007 追憶
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フランシスは目の前の存在を信じられなかった。
あんなに、あんなにも夢に描いては溜息の数だけ遠ざかっていると感じた女性がこちらを凝視している。
自分を認識してくれている。
「見つけた……」
思わずそう呟くも、また逃げられたらたまったものではない。案の定、彼女は早速立ち去ろうと背を向けかけていた。だめだ、彼女が消えていってしまう。
「待って! 待ってくれ!」
彼女は無言で足を踏み出した。フランシスは急いで追いかけて彼女の細い肩を掴んだ。手から伝わる感触は本物だった。目が眩むような錯覚を覚えた。
「失礼。以前、お会いしたことがありますか?」
「いいえ」
なるべく怖がらせることのないように細心の注意を払ったつもりだが、期待していたほどの効果はなかったらしい。彼女は間髪入れずに答えるも、その声は震えている。
「ここの近くにあるハワードの別荘にいらっしゃったことは」
「ありません」
「嘘でしょう」
苦笑した。彼女に会えた喜びと驚きの反面、彼女に拒まれているという現実がつらかった。
彼女は自身があまりにも早い朝に男に声をかけられたという異常な状態に驚き、とにかく彼から逃れることを優先していたのだった。
(どうしよう………。このままじゃ離してもらえそうにないわ)
アネットは必死になって言い募る。根気よく説得しなければならない。しかも相手は余程そのことを明瞭に憶えているようだ。以前閉じ込められた時、屋敷を抜け出してフランシスと遭遇した。あの時も捕えられそうになり、振り返りもせず懸命に走り逃げた。
目を合わせないようにしながら、彼女はあちこちに足を運ぶ。彼はそのたびごとについてきた。
本当に申し訳なかった。彼の誠実そうなはしばみ色の瞳からは冷淡や皮肉、揶揄や軽蔑は全く感じられない。きっとアネットに話しかけるのも純粋な好意と疑問からであるはず。それを無視したくはなかったが、素直に応じるにはアネットの境遇があまりにも酷であった。自分の惨めさを呪った。
(この人はコンスタンスの婚約者になるお方……わたしが関わったら、どんな火の粉が飛んでくるかわからない)
きっと自分は折檻を受けるだろう。それならこの方とはこの限りのほうが良い。
「人違いをなさっているようです。貴方様のお目にかかったことはございません」
「いえ、確かに貴女を見かけたことがありますよ」
それに、とフランシスは続ける。何とかして彼女に認めさせたかった。どう見ても彼女だ。忘れられるわけがない。
「初めて会ったにしては私から逃れようと必死になっている気がしますが」
亜麻色の髪に隠れた顔は、はっとしたように固まった気がした。
「なぜそこまでして怯えていらしているのか解せませんが、私は不審な者ではありませんよ。こちらを向いていただけますか?」
「……………」
アネットは恐る恐る大きな両目を、彼のほうに向けた。
「やっぱり。晴れた日の青空のような目だ。いくら澱んだ日でもここだけは晴れているんでしょうね。私を信じてくれてありがとう」
フランシスは嬉しくなって、つい冗談を言わずにはいられなかった。
「最も、自分のことを不審者だと素直に認める輩もいないでしょうがね」
アネットは目を瞠った。
ははは、と屈託なく笑う彼の姿に、荒んで凍りついた心の傷が解けていくような気がした。
しばらくそのまま二人して突っ立っていたが、まもなく、頼りなげに細い声がフランシスの耳に届いた。
「すみません……。他人とはあまり関わり合う機会がないのです。お気を害されたのなら、どうかお許しくださいませ」
「全然。それなりの事情があるんだと察します」
彼は彼女の端整な横顔からその気持ちを窺う。どんな心境の変化があったのだろうか。先とは打って変わって、彼女は困ったように形の良い眉尻を下げ、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべた。それから彼にしっかりと向き合い、丁寧に頭を下げた。
「……わたしはあなたさまとは初めてお会いするのです。お役に立てず申し訳ありません」
彼女は儚げに笑った。フランシスは心臓を鷲掴みされたような気分を味わった。
(なぜ、ここまでして逃げようとするんだ。逃したくない)
「解りました。私と貴女はここで初めて会います」
彼は突然そんなことを言い出し、手を差し伸べた。
「私はフランシス。フランシス・ハワードと言います。お嬢さん、仲良くしていただけませんか?」
アネットは顔を真っ赤に染めた。今までの人生で男性といえば父とクレア、関わることもあまりない男の使用人と、この間会ったベルンハルトくらいだ。コンスタンスのように社交界で出会いの機会に恵まれているわけでもなければ、他の女の使用人たちのように気軽に男の使用人と話したりすることもないからだ。
アネットは申し訳ない気持ちで頭を軽く下げた。
「なりません。私のような下賎の者にはお構いなさらず、どうか」
そして屋敷を振り向く。じきに他の人も起きてくるはずだ。
「大切なお客さまが風邪を召されたら大変ですので、どうかお引き取り願えますでしょうか。もうすぐ朝食の時間ですし」
「しかし」
「アネット! あんた何をしているの!」
(ポリーンだわ)
背を向けようとする彼女の手を咄嗟に掴んだフランシスは、真摯に言い募った。
「貴女は下賎なものではない。私は貴女ほど気高い人を知らない」
「失礼します」
アネットは手を引き抜き、急いで声の方向へと走って行った。
(アネット……アネットと言うのか)
フランシスは食堂に向かっていた。
「綺麗だったな……」
彼女はどう考えてもあの妖精とそっくりだ。薄汚れた服を纏い、目もあまり合わせてくれなかったが間違いない。何故あんなに自分を避けるのだろう。ずっと同じ問いを投げても答えが見つかる筈がない。彼はハア、と深い溜息を吐いた。
彼女は使用人の格好をしていたが、ここで働いているのだろうか。自分を下賎の者と称する彼女は、しかしながらそうは見えなかった。あの気品と雰囲気は生まれながらの貴族ならではの代物だ。
コツコツ、靴の音が辺りに響く。音のした方に視線を向けると、スラリと背の高い美貌の青年が立っていた。眩いばかりの朝日を全身に受けて輝きを放つ彼は、まるで天より舞い降りた御使のような神々しさを醸し出していた。それでいて、どこか冷淡で他人を皮肉るような雰囲気。
彼の氷の瞳は、きっと映したいもの以外の全てを排除しにかかるだろう。成る程噂通りである。彼は、恐らく……
「貴方は……」
「ノーフォーク公爵の次男、フランシス卿ですね? お初にお目に掛かります」
凛とした声と凄艶な微笑、涼やかな出で立ちは如何なる女性でもときめくものだったが、氷柱のように突き刺さる鋭さは並大抵のものではない。
フランシスとて伊達に筆頭貴族の子息をやっているわけではなかった。フランシスは目の前に佇む、冷笑の貴公子に向かって朗らかな表情を見せた。
「その通りです。さすがウェストモーランド伯爵。優秀で美貌の後継を育てておられると聞いたが、やはり実のようで。貴方は、クレア卿であらせられるか」
「はい。今から朝食に向かわれると窺えますが、ご一緒に如何ですか」
「是非とも」
これは腹の探り合いだ。本能的に感じる警戒。この目前の相手は敵視の対象だ––––––。
二人の美青年は不敵の笑みを閃かせた。
食堂に着くと、いつもは遅いはずのコンスタンスが既に着席しており、卓上の花を愛でるほどの余裕を見せつけていた。クレアは込み上げてくる笑いを噛み殺すのに精一杯だった。
(何をやっているんだこいつは)
朝に弱く、いつも寝坊をして侍女を困らせているのはよく知っている。やはり人は恋をすると変わるらしい。
彼女のプラチナブロンドは兄のそれと同じ光を発していた。だが女性らしく花飾りやリボンをあしらったお陰で遥かに華があって、男女を問わず賞賛の的になるだろう。
社交界一の花と称されるコンスタンスの美しい両目はフランシスに向けられている。何が彼女をここまで動かしたのかは、言わずとも知れている。
「コンスタンス、今日は珍しく早いな」
「嫌ですわ、お兄さま。いつものことなのに何を急に」
ただ、当のフランシスだけは例外だったようである。彼はコンスタンスに礼儀上丁寧な挨拶をしたが、それっきり彼女にただの一言も自分から掛けることはなく、所謂熱い視線を向ける事もなかった。
コンスタンスは最初、フランシスに話しかけられた時に備えていろいろ気の利いた答えなどを取り揃えておいたが、何せ一向に当人はその気配を見せない。業を煮やした彼女があれやこれやと話題を投げかけると愛想よく笑って真面目な受け答えをしてくれたが、それまでだった。
何かを考え込んでいるようにも見える。一体何が彼をしてそうせしめているのだろう。当代一の美女を目の前にしても、何の感慨もないだなんて。
クレアもクレアだ。
(面白そうに意地悪く笑っちゃって。何なら妹の恋の援護くらいしてくださっていいじゃないの)
十中八九、コンスタンスの猫かぶりが滑稽なのだろう。あの兄が思うことなんて知れている。
否、全くわからない。
この婚姻はウェストモーランド伯爵家にとって非常に有効なものとなるはずだ。なぜ兄は積極的に進めてくれないのだろう。確かに昨日からフランシスに接した母や自分とは気持ちも違うだろうし、男の血縁者ならではの牽制心なるものがあってもおかしくはないが、それでも相手は国の筆頭貴族だ。彼に躊躇する理由はない。
(それに……)
気のせいかもしれないが、フランシスと兄の間には先ほどから神経的な何かがあった。
一見、当たり障りのない会話をしているが、一種義務的な流れのものであり、真の親睦のためのものとは思えない。
そんな時、クレアはグラスを仰ぎ、一人で悶々としているコンスタンスの思考を止めた。
「––––––卿は、使用人との戯れがご趣味で?」
「!」
コンスタンスが驚愕に目を丸くしてフランシスを見ると、彼は少し瞠目していたが、やがてクレアを見据えた。
「戯れなど。どういう意味なのか」
「朝から外でよろしくなさっていたようで」
クレアが挑発的な台詞と共に凄艶な微笑を閃かせたが、その目は全く笑っていなかった。室内の温度が一気に降下した。普段は他にあまり興味のない兄が本気を出す時にこのような現象が起こることを妹のコンスタンスは何度か経験していた。
それは主に、ある共通のものが絡んだ時だった。
使用人。朝。外。戯れ。
兄の態度。
(また、また……あの女だわ)
コンスタンスは憤慨と憎悪がない交ぜになって体中を駆け巡るのを感じた。
憎い、憎い、憎い!!
フランシスは落ち着き払ってフォークとナイフを音もなく置いた。
「クレア卿の誤解です。趣味ですか。私は朝、外に出て散策するのが趣味です。道が判らないもので、折り良くすぐそこにいた使用人に道を尋ねただけですよ。戯れなど、論外」
「そうですか。道も判らぬまま、一人で他人の邸の庭園で散策をするものですか? 卿ほどの方なら、そのような非常識な事はなさらないと思いましたが」
「それは申し訳ない。が、私も人間だ。いつでも卿ほどの方と言われるほど気取った公爵家の次男坊ではない。それにご存知の通り、否応なしに今回の婚姻は貴殿のほうにより多くの利益をもたらすもの。権力にものを言わせるやり方は好かないが、必要以上に私の詮索をした上で疑いかかるのは辞めていただこうか」
クレアの目がより一層と剣呑となった。しかし、それも一瞬で冷笑に摩り替わった。
「失礼。入軍して外に出て間もないものですから、軍生活で身についた癖が直らないのですよ」
「卿ほどの洗練された方ならその癖が抜けるのもそう難しくないでしょう。誤解を解かれたのなら何よりです」
「仰る通りに露骨な言い方をすれば、この婚姻はこちらがありがたく恩恵に与るものですから、逃すわけには参りません。兄としてはこの婚姻に賛成です。こんな兄ですが、妹を心配する心は誰よりも深いと自負しております。どうか妹を愛しんでやってください」
フランシスの顔が硬化したのをクレアは見逃さなかった。
「寂しがり屋ですから、自分だけを見つめてくれる殿方なら、懸命に尽くすでしょう」
「そうですね……」
「この婚姻、なるべく早く進めましょう。父は現在病床におりますので、兄の私が代わりを務めてまいります。宜しくお願いします」
クレアの余裕に満ちた冷笑に、フランシスは顔の筋肉が引きつっていくのを感じた。
まだ、知り合ったばかりなのだ。
しかし、もう引き返すことはできなかった。
彼女の儚い笑みが脳裏をよぎった。
アネットはクレアの自室にそっと入った。彼の室の掃除を言付かったのだが、彼のいるうちはそうする勇気があるわけない。彼の不在を待って最後に最後に回した大仕事だった。もうすぐ日が沈む、彼の帰宅前までには終わらせなければならない。
力なく壁に項垂れた。
「はあ……」
朝からこの方何も食べていない。固形物といえば昨日の夕食のスープに入っていた大根の欠片が全部だった。朝からフランシスに会って神経を使い、ポリーンにこき使われて体力を消尽し、コンスタンスの機嫌が悪かったので食事を抜かれた。しかし今日は食欲もなかったから不幸中の幸いだろうか。非常食にとっておいたベルンハルトのクッキーに手を出す気力もなかった。
(もう今日一日が早く終わってほしい)
何でもいいから横になって寝たかった。一日中体が重くてやっていけなかった。それでも誰が彼女の体調に気を使ってくれるだろうか。そんなこと元から期待もしていないし、とうの昔に諦めた。
(お父様の部屋のお花も替えたし…………今日は本当にこれをやったら終わりだから、踏ん張らなきゃ)
床を掃き、窓枠を拭く。浴室の方も拭いた。だがいつもより頭がぼうっとして仕事が全く捗らない。
そして挙句の果てには先ほどから薄々感じていた寒気が一気に強くなって彼女を襲った。
「だめ………本当に、これだけだから」
あまりのつらさに独り言がぽろりと口の外に出る。
体が急速に傾く。でも痛くない。
母が昔のように抱きとめてくれた。
––––––アネット。熱が出ているのはね、アネットの体が病気に勝とうと頑張っているからなのよ。
お母さま。
––––––だから、もうちょっとだからね。もう少しだけ辛抱よ。いい子ね、アネット。
頑張っているのに。こんなに頑張っているのに。あといくら辛抱すればいい?
お母さま、会いたい。何で、アネットを置いていったの?
––––––アネット。もう大丈夫だから。
もう我慢できないよ。痛い。痛い。助けて。
つらい。悲しい。
––––––アネット。
髪を撫でられる感覚とともに、彼女の意識は闇に落ちた。
誤字脱字、表現上おかしいと思われる点ありましたらご指摘くださると助かります。