二十三、出勤風景
妊娠7カ月後期くらいの小話です。
「よっこらしょっと」
後部座席から降りる時、思わず声が出てしまった。そんな自分に気が付いて七海はつい独り頬を染める。が、直ぐに気を取り直し、鞄を肩に抱え直して言い聞かせるようにこう呟いた。
「じゃあ、行きますか?」
と、すっかりせり出たお腹を一撫でして話し掛ける。それから一歩踏み出した所でその背中をポンと叩かれた。
「おっはよ!」
「う、わぁぁ!」
比較的人目に付かない路地で降ろして貰ったので、まさか声を掛けられるとは思わなかったのだ。七海は思わず肩を竦めて素っ頓狂な声を上げてしまう。
「わ、ゴメン!驚かしちゃった!」
振り向くと川奈が目を丸くして、片手を上げた形で固まったまま七海を見ていた。
「ううん、こっちこそゴメン。おはよう」
照れ隠しにはにかみながら、七海は首を振った。それから二人で並んで歩き始める。
川奈はお腹の大きい七海に歩幅を合わせながら、その顔を覗き込んだ。
「どうしてこんな場所でタクシーを降りたの?会社のエントランスに近い所で降ろして貰えば良かったのに」
「あ、うん。その……」
七海はキョロキョロと視線を彷徨わせたが、躊躇いつつ説明し始めた。
「ハイヤーで通勤しているのを見られるのが、ちょっと恥ずかしくて……」
「え?何で?体調悪い時は仕方がないでしょ、妊婦さんなんだし」
七海は確か三十分ほど掛けて電車通勤していたハズだ、と川奈は記憶を掘り返した。だから身重の体で思うように体調が整わない場合、ちょっと費用は嵩むだろうが自腹でタクシーやハイヤーを利用する事はそれほど悪い事ではないだろう、と。それを恥ずかしがる必要も、ましてや隠す必要もないのではないか……と彼女は素朴に考えたのだ。
「あの、違うの」
七海は頬を染めて俯きがちに視線を落とした。
「その……毎日なの」
「え?」
「ちょっと通勤でトラブルがあってね。それを彼に相談したら……その、休み明けからハイヤーが手配されていて」
「それは……かなりな金額になるのでは」
「うん、しかも月単位で貸し切りなの」
しかも平日の会社の送り迎えだけでなく、土日の移動もそのハイヤーを使うように、黛から厳命されてしまったのだ。さすがにそれは言い辛くて濁してしまう。
「ええ!その代金はもしかして……」
「うん、それももう彼が払っていて……使わないなら有休使って早めに産休取るようにって言われて」
迷った末、七海は頷いたのだった。もう契約してしまった、支払いも済んだと言われては断る方が勿体無い。それにあと二ヵ月もすれば産休に入る予定だ、期間限定だと割り切ればまだ諦めも付いた。
「私もトラブルの時動揺しちゃったのもあって、強く跳ねのけられなくて……愚痴を聞いて貰ってそれで気は済んだから、もう自分の気持ちとしては解決したんだけど……」
電車通勤で近くに立っていた学生が離れ際、悪意のこもった言葉を投げ掛けて来たのだ。有名な進学校の制服だったと思う。たぶん妊婦が目の前にいる事に腹を立てたというより、受験が近づいて来て苛々が溜まっていて、その捌け口としてたまたま目の前にいた弱者(と彼には映ったのだろう)である七海が選ばれたのだ。
妊娠も七ヶ月に入ると体の変化一気に加速した気がする。その分脳が変化に対応しきれていないのか、ちょっとした事に不自由を感じるようになった。そんなとき見も知らない他人の優しさに触れる場面の方が多い。が、このように見も知らない他人から思いがけない悪意を受ける事もある。―――それを身をもって体験した七海はかなりズーンと落ち込んでしまったのだ。それに純粋に怖かった。勿論冷静に考えれば直接その学生が七海に手を出すなんてことにはならないのだと頭では分かっていても、普通の体なら避けられる災難を今の体では避け切れないかもしれない、と言う想像が彼女の恐怖心を煽ってしまったのだ。
しかしそれはちょっと愚痴を聞いて貰えば、解消する心の問題だった。実際黛にギュッと抱き着いて背中を優しく撫でて貰った翌朝はすっかり憑き物が落ちたように昏い感情もクリアになってしまったというのに。
「あーそれは……うーん……確かに会社の前で降りづらいのも分かる。毎日ハイヤーで乗り付けたら目につくだろうしねぇ」
川奈は同情を込めた視線で頷いた。
一度顔を合わせただけだが、あの、七海しか目に入って無さそうな彼女の夫がそのような反応を返してもおかしくないのだと、妙に納得してしまう。
「後悔先に立たずだよ……」
肩を落とす七海を川奈は笑って慰めた。
「でも良い旦那様じゃない?妻の危機に即行動を起こすなんて、なかなか出来る事じゃないわよ」
「うん、その点はもう、感謝しかないんだけど……」
安易に泣きついてしまったことを、七海は大いに反省した。いや、聞いて貰って気持ちは楽になったし、黛が自分の身を案じて手配してくれた事には本当に感謝しているのだが。
「……この貸し切り代が、たぶん私の給料とあまり変わらないのかと思うと―――なんだかなんのために働いているのか分からなくなって来ちゃって」
「げっ……そうか、そうだよね。それぐらいにはなるかもね……」
罪悪感に似たものを感じて切なげに溜息を吐く七海を見て、川奈は思った。
この夫婦は何だかとってもアンバランスだなぁ、と。
七海から聞く控えめな話や久石から聞く驚きのエピソード、一度目にした二人の距離感でお互い好き合っているのも仲が良いのも、伝わって来る。だから夫婦としてはとても似合いの二人だと思う。
その一方で七海は見た目やスペックの格差を気にしているようだが―――どうやらその格差はそう言う所にあるわけじゃ無くて、二人の想いの大きさなのではないか、と言う気がした。そしてその天秤は大きく片一方に傾いている、たぶん。
果たして彼女はそれに気付いているのかな?……と悪戯心が湧いて来て、川奈は揶揄うようにこう言ってみる。
「江島さん、愛されてるねぇ……!」
「うっ……」
すると言われた七海は呻き声を上げて顔を両掌で覆ってしまった。指の間から見える頬と耳が真っ赤に染まるのを見て、川奈は納得した。
川奈の心配は杞憂だったようだ。どうやら彼女の夫の愛情は―――もう十分に彼女に伝わっているらしい。
<おまけ・その後の通勤風景>
「やっぱ、内緒にしておいた方が良いかも」
と、川奈がポツリと呟いた。そう呟く彼女の視線の先を辿ると……
「え?……あ!」
大きな通りに出た処で人混みの中二人の先を歩く小柄な影を見つけた。それは同じ課の先輩である、幼な顔の岬だった。
狙っていた立川に全く相手にされなかった岬は、結局彼の同僚、営業課の田神と付き合う事になったのだが―――どうやら最近、その付き合いがあまり上手く行っていないらしい。
岬は一刻も早く寿退社したいようだが田神があまり乗り気じゃないようだ。だから七海にとっては躊躇してしまうような夫の厚意も……そんな岬から見たら贅沢な悩みと受け取られかねない。
かつて更衣室で絡まれた出来事が、七海の頭をよぎった。
イライラを抱えた受験生より、イライラを抱えた岬の方がもっとずっと身近で怖い……気がする。うん。
「暫くは……出来れば産休入るまで、やっぱりさっきの所で降りようかな?」
「うん、そうだね。……その方が良いね。私もなるべく他言しないよ」
「波風は避けられるものは避けたいよね」
「うん、避けたい。避けるべき!」
そうして川奈と二人、目を見交わしてしっかりと頷き合ったのだった。
(おまけ・完)
お読みいただき、有難うございました!




