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A Drop of Blood  作者: ベルン
第一章 殻の中で
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008 本当は

お待たせしました。

 



 寒い。

 寒くて寒くて、どうやって身体を捩れば熱が生まれるのか、わからない。いくら身体を地面に擦りつけても温まらない。芯から凍えるほど寒いのに、汗はどんどん出てくる。体中がびっしょりと濡れた感じがして気持ち悪い。

 息も満足にできない。苦しくて、苦しい。

 はあ、はあ。

 自分の息の音が煩わしくて嫌になる。

「苦しい? もう少しだけ我慢して」

 聞こえてくる声には、労りが滲んでいる気がする。耳に馴染むその心地良さに、わけもわからずうんうんと頷く。すると、額にはりついていた煩わしい前髪がそっと払われた。

 誰だろう? わたしの世話をしてくれる人はどこにもいないのに。はっきりと形を成していない疑問がアネットの心を占めつつあったが、頭の中を転がる火の玉のせいであっという間に霧散した。アネットは頭の痛みに目をぎゅっと瞑った。この際誰でもいい。とにかくこの苦しみからわたしを解き放ってくれればいい。

 彼女の身に起きた出来事が走馬灯のごとく駆け抜けていった。母の失踪、父との距離、継母の虐待、妹との不和、弟の冷笑。

 つらくて自然と眉が寄った。優しげな手は頭を撫でてくれる。宥めるようなその手つきに、涙がこみ上げてきた。

 ぽろりと、頬を伝った。

「うっ、うっ……どうして?」

「どうした?」

 少しの焦りが含まれている声には聞き覚えがあるのだが、誰だったのかはじき出せなくてもどかしい。それでもいい。誰でもいい。自分の看病をしてくれるのだったら、もうそれだけで十分いい人だ。

 温かみのある手はアネットの目元を拭い、そのまま頬を撫でていった。額にも何度か触れられたのは、熱を測ってくれたのだろうか。

 優しい手。自分には縁遠かった、でも無意識に焦がれていたもの。それをくれたこの人に、感謝した。そして甘えたいと思ってしまった。幼い自分自身が、ちょっぴり哀れだった。

 アネットはその手に擦り寄った。目を開けて誰だか確認しないといけないが、まぶたが重すぎてそれは叶わない。

 聞いてほしかった。宥めてほしかった。励ましてほしかった。慰めてほしかった。

 ––––––愛して、ほしかった。

「お母さま、どうしてアネットを置いていったの?」

「………………」

「お父さまは新しいお母さま……お母さま? ああ、違うの。奥さまなの。奥さまといるの」

 言葉もちぐはぐで熱に浮かれた戯言ばかりだった。相手は何も言わないし、手も止まってしまったが、アネットはもう何かを敏捷に察するには疲弊しすぎていた。

「妹も弟もいるんだよ。お姉さんになったんだよ」

 アネットは息が苦しいのか、そのままふう、はあ、と言いながら身を捩った。

「でも、みんな、アネットが嫌いなんだ…………」

 閉じた目からはぽろぽろと新たな涙が零れ落ちた。

 母とは到底思えない、男の声が彼女の耳を打った。

「アネット。ごめん。泣かないで」

「お母さまはどこ?」

「お母さまはここにはいない」

 おかあさまは、いない。

 わかっていたはずの事実が、改めて胸を締め付ける。わたしを愛してくれた唯一の人はもういないんだ。

 わたし一人だけなんだ。

「お母さまはどこなの? おかあさまぁ……」

 姿なき声と素敵な手つきはそこで途切れた。

 アネットはそれらを逃すまいと必死に手を伸ばした。その甲斐あってか望んでいた手がそっと握り返してきたが、すぐに下ろされた。

 それでも依然として握られたままの手に、その温もりに安堵した。

 アネットの意識は暗闇に転じた。


「アネット。俺はお前が嫌いなわけじゃないよ」

 熱に浮かれて涙を零し、うわ言を続けた彼女は気力が尽きたのか、意識を失ったようだった。

 彼は彼女をじっと見つめた。その視線には普段からは想像もつかない温かみと労わりに満ちていた。

 先ほどまでの彼女の痛ましい姿は、人はあんなにも悲しく泣けるのだと、驚かせるのに十分だった。再度身を捩ってしまったために乱れた髪をそっと後ろにかきやり、水の満たされた器に布を浸した。その布でそのまま彼女の形の良い額、星空を閉じ込めたまぶた、すっきりとした鼻、赤く染まった頬、なよやかな肩へと次々に拭っていく。

 軍で習った応急処置の仕方があるにはあるが、それを彼女に施すには彼女に対する礼儀と自分の忍耐を失してしまうと思い、実践する気にはなれない。

 クレアはこんこんと眠りについたアネットを再度見つめ、その場に居座り続けたがる視線を無理やりは剥がした。彼にしては大きめの溜息を吐くと、水差しの水を取り替えに部屋を出た。


 フランシスとの朝のやり取り以来神経質になっていたクレアは、しかし家のために感情を抑えるしかなかった。妹は彼を好いている。彼も妹を嫌ってはいないようだ。初めのうちはなぜかフランシスを好きになれなかった。好青年で礼儀正しく将来有望な彼を何故好ましく思えないのか自分でも疑問に思った程である。それでも、自分のこの気持ちには特に理由もない。確かに昔から何かしらの勘や予感はよく当たっていた。が、こんなことではいけない、ただの気のせいだと一笑に付し、両家の関係保全に尽力しようと心に決めていた。

 しかし不運なことに、クレアが人知れず抱いた嫌な予感は当たっていた。それも、彼の逆鱗に触れるような出来事だった。

 フランシスは最初から本能が受け付けていなかったのである。クレアにとって天敵にも等しかった。

 クレアは自身の寝台に寝ている存在を思い出した。

 彼女が暁光に起きて、自分の心を解き放っているのを知っている。その姿を知っているのは自分だけだった。今までもこれからも、そうだと思って疑わなかった。

 彼女が暁に照らされ、内側から漲る生気を世界に解き放つあの時が、最も輝かしく眩しいことを知っている。

 それを、あの男––––––フランシスが見つけてしまった。早朝、彼がアネットを引き止めて必死に何事かを話すところを見た瞬間、クレアは全身の血液が沸騰する思いをした。手に握ったカーテンを引き裂きそうなこの感情は何なのか、定義づけることはそう難しくなかった。しかし一方で、はっきりとその感情––––––アネットに対して抱いている仄暗い想いを認めてしまうのも恐い。

 そんな中でも確かなのは、クレアは自分だけの宝物を誰かに奪い取られたような気がしてならなかったということだ。

 元々、物欲の深い方ではないと自他共に公認している。だから彼女に対して抱いている、この子供じみた独占欲は異常だ。自身の幼稚さに何度苦笑し自嘲してきたことか。

 それでも止められなかった。無理だった。目を開けば彼女の姿が見え、耳を開けば彼女の声が聞こえ、口を開けば彼女の名前が呟かれ、全身の感覚は彼女を求めて彷徨った。

 特に、三年前のあの日以来それは顕著になった。

 彼が彼女を本格的に意識し、欲を現し始めた。

 一方で、アネットがクレアを避けるようになったのもあの日を前後した時期からだった。もしかしたら、彼女ももう既に知っているのかもしれなかった。

 彼らの異常な関係性を。

(でも、そうだとしたら……アネット、お前を許せる自信がない。お前に許される自信もない)

 彼女に拒まれる事実。彼女を痛めつける現実。それらは彼女を彼から切り離してしまう。

 時が来るまで、彼女は耐えねばならない。

(結局、アネットも、コンスタンスも、俺も…………同じようなものなんだ)

 彼女が目を覚めれば、彼は憎き異母弟に戻る。


「ん……」

 目が覚めると、そこは見慣れた天井だったが、横になって見上げるべき天井ではなかった。

(なっ、ここは、どこだっけ。あ! あああ!!)

「姉さん。いつまで人の寝台占領する気?」

 首を巡らせば、近くのソファに足を組んで座っているクレアがこちらを見据えていた。その氷の双眸は鋭さを極めている。

「ク、クレア。ご、ごめんなさい。本当に、わたし掃除をしていて、ちょっと眠くて居眠りを……。すぐに掃除して出て行くから!」

(あ、でも今って何時?)

「馬鹿だね。今はもう深夜だよ。どれだけ寝たと思ってるの。静かにして」

 彼が果たして読心術を心得ているのかは不明だ。が、この弟ならそれもありえると納得しかける。どうしようどうしようと悩んでいたアネットはふと、薄々と感じる違和感に、そんなわけはないと否定しつつも聞かずにいられなかった。

 身体はわりとすっきりしていて、重たさが抜け落ちていた。

「あの、クレア……、もしかして、わたしの看病をしてくれた?」

 彼は無言で睨んできた。アネットは心底焦った。ばかなわたし。なんでそんなことわざわざ聞くの。

(でも、きちんと相手を認識してお礼を言いたいし……)

「身体がだいぶ楽なのよ。クレアがやってくれたなら、本当にありがとう。助かりました」

 彼女が微笑みかけると、彼はふいっと目を逸らした。アネットは少しだけ胸に痛みを覚えた。

 彼はぶっきらぼうに尋ねた。

「この間より軽くなったよね。ちゃんと食べてる?」

「あ、うん。えっと、食べてます」

 戸惑いがちに答えると、彼はこちらを一瞥する。

「食べてるのにそれって燃費悪いね。食料の無駄だな」

「………」

 食事をしょっちゅう抜かれてしまうなんて、どうして言えるだろうか。忘れかけていた惨めさが一気に沸きかえり、アネットは小さな肩をさらに窄ませた。彼の前では惨めで卑屈な自分を見せたくないのに、ボロボロと崩れていく。

「本当だよね、わたしって要領悪くて、あなたにも迷惑ばかりかけて……本当にごめんね」

「苛々する。謝らないで」

 クレアが舌打ちをすると、アネットはびくりと肩を震わせた。彼はそんな彼女を目に留め、苛立たしげに腰を上げると、寝台のほうに近づいてきた。

「姉さん」

 アネットは彼から目を離せなかった。彼は彼女の近くに立った。

 そういえば、彼だけがアネットを姉さんと呼び、曲がりなりにも家族扱いしてくれる。

 冷淡そうだが間一髪のところで助けてくれる。馬鹿だの何だの言っても、実質的な被害は加えてこない。それによくよく考えてみれば、彼がやたらつらく当たるときは、決まって人前だった気がした。

 現に彼はアネットの世話を焼いてくれて、額にはまだ冷たい手巾が乗せられていた。彼は苛立たしげにアネットを見ている。でもそれは、嫌悪の視線とはいえないのかもしれない。

 アネットが、彼の誠意を見ようとしなかっただけなのかもしれない。自分の心に、後ろめたい影があるから。彼に申し訳なくて、姉として扱ってくれる弟に合わせる顔がなくて。

「姉さん、聞いてる?」

「え? あ、えっと、ごめんなさい」

「フランシスとどういう関係?」

 彼の目は氷のはずなのに、なぜ焔が揺らめいているのか。

「な、なにも」

 クレアはカッと目を開いた。

「嘘吐くな!」

 美しい分、怒るとその威力も倍増する。

「クレア、どうしたの。信じて! 本当に、何も、わたし何も」

 アネットが激しく首を振って否定する。しかし衰弱しきった身体は悲鳴を上げた。ふらりと揺らいだアネットを両手で支え、クレアが顔を近づけた。

「––––––悪かった」

 壊れ物を扱うかのようにそっと横たえられたアネットはそれでも、恐れ慄く。フランシスとの関係を否定することに頭を占領されていた。自分はなぜ、ここまで必死になっているのだろう。

「コンスタンスの婚約者の方でしょう。本当に何でもないわ。朝、少し話しただけよ」

「何を?」

「それは……」

 クレアが、片目を眇めた。

「またあの時みたいに、そういうことするの?」

 あの時。

 アネットは固まった。

 よりにもよって、クレアに。彼にだけは、言われたくなかったのに。

(あなたが、それを言うの……?)

 アネットの両目にぶわっと涙がこみ上げた。抑制しきれない感情の波が、防波堤を破り彼の元へと突進していった。

「酷いわ! あれはわたしのせいじゃないのよ!」

「黙れ! もういい。もう姉さんをここに残さない」

「望むところよ! わたしだって、こんなところいたくていたわけじゃない! あなたたちなんて皆大嫌い!」

 アネットはありったけの力を込めて叫んだが、クレアは動揺の欠片も見せなかった。

「大嫌いなの!」

 それどころか、彼はくつくつと喉を鳴らして嗤った。蝋燭の灯りで生まれた陰影が、彼の美しい顔をより一層引き立てる。

「嫌いで結構。でも残念だな。生憎、姉さんは一番嫌いな奴と一緒に過ごすことになるよ」

「!」

「ずっとね」

(どういうこと?)

 彼はアネットの方に身を乗り出して囁いた。

「近日中に首都に戻る。それまでに荷造りしておいて」

 重い石が、胸に落ちてきた気がした。

 アネットの目は驚愕に極限まで開かれる。震える唇を叱咤して噛み、驚きや恐れ、うろたえを見せまいと深呼吸をした。それでも掠れた反問の声にはそれらが否応なく滲み出た。

「どうして……?」

「わざわざ聞く? 姉さんを連れて戻るからだよ。これから俺の専属使用人として働いてもらう。給料なら上げるよ」

「嫌よ! そんなのこっちから願い下げだわ」

「そう」

「そういう風に言ったら、ありがたがるとでも思った? そんなに人のことをばかにして、何が楽しいの? あなたたちって、どうして揃いも揃って……人をどこまで惨めにしたら、気が済むわけ!?」

「父上がどうなっても良いの?」

「なっ! あ、あなたのお父さまでもあるのよ。どうしてそんなことが言えるの?」

「俺の父、ね」

 彼はフッと嗤うと、アネットの方に乗り出していた身体に反動をつけて一気に立ち上がった。そのまま恐るべき速度で彼女から離れていった。

「クレア!」

 彼はアネットに向けていた背中を一気に翻し、彼女に向き直った。

 ゆったりとした仕草に不安と焦りがこみ上げてくるが、察せられたくない。アネットは唇をぎゅっと噛んだ。


 次の彼の言葉は、彼女を壊すのに十分な爆弾だった。


「姉さん、茶番は終わりにしないか。俺が分かっていないとでも思った?」


 彼は。

 ––––––––––––知っていた。



 

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