三十一、アルバイト
妊娠九ヶ月、産休中の出来事です。
産休に入った七海は、マタニティヨガの体験レッスンを受けることにした。
場所は二子玉川駅付近のショッピングセンター内にあるヨガスタジオだ。一般のジムが開いているマタニティクラスなのだが、マタニティ専用のロッカーがあって一般の利用者を気にしなくても良いし、何よりマンションから歩いて通うにはちょうど良い。休日に外食を兼ねて黛とジムを覗いてみて、取りあえず試しにレッスンを受けてみると黛に伝えると黛が付き添い人を雇うと言い出した。ハイヤーを使わない行きかえりが心配だと言うのだ。
「帰りにカレー食べようよ。唯が言ってたけど四人で食べに行ったんでしょ?俺も誘ってくれれば良かったのに」
付添人のアルバイトを請け負ったのは、大学を在学中の本田三兄弟の末っ子、新である。
高校・大学時代の新は服装や髪型で遊ぶのが楽しかったらしく、顔を合わせるたび先ず『誰?』と思わず思ってしまうくらい七海は見た目で驚かされることが多かった。ところが久し振りに会った新は、すっかり真面になっていた。
綺麗目のカジュアルな服装に身を包み、髭を綺麗に剃り肩まで伸びたサラサラの髪を一つにまとめている立ち姿は、雑誌モデルか如何にも良いトコの御曹司に見える。いや、雑誌モデルも御曹司というも間違ってはいない。新は知り合いから頼まれて欠員補充や穴埋めで雑誌のモデルのアルバイトをすることがあるし、実家は不動産を数多く所有しているこの辺りの地主の一つで、つまり『良いトコのお坊ちゃん』そのものなのである。
拗ねたような口調の新に、七海は一応弁解した。
「勉強とかバイトとかで忙しいって聞いていたから……」
中学校の頃、インターナショナル時代に付き合っていた金髪碧眼美少女、亜梨子と海外旅行中に再会してから再び付き合い始め、アメリカの大学に通っている彼女と会うための資金を貯めるため忙しく働いていたと聞いていたのだ。そのため常に金欠な新は、新しい服を買う余裕が無いので、最近は二人の兄、信と心の御下がりを融通してもらっているらしい。ファッションに対して末っ子のように冒険心の無い二人の御下がりは大人しめではあるものの、質の良い物が多い。それらは新が好んで来ていた服よりずっと高級で、特に信の御下がりは如何にも『御曹司』っぽい物が多かった。
以前はギョッとするような奇抜なファッションも多かったので、七海としては一緒に歩く新の身なりが落ち着いてくれて非常に有難い。
「あ、七海。そこ気を付けて」
段差の前でスッと七海の手を取ってふらつく体を支えてくれる。七海をエスコートするように庇う新は大層目立つ。通りすがる女性達の視線が集まるのは居心地は悪いが、格好が落ち着いただけまだマシである。新は視線を集める事に慣れているようで、気にも留めていないようだった。
段差を無事通り過ぎた後、七海は気になっていたことを訪ねてみた。
「夏休みも設計事務所でずっとアルバイトしていたんでしょ?卒業したら同じ処に就職するの?」
夏休みの前半はアトリエ系の設計事務所でアルバイトをし、後半アメリカに遊びに行ったのだと唯から聞いていた。建築学科で勉強しているので、ひょっとしてそのまま就職するのかも、と七海は考えたのだった。就活も兼ねたアルバイトって羨ましい、と思ったくらいだ。
「んー……」
ゆっくりとしか歩けない七海の隣で、歩調を合わせながら新は口ごもった。それから暫く躊躇った後、新は溜息を吐きながら首を振った。
「其処には就職できそうもないかな」
「え?どうして?」
何か重大なミスでもしてしまったのだろうか、と七海は心配になった。が、思っていたのと違う答えが返って来た。
「……セクハラがひどくてさ」
「え……」
思いも寄らない回答に、七海は言葉を失う。立ち止まり背の高い新を見上げると、不愉快気に眉を寄せていた。
「アトリエ系って夜中まで残業があるんだ」
「うん、忙しいんだね」
それは何となく想像が付いたので、七海は頷いた。
「でも残業って言われて残ったのにさ、何故か直ぐに夕食食べに行こうって飲みに連れ出されたりして、結局その日は仕事せずに終わったりすることが多くて。それはまだ良いんだけど、べろんべろんに酔っぱらった先輩に、毎回家に連れ込まれそうになるんだよ。嫌がっているのにしつこくてさ。それに会社に残って仕事していても、二人切りになったら急に距離が近くなる先輩がいてさ……暑くもないのに暑いって言い出して薄いシャツのボタン、胸が見えそうなくらいまで外したりするんだ」
「え……それは……でも、彼女いるって言った方がいいんじゃない?」
「言ったよ。最初に飲み会で社長に聞かれた時に、皆の前で言ってるし」
吐き捨てるように言う新に、七海はどう言葉を掛けようか迷ってしまう。
小学校から知っている間柄で、七海は新を男性として見たことがない。けれども客観的に見て、本田や信によく似ていて大層美男子だし、黛を慕っていた新はレディーファーストが身についている所がある。末っ子のおおらかさが如何にも『お金持ちのお坊ちゃん』と言った風情を醸し出しているし、彼女がいると言ってもアピールする女性が多いのは仕方が無いのかもしれない。彼女の亜梨子が現在アメリカで勉強中ということもあって、周りにいる女性がその心の隙に入り込みたい!とチャレンジ精神を発揮する事もあるのだろうなぁ……と七海は想像した。
しかし言い寄られる本人にとっては迷惑以外の何物でもないだろう、とも思う。七海が向ける同情の目に気が付くと、新は「ごめん、行こ」と先を促す。再び歩きながら、新はついでのように愚痴を零した。
「皆現場に出て働いているから、事務所に残る人間はどうしても少なくなっちゃうんだよね。仕事も教わってる立場だし、その人の時間を割いて貰って迷惑もかけているから……先輩女子がなんか馴れ馴れしいなーとか距離が近いなぁって思っても強く出られないし」
肩を落とす様子を目にし、とても気の毒になってしまった。新は人懐こく素直な性質だ。信のように女性を上手くあしらうことも、本田のように清廉な雰囲気で寄せ付けないオーラを放つことも出来ないのかもしれない。きっと気のある女性から見ると、親しみやすい分、踏み込みやすい雰囲気があるのだろう。
「俺に積極的にアピールしてくる先輩女子達が二人いてさ。その内なーんか険悪な雰囲気になっちゃって……俺どっちとも付き合う気、全くないの分かってるのに。先輩だから仕事だって言われると強く断る事もできないでしょ?それをその二人がそれぞれ『あの人が迫って来て迷惑でしょ?相談に乗るよ』って言って飲みにつれ出そうとするし……で、とうとう事務所の飲み会の時にその二人が掴み合いの喧嘩始めちゃってさ。仕事も進まないし、なんか社長にも申し訳ないから其処には就職できないかなって」
何処かで聞いたようなエピソードだ。そう言えば学生時代、信を取り合って友人二人が争って、争いのもととなった信がサークルを辞めることで決着が着いたという話を聞いたことがある。その時信には彼女がいて、彼女とその友人が信の家で鉢合わせをして―――信は本田家に逃げ込むように帰って来たような気がする。そしてそのままずっと本田家で暮らしているのだ。
「……モテるのも大変だね」
「うん、大変なんだよ」
素直な新は、自分がモテる事実は否定しない。そして『七海ちゃんも可愛いよ』なんて信みたいなフォローもしないし、本田みたいに『モテているわけじゃないよ』などと謙遜もしない。
そう言う所が、新の隙のような気がしてしまうのは何故なのか。何となくそこに年上の女性陣が付け込んでしまうのじゃないかなぁ……と七海は感じたのだった。
久し振りに新が登場しました。
綺麗な子は女の子ばかりでなく男の子もセクハラで苦労するかも?……というお話です。
新は無意識ですが人懐こくて甘え上手なので「私に気があるかも?」「私が守らなきゃ…!」なんて勘違いする年上女子が続出しているとかしないとか。羨ましいと言うか自業自得と言うか。男性オンリーの職場に就職した方が良いかもしれません(笑)
お読みいただき、有難うございました。




