい良いだろう!試しに!一回だけ……!この通り!」
そうして手を合わせて頭まで下げてくる。
其処までされると、七海も狼狽えてしまう。もともと勿体ぶるほどのスタイルでも無いのにお腹も大きくなってしまった自分に対して、頭まで下げてお風呂に入ろうとする黛を目の前に彼女は怯んでしまった。恥ずかしいのは勿論恥ずかしいが、何故か申し訳ないような気分になって来るから不思議だった。
「……うっ……ホントに一回だけ……?」
勿論譲歩の言葉を聞き逃す黛では無い。
「もちろん!やった!」
黛の執念ともいうべき説得に根負けした七海は、とうとう頷いてしまった。
(あー、一回だけって言うならお腹が大きくなる前に入っとけば良かったなぁ……!)
と七海はこの時少し後悔した。
が、後悔する必要は無かったのだと気付くのは大分後の事である。『もう一回だけ!』と頼み込まれズルズルと何度か一緒にお風呂に入る事になる、などと今の彼女は知る由もないのだから……。
前回真面目に新に諭してお兄さんっぽい所を見せた黛でしたが、やはりシリアスにはなり切れませんでした。
お読みいただき、ありがとうございました。




