二十、教育方針2
十九話の続きです。最近影が薄かった七海の夫、黛が登場します。
翔太がドローン操作のコツを掴み始めたようだ。数回に一回、良い感じに機体を操作する事に成功するようになった。
ふと気が付くと時刻はもう夜の八時。龍一が臨時で明日出勤しなければならなくなったのだと聞いた七海は、慌てて自室で休んで貰うよう促した。これだけ操作技術が上達すれば、後は優秀な指導教官が居なくても新人パイロットは練習を続けられる筈だ。
龍一が自室に下がってから、暫く翔太の練習に付き合った。二十分ほど経過した頃、七海は時計をチラッと見上げる。
そろそろ寝る準備を始めた方が良いかもしれない、どのタイミングで止めようか?と検討しながら、ヴィーン……と羽音を立てて居間を横切るドローンを眺める。随分長く飛び回れるようになったな、と感心しつつその行方を目で追っていると、玄関へ続く廊下の扉に小さな機体がぶつかりそうになった。
息を飲む二人の前で、その扉が唐突にが開く。そしてコンっとぶつかり墜落するとばかり思っていた小さな機体が、スゥッと其処へ吸い込まれていった。
「いてっ!」
扉の向こうから小さな叫び声が聞こえて、思わず二人は瞳を見交わす。次の瞬間、翔太はパッとコントローラーを手放し立ち上がると、パタパタと叫び声の主のもとへ駆け寄った。
扉の向こうから額を擦りながら現れたのは勿論、黛だ。仕事用のリュックを背負ったままもう一方の手に静かになってしまったドローンを乗せている。
「りゅうのすけ!!おかえりー!」
「ただいま、翔太……これ何だ?」
眉を下げて屈みこみ、黛は掌に捕まえたばかりの小さな物体を示して翔太に尋ねた。
「ドローン!だよ!」
「お帰り、黛君。それ、お義父さんのお土産なの」
七海は痛そうに眉を顰めて額を擦る黛に、プププと笑いを堪えつつ歩み寄った。
「親父の?」
「ラジコンなんだよ。すごいでしょ?こんなに小さいのに、ちゃんと動くんだよ」
「へー」
黛は翔太の頭を撫でながら、手にした小さな玩具をしげしげと眺めた。それから「あっ」と声を上げドローンを龍之介に返すとリュックを背中から下ろす。
「俺も翔太にお土産があるんだった」
「え!おみやげ……?」
翔太がドローンを手にしたまま、期待の眼差しで黛を見上げた。
「ちょっと待てよ……」
と鞄に手を入れ彼が取り出そうとした大手家電ショップの袋を目にした所で、七海の胸の中に一抹の不安が湧き上がった。
「黛君、待っ……」
「ジャン!これ、いま小学生はみんな持ってるんだろ?」
と、効果音演出付きで黛は袋のまま翔太に差し出す。期待に胸を膨らませた翔太は素早くドローンを七海に預け、袋に手を伸ばした。
「『すいっち』は売り切れだったからこっちにしたんだけど、翔太もしかしてもう持ってたか?」
「―――」
翔太は袋の中味を覗き込んで、感動に打ち震えている。
(あー……遅かった)
七海は額に手を当て、内心呻いた。
翔太はゆっくりと顔を上げキラキラした眼差しで黛を見つめるたかと思うと、次の瞬間、その無防備な腹筋に突進した……!
「ぐっ……!」
「うれしい!うれしい!りゅうのすけ!」
勢い良く黛の鳩尾に小さな頭をめり込ませ、グリグリグリ……と押し付ける。翔太は喜びを全身に漲らせて袋を手にしたまま抱き着いた。思わず呻き声を上げた黛だったが、何とか堪えて体勢を立て直し、翔太の頭をグリグリと撫で返す。
「ありがとー!」
「ああ」
抱き着いたまま再び顔を上げて礼を言った翔太の笑顔があまりに可愛らしくて、思わず黛の目尻も下がった。
「喜んでくれて良かった……」
が、顔を上げた途端、七海の硬い表情にぶつかり思わず言葉が止まる。
「……七海?」
ジトーっとした視線を向けられ、首をひねる黛。
七海は溜息を吐いて首を振り、翔太の目線にしゃがみ込む。
「翔太、もう遅いから寝る準備しよっか」
「えー!おれ、3DMやりたい!」
翔太は普段あまり駄々をこねるタイプではないのだが、念願のゲーム機に興奮が収まらないようだ。無理もない、と思いつつ七海は噛んで含めるように言った。
「これから始めたら、夜中になっちゃう。今日はもう寝て、明日にしよ?」
「……」
不満げに黙り込む翔太に、七海はニッコリと笑ってこう付け足した。
「早く寝て、早起き出来たらおウチに帰る前に遊べるよ?」
「……」
口をギュッと引き結び思案した後、翔太は少し視線を俯かせる。
「ん~……わかった……」
そして渋々、と言った様子で了承した。
しかし一度決めたら切り替えは早いらしく「じゃ!もう寝る!」とすぐさま寝室に向かおうとする。七海はそこを更に宥めて、翔太にドローンの片付けと歯磨きを促した。楽しみと目標が明確になった為か、ハキハキと返事をし翔太は真剣に片付けと歯磨きに取り組んだ。そのちゃっかりした態度を、七海と黛は苦笑を交わしつつも微笑ましく見守ったのだった。
風呂上りパジャマに着替え寝室に入った黛が目にしたのは、ベッドの上でスヤスヤ眠る翔太と、彼に寄り添いながらその寝顔を眺めている七海の穏やかな表情だった。
その緩んだ表情に何となくホッとして、ベッドの上に乗り上げた黛は小さな翔太の体越しに愛しい妻の頬に軽く唇を押し当てた。
「子育ての予行演習みたいだな?」
以前翔太がこのベッドで眠っているのを発見した時もそんな風に感じた事を思い出し、ウキウキと上機嫌に黛は囁いた。すると―――弟に落ちていた彼女の視線がスッと音も無く黛へと移る。
「……黛君」
「ん?」
静かな声に首を傾げると、七海は難しい表情で眉根を寄せている。それからゆっくりと体を起こした。
「どうした?」
「今日のお土産―――なんだけど。翔太は喜んでたけど、ゲーム機って早くないかな?お母さんも『まだ買わない』って翔太に言っていたみたいだし」
「このくらいの年には俺はもうやってたぞ」
「まあ私もそうなんだけど。……ゲームは子供に悪い影響があるかもって聞くから、慎重に与えた方が良いと思うし……」
「そうか?最先端の技術の結晶なんだから、むしろ小さい内から経験していた方が視野が広がって良いんじゃないか?」
『最先端の技術の結晶』とか『視野が広がる』などと言われ、一瞬七海は面食らってしまう。自分もゲームを楽しんだ時期はあったが、それはあくまで娯楽であって積極的に保護者が勧めてはいけない物のような気がしていたからだ。それに医者である黛の方がそう言った物に否定的な考えを持っているのが当り前のような気がしていたのだが……と七海は少し戸惑いがちに続ける。
「ブルーライトとか……視力に良くないんだよね?体を動かす遊びの方がゲームより脳の発育に良さそうな気がするし」
「確かに脳の発達は三歳くらいまでに八割、十歳くらいまでに九割方が完成してしまうから、その時期は体を動かす遊びの方が大事だろうな。視力にしても、近い所ばかり長い時間注視していたらピント調節の機能が衰えるのは勿論だが……ただブルーライトの影響はまだ科学的根拠がはっきりしていないし、気になるなら防止フィルムを貼るって手もある。やる時間帯とか、ゲームばかりに偏ってやり過ぎるのが問題なんじゃないか?それよりも電子レンジやスマホで通話する時の高周波の電磁波の方がずっと危ないぞ。スマホでゲームさせるよりはマシなんじゃないか」
「えっそうなの……?」
電子レンジは生活に必要な物だし、スマホは日常的に使う物だ。妊娠してから黛から色々と注意を受けていてそれをなるべく守ってはいたが―――ゲーム機より気を付けなきゃならない、と言う意識は七海には無かった。
「幼児や胎児の脳は大人より電磁波を吸収しやすいから、要注意だ。七海にも言っただろ?寝る時はスマホの電源を切って、出歩く時は鞄に入れるようにって。前も言ったけど特に呼び出し中のスマホは頭とお腹に近付けない方が良いぞ。通話中よりずっと電磁波の量が多いんだ。まあそれを言ったら太陽光も人体に悪い影響があるし、とは言え浴びないと人間は体内でビタミンDもセロトニンも作れないし……だから大事なのは何かに偏り過ぎない生活をする事だと思うがな」
「うーん……確かに食事でも毎日三十品目取り入れた方が良いって言うしね、そう言うのも基本の考え方は同じなのかな?」
「それに今健康に『良い』って言われている物が、時代が変わってから実は人体に悪影響があるって分かる事もままある事だし、一般常識として人体に『悪い』と言われている物でも後世の研究で本当は必要な物だった、って判明するのもよくある話だしな」
「そっか……そうだよねぇ……って」
ハッと七海は我に返った。すっかり話が逸れてしまった事に、気が付いたのだ。
「違う違う、そうじゃなくてコレ、江島家の教育方針の問題だから!」
キッと強い戒めの視線を七海は黛に送って、自分に言い聞かせる気持ちも込めて続ける。
「『良い悪い』の議論じゃなくて、まずお母さんが翔太に『ゲーム機は十歳まで買わない』って言い含めていたんだから。それを保護者に確認しないで、勝手に与えるのは駄目でしょ?やっぱり」
シッカリとした口調で主張する七海の強い言葉に、黛は僅かに目を瞠り―――それから、ゆっくりと表情を和らげた。
「いいな……そう言うの」
妻の抗議に対して夫が呟いた返答の意味が分からず、七海は首を捻った。するとクエスチョンマークを浮かべる彼女に、黛はウットリと目を細めて手を伸ばし唇を寄せた。
「な、なに?……んうぅ……!」
問い掛けを途中で遮られてしまい、何やら良いムードを垂れ流し始めた夫の胸を七海はグッと押しのける。
真正面にある黛の表情は何故か、甘い。何が黛のツボに嵌って、どうしてそう言う展開になったのか、七海にはさっぱり見当が付かない。
「『教育方針』な……!いいな、ソレ!『親』って感じの響きがするな……!」
「……」
話の論点がずれている。そう、七海が口を開こうとした時―――
「そうだよっ!」
間に横たわる翔太が突然大きな声を上げたので、二人は思わず固まった。話に熱を入れ過ぎて、翔太を起こしてしまったのではと布団の中で万歳をするように伸びた体を固唾を飲んで見守る。
しかし見守られた当の本人は「……すりーでぃーえむ……ひろくん、おれもぉ……」と続いて呟きを漏らし、ムニャムニャと声にならない音を発した後、ゴロンと寝返りを打って丸くなってしまった。
その満足気な表情を見て、思わず噴き出してしまった七海の頬も緩む。
顔を上げると目の前の夫も目を細めて、丸くなった小さな体を見下ろしていた。苦笑を交えて七海は諦めの言葉を発する。
「まあ本人がすっごく喜んでいるから、今更取り上げるのもね……。お母さんには時間制限を設けて貰うように伝えて置くよ。ともかくアリガトね、翔太本当に嬉しかったみたい……夢に見るほど、だもんね」
「ゴメン」
「ん?」
「今度から、こう言うのは事前にちゃんと相談する」
珍しく屁理屈では無く殊勝な様子で反省の弁を述べる黛に、七海は柔らかい笑顔を向けた。
「うん。……でもまあ、忙しかったんでしょ?こっちこそゴメンね、時間無い中せっかく買ってくれたのに。わざわざ翔太の為にお土産選んでくれて有難う。それよりも……」
悪戯っぽい表情を浮かべる妻に―――黛は一瞬目を瞠った。
「ウチの『教育方針』もこれから相談しなくちゃね、『お父さん』?」
その微笑みに惹き込まれるように頬を染め、黛はコクリとその提案に大人しく頷いたのだった。
自由で理屈っぽい黛と、目立つ事が苦手で基本ことなかれ主義の七海。子供の教育方針の擦り合わせはなかなかに大変かもしれません。
ラジコンのドローンが黛の顔を直撃する、と言うエピソードを書きたくて話数が伸びてしまいました。何とか辿り着く事が出来て肩の荷が下りた気がします(´ω`)
お読みいただき、誠に有難うございました。




