四十五、スイーツ男子
前話の続きです。
少し足を延ばして駅の北側へ。臨月に入ってからの検診では、なるべく体を動かすようにとお医者様からも指示を受けている。七海と新はウォーキングも兼ねて、ネットに掲載されているカフェまで歩いて行くことにした。
賑わってはいるものの、平日のランチを過ぎた時間でもあり直ぐに空いている席に通された。テラス席も魅力的だったが、屋内席に案内してもらう事にする。妊娠中の肌は紫外線などの刺激に弱くホルモンバランスの所為でシミもできやすくなるそうだ。
白とミントグリーンを基調にした可愛らしい内装の店内はやはり女性客が多い。七海の後ろからトートバッグを肩に掛けた背の高い長髪の新が一歩踏み込むと、波がさざめくように視線が集まった。こざっぱりした質の良い御下がりを纏った精悍な容姿は、磁石が砂鉄を刺激するように人目を引く。一人だとこの場に埋没してしまう筈の七海は集中する視線に少しソワソワしてしまうが、夫のお陰(所為?)で大分こう言う状況にも慣れて、頭を切り替える事が出来るようになった。
注目の主である当の新は、女性に注目されることが通常仕様なのでどうとも思わず自然体に振る舞っているし、皆が注目しているのは七海ではない。最近の彼女はこういう時、華やかなフラワーアレンジメントの台に敷かれた布をイメージするようになった。可憐なフラワーアレンジメントを見に来た客は、誰もその布には注目しない。が、そこに皺が寄っていたりぐしゃぐしゃになっていたら気になる人もいるだろう。『私はその布と同じ。だから何でもないような顔で普段通り振る舞うのが一番なのだ』―――最近はそう考えて落ち着いた態度を心掛けるようにしている。
窓際に近い席に案内されたので日陰になる奥の方を譲ってもらい、メニューを眺めた。新は目を輝かせてスイーツを吟味し始める。
「プリン・ア・ラモードの季節の果物は……シャインマスカットか。美味しそうだなぁ。むぅ……でもスコーンも気になるな」
などと一人事を言いつつ悩んでいるので、七海は可笑しくなってしまい笑いを噛み殺しつつ提案した。
「両方食べても良いんだよ?」
すると一瞬喜びに眉間を明るくした新だが、直ぐに真顔になって首を振る。
「うーん、でも今食べ過ぎると夕飯に響くんだよね。万全のコンディションでご飯を楽しみたいから両方食べるのはちょっと……」
と如何にも残念そうに眉を顰める。新の中では食に対する比重がかなり大きいんだな、と改めて七海は了解した。まだまだ食べ盛りなんだね、と大人のような済ました顔で体ばかり大きくなった男の子を懐かしい気持ちで眺める。微笑みを浮かべて新しい案を提示してあげる事にした。
「じゃあ私がスコーンを頼んで、少し分けてあげるよ」
「ホント?いいの?」
「もちろん。私もこのスコーン気になってたし」
「わーい、やった!じゃあ俺プリン・ア・ラモードで!」
給仕の店員に注文を済ませると、七海は水を一口飲んで笑った。
「新ってスイーツ好きだよね。もしかして兄弟で一番じゃない?」
「そうかな?信兄は確かにそれほど甘い物は食べないけど、心兄ちゃんは好きだと思うよ。あ、でも仕事柄食べ過ぎないようにしているかも。パイロットって健康管理大事なんでしょ?唯も手作り菓子は甘さ控えめで作ってるみたいだし」
「そう言えば唯、本当に料理上手になったよね」
専業主婦の母と一緒の実家暮らしをしていた唯は、それほど料理に興味を持っていなかった筈だ。結婚が具体的に決まってから真面目に取り組み始めたと聞いていたが、今ではかなり上達したように思える。彼女の夫である本田が不在の間、偶にマンションでお茶会を催すのだが、彼女が振る舞ってくれる健康に配慮された軽食や素朴な手作り菓子は、美味しくて食べ過ぎないようにするのが大変なのだ。
「そうだね。料理は大分実家で練習したみたいだよ。ばーちゃんからも色々教わってるみたいだし。ただお菓子はおじさん仕込みだけど」
「ああ、あの……」
新が言う『おじさん』とは唯の父の事であろう、と七海は直ぐに了解した。唯の実家に遊びに行った時にシフォンケーキがおやつに出て来た事がある。シットリしていてそれでいてふわっとした歯ざわりで、とても美味しかった。それが厳つい唯パパの手作りと聞いて当初は仰天したものだが、今では当たり前のように舌鼓を打つだけだ。特に唯パパが時折お土産として渡してくれるホロホロと口の中で解けるクッキーは絶品だった。お土産は回を重ねるごとに徐々にラッピングもお洒落になって、今ではたぶん言わなければ『厳ついおじさん』が作ったなどと誰も想像しないような仕上がりに進化している。
ガッチリした筋肉質な体の唯パパは、日に焼けた顔でニコリと笑うと白い歯がキラッと際立つ。あの見掛けで可愛らしいお菓子を作る所など、誰が想像できるだろうか。
「そう、あのガタイの良いお父さん!あの見た目でスイーツ作ってるところ―――ホント違和感ハンパないよね?」
楽しそうに笑う新。七海は「ん?」とその言葉尻に引っ掛かる。
「もしかして唯のお父さんがお菓子作っている所……見たことあるの?」
もう随分長いこと唯パパの作ったスイーツを味わい淹れた紅茶を愉しんで来た七海だが、作っている所を直接目にした事は無い。いつも出来上がったものを美味しくいただくだけだったのだ。それに新が唯の父親と親しく付き合っていたという記憶が無いので不思議に思った。
「うん。この間はクッキー作ったよ。教えて貰って」
「えっ」
「シフォンケーキは結構簡単だったな。あっ今度フォンダンショコラ、教えて貰うんだよね。上手に出来たら七海にも食べて貰いたいな」
よくよく聞くと以前唯とプリンを作って以来、新はスイーツ作りに興味を持つようになったそうだ。その話を耳にした唯パパが、唯のキッチンでスイーツ教室を開いてくれるようになったのだと言う。
「おじさん、仕事辞めてカフェやろうかなって言ってた。俺もそこで働かせて貰おうかな?」
などと楽し気に言う新を目にして、七海は目を細めた。以前彼は似たような願望を口にしていたような気がする。亜梨子を働かせて自分は家にいる……と言うような事を。今時『男が主夫なんて!』と批難するつもりは無いし、カフェが好きならカフェで働くのもそれほど悪くはないと思う。―――しかし。
「また就活とか勉強とか面倒臭いから、って考えてる?」
「えっ……」
やはり図星だったようだ。誤魔化すようににやける新に、七海は溜息を吐いた。
「せっかく入ったんだから、ちゃんと卒業しよ?唯が悲しむよ」
「うーん」
「それに、本田君に怒られるよ、そんなこと言ってたら」
「うっ……」
新はすぐ上の兄、唯の夫である心に大変弱いのだ。学校では陰で王子様と呼ばれ、誰に対しても優しい態度で接する心であったが、弟の新には男同士と言う事もあって何かしでかした時など厳しめに指導しているようだ。勿論普段は優しい兄である事は変わりないそうだが。
しかしこの時七海はショールームでの出来事を思い出した。責めるようだった口調を改め、一段トーンを落として新の様子を窺う。
「もしかして……何か嫌な事でもあったの?」
箕浦にまた絡まれたのかもしれない、そう思ったのだ。ショールームで彼女とバッタリ鉢合わせした時、黛は『俺の女にもう構うな』などとキッチリ彼女を跳ねつけてくれた。……が『新についてはアイツの問題だから知らん』とも言っていたような気がする。はっきり細かい台詞までは覚えていないけれど。
あの時の事を思い出した七海は、もしや箕浦が腹を立てて直接新に文句を言って来たのかもしれない、と思いついたのだ。
すると新はフーッと溜息を吐いた。曇った表情を浮かべ、重々しく口を開き始める。
「この間連絡が来てさ」
「うん」
やはりか、と七海は身を乗り出した。
「忘れてたんだ。課題のレポートに手を付けていないってこと。友達に『何をテーマにした?』って聞かれて漸く気が付いたんだ!どうしよう、あんまり日にち無いのに。それに休み明けにテストがあるって事も思い出して―――」
それを聞いて、ガクッと七海が崩れ落ちた事は言うまでもない。
心配するだけ無駄だったようだ。
以下はお話の続きです。
「今、私の付き添いしている場合じゃないよね?」と、七海
「でもホラ、龍ちゃんも心配しているしさ!七海一人だと大変でしょ?」と、新
「いや、どう考えても勉強の方が大事でしょ。私は元気だから一人でも大丈夫だよ」
「でも俺だって七海と美味しいもの食べておしゃべりしたい!せっかくの夏休みだし!」
「いや、先ず課題でしょ……?」
切羽詰まるほど、違う事をやりたくなる学生時代の気持ちは分からないでも無いのでちょっと可哀想な気持ちにはなりましたが、社会人でお姉さんの七海からはこう言うしかありません。
ちなみに本田家次男のポンちゃんは、ちゃんと課題を終わらせてから遊ぶタイプ。彼は根っから優等生なので、割と普通の子である新の気持ちはあまり理解できません。長男の信はチャラそうですが元々は真面目くんなので、こちらも課題は要領良く終わらせます。辻褄合わせが得意なタイプ?経営者向きと言えるかもしれません。
「七海とおしゃべりしたい!」と新が言うのは、自分の事を好きにならない、適当にあしらってくれる優しいお姉さんと気兼ねなく話すのが楽しいからです。大学では男子かさっぱり系の女子としか仲良くしてません。亜梨子ちゃんと再会してからは恋愛脳の女性や自分に気があると分かった女の子はなるべく距離を取っていますが、バイト先で上手く避けきれずストレスに…。
お読みいただき、有難うございました。




