嘘
嘘つきはこわい思いをする。
古詰くんは正直者すぎるきらいがある。冷たいものが肌をつきさす頃、君は僕にそう言った。西洋風の建物に囲まれた中庭で君は、ちらちらと僕の方に目を向ける。
「そうなのか。僕には分からない。僕は三十二年間自分のことを考えたことはない」
淡々とした言葉に、君の顔は苦々しげに歪んだ。
「じゃあ、自覚してみたら?」
君は僕の右手を指差し、片眉を吊り上げる。手に目を向け、何も言わないでいると君が言葉を次いだ。
「もう少し隠してくれればいいのに」
むしろ隠すものではないの? 思わず目を向けた君は、君の唇はみごとなへの字に曲げられていた。僕はそれを焦燥のために見なかったことにして、再び目線を右手に戻す。口先だけでごめんねと言う。言いながら右手に握られた手袋を左手、右手、とはめた。いまだ何事かをぶつぶつと呟いている君を尻目に、僕は後ろのベンチに立てかけてあった手斧を持つ。僕を責め立てているのか、手首だけが重みを一身に受ける。鈍く光る刃先を見つめ、柄へ、腕へ、と目をやったところでその腕をだらんとおろした。顔をあげると、目の前にある石造りの建物がこちらを見ていた。
「そう怒るなよ」
僕は建物をまっすぐに見つめ、困った顔をする。僕はなにものにも嫌われてばかりだ。しかしそれを無視して君を振り返った。君はいまだに水のようにしゃべり続けていたけれど、それは邪魔なので僕はその口に手で蓋をして奔流を止めた。その行為にふごふご言って抗議をする君が僕の右手にある手斧を見てすぐに黙る判断をする。僕は別な仕事をしなければならない蓋をはずした。蓋だった左手が後ろのベンチに置かれた箱からなにかを取り出す。君にだいすきな気持ちを伝えるために。
準備は万端、思って、右手の手斧を肩に担ぐようにぐっと振り上げる。途端に君の目尻からふるふると。そんなに嬉しいのだろうか。しかし、手斧の振り下ろし始め、君の目の中にはなぜか、もやがかかっていることに気が付いた。君のゆらゆら揺れる声に混じって小さなつぶやきが聞こえた。
「正直者はきらいだわ」
その意味を考える暇もなく一気に速度を増していった手斧が、空気のうねりに牙を立てながら君へ近づいていく。刃先が柔らかいそのミをえぐる。手首に少しの抵抗を感じる、と思った時には、ミから様々なものを飛び散らしていた。右から左へ断ち切った後に、上の方が苔むした煉瓦の道に音を立てて落ちた。
「僕のだいすきなユリエ、見てよ」
僕は口元に飛び散った生クリームを舌で舐める。
左手の上、真横に切断されたホールケーキの下の方を挟んで、向かい側にいる君に話しかけた。
「サプライズだ」
君の驚いている顔が嬉しくて、つい顔がほころんだ。……それが悪かったんだろうか。君は呆けていた顔を急に渋い顔にし、口をきゅっと結ぶと、私を殺したかったのではないのか、一体ケーキはどこから出てきたのか、なぜケーキを切るのに手斧を使ったのか、たくさんの尖った言葉たちが、君の口の中から矢継ぎ早に飛んでくる。どれも真正面から飛んでくるゆえに立っていられなくなった僕は、後ろのベンチにへたり込んだ。持っていた生クリームまみれの手斧の柄が、ベンチに座ったと同時にがこん、と音を立ててぶつかる。手首にじんじんとした痛みが遅れてやってくる。それと一緒にベンチに置いたままだったホールケーキの外箱が、僕のお尻で大きな音をたててつぶれた。その音に驚いた君を見て、左手に持ったままの下の方だけが残ったケーキを見て、はっと気が付く。僕は手斧から手を離し、ケーキの真ん中に埋め込まれた、指輪ケースの下部だけが残ったシロモノから小さな指輪を取り出した。
「僕は……正直者だから? 嘘をつくことが出来ないんだよ」
用済みのケーキを地面に落とし、愛しさを胸いっぱいにつまらせ、柔らかくて握りつぶしてしまいそうな君の左手を取る。その薬指に指輪をはめる。その間僕はユリエの指しか見ていなかった。
「結婚してくれる? ユリエ」
「殺してやる」
僕がそう言ったのは昨日だった。ソファでマグカップ片手にくつろいでいたユリエは、怪訝な顔をして僕を振り返った。
「その言葉の意味、きちんと分かってる?」
僕は少し考えてから首を縦に振り、君の目の前にいくつかの紙を突きつけた。その紙にはユリエが雇っていた探偵のこと、その探偵が調査したことが書かれていた。
「これ、僕を疑ってるってこと?」
許さない。僕はそんな気持ちを込めてユリエを見返した。彼女もまたそんな目をしていたが、その目には後ろめたさも含まれているようだった。
「私は、古詰くんを心から愛したい」
そのためには、噂は嘘だと分からないといけないの。そう言った君の目は疑わしかった。僕はしばらくその目を見て、一枚の紙を取り出して、口を開く。
「明日、この地図にある場所に来てほしい」
古詰くんに呼び出された場所は教会だった。彼は右手に黒い革手袋を持っていて、後ろのベンチには手斧が置かれていた。私は殺されるのだと思った。あの噂は嘘じゃなかった。脳裏に思い浮かぶ連続殺人事件の新聞記事、報道番組、インターネットニュース。
最近有名な事件。毎日のように取り上げていた。婚約者を殺す男の事件。被疑者は古嶋 優紀。三十四歳。前科はなく、近所からは穏やかな性格で知られていた。最初の被害者は彼の幼馴染の女性。きつく締めあげられた彼女の首には人間の指による圧迫痕が残っていた。怨恨と思われた。しかし、その現場では不思議なものが見つかった。被害者と加害者が双方に書き終わっていながら、破かれた婚姻届。
その数年後、被害者は婚約者の女性、圧迫痕、破かれた婚姻届、と同じような状況で殺人事件が起こる。諸々の類似点から古嶋の犯行と疑われた。その後、数件似た殺人事件が起こり、ほどなくして警察が連続殺人事件として捜査本部を立てる。以後、いまだ犯人は検挙されていない。
深くまで潜り込んでいた考えの外で、彼はもう大きな身体を半身にして手斧を振りかざしていた。
死ぬんだ。
疑いがあったためか、あきらめにも似た言葉が思い浮かんだ。彼が持つ手斧の刃先が薄日に照らされてきらりと光る。それなのに、あとからあとから、どうにかできたんじゃないか。私に向かって描かれる鈍色の弧線。もしかしたら打つ手があったかもしれない。目を閉じる。
そんな思いが溢れてくる。
しかし彼は私を殺すどころか、結婚してください、そう言った。
古詰くんは、正直者だった。むしろ、私は私に嘘つきなんじゃないかと疑った。
私は古詰くんと添おうと思えるのか。
今年もあの時と変わらない冷たい冬が来た。薄いガラス戸の外では曇天から雪が舞っている。縁側で、私はプロポーズの時を思い出して目を細めた。厚みのある半纏にまどろみを覚えながら、隣で籐の椅子に座った古詰くんを見上げた。彼はぼんやりと雪を見つめながら私にこんなことを言いもらした。
「僕のだいすきなユリエ」
君はなんで僕を、なんで、
ぽつぽつと、かすれていた古詰くんの声は次第に力強いものとなっていく。彼は私の方へゆっくりと顔を向けた。
僕はわからない。僕は僕といない君なんかいらない。
古詰くんの目の奥に鋭く強い光が湛えてられている。彼はその目でユリエをとらえていた。
それをまっすぐに見ていた私は、そうしている彼のシワをつたっていく涙を睨んだ。その間にもユリエの幻影を見ている彼は私の方へ手を伸ばす。籐の椅子が重さに耐えきれず傾いてゆく。鈍い音を立てて籐の椅子に座っていた古詰くんが私の近くに倒れた。とうとうこの時が来てしまった。
「許さないよ、ユリエ」
起き上がった顔に憎々しげな様子を見せ、私の首を骨張った両手でしめつけている正直者の男は、嘘つきの私を見てくれなかった。ああ、愛したかった。
おしまい
正直者はこわい。