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黛家の新婚さん  作者: ねがえり太郎
おまけ 黛家の妊婦さん
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十六、アドバイス

久し振りに七海が登場、会社が舞台となります。

妊娠中期五ヶ月後期くらいのイメージです。



安定期に入って暫く経った七海は相変わらず総務課で働いている。妊娠初期こそ羊羹ばかり食べていたものの、現在悪阻は軽い方なのか特に食べ物の好みが変わると言う事も無く、気になるのはお腹が膨らんで来たので少し座ったり立ち上がったりと言う動作のバランスくらいなものだろうか。あと困る事と言えば―――ご飯を食べた後スイッチがついているのかと思うくらい、急激に眠くなる事が目下一番の悩み事だった。お弁当を食べた後の抗いがたい眠気と戦わなければならないのは、正直かなり辛い。


その日七海は小日向と一緒に書庫整理をしていた。と言っても小日向から重い物を持ったり脚立に登ったりする事を禁止されてしまったため、不要と判断できる書類を選り分けたり、古紙回収に出すと決まった紙のホチキスを外したりと言う地味な軽作業にひたすら従事していた。

その古紙を結わえる為の紐が足りなくなったので、取りに行こうと立ち上がった七海に「私が取って来ます!江島さんはここで待っててくださいね!」と力強く主張した小日向が廊下に飛び出して行くのを、やるせない気持ちで七海は送り出したのだった。


「何だか申し訳ないなぁ……」


大して体調も悪くないのに気を遣って貰う事に恐縮してしまう。七海はせめてもと、紐で纏めた紙の束を台車に積む作業を進める事にした。


無理はしないように、と黛にも言われているので一つずつゆっくり載せていたのだが、特に負担も多く無いのでもう少しペースを速めようと古紙の束を二つ、一遍に手にした時―――反動でぐらりと体が揺らいでしまった。


「わっ……」


どうやら体のバランスは七海が思っている以上にイメージと変わっていたらしい。荷物を抱えたまま体勢を崩し、倒れる!と覚悟して目を瞑った。―――しかし恐れていた衝撃は訪れないままだ。恐る恐る目を開けると、ガッシリとした腕に背後から抱えられている事に気が付いた。




「おい、何してる」




責めるような低い声にギクリとする。

振り向くとそこには銀縁眼鏡の奥の、冷たい一重の瞳を細めた立川が居た。ホッとしたのと驚いたのとが一緒くたになってしまって言葉の出ない七海に溜息を吐いて、立川は彼女の体を立て直すと同時に、その大きな荷物をヒョイと取り上げた。周りを見渡して台車を見止め、紙の束の上にそれを重ねてくれる。


「あ……有難うございます」


慌てて頭を下げる。顔を上げると、腕組みをして厳しい表情を隠さない立川と目が合った。いつも心の奥で何を考えているか分からない笑みを浮かべていた彼の、珍しい態度に七海は縮こまってしまう。


「それより何でこんな無茶をしたんだ。身重で重い物を持つなんて―――それに一人でこんな作業させるのか、総務課は。課長はこのことを知っているのか?」


鋭い指摘が矢のように降って来て、身を竦めながら七海は否定した。


「あ……いえ、その違います。同僚と一緒に作業をしていました。彼女は今紐を取りに行っていて」

「けど荷物の上げ下ろしを、一人でさせられていたんだろ?」


そこで立川の不機嫌の訳に気が付いた。彼は七海の体を気遣って怒ってくれているのだと言う事に。七海は慌てて誤解を解こうと首を振った。


「違うんです!その、小日向さんは無理するなと言ってくれたんですけど―――私が勝手に!あの、世話になりっぱなしで申し訳ない気がして……少しなら大丈夫かなぁ、と」


すると立川は腰に手を付いて肩を落とし、ハーっと溜息を吐いた。苛立ちが聞こえてくるような音につい緊張してしまう。体格の良い男が厳しい表情を浮かべているだけでも怖いのに、鋭い細目に銀縁眼鏡の立川が凄むと―――半端無い威圧感で肝が冷えるようだ。


「そうは言ってもな。俺が偶々倉庫に来たから良かったものの……誰もいなければ、大事になったかもしれないんだ。自己管理がちゃんと出来ないなら、仕事なんか辞めて家で寝てりゃー良い。金には困ってないんだろ?」

「……っ」


キツイ指摘に思わず言葉を飲み込んだ。確かに七海の夫は研修医で収入はまだそれほど多くは無いとは言っても、医師であるからこれから増えるのは目に見えている。それに個人資産も少なくは無いし、おまけに義両親はかなり裕福だ。その上、七海は仕事命!と言えるほど熱心な人間では無いから―――立川のように営業のエースと言われている男からすれば、力量を一人前に出せない状態で給料を貰っている彼女に対して腹立たしい感情を抱かれたとしても、おかしくはない。




「……随分な言い方ですね」




いつの間にか小日向が戻って来ていて、七海の前に庇うようにスッと体を割り込ませて来た。何故か捕り物のようにビシッと紐を伸ばして構えている。まるで決闘シーンのようだ……と七海は呑気にもそんな想像をしてしまったが、我に返って小日向の声に緊張が滲んでいる事に気が付いた。

いつも男性の前では可愛らしく振る舞っている小日向が、素を晒して怒りを表しているのだと言う事に思い当たり、七海は慌てた。


「こ、小日向さん!あの、立川さんは転びそうになった所を助けてくれて……」

「に、してもこんな言い方無いですよね。妊婦さんが妊娠前と同じように働けるわけないじゃないですか。それを『仕事を辞めろ』なんてヒドイですよ」


振り返った小日向の目が血走っている。七海はそんな場合じゃないのに『小日向さんもちょっと怖い』などと失礼な事を考えてしまった。申し訳ないからそんな事は絶対に口に出来ないが。そして男受けを至上命題と考えている小日向に、それを破らせてしまった事を非常に申し訳なく感じてしまう。同時に彼女の優しさにも感動して―――七海の心の内は色々な感情でごちゃ混ぜになってしまった。




「―――本当に仕事を辞めろとは言っていない。例え話だ」




すると落ち着いた声音を取り戻した立川が、表情を緩めて否定した。


「え、でも」


戸惑う小日向に向かって、立川は僅かに微笑んだ。いつも彼が他人に対して見せている、あの余裕のある魅力的な笑顔とまでは行かないが、微笑まなければ冷たく見える一重の瞳は、僅かに緩んだだけでも相手をホッとさせる威力があった。


立川は七海に向き直って、頭を下げた。


「そう受け取ったなら―――すまない」


七海は自分に非があると思っていたので、恐縮して速攻でペコリと頭を下げ返す。


「いえ、悪いのは私ですし……」


立川は居住まいを正して、首を振った。それから静かに語り始める。


「俺の姉が仕事人間でね。それで妊娠中無理をして切迫流産になってしまった。結局それを後悔して、意地で続けていた仕事自体も辞めてしまったから―――江島さんがどう考えているか分からないが、無理しないで周りを頼るべきだと言いたかったんだ。出産後辞めるにしても、今母体や胎児に何かあったら取返しが付かないし、続けるにしろ気を遣って無理をする性格なら……後々続かなくなる」

「あ……」


なるほど、と腑に落ちた。

いつもスマートに女性に対応する立川が怒っているように見えたのは、真剣だったからだ。身内の不幸がそれだけ身に染みている、と言う事なのだろう。


「あの、お気遣いいただき有難うございます。私が軽率でした。今は無理しないで、出来る事をやらせていただきます」

「いや、俺も悪かったよ。個人的に気になってしまったから、表現がキツくなってしまった」


ふわりと微笑まれ、くすぐったくなる。しかし直ぐに立川は表情を改めて、真面目な顔になった。


「けど、上の世代のおじさん達には結構本気でそう言うヤツもいるかもな。自分達の時代では専業主婦が当たり前だって、嫌味を言うヤツもいるかもしれない。―――江島さんは仕事は続けるつもりなの?」

「あ、はい。続けようかと……思ってます」

「なら、あれくらいで怯んだら駄目だ。怯んだ態度だけ見せるならまだいいが、いちいち本気で気にしてたら持たないぞ―――あ、これは姉の受け売りなんだけど」


少し恥ずかしそうに見えるのは気のせいじゃ無いかもしれない、と七海は思った。クスリと笑って思わず本音が口を吐く。


「お姉さんっ子、なんですね」

「いや、十歳上だから頭が上がらないだけ―――って、これ内緒な。俺、シスコンキャラじゃないから。普段後輩に大きな顔しているのに、姉に頭が上がらないなんて知られたら示しが付かない」


はにかむように笑う笑顔。珍しい物を見てしまった、と七海は思う。立川は七海にとって理解出来ない所が多すぎて、今まで少し怖いイメージがあった。だけど彼には家族思いの優しい一面もあるのだ。


つくづく自分は人を見抜く目を持っていないなぁ……と七海は反省する。いつか黛に『まあ、でもソイツそんなに悪い奴じゃないかもよ』と言われた事をまた思い出した。

立川は自分の理解の範疇には収まらない人物だけれども―――少なくとも、悪い人ではない。いや、かなり良い人かもしれない。


「立川さんって、良い人ですよね……」


すると驚いたように眉を上げた立川が―――ふっと目元を緩めてニヤリと嗤った。


「どう?やっぱ付き合いたくなった?」

「なっ……」


絶句する七海を見つめる瞳が、面白そうにワクワクしている。




「……なりませんっ!」




反射的に強く返してしまい、七海は慌ててしまう。親切に助けて貰った相手に、怒鳴ってしまったのが申し訳なくなったのだ。


「そっか、残念。……じゃ、もう大荷物抱えるなんて馬鹿な真似、するんじゃないよ」

「あっ、はい。有難うございます」


立川は笑いながら目当てのファイルに手を伸ばした。


「そっちの子も―――吃驚させてゴメンね。江島さんの事、よろしくな」

「―――は……はい!」


それまでずっと黙り込んでいた小日向が、慌てて大きく頷いた。あまりにも力強く頷いた所為か、頬が真っ赤になっている。七海はまたしても申し訳なくなった。きっと七海以上に彼女は、立川の意図を誤解して突っかかってしまった事をいたたまれなく思っていたに違いないと。


ガッチリした大きな背中が扉の向こうに消えた後、フーッと詰めていた息を吐いて七海は小日向を振り返った。するとボンヤリと扉を見つめたまま、ウルウルと瞳を潤ませている可愛らしい顔が目に入る。


七海は思った。体格が良く眼光の鋭い立川に立ち向かうのは、小日向にとってはかなり怖い事だったのかもしれない、と。いつも強気でビシバシ持論を述べる彼女は、見た目の可憐さに比べて強いイメージがあった。その通り強い女性だったとしても―――年上の営業課のエースの迫力に、涙目になってしまっても仕方が無い。


「ゴメンね……小日向さん。巻き込んじゃって」

「いえ……」

「私、考えナシで無理してゴメン。それに立川さんも悪気は無かったみたいだから……」

「―――惚れました」

「え?」


単純に聞き取れず、七海は聞き返した。

すると小日向は七海の両手を掴み、グッと力を込めた。


「カッコイイです、立川さん。営業課の人気ナンバーワンなら、当然遊び人だと判断してターゲットから除外していたんですが……落としたくなりました」


冗談か本気か分からないような捨て台詞を残した立川の、何が小日向の琴線に触れたのか分からないが―――どうやら、彼女が黙り込んでいたのはさきほどの立川に見入っていたかららしい。鼻息荒く決意を述べる小日向を見て……七海は言葉に迷う。




「あ、うん……そっか。えーと」




そして取りあえず、こう言った。




「が、頑張って」

「はい!頑張ります!」




どのあたりが小日向のツボに入ったのか、そしてどのように彼女が立川を落とそうと考えているのか―――恋愛に貪欲になった経験のない七海には皆目見当がつかなかった。が、小日向が頑張りたいと言うなら、なるだけ彼女の望むように事が運んで欲しい……と、その勢いに押されつつも可愛い後輩の為に彼女は願うばかりであった。





久し振りに登場した立川さんですが、何故か小日向ちゃんにロックオンされてしまいました。


お読みいただき、誠に有難うございました。

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