004 非常食と縁談
イングリッドの菓子屋へ向かう道中、アネットと男は自己紹介を兼ねた対話をした。彼はクレアよりも背が高く体格もしっかりしており、小柄なアネットは隣を見上げるのに首に必死に力を入れていた。
「俺はベルンハルト。あんたは?」
「わたしはアネットと申します」
彼は今年の二月に二十三歳を迎えたという。アネットはまだ誕生日が過ぎていないので今のところ二十一歳なので、彼とは一、二歳しか違わない。それにしてもその年齢差以上の雰囲気の差を感じてしまう。彼は年齢より遥かに落ち着いていると思った。紳士的な服を纏っているはずなのに、野性味に満ちた雰囲気を纏っている。余裕に満ちた品格は何となくクレアのそれに似ていた。だが、ベルンハルトの方が一枚上手な気がした。
アネットはずっとここで暮らしているが、ベルンハルトのような人は見かけたことがなく、彼は旅人なのだろうと見当をつけた。しかし、変な誤解をしていたらそれはそれで彼に失礼だと思ったので意を決して聞いてみることにする。
「あの……」
「ん?」
「わたし、ここで生まれ育ったのでここの人たちについてはある程度のことは知っているつもりですけど……あなたははじめて見かけます」
俯きつつも時たまちらちらと横を見上げ、気まずそうに訥々とそう語るアネットを見て、それまで無表情だったベルンハルトは涼やかに笑んだ。
しかし当のアネットは下を向いていたため、その笑みを見ることはなかった。
「合ってるよ。俺はここの人間じゃないから。今は野暮用で来ただけ」
「そうですか……」
「それよりもあんた、今日ろくに食ってないだろう」
「えっ、どうしてわかるのですか!?」
ベルンハルトが精悍に整った顔をグッと近づけてきたのと、今の自分の状態をズバリと言い当てられたアネットは大いに驚き、少しだけ後ずさる。
「あんたから空腹な時の匂いがする」
「……空腹な時の匂い?」
ベルンハルトはこともなくそうのたまった。アネットがおうむ返しして首を傾げると、彼ははっきりと頷く。
「ああ。何か食ったほうがいい」
黒曜石のような目に見つめられ、アネットは思わず顔を背けた。
「…………実は、昨日の昼以来まともに食べていないんです。よくおわかりになりましたね」
「ほらな」
「どうしてわかったのですか?」
「––––––なあ、あれ? あんたがくれた無料券の菓子屋」
彼が彼女の質問には答えず、不自然に話題の矛先を変えたので、触れられたくない話題なのだろうかとアネットは一瞬黙りこくった。そしてまもなく彼の問いに答えた。
「そうですよ、イングリッドの菓子屋。入りましょうか」
そこではたとアネットは重要なことを聞き忘れたことに気づく。
「あああっ!」
「何だ!?」
おっとりとした印象の彼女が突然叫び出し、ベルンハルトはかなり驚いたようにすぐさま反問した。
アネットは狼狽える彼に詰め寄り、早口で問う。
「卵とか、乳製品は大丈夫ですか? お身体に合わなかったらじんましんが出てしまいます。あと甘いものってよろしいんでしょうか!? あの、男の人は甘いものを苦手とする方も多くいらっしゃると伺いましたので!」
「………………大丈夫だ」
ベルンハルトが固まった様子で辛うじて一言だけそう答えると、アネットは目に見えてほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「ふう、良かった。では案内いたしますね」
ベルンハルトについて来るよう促し、店のあらゆる所を指差し説明する。実のところ、菓子屋は久しぶりに来たのでアネットはかなり浮かれていた。知らず知らずにあちこち目移りしてしまう。しかしそれを止められず、幼い少女同然にはしゃいでいた。
「こっちはクッキー。あっちはちょっとしたケーキとか。向こうはギフト用のチョコレートが並んでいるんです。今はミルクフェアという時期らしいですよ? 牛乳風味のクッキーがあんなにたくさん!」
「へえ。あんたが好きなものは?」
「わたしですか? 何でも! お菓子なら全部大歓迎です」
「あれとか美味い?」
アネットはベルンハルトが左手に持った無料券を覗き込みつつ答えた。
「あれですか? もう、見たら判るでしょう! ここのお菓子ならみんなおいしいですよ。ベルンハルトさん、この無料券は十個までなら無料らしいです。お好きなものを選んでください」
ベルンハルトは自分の名前がアネットによってはじめて、しかもごく自然に心地良く呼ばれたことに、何とも形容しがたい感情を覚えた。
「……………」
彼はなかなか選ぼうとしなかった。アネットは菓子屋に寄る機会もないので、この際にといろいろな菓子を見ては、気に入ったものがあれば目に焼き付けようとじっと見入る。見ているだけでも本当に楽しく、自然と笑みがこぼれた。
ベルンハルトはアネットの後ろを歩きつつ、暫くして手に持っていた店からのクッキー用の袋にポイポイとかれこれ三十個ほどを袋に詰めた。
(……えっ、どうしよう。三十個!? せいぜい頑張ってもわたし、二個分のお金しか持っていないわ。うう、恩人さんなのに申し訳ないけど、恥を忍んで超えた分は払ってもらって、二個分だけでもわたしが何とか払おう。でも二個しか払えないって……助けてもらっておいて人から頂いた菓子の無料券と残りは自腹にさせるって……ちょっとこれはないと思うわ。我ながら情けない)
急いで何度も財布を確認するが、虚しいばかりだ。いくら財布をまさぐったってない金はないのだ。買い物リストに書かれてある物品を買うだけでいっぱいいっぱいだった。今運良く手に残るこのお金も、あの意地悪な侍女達の単なる計算ミスである。
アネットはしょんぼりと肩を落としてベルンハルトに近づき、小声で囁いた。
「えっと、ベルンハルトさん。すみません……。わたし、今お金が二個分買うくらいしかなくて…」
「それは良いよ。俺が全部払う」
「えっ、でも」
「良いって。俺が買いたいやつを買うんだから」
彼は会計を済ませて彼女に近づき、彼女の左手を持ち上げ、菓子袋を持たせた。そしてその代わりに彼女の荷物を持ち上げた。
「え、え?」
「こんな暗闇で女一人で帰すわけないだろ。辻馬車捕まえてやるから、それ乗って行って」
「だめです!」
「何で」
「お、お金がないんです」
余った金を全部当てても無駄だろう。雀の涙だ。すぐそこで止まる。
「そんなくだらない心配してたのか。運賃は俺が出す」
「そんな! 申し訳ないです。歩くの好きなので、大丈夫ですよ」
ベルンハルトは心底呆れた様子で溜息を吐いた。
「歩くのが好きな女がいれば、そういう女を襲うのが好きな奴もいるというのが相場だ。……なあ、お前の主人は辻馬車の運賃もくれなかったのか?」
「ええと……」
言いにくそうに目を泳がすアネットにベルンハルトが再びハア、と溜息を吐いてこめかみを押さえ、街道を振り返った。早速辻馬車を捕まえ、彼女を押して乗り込ませる。それと同時に荷物を返した。
「菓子、一枚は貰うよ。じゃあな」
彼は牛乳クリームがのった大きなクッキーを咥えている。
「あ、あの……! 今日は、本当にごめんなさい」
「何で? 謝ることはないだろう?」
「助けていただいた上にろくなお礼もできず、お時間まで奪ってしまって……」
しかも菓子をちゃっかりいただいてしまっている。
「俺は楽しかったからいい。時間も、今日はそんな忙しくなかったから考えた上で付き合ったんだ。それに、『ごめんなさい』よりは違う言葉が欲しい」
「……あ、ありがとう?」
彼はプッと吹き出した。
「何で疑問形なんだ。まあ良いや。気をつけて帰れよ」
そう言って彼は微笑する。アネットは彼がこんな風にも笑えるのだと驚いた。
「ベルンハルトさん、ありがとうございました!」
「気をつけろよ」
彼はニヤリと笑みを深め、手を振った。
辻馬車にはアネット以外誰もいなかった。先ほどから膝上に大切に置いておいた菓子袋から良い匂いがする。
クッキーを一つだけ摘んで食べると、バターの重厚な味が口の中に広がる。
「おいしい!」
不思議なことに、袋の中身を見るとどれもこれも店で自分が食べたいと思っていたものだった。
もしかしたら。万が一、アネットが食べたいものを買おうとしてくれていたなら。
(最初からなかなか買わなかったのは、このため?)
しかし、アネットはすぐに首を横に振る。
(ううん、違うわ。自惚れも甚だしい。ベルンハルトさんはお菓子をあまり好まれていなかったのね、きっと)
同時に申し訳なさが彼女を襲った。
フェイン邸二階の居間。
コンスタンスはケーキを食べながらソファで寛いでいた。
彼女は冷たい声で使用人の一人を呼び止めた。
「ねえ」
「あら、コンスタンスお嬢さま。いかがなさいましたか?」
「あの女は?」
使用人は気まずそうに黙りこくるが、やがて口を開く。
「……どうでしょう。ふらふらどこかで遊んでいるのでは?」
「誰も知らないわけ? 同じ使用人なのに」
コンスタンスが不機嫌そうに片眉を吊り上げると、侍女は慌てて頭をぺこぺこ下げ始めた。
「も、申し訳ございません! すぐに探して参ります」
「良いわ別に。あんな女、いてもいなくても興味なし。そうね。あなたが替わりに来て」
「かしこまりました」
クレアは近くでコンスタンスが使用人に命じているのを尻目に、壁に寄り掛かって窓の外を眺めていた。ここからは邸の正門付近が見渡せて、彼はこの場所を気に入っていた。
彼は向こうに見える小さな人影がこちらに向かって来るのを認めた。そしてその大きさが大きくなるにつれ、誰だかはっきりしてきた。
(アネット?)
暗闇ではあるが、月明かりに照らされる亜麻色の髪は確かに彼女のそれだ。今にも折れそうな体で左右に傾きながら均衡の取れないままに、重い荷物に悪戦苦闘している模様であった。
(そういえば午後は見かけなかったな)
ずっと観察していると、彼女はせわしなく周りをキョロキョロと窺い、裏口へ回ったようだった。
(何なんだ?)
使用人に指示を終えたらしいコンスタンスがソファに腰を下ろしたまま、兄に向かって言い放った。
「お兄さま、あの女どこに行ったのかしらね」
「さあ? 興味ない」
「さっきから何をそんなに熱心に見てるの?」
「いや、久しぶりに夜の敷地を見るから、少し新鮮だったんだ」
「そうなの」
彼は無理やり視線を外から剥がし、コンスタンスの興味をさりげなく外の情景から遠ざけた。
自分が悪い子になった自覚はあった。
誰にも何も言わず、菓子を自分だけのものにしようと企んでいることは墓まで持っていかなければならない。
アネットはぐうぅっと鳴るお腹をさすった。
(だって、お腹がペコペコなのよ)
神さまだって理解してくれる。そう信じてアネットはベルンハルトからもらった菓子を自分の部屋に隠しておき、食事を抜かれた時にこっそり食べることにした。生菓子ではないため、日持ちするはずだ。
因みに彼女は既に馬車の中でバタークッキーとチョコレートスコーンの二個を食べ終わっていた。先程、街にて別れ際にベルンハルトも一つ食べているので、あと残るは二十七個。
(でも、よく考えたらお菓子はブラウン夫人とベルンハルトさんの支出だし、いただいたのは私なんだから、これを一々報告してコンスタンスに分けてあげる必要はないよね…? あの子は別にこれじゃなくても、食べるものはありすぎて困るくらいだろうし)
この間も「お母さま! わたしまた太っちゃったわ、どうしましょう!」と泣き叫んでいたのだ。
最も、彼女は身長が高いので少し太ってもそう心配することでもない。だが、太っているようには見えなくとも少しでも肉がつけば体格がかなり良くなるので女性としては少しだけ可哀想だ。
アネットは迷いながらも裏口から入って真っ先に自分の部屋に行き、こっそり菓子を隠しておくことに成功した。先に買ったものを厨房などに出して菓子だけ持ち出したら怪しまれるに決まっているからだ。しかし一旦買ったもの全てを部屋に運び込んだ後に菓子を部屋に置き、残りの荷物を厨房に運んだら少し怪しまれても菓子の存在はばれずに済む。ここまで来たら泥棒を笑える気がしない。
廊下に出た後、心中で親指を天に向けて立てた。
(やった! これで当分は食事を抜かれても平気)
残りの買った物を持って階下へ降りた。途中、アネットに今日の買い物を押し付けた侍女のポリーンと遭遇した。皮肉なことにも彼女のおかげで今日の収穫があったので、負の感情はすっきり消し去ることにした。
彼女は腰に手を当て、ぞんざいな態度で冷たくこちらを見てきた。アネットは知らずのうちに萎縮した。
「あなた、遅かったわね」
「ごめんなさい。買う場所があちこちに点々としていたものだから」
正真正銘の事実だった。ポリーンは肩を竦めると、つんつんと尋問した。
「そう。何であなたの部屋に先に寄ったわけ?」
「それは、帰り道風が強くて髪がすごく乱れていたので軽くといて来たんです」
アネットだって伊達に五年間使用人生活をやってきたわけではない。こういう場合に備えて口実くらいは用意していた。それがよりにもよってポリーン相手とは、コンスタンスと同等に最悪だったが。
ポリーンは相変わらず訝しげな視線を寄越す。
「ふーん……そう。あなた、間抜けなくらいとろいからね。あーあ。時間の無駄だったわ」
彼女は興味なさげにそう言い捨てると、やれやれという風に首を振りつつその場を離れる。アネットは少しだけむかっとした。
(こちらこそ、そっくりそのままお返しするわ)
先に自分を止めたのは彼女なのに。腹の底が煮える思いをしたがすぐに鎮め、息を大きく吸って買ってきたものを持ち上げた。なかなか持ち上がらない。悪戦苦闘してやっとの思いでぐぐぐっと持ち上げたのを下の厨房まで運べる気がしなかった。先程は菓子もあってもっと大変だったはずだが、その時は自室に菓子を隠すことでいっぱいいっぱいだったため、この重さが気にならなかった。
(やっぱり重い!)
次の日の午前。クレアは友人との約束があるらしく、朝食を終えた直後に支度をして出かけていった。どうやら皆で乗馬がてらいろいろな所に遊びに行くようだ。エリオットは寝たきりのまま医師の診察を受けていたし、ヒルドレッドとコンスタンスの母娘は居間で宝飾品について熱心に討論していた。討論が終わると、ヒルドレッドが膝元に広げていた婦人雑誌を見てコンスタンスは訝しげに眉を寄せた。
「お母さまったら、どうしてこういう古臭い感じのドレスとか見ているんですの?」
「使うところがあるからよ。もう注文は粗方済ませてあるけど、やっぱりマダムに来てもらったほうが良いかしらね。良いこと、コンスタンス。あなたの縁談が幾つかあるのだけれど」
「ええっ!?」
コンスタンスは目を丸くする。アネットは既にお見合い用のドレスを昨日注文してきたところなので、別に驚かない。コンスタンスは確かに嫁ぐお年頃ではあるが、幼い頃からの彼女を見てきた身としては、彼女が嫁ぎ先で傲慢に振舞い周囲の顰蹙を買いそうで心配になる。
勿論、それはアネットには関係のないことだが……。
「そんな! わたしまだ結婚なんて!」
まだまだ遊んでいたい娘の性情を把握している母ヒルドレッドは娘ににっこりしてこうのたまった。
「聞いたらびっくりするわよ。相手は国内最上位貴族、あのノーフォーク公爵ハワード家のご次男のフランシス卿よ!」
「きゃああああああっ! それ、本当!?」
コンスタンスはその場で尻を使ってポフポフとソファの上をジャンプした。ポムポム姫再来だわ、と暖炉の側でアネットはそう思った。ヒルドレッドは鼻も高々にツンとして胸を張っていた。
「嘘をつくわけないでしょう」
ハワード家はブリタニア連合王国内の貴族の中、序列第一位の大貴族である。ノーフォーク公を家長にまとまった大きな公爵家だ。
フランシスは茶色の髪と鳶色の瞳を持つ青年で、爽やかで紳士的な雰囲気が社交界の淑女たちの胸をときめかすという。彼は間違いなく社交界の話題の人物であった。しかも彼は父君ノーフォーク公爵から認められ信頼を寄せられており、若年ながらカーライル伯爵位まで譲り受け、現在所持しているという。
本来ヒルドレッドの性格としては、長男である次代ノーフォーク公との縁談にならなかったことをいささか惜しんでいるようにも見えた。しかしながら、たとえ次男であっても、彼がかなり人望厚く有能だということで、結局構わないらしい。
「以前お目にかかったことがあるのよ。あの時なのね。わたしを見初めてくださったんだわ!」
「そうね。確か、わたしたちが主催した先月のパーティーの時よね」
「あの時なんだわ!」
実は以前、アネットはフランシスと会ったことがあった。
去年の冬、エリオットとヒルドレッド、コンスタンスがクレアに会うために王都郊外の館に泊まりに行った時だった。アネットは邸内の一室に閉じ込められ、外に出られなかった。
衣装も着替えて逃げたりできないように真っ白な夜着しか与えられなかった。
使用人らが昼食を彼女の部屋に届け、食後に使い済みの食器を取り下げたあとはこちらに関心を向けなくなる。その隙に窓からカーテンを引っぺがし、それらを結んで繋いで長いロープ状にした。カーテンのロープを寝台の柱に括り付けて窓にもう片方の端を放ち、それを掴んで降りて行った。
今思えば何とも馬鹿な話である。無謀過ぎた。怪我をしないか、などは一切考慮しなかった。
庭師にばれないようにそそくさと邸の敷地内にある森を駆け抜けた。かなりの距離を走った先は彼女が幼い頃からよく見知った抜け穴が見えてきた。
あの頃の自分は動転したと思う。夜着のまま髪は振り解かれ、何も考えない虚ろな瞳をしていたように思う。
そして抜け穴から抜けた先、敷地を取り囲む散歩道で馬を引いて歩く男と出くわしたのだ。
彼は鳶色の瞳を丸くし、息を呑んだままこちらを凝視していた。アネットもやはり、同じようにしていた。当時は彼が何者で、何故そこにいたかはわからなかった。
だが、目はバッチリと合ってしまった。
そして直後に話しかけられたが、怖気づいたアネットは逃げてしまった。今思えば何と無礼な、淑女らしからぬ行いをしたのだろうと苦笑する。
初めはまさか彼があのハワード家のご子息だということはわからなかった。しかし、後にクレアが帰って来た先月のパーティーで彼を見かけ、その父が息子を紹介するのを聞いて気づいてしまった。
『次男のフランシスです。今年六月に二十三歳になるんですよ』
アネットはその時驚愕に打ち震えたことを鮮やかに覚えている。
一方、フランシスはアネットに気づいていなかったらしく、鳶色の瞳がこちらを向くことはなかった。ほっと胸を撫で下ろした次第だった。
「––––––で、お見合いはいつですの?」
思念に耽っていたアネットの意識はコンスタンスの明瞭な声で引き戻された。
「近々。まだ詳しい目処は立っていないのよ」
「ふうん、そうですの」
「今の男とは別れてちょうだいね。まだ付き合っていたりするかしら?」
「あら嫌ですわお母さま。そんな人ございません」
「この母の目を騙せると思っているの!? 先週私が家を空けた間にあなたが……」
雲行きが怪しくなる。母娘の論争の始まりの前兆だ。ヒルドレッドははたと止まり、近くで灰を集め薪を替えていたアネットに向かって八つ当たり気味に叫ぶ。
「一々一々とろいわね。何一つできやしない。盗み聞きが趣味なのかしら!? さっさと退きなさい!」
アネットはびくっとしてそのまま転がり出るようにその場を離れた。言われなくても去りたいと思っていたからちょうど良い。
「はあ……」
早くこの家から出て行ってしまいたい。
クレアは友人と馬であらゆる場所を駆け巡っていた。
彼は自らの髪色に似合う白馬を持っていて、馬と一体を成し空気を切っていくその姿は周囲を圧倒する何かがあった。
クレアは乗馬も得意で、彼の友人らは息を切らしつつも彼に何とかついて行った。
やがて丘を登り下の風景を見渡すところまで来ると、彼らは一回休みを入れることにした。
各々のんびり丘の上で寝そべったり、体をほぐしたり、喋ったりする。クレアを入れて十人もいるため、皆が皆共に喋り合っているわけではなかった。
その中でクレアの一番の親友であるジョゼフが近づいた。
「この間最後に会った時より速いな。俺の馬が疲れてついて行けないぞ!」
クレアは鼻で軽く笑って気の置けない友人をあしらった。
「馬のせいにするな」
「確かに馬のせいじゃない。お前のせいだ! ていうかお前、相当溜まっていたんだな。向こうでは馬とか乗れないのかよ」
ちなみにジョゼフはデラウェア家一分家の長男であり、士官学校は行かなかった。
「士官学校はいろいろ制限してくるからな。解っているだろう」
「そりゃあお前、三年の課程を二年で終わらせようとするからだよ。何でそんな急いでたんだ? 」
クレアは遠くを見ていた。暫くだんまりしていたが漸く答える。
「………早く独り立ちしたかったんだ」
ジョゼフは目玉をひん剥く勢いでクレアに詰め寄った。
「はぁ!? 独り立ちぃ!? お前頭狂っているんじゃないか? 父君の財産と爵位を受けるのはどう見てもお前しかいないだろうがこの馬鹿が! 何で稼ぐ必要があるんだよ」
「そういう単純なものじゃない」
「何が!」
「良いんだ」
クレアが歳の割に大人びていて、飄々としていてどこか達観しているのは昔からそうだ。腹の底の読めない友人に呆れ、ジョゼフはやれやれ、かっこつけやがってと首を振る。
「まあいいや。話変わるけどさ、とりあえず……喋った?」
クレアは首を若干傾げた。普段の冷静沈着で自信に溢れた姿からは連想しがたい、頼りなげな様子だった。
誰とのことだ、とは両者ともに敢えて聞かない。
クレアは遠くを見て微笑すると、踵を返す。そのままに坂を駆け下りて行った。
(どうして楽な道は器用に避けていくんだよ。女なんて世の中、星の数ほどいるのにさあ)
ジョゼフは再度、首を横に振った。




