二十一、妊婦検診
妊娠七ヶ月前期頃の短いおまけ話です。
妊娠二十四週目から妊婦検診の頻度が四週に一回から二週に一回に変わった。
珍しく土曜日に休みを貰えた黛が、七海の検診に付いて行くと主張した。
「夜勤明けなんだから、寝てた方が良いんじゃない?」
あからさまに血の気の引いた顔の黛を心配して、七海はそう提案した。
決して無精髭の怪しい風体の黛と一緒に歩きたくない……と考えている訳では無い。あくまで激務の夫を気遣っての台詞だった。
「いや、行く。今日行かなきゃもういつ行けるか分からないから」
と悲壮な口調で訴える健気さに絆されて、七海は仕方なく頷いた。しかし車を運転すると言う主張はきっぱりと却下し、タクシーで向かう事とする。いつもならウォーキングがてらゆっくり歩いて行くところなのだが、黛の体調が心配だったのだ。余計な体力と時間を使わせたく無かった。
待合室は淡いピンクを基調とした清潔な内装で、活性水や妊婦でも飲めるハーブティがセルフサービスで提供されており、妊娠関連以外の雑誌も取り揃えられている。子連れの妊婦も多い為、キッズスペースも充実していた。
ソファもゆったりと腰掛ける事が出来る座り心地の質の良いもので、苦しくなったお腹でも安心して長い時間待つことが出来る。予約制だが時間通りに進まないこともままあるのだ。だからいつも七海は早めに家を出て散歩しがてらクリニックまで徒歩で向かい、自分の順番が来るまで雑誌を読んで、ゆったり待つことにしていた。
待合室に入り受付を済ませ七海が腰を落ち着けると、無精髭の怪しい男はキョロキョロとアチコチ見渡し始め、水やハーブティを試飲して七海の下に運び、更には雑誌のラインナップを確認したりと……疲れているだろうにまるで巣箱を確認する親鳥のように点検し始めた。そして一通り確認を終えると、戻って来て雑誌を眺める七海の横にドサリと腰掛けた。
何となく不審気な視線が集まるのは気のせいではあるまい。ちゃんとしてれば別の意味で視線を集める夫だが、今は見た目が怪し過ぎる。そして行動も。
けれども通常の美々しい彼の隣で見比べられるよりは、まだこの風体の方が傍にいるのは気が楽かも……などと七海は口元を緩ませた。
「何笑ってるんだ?」
訝し気に七海をのぞき込む、無精髭の男に七海はフフフと笑って首を傾げて見せた。
「んー?黛君、ここで生まれたって言うのに物珍しそうにしているから」
黛は腕を組み、苦い顔をした。
「生まれたばかりの赤ん坊の頃じゃあ、初めて来るのと変わりないからな」
「あれ?……生まれた時の記憶あるんじゃ無かったっけ?」
以前黛は『胎内記憶』があって、出産風景を覚えていたと言う話をしていたのだ。
「だとしても覚えているのは分娩室くらいだしな。逆に新生児が待合室の設備、鮮明に覚えていたら怖いだろ?内装だって三十年近く経過していればリフォームするだろうし」
七海の揶揄いに大真面目に答える様子が可笑しくて、七海はまたクスクス笑ってしまった。黛もそれは承知していて、直ぐに眉を緩めて妻が楽しそうに笑うのを見て満足気な笑みを浮かべた。
それから七海が見ている雑誌を黛が隣から覗き込んだりしながら、診察時間までの時間を潰す。暫く無言でページを繰っていると―――やがて肩の圧力が増し始め、ズズズと七海の体を伝って膝に落ちた。
下敷きになりそうな雑誌をヒョイと躱してやると、どさりと落ちた膝の上で無精髭を生やしたボサボサ髪の男が寝息を立てている。高級そうなソファの座面が深いお陰で、お腹を圧迫せずに器用に七海の膝枕に頭を乗せて眠る事ができた。無意識なのにちゃんと胎児を庇っているような恰好で寝落ちしている夫を見て、七海の口元は思わず綻んだ。
「あら、お父さん眠っちゃいました?」
可愛らしい若い看護師が、ニコニコとその様子を眺めていた。手には体温計を握っている。
「あ!スイマセン、場所占領しちゃって……」
夫を起こそうとする七海を、看護師が優しく留めた。
「大丈夫ですよ。予約制なので他の席も空いてますし。お熱計ってくださいね……でも、足が辛くなる前に遠慮なく起こしましょうね。むくみ易いからあまり長く圧迫するのもどうかと思いますし」
「はい、有難うございます。じゃあちょっとだけ……夜勤で寝不足なのに付いて来てくれたので」
「そうですか。良いお父さんですね?」
「はい」
七海は微笑んで、大きく頷いた。
そうして暫く振りに、膝枕を堪能して黛は短い有意義な仮眠を得たのだった。
余談であるが後々髭を剃って身なりを整えた黛を見たこの看護師は、この無精髭のくたびれた男とキラキラしい美青年が同一人物だとなかなか気が付かなかったと言う。
もう一話くらい続くかもしれません。




