三十七、事前の準備2(☆)
前話の続きのおまけ話です。
※別サイトと少し文章が異なります。
七海の手元にある雑誌を覗き込んだ黛が、ヒョイとそれを取り上げた。
「もう遅いから、寝ようか」
昼の間ずっとコンコンと眠り続けていた黛にそう言われ七海は疑問に思う。そんなにすぐ眠れるのだろうか?と。しかし、ひょっとするとまだ寝足りないのかもしれないと直ぐに思い直す。寝だめは出来ないと一般的に言われているらしいが、慢性的な寝不足と疲労が重なる研修医が常に眠いのは仕方が無いことなのかもしれない、と。そして七海も現在進行形で眠いから、今就寝するのはやぶさかではない。妊婦と言うものはいついかなる時も眠いものだ。それこそ所かまわず居眠りしたくなるくらいに。
「うん」
頷く七海の膝の上には、毎日抱いて眠っているシロクマの抱き枕が鎮座している。シロクマは雑誌を読む時、台にするとちょうど具合が良いのだ。そのシロクマをパッと取り上げた黛が、ニコリと微笑む。
「あの……寝るんでしょ?」
首を傾げつつ、シロクマを取り戻そうと七海は手を伸ばした。彼女はもうシロクマなしでは眠れない体になってしまったのだ……!そんなこと、重々承知している筈の黛の不可解な行動を、七海は単にふざけているだけだと思った。すると夫は今度はサッと自分の後ろにシロクマを押しのけてしまう。
「『寝る』とは言ったが『眠る』とは言っていない」
チュッと不意打ちのように頬に口付けられる。黛は直ぐに顔を離したが、至近距離で艶やかに微笑まれ、七海の胸はドキリと跳ねる。うっとりと細められた瞳に浮かんだサインは既に見慣れたものになっているからだ。両頬を優しく包み込まれ、今度は唇をそっと啄まれる。それを合図と受け取って、七海は瞼を伏せた。
繰り返される口付けが、ゆっくりと深くなっていく。求められるままに応えていると背中を支えられ、いつのまにか優しくベッドに押し付けられていた。長い口付けの最後にそっと唇が離されて、七海は大きな溜息を吐く。渇望していた酸素が流れ込んで来て、思わず瞳が潤んでしまった。
「黛君……」
「『龍之介』だろ?子供が生まれてもまだ苗字で呼ぶつもりか?」
「うっ……」
痛い所を突かれて思わず呻く。最近すっかり苗字呼びに戻ってしまった七海だが、黛も近頃何も言わなくなったから、ひょっとしてこのまま行けるかも?……などとズルいことを考えていたのだ。
「えーとほら、子供が生まれたら『パパ』とか『お父さん』とか、自然に呼び名が変わるでしょ?だからもうこのままでも大丈夫かなって……やっぱり呼び方変えるのって慣れないから恥ずかしいし」
結婚して子供まで作って置いて今更だが、やはり慣れた苗字呼びを名前呼びに代えるのは七海にとってはいまだにソワソワと気恥ずかしくて、落ち着かない。名前を呼ぼうとして気合いを入れたり、言った後カッと体が熱くなったりするのはお腹に気を取られて体力を削られる今、それは大変疲れる行為なのだ。もういっそ、このままで通してなし崩しに『お父さん!』とか照れない呼び方に移行したい。……当の夫は不本意かもしれないが。いや、案外『パパ』とか『お父さん』とか言う呼び方の方が本人もシックリくるかもしれないし。と七海はまた、自分に都合の良い事を考えている。
両手を七海の顔の横について、黛はジッと彼女を真顔で見下ろしている。返事がない事にそろそろ居心地の悪さを感じ始める頃、黛は「ふむ」と頷いた。
「恥ずかしいのは、慣れていないからだ。慣れれば気にならなくなる」
「それはそうかもしれないけど……」
反論を弱める七海に、ニコリと黛は笑顔を見せた。
そう言えば以前もこんな遣り取りをした事があったな、なんて見慣れている筈の綺麗な笑顔に胸を騒がせながら、七海はボンヤリと考える。
「事前の準備が大事だろ?生まれるまでに練習しようぜ。第一『お父さん』なんて言ったら親父と呼び名が被るだろ?親父や玲子のこと、今更『じーちゃん』とか『ばーちゃん』とか呼び直すのか?」
「えっ……玲子さんを『おばあちゃん』?!それは無理!」
美し過ぎるジャズピアニスト、玲子を『おばあちゃん』と呼ぶなど、超一般人の七海にはハードルが高過ぎる。それに性格的に龍一本人も怒ったりしないだろうが―――彼を『おじいちゃん』呼びするのも七海には無理だ。厳格な雰囲気に似合わな過ぎる。
「じゃあ、練習あるのみだな!」
反論を封じ込めるように笑顔で言い切る黛。
「えっと、でも黛く……んっ!」
『パパ』呼びなら被らないのでは?と更に反論を重ねようとした口を塞がれた。
「ぷはっ……なに……」
「苗字呼びしたら、キスするぞ」
黛はニンマリと意地悪く笑った。
「え……」
「寝室以外でもな。親父がいても、誰がいようとヤル。外でもな」
「……!……」
「生まれるまで時間が無いからな、俺もこれまでと方針を変えることにした。ゆっくり待っていられないからな。練習に協力してやる」
フッと楽しそうに弧を描く黛の口元が降りて来て、再び唇を優しく食まれてしまう。
「ん!ぷはっ……まだ呼んでないのにっ……」
「これは普通のキス。夜、夫婦の寝室なんだから当たり前だろ」
結局どっちにしろ、口付けられるのは変わらないのだった。七海の戸惑いなど我関せず、と言うように鼻歌を歌いながら黛は上機嫌だ。午後ゆっくり睡眠を貪った所為か、心なしかいつもより元気にそうに見える。そう言えば明日は久しぶりにお休みだったっけ……?と七海は今更ながらに思い出した。産休に入ってからこっち、曜日の感覚が希薄なのだ。
しかし機嫌の良い夫とは裏腹に、七海の内心は戦々恐々とせずにはいられなかった。
(お義父さんの前でキスとか―――恥ずかし過ぎる!でもきっとお義父さんはピクリとも動じないだろうけどっ!でもそれはそれで何かヤダ……!その上更に『外で』とか?!あり得ないよ~!あーでもやると言ったらきっと黛君は確実に実行するだろうなぁ。ううっ……こんなことになるなら、もっと前から頑張って名前呼びに治しておけば良かった……!えーん、どうしよ~!!)
果たして次のお出掛け、自分はうっかり外で苗字を呼ばずに帰還できるのだろうか……?
先ほど夫を不憫に思い反省したことなど、この時にはすっかり頭から吹き飛んでしまった七海であった。
『やはり自分は受け身なぐらいでちょうど良いのかもしれない』と翌朝、七海は考えを改めました。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
※お詫び:繋がらなくなってしまったので、前話の後書き話は削除しました。




