006 幻影に泣く
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遂にこの日がやって来た。
ノーフォーク公爵ハワード家令息フランシスとウェストモーランド伯爵フェイン家令嬢コンスタンスとのお見合い日、朝から我が主を少しでもより美しくお披露目しなければと皆躍起になっていた。
「嫌よ! そんな年寄り臭いのなんか!」
「でも、これを着ろと奥さまの仰せです。ほら、品があって綺麗じゃございませんこと? お嬢さま、お逃げにならないでくださいまし。こちらへ」
「嫌ったら嫌なのよ!」
背後の扉の開け閉めされる音がする。直後、コンスタンスの美顔がさらに不快そうに歪められた。
アネットが暖炉の薪を取り替えるために入室したのだった。その左手には燃やされた炭や灰を回収するための塵取りを、右手にはそれらを掃くための小さな箒が握られている。今までその作業をしていたらしく、エプロンが煤で汚れていた。
アネットは部屋の者たちの視線の中、黙々と真っ直ぐ暖炉に向かう。暖炉の前で跪き、箒を掃いて灰を集め始めた。
コンスタンスは不機嫌な表情を直し、すぐ側に控えていた最側近の一人でお気に入りの侍女ポリーンに目配せをした。ポリーンは承知したとばかりにしっかりと頷き、勝ち誇った顔でアネットの方に歩み寄った。その静かな動きに、屈んで懸命に作業しているアネットは何も気づかない。
「あっ!」
次の瞬間、アネットは身体が均衡を崩して大きく傾いたことに気づいたが、時は既に遅かった。彼女は屈んでいた姿勢でそのまま炭と灰の山に顔を埋めてしまったのだ。
そこでやっと、アネットは自分が背中を蹴られたということを理解した。
彼女の顔中に灰が広がった。あまりにも突然のことだったので身構えができていなかった。目をぎゅっと瞑るが、既に目の中に灰が入ってしまったらしく、チカチカして痛い。鼻と口からも灰が入り込み激しく咽せた。初めは何ごとかといまいち状況を把握できていなかったが、周囲の密やかな笑いで全てを察した。
「げほっ、ゲホゲホ…!」
「くすくす……本当に惨めねえ」
「さようでございます」
未だに目を開けられない。アネットは形振り構わず四つん這いで床をさまよい出した。目を瞑ったままでドアまで向かうのは至難の業だ。しかも途中で侍女らがアネットのスカートの裾を踏むのでその困難さはさらに増している。
目の痛みとは違う涙が込み上げてくる。アネットはそれを気づかれたくなくて何度も何度も裾を引っ張り、やっとのことで地獄から必死に這い出た。
そのまま立ち上がって目も開けられず、経験上の記憶を頼りに壁を伝ってたどたどしく歩を進める。やがて、人目のつかない隅に来たようだった。彼女はがくりと膝から崩れ落ち、蹲った。
––––––わたしが……わたしが一体、何をしたっていうの? どうしてこんな目に合わなきゃいけないの?
拭っても拭っても溢れ出る涙に、彼女は狼狽えた。
涙のおかげか目を開けられるようにはなったが、それでもまた髪から目元まで灰が落ちてくるので油断はできない。彼女は知らず知らずのうちに目を腕で擦りあげそうになったので目を再度瞑った。途方に暮れる。洗面所はここから少し遠い。
しかも向かい側からカツカツと靴音が響いている。男性のものである。こちらに来るようだ。余裕と気品に満ち溢れ、しかし無駄がなく時計のように規則正しく刻まれるこの音は。
(クレア……)
弱り目に祟り目である。自ずから溜息が零れた。
カツ、カツ、カツ、カツ……。
(早く洗面所に行かなきゃ………ううん、とりあえずどこか角に隠れて、通り過ぎるのを待ったほうが……)
彼女は壁に手をついて立った。
カツ、カツ、カツ。
彼女の近くで靴音が止まった。隠れるのはもう適わない。彼女は動悸が激しくなるのを感じた。
(どうしよう。お願い……早く、早く通り過ぎて……)
自分自身が惨めで仕方ない。できれば早く逃げてしまいたかった。
彼女は灰と涙でベタベタに汚れた顔を彼に見られたくなくて、下を向いてひたすらに顔を擦った。
その瞬間、何かが彼女のほっそりとした手首に触れた。そして次には彼女の腕がその顔から退けられていた。
彼がその綺麗な手で自分の薄汚れた腕を握っていたのだ! アネットは暫くの間茫然としていたが、やがて我に返って手に力を入れて手首を抜こうと一生懸命にもがき始めた。しかしアネットが手首に力を入れれば入れるほど、クレアも益々強く握ってきたのでどうしようもない。
「やっ……」
「これはコンスタンスが?」
背筋がぞくりと凍てつくほどの冷ややかな声が頭の上に落ちた。アネットはそれを悟られたくなくて、ただひたすらに首を横に振った。そしてやっと、震える声でただ一言ぽつりと言った。
「………あ、あなたには関係ないわ」
「それは答えになっていない。家が汚くなると困るから、あちこちで這い蹲るのはやめてくれない?」
「……わかったわ。気をつけるから」
ここから去って––––––と言えるはずもなく、主の意に反してばくばくと鳴り続ける心臓を彼に気づかれやしないかと戦々恐々としていると、突然腕を引っ張られた。アネットは慌ててつんのめりそうになった。しかし不幸中の幸いか、目の前の広い胸に額をぶつけるという事故だけは辛うじて避けることができた。
「なっ、はっ、離して!」
「煩いから黙ってくれる?」
「手、手が、あなたの手が汚れてしまうわ」
「今更だね。これ以上手間かけさせないでほしいな」
なら放っておいてくれてもいいじゃない。早く離れてよ。アネットは心の中でそう叫んだ。
クレアは一体、何がしたいのだろう。昔から彼の言動は不可解なものだった。三年前からはそれが殊に著しい。
アネットに思い当たりがないのではなかった。もしかしたら彼も知っているかもしれない。だが「あのこと」に関して聞けずにいつも見て見ぬ振りする自分がいる。怖くて聞けるわけがない。ただ、いつかは向き合わなければならないのは確かだが。
歩いているうちに視界が開けてきた。
「もう良いわ、一人で」
「煩わしいな。その格好で引き摺り回すよ?」
「っ……」
諦めて前に視線を向ければ、輝かんばかりの美しい白金の髪がその歩きに合わせて揺れている。男なのに女より美しい。しかし昔のように儚くなよやかな美しさではなく、男性特有の強みを備えたしなやかな美しさだ。自分の腕を掴んでぐんぐんと進む彼の大きな手は、軍の厳しい訓練の中で鍛え上げたものである。彼は、あっという間に一人前の男になってしまった。
小さい頃に何度か見せてくれた、照れ隠しのはにかむような笑みはもう二度と見られない。そこにあるのは麗しいが凛々しい男の横顔のみだ。
アネットは頭を振った。
しかし彼女はすぐに目の前の物に目を丸くした。
「あっ、待って。ここは洗面所じゃな……」
「そうだね」
着いたのは彼の部屋だった。彼は彼女の小さな抵抗を物ともせずに自室の浴室の前まで彼女を引っ張る。
「さっさと洗って」
「ちょっと、ま、待って。わたしがいつも使っている浴室があるわ」
彼は秀麗な双眸を剣呑にし、アネットをジトッと睨んだ。アネットがびくりと跳ねると、彼は目を悪戯げに細めた。
「脱がすよ?」
「……」
どうやらクレアには一歩も引く気が無いらしい。彼は近くの箪笥から真白のガウンを取り出し、傍の椅子の上に置いた。恐らく彼女の着替えなのだろう。アネットは半ば強制的に押しやられるようにして彼の浴室に入った。
ふう、と溜息を一つ零す。
(いくら汚れているからって、何もこんな急に部屋に入れなくても。ただでさえわたしのこと毛嫌いしているのに。それとも、わたしが使用人の浴室を使っているって知らないのかしら。…………いいえ、彼がここを去った時にわたしは既に使用人だったから、知らないわけがないけれど……)
彼は多分部屋にいる。アネットが部屋を出るかもしれないと監視しているのだろう。
悶々と悩んでいても仕方がないので、なるべく早く洗って退散することに決めた彼女は急いで服を脱いだ。
扉一枚を隔てて彼がいる。
薄い扉の向こうに彼女がいる。
しばらく何の音もしなかったが、ようやく水音が耳に届く。やっとその場から離れてソファに腰掛けた。
実家に帰ってきてからは特にやることもない。学習の一環として軍務を規則正しくこなしていたクレアとしては、普段の仕事がなくなって暇を持て余しているようなものだった。
家の雰囲気や状況がそんなに喜ばしいものでもないので、正直ずっと家の中にいたくはない。息苦しさを紛らわすため、適当に外出していた。
病床の父とは何となくぎこちないし、母と妹はとにかく煩わしい。そして彼女––––––アネットは見ているだけで苛立った。この家から逃げるようにして首都に赴いたのもそれが大きかった。彼には整理のための時間が必要だった。
気怠そうに後ろにもたれ、艶やかなプラチナブロンドをかきあげた。
ふと、浴室の扉に目を向ける。
確かに、ここに帰ってきてやっていることは特にない。退屈な時を過ごし、首都に戻る日を待つのみ。ただ、目的がないのではなかった。
彼はその為だけに帰省したのであった。
「…………」
アネットが浴室を出ると、彼女を射殺さんばかりの冷ややかな視線でクレアが待ち構えていた。
結局、彼女のためにと置かれていたガウンを着ることはなかった。アネットは先ほどまで着ていたあの煤だらけの制服を着ていた。
彼女は彼の硬い表情に怖気付いていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「ありがとう。浴室は使わせていただきました……」
しかし、語尾は自信なさげに萎んでしまった。彼女の今の心境が反映されているようだった。
クレアはアネットからスッと目を逸らし、カツカツと窓辺まで歩く。彼女の入浴時間は五分を満たなかった。
「随分早かったけど」
「掃除なら後ですぐにやっておくわ」
アネットは間髪入れずに答えた。
彼女はここ最近の中で一番早く入浴を終えた。生憎、クレアの部屋にずっと居続けるほど肝は据わっていない。日頃から虐待してくるヒルドレッドやコンスタンスよりも難しい相手がクレアだった。
居心地の最悪なこの場所から一刻も早く立ち去りたいのが彼女の本音であった。
「別に掃除のことを言っているんじゃない。俺がいない時に部屋に出入りされるのも癪だ」
「でも……」
一応綺麗には使った。だが心理的に、使わせてもらったからには掃除をきちんとやり直したかった。何であれ、自分の形跡が彼の元に残っているように感じられるのは嫌だった。
「わたしが出入りするのが嫌だったら、他の人に頼むことにするわ。だから、」
安心して。そう続けようとしたが、彼が突如口を挟んできた。
「本当に昔からそうだけど、人の話を聞かないよね。それとも単に理解する脳が足りないだけ?」
アネットは顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりして、哀れなほどに狼狽えていた。
クレアは水差しを手に取り、口をグラスに傾けた。呆れたように溜息を吐く。
「どうせ浴室なんて使えば濡れるし、今日はもういい。目に障るから、早く出て行ってくれる?」
この後出かける予定なのか、彼はこちらを見向きもせずに上掛けを手にした。
「……迷惑かけてしまってごめんなさい。でも、ありがとう。助かったわ」
アネットは血が出そうなほどに唇を噛み締めると、俯いて顔を伏せて扉を開け、そのまま部屋を出て扉を閉めた。クレアと目を合わせるのが怖い。それに、目元に溢れそうな雫を見せたくなかった。
(いい加減、慣れても良いのにな……わたしって本当にばかね)
冷たくされるのも苛められるのも、昨日や今日のことではない。何も目新しいこともなく、今さら泣くことでもない。
(なのに、なぜこんなに泣きたいの?)
彼の前だと緩んでしまう涙腺が憎くてしかたなかった。
そして、クレアはあの後知人の家に赴きそこで寝泊まりしたらしく、家に戻って来なかった。
フランシスが母を伴って馬車に揺られ、ウェストモーランド伯爵領に着いたのは夕方のことだった。
彼は馬車から降りて、周りの情景を一瞥した。
(やっぱり広いな。それに、やはり『花園のフェイン邸』と言われるだけはある。庭が綺麗だ)
目の前には艶然と微笑む伯爵夫人が令嬢を側に連れて立っている。フランシスは軽く息を吸って、母に続いて踏み出した。
ノーフォーク公爵夫人はにこやかに笑った。対するヒルドレッドも微笑みを崩すことなく礼を取る。
「ウェストモーランド伯爵の妻のヒルドレッドです。わざわざこのような所までご足労いただき恐縮ですわ。もうご存知でしょうけど、主人は持病で寝床から出られませんの。どうぞご理解くださいませね」
「そのことでしたらご心配要りませんわ。ノーフォーク公爵の妻のスーザンです。こちらは息子のフランシス」
フランシスは一歩前に出た。丁寧に淑女に対する礼を取る。その一連の動きは、さすがに彼をして国の筆頭貴族の子息たらしめる優雅なものであった。
「はじめまして、ご婦人方。ノーフォーク公次男のフランシスです。此度はお招きありがとうございます」
「娘のコンスタンスです」
コンスタンスはフランシスを一目見た瞬間からぼうっとたたずんでいたが、母の言葉に我に返った。
「はじめまして。よろしくお願いしますわ」
スーザンはコンスタンスをじっと見た。
「ご令嬢の美しさは社交界でも聞こえていたけれど、本当にお美しいですわね。––––––お母さまにとても似ていらっしゃるのね」
ヒルドレッドは扇をシャッと閉じた。
「公爵夫人」
「スーザンと呼んでくださいな。みなさまそうされているのよ」
「では、スーザン。こちらへ」
爵位の上下で不満を持っている様子のヒルドレッドはそれを露骨にすることはなかったが、スーザンの言葉が気に障ったのか、何となく苛立った様子で扉に向かった。その隣をスーザンが、後ろをフランシスとその腕に手を掛けたコンスタンスが続く。
会う目的が目的なだけに、そして双方ともそれを了承して会っているので何となく恥ずかしくぎこちなく、気まずい沈黙が漂った。が、それは破られた。
「……フランシスさまとお呼びしてもよろしくて?」
コンスタンスはためらいがちに口を開いた。決して演技などではなかった。社交界で一二を争うほどの美貌を持つクレアを兄に持ち、自身もまた比類がないほど美しい彼女には非常に珍しいことだった。
「勿論です。こちらとしては、貴女をコンスタンス嬢とお呼びすることをお許しいただきたい」
フランシスの優しく温かな声がコンスタンスの耳を心地良く打つ。
「……ええ」
四人で食事を取り、お茶も進んできたところでヒルドレッドは二人を庭に追いやった。スーザンもフランシスに「淑女に失礼のないように」と冗談を交え、朗らかに彼らを見送った。
フランシスを一目見た瞬間、運命を感じた。
今まで社交界で名を轟かせ、年若いうちから次から次へと貴族令息を篭絡してきた彼女がこんなにもときめいたことはなかった。今までの交際で磨いてきた交渉術が虚しくなるくらい彼女は何もできない。ただの馬鹿みたいに黙りこくってしまった。魅力的に微笑んで彼を虜にしなければ、と焦れば焦るほど、頭は真っ白になっていく。
彼は背が高く茶色の髪と誠実そうな鳶色の目を持ち、整った顔立ちをしていたが、兄のようにハッとするほど目立つ外見ではなかった。それなのにこの心臓の跳ね様は何なのか。
そんな彼女の心境を知るはずもない彼の頭上には星の瞬く夜空が広がる。
コンスタンスが転ばないようにそっと支えてくれる彼の所作が嬉しかった。ともすれば顔に出そうで、彼女は緩む頬を抑える。口をぎゅっと結んだ。
(落ち着いて、落ち着くのよ。わたし……)
皆が楽しめる話題を振るのは紳士の役目。それに応じて当意即妙な答えを返すのは淑女の務めだった。
コンスタンスは金髪を靡かせ邸で一番綺麗なバラ園に案内した。フランシスは二人を取り囲むように麗しく咲き乱れたバラに目を細めた。
「壮麗なバラ園ですね。花は自身を愛でる人に似るように咲くらしいですね。ご自身でお手入れなさったのですか? 細やかに面倒を見ないとここまで綺麗には咲かないでしょうね」
花を自分の庭で手入れする令嬢がたまにいた上に、コンスタンスが迷うことなくこちらに案内したのでフランシスは称賛も兼ねてそう聞いただけだったが、コンスタンスは不快感を押し隠すのに必死だった。
これはアネットが育てたものだった。毎日毎日、忙しい仕事の合間を縫ってはバラを大切そうに愛でる彼女に苛立ちを覚えたことが何回かある。しかし。
「ええ。恥ずかしながら」
口を衝いて出たのは違う言葉だった。
「そうですか。やはりそうだったんですね」
フランシスは眩しい微笑を浮かべた。
彼らは森に彷徨う夏の夜の恋人のように笑い合い、数多くの言葉のやり取りをした。
「実際会ってみたのは正解でしたね。貴女は妖精のようだ」
「妖精?」
「ええ。私は以前、妖精を見かけたことがあるんですよ」
「どんな妖精でしたの?」
「貴女に似た、あどけない妖精。以前、この近くの我が別荘地にいらしたことは」
「ありませんわ」
「そうなのですね」
「……その妖精に恋をしていらっしゃるのね?」
「さあ。どうでしょう」
彼は悪戯っぽく笑ってみせた。コンスタンスは顔を強張らせた。
「でも貴女に会って、私はやっとその幻影から抜け出せそうです。時間をかけて、私たちは良い家族になれるんじゃないかと思うんですよ。貴女はどうですか? 私を好きになってくれますか?」
家族に。彼は決して妖精に対する恋を否定しなかったし、コンスタンスに恋をするだろうという約束もくれない。コンスタンスは顔を逸らした。泣きたかった。見ず知らずの妖精に嫉妬する自分が滑稽に思えたし、彼女への想いをごまかしつつも否定してくれない彼が恨めしかった。
「そんなのわかりませんわ。未来のことなんて」
「でも、判らなくても希望は持てます。私はその希望に掛けてみようと思う」
(じゃあ、私も希望を一つ、あなたに託してもいいかしら)
わたしに恋をしてください。愛しいあなた。
フランシスがコンスタンスと戻ったのは邸を出て一時間後だった。
「随分話し込んだようですわね」
ヒルドレッドが嬉しそうにそう声をかけると、フランシスは笑って応えた。
「ええ。コンスタンス嬢が綺麗なバラ園を見せてくれたのですよ」
「まあ素敵。今度私にも見せてちょうだいね。でも次からは早く帰っていらっしゃい。コンスタンス嬢の評判に響くわよ」
スーザンはコンスタンスに目を向け、その後息子に言葉を投げた。
「はい。遅くまで令嬢を離さず、申し訳ありませんでした」
フランシスの謝罪にヒルドレッドは恐縮したように手を振ったのだった。
「いいえ、良いのです。どうかお気になさらず」
(こういうのは大歓迎よ。評判なんて気にしないわ。そのまま結婚してくれたら結構ですものね)
ヒルドレッドはそのまま手中の扇を開き、仄暗い笑みを浮かべた。
未明。
邸中はまだ寝静まっている。
フランシスはそっと目を開けた。華やかな天井が視界に飛び込む。彼は首をゆっくりと巡らせ、寝台周りのカーテンを開けた。普段と場所が違うせいか、上手く寝付けない。たとえ寝付いたとしても、その眠りは浅いものだった。
(はあ……寝ても疲れが取れないって辛いな)
昨日は、コンスタンスに嘘を言ってしまった。解っている。彼女はもうじき自分の伴侶となるであろう女性だ。どうせ結ばれる人なのだから円満な家庭を築きたい。そのためには相手に敬意を払うことが必須だということも理解している。
だが、彼女は『妖精』に全く似ていない。
頭を振った。不必要な思考に割く時間は勿体無い気がする。救いようもない自分も嫌だ。
彼は早めに簡単な朝の支度を終え、外に出た。清涼な朝の空気を吸いたかった。気持ちの整理もしたかった。
あれは本当に何でもない、幻だったのだと。
普通なら見かけたか否かを本人も判別できないような幻にここまで心を捕らえられているのは異常だ。だが、彼はそれくらい深くその幻に絆されたのだった。
コンスタンスとの見合いはあまり乗り気ではなかったが、それは向こうだって同じはずだ。所詮貴族社会の結婚なんてそういうものだ。どうせ結婚するとなればお互いが気分良く結婚できるように彼も努力するつもりだ。少しずつ歩み寄れば、燃えるような恋はなくとも温かな家庭を作ることもできるはず。
コンスタンスは相当な美人で、昨日話した限りでは好ましい女性だった。ここまで好意を持つことができれば自分はかなり幸せなのだと思う。そうだ、自分は本当に運が良い方なのだ。
フランシスは件のバラ園に足を運んだ。
朝の庭園はしめやかで神秘的だった。清廉で俗世の煩わしさを忘れさせてくれる。
ふと、何かが視界の端を過ぎった。そちらに目を向けた。
彼は戦慄した。
「見つけた……」
そこには、彼があんなにも探し求めていた妖精––––––亜麻色の髪を靡かせ翠の目の女が大きな両の目を丸くして、あの時と同じ表情で彼を見つめ返していたのだった。