三十九、車で買い物
前話の続きです。
今回二人が車で向かったのは赤ちゃん用品やオモチャの専門店。姉妹店となる子供のオモチャの専門店とセットとなっている、広い駐車場のある郊外型の大規模店舗だ。
「車だとかなり近く感じるね」
「そうだな」
駅周辺の地域から川を渡った国道沿いにあり、玲子名義の黄色いコロンとした車でマンションを出発すると十五分ほどで到着してしまった。
「私も車、運転出来たらなぁ」
近いと言っても歩くと四十分以上は優に掛かりそうだ。七海は運転免許を持っていない。自分一人の移動は公共交通機関で事足りたし、こんなに早く結婚して子供を産むことになるなんて少し前は想像もしていなかったから自家用車の必要性を全く感じていなかったのだ。そう言えば実家の両親は二人とも運転が出来て、翔太が小さい頃など必要な時はレンタカーを使っていた、と思い出す。こんな事なら早めに免許だけでも取って置けば良かったなぁ、と七海は小さく後悔してしまう。
「必要だったら俺が運転するから、問題ないだろ?」
「んー、でも忙しいでしょ?まっ……」
『でも忙しいでしょ?黛君は』と言い掛けて、そこで何とか七海は言葉を飲み込んだ。朝の一件を思い出したのだ。
「……だから、自分が気軽に運転出来たら良いのになって思うよ。今更だけど」
「どっちにしろ、出産後は暫く身動き出来なくなるから教習所には通えないだろ。俺がいないときは遠賀さんの所のタクシー、使えば良いんじゃないか」
「えっ、それは……もういいよ、貸し切りは悪いし」
通勤で貸し切り契約をしていたハイヤーは産休に入って解除した。黛からは出産まで契約を延長しても良いのではと提案を受けたのだが、無駄な出費は避けたいと七海は考えたのだ。臨時運転手となってくれた遠賀とは毎日の通勤で打ち解けて、結局かなり仲良くなった。だからハイヤーに乗ること自体は楽しめたし、もはや心理的な抵抗は無くなっているのだが、やはり黛に負担をかけてしまうのが気になってしまう。
「貸し切りじゃなくて普通に時間貸しのタクシーで呼べば良いだろ?ただ遠賀さんは忙しいだろうから、もう直接対応はしてくれないかもしれないがな」
「そっか、そうだよね。それなら、もう少し気楽に使えるかな?」
ただ根っから庶民の七海なので、ちょっとした買い物に気軽にタクシーを使う、と言うのはやはりハードルが高いように思えてしまう。
「新もまたバイトしたいって言ってたから、新に頼んでも良いぞ。荷物持ちも出来るだろうし」
それなら少しは気楽にお願いできそうだ。ついでに唯も誘って皆でご飯を食べるのも良いかもしれない。たぶんあんな風に新に興味を持つ女性に絡まれたりすることは、滅多にないだろうし……と七海は本屋で遭遇した女性、箕浦のことを思い出す。
ややあって車は専門店の駐車場に辿り着いた。立体駐車場のゲートを潜り、黛は空いているスペースに車を停める。それから彼は当り前のように助手席に回って七海の扉を開け、手を差し出した。以前はそんな仕草にいちいちドキドキしていた七海だが、一緒に暮らして半年以上経過した今となっては特に動揺を示す事もなくその手を取れるようになった。そしてこれまで長い間黛と付き合って一番、彼のイケメン行動―――と言うかレディーファースト体質が、役に立っている事を彼女は実感している。お腹がここまで大きくなってしまうと、自分一人で立ったり座ったりすることの危うさを痛感させられることがしばしばだからだ。
このさり気ない支えがどれほど七海の行動の助けになっているか―――いつも当り前のように手を差し伸べてくれる黛に七海は、感謝の念を伝えなくてはと思った。
助手席から支えられるままに立ち上がり、七海は感謝を込めて夫に笑顔を向ける。
「いつも助けてくれて有難う。黛君みたいな人が旦那様で私―――幸運だなぁ」
ニッコリ微笑んでそう言うと、黛は目を見開いて驚いたような顔をした。それからフッと目を細め、照れたように笑った。
「七海……名前は?」
「あ」
片手を握られたまま、もう片方の大きな手で顎を固定される。それから問答無用で口を塞がれた……!
まばらとは言え駐車場には家族連れも行き交っていて、ふとこちらを見た父親と目が合った。父親は目を離せなくなってしまったのか、こちらを凝視したまま無言で家族を伴って店舗入口の方へ歩いて行く。慌てた七海は空いている手で黛の胸を押し抵抗を試みたが、ガッシリと自分を捕らえる腕から逃れることはかなわない。
そこでまとわりつくように父親の足元を歩いていた男の子が、父親を見上げてその視線の先にいるこちらに気付きピタリと歩みを止めた。
「ねぇパパ!あのひとたち、キスしてるよ~」
と大きな声でこちらを指差す。ギョッとした父親が「見るんじゃない」と言って慌てて男の子を抱え、逃げるように店舗入口へと早足で家族を促し始めた。
(ひー!)
七海の背中を冷や汗がさーっと伝い始めた所で、漸く解放された。
「ひ、人が見て……恥ずかしいから、外ではホントに止めて!」
真っ赤になって訴える七海の前で、黛は顔色一つ変えず彼女の口元を拭い首を傾げた。
「……恥ずかしいか?」
「恥ずかしいに決まってるでしょお!」
伝わらなさに拳を握って眉を寄せ、必死で抗議の声を上げる七海。動揺する妻に向かって黛は、周りに女性がいたらついつい見惚れずにはいられないような、それはそれは魅力的な笑顔で微笑んだ。
「良かったな」
「え?」
そのチグハグな返答に、七海は耳を疑う。
「恥ずかしければ恥ずかしいほど、危機感が増すだろ?最初からこうしとけば良かったんだな。そしたらもっと早く、名前で呼べたのに」
黛はフッと不敵に笑った。七海は苦虫を潰したような顔で呻いた。
「ううっ……だからと言ってこんなマネしなくても……」
「選ぶのはチャイルドシートだっけ?さっさと見に行こうぜ」
黛はなおも悔し気に呻る七海の肩を抱くと、上機嫌な様子でで真っ赤になって悶える妻を店へと促したのだった。
余談ですが、玲子の車の保険は運転者限定特約を付けていません。だから新が運転しても大丈夫。
結婚前からの夫婦の懸案事項(黛を七海が名前で呼ぶこと)がいよいよ解決しそうです。
相変わらずモダモダしている夫婦のお話ですが、お読みいただき誠にありがとうございました。




