005 彼と彼女の花言葉
クレアは父の書斎にいた。
隣には父が座っていて、真剣な表情で目の前を見つめる。
察するに、状況は芳しくない。
父は隣に立つクレアに目もくれず、前だけをじっと見つめ、さっきから同じような言葉を重ねる。
「やはり、そうだったのか……」
「父上、どうかしましたか」
父は下を向き、ただ虚ろな目でボソボソと独りごちるだけ。
「そうか……そうなのか」
父はこちらを見事なまで無視し続けた。クレアは父の心ここに在らずという様子に段々と苛立ってきた。こちらに気づいていないのだろうか?
父は突然その紙を引き出しに折りたたんでしまい、椅子から立ち上がるとその足で書斎を出て行った。
クレアは呆気にとられて追うことはしなかった。
(どうなっているんだ)
やがて、クレア自身が書斎に入って来た。
(俺だ。何で俺が父上の部屋に……)
彼は何か探し物をしているらしかった。
暫くの間いろんな書類を漁り、読み明かし、遂には父の文机の引き出しに手をかける。
引き出しを開けると、例の紙が目に留まった。
そして彼が目を近づけ、その紙を覗き込むと––––––
「!!!!!」
「––––––はっ!……はぁ、はあ」
クレアは汗だくで飛び起きた。髪と服が体に纏わり付いて、気持ち悪い。
薄暗さに目が慣れると、ぼんやりとカーテンの模様が見えてくる。
あの日の夢を見た。
もう何年も過ぎて、色褪せた記憶のはずなのに、衝撃はあの時と同じくらいのものである。
彼は呆れて自らの額に手をやり、固く目を瞑った。
(何を今更夢にまで……)
衝撃はとうに過ぎていったはずなのに。
限りない衝撃を食らわせてくれたあの日は、一方でクレアに暗い喜びを抱かせた日だった。
「……変な夢」
力なく笑うが、上手くできていない気がした。人前ではあんなにできる上っ面の微笑が、一人きりになるとできない。別にそれは構わなかったが、一方では自分の弱さを捨てきれていない気がして苛立った。
彼はドロドロと泥濘みに嵌りそうな思考を一旦中止し、外の様子を窺うことにした。微かで薄らな一条の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。夜明けだと推した。
彼は徐に寝台から降り、カーテンを開けた。夜着のままバルコニーに出る。居間のバルコニーとはまた別の角度からの風景は悪くない。寛いだ状態で腕を組み壁に寄りかかる。特に定めた対象もなく視線を漂わせていると、やがてきびきびと忙しそうに動き回る小さな姿が彼の視線を捕らえた。
亜麻色の髪が朝日に眩しい。
本人は当然ながらこちらに気づくこともなく、バケツ一杯に水を汲んであちこちに運んでいた。時々躓きそうになり、その度にクレアは我知らず身体中が力んだ。
彼女は真面目なので仕事は滞りなくこなすが、時に危なっかしい所がある。
ずっと彼女を観察していると、いつの間にか日は高くなり、時間は朝と呼べるまでになった。彼はいつかのように視線を無理やり彼女から引き剥がし、朝の支度に取りかかった。
クレアが邸に来て一週間が経った。
彼と会うことはあまりなかったが、止むを得ず遭遇すると決まって彼の目の色と同じくらいの冷たさでアネットを縮こまらせるのだった。
ヒルドレッドはご婦人方とお喋りに興じている。アネットは彼女らがいる居間に近づかないように厳命されているが、移動中に偶然居間付近の廊下を通ったところなのだ。
しかし、思わず立ち止まってしまった。
「まあ、クレアの縁談は軍である程度落ち着いてからじゃないと難しいわよね」
アネットは『クレアの縁談』という語句に一瞬どきっとしたが、直後、それが延期されるのを聞いてほっとした。
……ほっとした?
(なぜ? なぜわたしがほっとしなきゃいけないの?)
「クレア殿は本当に素敵ですわよね。この間のハミルトン邸でのパーティーの時にはもう、年頃のご令嬢方皆があの方に夢中でしたもの」
「あら、それほどでも」
謙遜するような物言いとは正反対に、ヒルドレッドの表情は高慢極まりなかった。しかし、クレアが令嬢とその両親らに人気があるのは事実なので、皆が何かを言うことはない。
「デジレ嬢も珍しく一人だけに釘付けになられたご様子で」
「おほほ。仲は睦まじくて結構でございますわ」
ヒルドレッドの高らかな笑いが聞こえた。
「コンスタンス嬢の縁談は順調で?」
「ええ、順調ですとも。クレアが首都に戻ったら始めようかとも思いましたけど、急遽予定を変更することになりましたわ。実は本人に相手は教えましたけれど、お見合いの日時は教えていなかったんですの。こっそり内緒で、三日後にお見合いをすることになりましたわ」
アネットは歩き出した。
(そうなんだ……早いな)
午後、アネットは玄関の側に置いてある花瓶の花が一本折れているのを発見した。
(スイセンだわ)
庭師に切ってもらったスイセンが多すぎてここに挿しておいたが、どうやら何かの弾みで折れてしまったらしい。
(残念ね。こんなにも白くて綺麗なのに)
彼女はスイセンの花、特に白いものが大好きだった。彼女はこの可憐な花を見ると母に似ていると思った。
花をどうにか立てて直そうと試みるも、その努力も虚しくだらんと上半身を垂れるだけ。それとなく悲しみを覚え、花を花瓶から抜き取った。
その直後、家の呼び鈴が鳴った。
アネットが玄関のすぐ側にいたので、急いで花を持ったまま扉を開ける。本当は花を置いてからそうするべきだが、彼女は既に慌ててしまっていて思考が及ばなかった。
扉の向こうから現れたプラチナブロンドの長身の美男子にアネットはしばらくの間だが固まってしまった。
落ち着け、自分。
ガチゴチに不自然な動きをするアネットが彼を部屋の中に通すや、クレアはそんな彼女を冷淡な視線で一瞥し、颯爽とした動きでツカツカと歩き入ってきた。
「…………」
「お、お帰りなさい」
目を合わせることはできず、一応姉であり使用人でもあるので形ばかりの挨拶を口に乗せると、ポツリと返事が聞こえた。
「……ただいま」
意外にも普通の返事が返ってきた。低く小さな声だったが、アネットの耳にはしっかり届いた。
「……………」
彼は振り向くことなく、鍛えられた長い脚を前後に動かし、さっさと階段を上って行ってしまった。
アネットはぼうっとしていつまでもその方向を見つめていた。
「そこの女」
コンスタンスの声がしたので、渋々後ろを振り向いた。
果たしてそこには桃色のワンピースで可愛らしく決めたコンスタンスが自慢げに立っていた。ドレスに合わせた薔薇の真珠飾りが、兄と同じプラチナブロンドに絡まっていてとても似合う。
(今度は趣味の良さそうな服で良かったこと)
アネットは何となしにそう心中で呟いた。
「暇ならさっさと働けばどう?」
その声音は普段の人前で見せられるような麗しい姿からは思いつけないほどの酷なものだ。アネットはもの言わず、体を彼女から反対側に向け早足でその場を離れた。
そのせいで、コンスタンスの訝しむ目線に気づかなかった。
アングリア北部、ノーフォーク公爵ハワード邸。
国王の居城に劣らぬ素晴らしい城館を持つハワード家の領地は、北のカレドニア地方にも連なる山脈や森をはじめとする自然風物が美しいことでも知られる。
今は晩冬に近く、抜けるような青空が目に沁みた。しかし、もうすぐ霧がかかってくるだろう。
ハワード邸のある一室。
自分以外は誰もいない部屋の中で、柔らかい茶色の髪を風になびかせ、長身の青年が窓に身を乗り出していた。彼は今年で二十三だが、どこか少年のようなあどけなさを残しており、その品の良い鳶色の眼は人々の賞賛の的である。
不意に、後ろに人の気配がした。
「フランシス」
「兄上」
こげ茶の髪に薄らと髭を生やした彼の兄であるレジナルドが立っていた。
「お前、三日後に縁談があるらしいな」
「……はい」
「そろそろ忘れろ。現実的じゃない恋なんて実らん」
フランシスは視線を移し、窓の外を遠い目で見やった。
「解っています。ただ、最後にもう一度だけでも会いたいな、と」
「だからゲッカビジンを手に取っているのか?」
フランシスはその時になって初めて、自らの左手に軽く、だがしっかりと握られている花に苦笑する。あの兄がこの花言葉まで知っていたとは。
例に漏れず、ゲッカビジンも花言葉を持つわけだが、代表的なものの一つは『実らない恋』。まさに今の彼の状態だ。
そしてもう一つ、彼が気に入っているものは。
––––––もう一度だけでも……
願わくばもう一度だけ、あの妖精に逢いたい。儚い望みを何かに託せずにはいられなかった。
そんな彼の想いを察しつつも会えて無視し、兄は縁談の話を仕掛けてくる。
「相手は聞いたか?」
「いいえ。やる気が出ませんので」
弟の溜息が混じった、いかにも意欲の欠落している答えに、呆れ半分焦り半分で兄は諭してきた。
「おいおい、それは失礼だぞ。先月の社交パーティーを主催した、ウェストモーランド伯爵フェイン家のコンスタンス嬢だ。覚えておけ」
突如、それまで関心皆無の様子を示した上で、相変わらず手の中の月下美人をいじっていたフランシスは体を跳ねさせながら兄を仰いだ。
「な……!」
「どうした?」
「今、フェイン家と仰いましたか?」
急に切羽詰まったような弟の様子に、兄は狼狽した。
「ああ。何だ、実は『彼女』がコンスタンス嬢だったのか? でもお前、先日のパーティーではこんな素振りを見せなかったように思うが」
フランシスは首を左右に振った。
「コンスタンス嬢は『彼女』ではありませんから。そりゃあ初め、会う前はもしかしてと思いもしましたし、少なからず期待したものですが……」
「ほう。何だ、違うのか。じゃあ、アネット嬢なのかな?」
「アネット嬢?」
「ああ、お前は知らんだろうな。あの家にはアネットというもう一人のお嬢さんがいるんだ。確か、伯爵と前妻の娘だな。彼女の姿が謎に包まれているのは十八歳で社交界デビューでパーティーの参加を一度したきり、人前に出てこないかららしい」
「なっ」
まさか。彼女が、『彼女』?
こんなに話がうまく運ぶものなのだろうか?
「確か、三年前だ。お前はガリアに留学していただろう。二十歳の誕生日祝いに一度こちらに帰ってきて、でも六月上旬のうちにガリアに戻った。社交界が開かれたのはその後だから。……だから会えなかったんだな。元々うちとセイモア家は仲もあまり良くないし、ましてや一勢力であるエリオット殿の伯爵家とも関わりを持たないようにしていたからな」
今は粗方収まっているものの、ブリタニアの両大山脈であるハワード家とセイモア家は仲が良くなかった。ハワード家は首席公爵家でその家長で二人の父であるノーフォーク公は紋章大総裁を務めている。セイモア家も負けず劣らずの由緒深い軍人の家柄で、ヒベルニア地方を征服及び統治する人物も多くいる。両家とも隙あらば相手の優秀な人物を暗殺し、政界や軍界ひいては経済界からも払拭しようと躍起になっていた。そして、ウェストモーランド伯爵フェイン家は代々セイモア家と深く繋がっていた。
因みに、大貴族の一つであるハミルトン家は両家に比べたら勢いは弱いのだが、その祖先は昔カレドニア地方からやって来てアングリアに定着し、この家は今やブリタニアの政界を握る重要な位置を占めている。その同じハミルトンの中でも、デジレ属する本家の場合は彼女の母がブリタニア国王の妹姫なので、その威光は凄まじい。
「アネット嬢……は、先月のパーティーにはいませんでしたね」
いたら紹介されたはずだ。
「そうだ。ここだけの話、あのお家で後妻にいびられ、ろくに羽も伸ばせないでいるそうだ。哀れな話だ」
「ああ、なるほど」
あの奥方ならやりかねない。フランシスとは眉間に皺を寄せて想起する。ヒルドレッド夫人の伯爵夫人たる堂々とした雰囲気は、冷静に見つめれば傲慢と欲に塗れた女にしか見えなかった。そしてその娘のコンスタンスも母に似て外見は美しくも気が強そうで俗世的だった。彼女は純真そうに振舞っていたが、隙あらばその場に招かれた男どもに媚びを振り撒いていた。
彼が焦がれた森の妖精とは大違いだった。
「行きます、その縁談」
「おい、お前が行く行かない言う前にもう決まっていることだ。それよりも言っておくがな、そこに行っても彼女と会える保証なんてない。それにお前の相手はコンスタンス嬢だ。勘違いしてヘマなんかするんじゃないぞ」
「良いんです。とりあえず行ってみましょう」
「……逃げ出すよりはマシか……」
レジナルドは諦め半分、そう言うと肩を竦めた。
彼女と出会ったのは冬の高い空を実感する冬の昼下がりだった。
フランシスは当時エリオットの治める領地近くに位置するハワード家の別荘に泊まっていた。遠地に来ても次々と舞い込む縁談と気の強い母親の説得に辟易しており、鬱屈した気分を晴らす為に外に出た。目的地もなく、愛馬スパークルといろんな場所を疲れ果てるまで駆け巡った。
今思えば、無茶をした実感はある。心から馬に申し訳なく思う。
彼はいつの間にかウェストモーランド伯爵敷地のすぐ前まで来ていた。馬を休ませようと降りると、馬は忙しなく辺りを窺っている。
「ん? スパークル、どうした?」
栗毛の馬を宥めるも、そいつは勿論主人の問いに答えることなく、ただ鼻をすん、と鳴らす。
ガサッ。ガサガサッ。
「!」
(何だ?)
音のする方向にゆっくりと慎重に近づくと、木々の奥に隠れている石垣の壁に何と穴が空いていて、そこから女が一人転がり出た。
彼の息が、止まった。
目の前に現れたのは、幼い頃絵本で出会い、存在を信じて探し回ったが見つからず、成長して笑いに付したもの。
妖精だった。
木漏れ日により光を受けている亜麻色の髪は天使の紡いだ絹のようで、白く抜けるような肌は瑞々しさがこちらに伝わる程だ。ほっそりした手足に、小柄で可憐な身体。真っ白な薄着に包まれていて、抱きしめれば折れそうな細腰。
唾を嚥下した。
視線を上げると彼女の白い首、形の良い顎、桜桃のような唇、薄らと朱が差す頰、程よい高さの綺麗な鼻、そしてけぶるような睫毛に覆われた煌めく目に出会う。
森の色だ。その目の中には森が閉じ込められている。木漏れ日をも吸い込む、深い深い森が。
言葉でも身体でも、何でも動きを発せれば彼女が消えてしまうような気がして、何もできなかった。何もかもが恐ろしくて息をも止めていた。
やがて彼は意を決して口を開いた。
「––––––失礼、貴女は、」
「っ!」
彼女は裸足だったが、そのまま元の穴の中に入り一瞬で逃げてしまった。
最後に翻った亜麻色の髪が脳裏にちらつく。
「ま、待って!……ああ、逃げられたよ。スパークル」
やるせなさに、フランシスは頭をガシガシかいた。
裸足であんなに走って、足の裏に傷でもついたらどうするのだ。
いくら彼女が妖精でも、痛いものは痛いはずなのに。
コンスタンスは兄のいる多目的の大部屋にやって来てわんわん騒ぎ立てていた。
「お兄さま、悲しくないの? わたし明後日お見合いするんですって! こんなにかわいい盛りなのに!」
コンスタンスは姿見に映る自身を見て、そう言いのけた。近くからはフッと鼻で笑う声が聞こえる。
「ああ、家に煩いのがなくなってせいせいするよ」
クレアが珍しく冗談めかしてそう言うと、コンスタンスはぷりぷりして甲高い声を張り上げる。
「何ですって!? どうせすぐ王都に戻るくせに。それにわたしがいなくなったらあれ、できないじゃない!」
「何?」
「あのクソ女のことよ」
ご令嬢の口から信じられない悪態が出てきてクレアは皮肉げに微笑するが、何も言わずに本のページを捲る。
「聞いてる? だからね、わたしがいなくなったらお兄さまがタウンハウスに連れて行って教育を続けてほしいの。さすがにハワード家にあの女を連れて行きたくないから」
「教育ね……俺が?」
「そうよ。お母さまはさすがに年取ってるから本人の遊びにしか興味ないし、今時の遊び方も知らないから楽しくないのよ。最近は遊びもわたし一人きりよ。寂しいわ」
「いいよ。お前が無事結婚したらあれを王都に連れて行って、俺がこき使うことにする。それで良いのか?」
「あら、約束よ! 随分とわかってるじゃないの」
「お前とは違うからな」
「何ですって!?」
コンスタンスは拗ねたように顔をぷいっと逸らした。しかし、彼女はいきなり微笑み出し、さらにその笑みを深くした。
「まあいいわ。お兄さま、もし良ければご友人誘って一緒に遊んでも……良いのよ? わたしが何言っているか、おわかりかしら?」
妖艶な笑みをたたえる妹に、クレアは目を瞑った。その魅惑的な唇は弧を描く。
「コンスタンス」
「ええ」
「この間のハミルトン邸であれが男に絡まれていたのって、お前が?」
目を瞑ったままそう聞く兄に、コンスタンスは疑いを持たざるを得なかった。
目は魂への入り口であるという。
兄はコンスタンスに何も悟られたくないと、コンスタンスを拒否しているかのようだった。
なぜ、なぜ目を閉じるのよ。
彼女の眦がピクリと吊り上げられ、その眼差しは剣呑となる。
「………そうだけど? 何、ダメだったわけ?」
コンスタンスの口調が不穏な空気を含みはじめた。クレアはそこでようやく顔を上げ、穏やかに微笑した。自分とよく似ていて、しかし似ていない妹。
「ダメじゃないよ。ただ俺がいない時にやってしまうと、お前がミスして罪に問われてしまうかもしれないから、今度からは俺がいる時にやるのはどうかな? 何かあっても隠し通せる。それに、俺もそういう場面を見逃すとか勿体無いと思ってね」
「楽しいものは共有しよう。ヘマしたらお兄さまが取り繕うのを手伝うから、ってこと?」
「そう」
コンスタンスは一瞬かっとした。
「わたし知っているのよ。ごまかさないで! あの日、あの女が助かったのって、お兄さまのおかげでしょう?」
「ああ……あれは、あいつらが俺の気に食わない奴らだったから。女抱かせて良い思いさせたくなかったんだ。あいつらがやらかして、主犯ということで君まで巻き込まれたら嫌だろう?」
事もなげにそう言いのける兄にコンスタンスはたじろぐ。
「……そう、ね」
確かにあの男らは元々クレアと折り合いがあまり良くなかった。
しかしそうだとしても、アネットを嫌っているのであれば助けるまでしなくても良かったのに。そう兄に言えば、彼は首を横に降り冷酷な微笑を口に乗せた。
「どうせあれを利用するなら、もっと親しい奴らに使わせたいと思うよ。お前はどう思う?」
「そうね。それが……それが良いと思うわ」
クレアは本を閉じた。
「ごめんなさい、お兄さま。わたしてっきり、お兄さまがあの女のこと……」
「ん?」
小さな呟きは、果たして兄の耳には届かなかったのだろうか。
「い、いえ。何でもないわ」
コンスタンスは胸の前で手をブンブンと振った。
「そう。じゃあ俺はこれから出かけるけど、もう話は良いかな」
「また? どこに行かれるの?」
「友達の所」
「……お、お兄さま!」
「何?」
「スイセンの花、好きなの?」
「何で?」
「昨日、帰ってきた時にあの女がスイセン持っていて、お兄さまがすごく熱心に見ているなあと思って……」
「そうだね。スイセンの花言葉を思い出したんだよ。現実味があって滑稽だと思った」
この兄は、花言葉を滑稽だと言ったか。コンスタンスは花を愛でたり花言葉をちまちま調べたりする趣味は持っていない。花言葉に現実味を求め、それがまた滑稽だという兄の感覚を理解し得なかった。花言葉を判断するのに滑稽という要素は存在し得るのか。
それともこれは兄の皮肉か。
しかし、コンスタンスはその諸々の疑問を押し込めた。そのかわりに賢明にも、今出すに妥当であろう質問を投げかけた。
「スイセンの花言葉は何なの?」
「一つ目は、『自己愛』」
クレアはコンスタンスをじっと見つめた。コンスタンスは何かが吸い取られていく気がして、兄から思わず目を逸らし、後ずさった。
クレアが、コンスタンスに一歩一歩と近づいてくる。
沈黙が落ちる。破ったのは兄自身だった。
「二つ目は、『狂気』」
耳を打つ低い美声にもう一度兄の方を向くと、先ほどまでコンスタンスが映っていた姿見に兄が映っており、兄は自分自身と微笑み合っていた。
微笑み合ってはいるが、その目線は鋭く突き刺すよう。
「そ、そうなの。正直、良い意味ではないわね」
「そうだね。……じゃあ、また後で」
コンスタンスはいつになく複雑な心持ちで兄を見送るのだった。
ふと気づいた。
兄の、あの女を見つめる時の視線に。冷淡な視線に込められた熱に。
あの女にいろいろ仕掛けたりはするが、不思議なことに彼女はいつも肝心なところで難を逃れた。
兄のおかげだろうか。
いつからか、妹は兄を疑い始めた。あの女を助けたのは、兄なのではないかと。兄があの女を見つめる時、雰囲気が凍て尽くされる。あれは好きな人に向けるものではないかもしれない。だが、なぜか妹は憂鬱な確信を得られた。
だって兄は興味のないものには一切の感情さえ抱かない人だから。恐らく、兄にあれほどの生気に満ちた感情を抱かせるのはあの女しかいないのではないのだろうか。
兄は葛藤しているのではないか。だから、あんな緊張と苛立ち、氷のように突き刺さる冷酷な空気を醸し出すのではないか、と。
そして至った絶望的な結論。
兄はあの女を好いているのだ。
自分の気のせいかもしれない。だが、これまで自分の気のせいで疑ったことは、ほんの少数の例を除いて外れたことがない。
(今回は、これがその少数のうちに入ることを願うわ)
もし、自分の勘が合っているとしたら、兄はおかしい。兄は狂っている。
あの女は、いくら自分たちが貶そうと、蔑もうと、忌み嫌おうとも、血を分けた姉であることは変わらないのだ。
姉を女として愛するなんて兄は間違えている。
それは罪だ。拭っても拭っても簡単に消し去れない、血の大罪だ。




