表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
A Drop of Blood  作者: ベルン
第一章 殻の中で
4/25

003 街角にて




 朝日が眩しく差し込むフェイン邸。

 クレアは昨夜のパーティーの疲れも感じさせないくらい朝早く起き、きちんと身なりを整えた。

 昨夜の帰宅後に父の部屋に寄ろうとしたら、丁度その時通りがかった執事に「旦那様は既にご就寝なさっています」と止められたのである。

 クレアは父が朝食を取る直前ならさすがに起床なさっているだろうとあたりをつけてエリオットの室に向かった。

 扉にノックを二度。「入れ」という声があったのですぐに入室した。どうせすぐに出るので扉は開けたままにしておく。

 一年ぶりに見る病床の父は更に痩せた気がする。持病の状態はあまり好ましくないらしい。エリオットはクレアと同じ白金の髪を太陽の光に当たらせ、窓辺で着替えていた。

「父上、おはようございます。お久しぶりですね。お加減はいかがですか?」

「クレアじゃないか!」

 クレアは微笑し、貴公子然とした動きで真っ直ぐ父に向かって歩いて行った。

「昨日は直接ハミルトン邸に寄って帰ったのは深夜だったので、止むを得ずご挨拶を申し上げるのが遅くなりました」

 申し訳ありません、と軽く頭を下げる息子にエリオットは久方ぶりに朗らかに笑う。去年よりも息子は一段と男らしさが増した。

「堅苦しい挨拶は置いておけ。皆から聞いたぞ。随分とでかしたな」

「それほどでもないのですが……」

「謙遜するな。まあ良い……うっ」

「父上?」

 顔色が悪くなったエリオットは暫くの間胸を押さえていたが、すぐにそんな素振りを隠す。

「大丈夫だ。それよりも、これからどのくらいの間、ここにいるんだ?」

「二、三週間ほどでしょうか」

 エリオットは寝台の上で朝食を取るらしい。給仕の担当の者がすっと入ってきた。エリオットはクレアを開け放たれた扉の方に促す。彼を食堂に向かわせようとしているのだろう。

 クレアは苦笑した。

「まだここにいます」

「……昨日の宴会はどうだったんだ? 懇意になったお嬢さんはいたか?」

「いたか否かなんてお解りでしょう。急かさないでください。漸く独り立ちしようというのに」

 父の本気まじりの冗談にクレアは肩を竦めた。エリオットはそんな息子を見てハハハ、と声を立てて笑う。

「まあそうなんだが、お前は家を継がなければならないからな。孫の顔はできるだけ早く見たいのだ」

「話が結構飛んでいますね」

 クレアは再度、苦笑した。

「アネットとコンスタンスには会っただろうな。二人とも美しくなったろう」

「ええ」

 エリオットはクレアの顔が微かに強張った事に気づかなかった。

「アネットはそろそろ嫁ぎ先を考えなくては嫁き遅れになってしまう」

「……そうですね」

 クレアが視線を扉の方にチラリと向けた後、父に向き直った。そして給仕の者が自分の仕事に勤しんでいるのを確認したあと、彼はそっとエリオットに囁くようにして話しかける。

「それで……父上、母上は何と仰っていましたか」

「その事なんだが」

 彼らは短い間に話を進めた。


 アネットはヒルドレッドが朝食で部屋にいない間にその前の廊下を掃除していた。父の室に向かうと、中から開け放たれた扉の方へと足音が近づいて来たので、彼女は咄嗟に角に隠れた。

 朝食に向かう父かもしれないし、父の世話が終わった侍女かもしれないが。

 別に何か悪いことをしたわけではない。父は自分が使用人として働いていることを粗方知っていたが、自分の娘が使用人として掃除しているところを見たら父の気分は悪くなるに違いなかった。食べ物を勧めたりするのは娘として直接やっても違和感がないが、掃除は明らかに使用人がいるのに家の娘がやるものではないだろう。給仕とはわけが違うのだ。

 そして侍女であってもなるべく会わないで済みたいのが本音だったりする。

 やがて、部屋から人が出て来た。

「!」

(クレアだわ。こんな朝から、どうしたのかしら)

 アネットは彼が挨拶も兼ねて話しに訪れていたのだろうと推測し、その様子を心中に描いた。

 クレアは背も高く体格も良いが、父と並ぶとそれがやけに際立つ。アネットは父の体調の悪さを思い出して憂鬱になった。それくらい父が小さくなってしまったということだからだ。それでも二人が並ぶとなんとも言えない迫力がある。どちらも見事なプラチナブロンドで、ここから見ることは叶わないが綺麗なアイスブルーの眼差しもお揃いだ。コンスタンスも目の色は違えど、クレアがちょうど女になったらこうなるだろうというほど父と兄に似ている。

 それに比べて自分は何なのだろう。髪は少しだけ艶やかでも色自体はくすんだ亜麻色で意味をなさない。しかし目は鮮やかな翡翠色で、これは自分でもかなり気に入っている。

(お母さまは金髪ではなかったけれど、美しい黒髪の人だったわ)

 なぜ自分は父の白金でもなく、母の漆黒でもないのだろう。半端者の自分があまり好きになれない。

 一瞬、珍しくも母の姿が鮮明に頭に浮かんだが、すぐに消え失せた。

(そろそろ行ったかしら)

 足音が遠くなっていくのが聞こえる。アネットは掃除用具を持ち上げようと体を屈めた。これが意外と重く、持ち運ぶのはちょっとした重労働だ。

「何してるの?」

「ひゃっ」

 突然頭上から降ってきた声に吃驚して変な悲鳴を出してしまった。

(クレア!!!)

 氷海の視線がこちらを見下ろしていた。

 彼はつい先ほどまで父と話しながら階下に向かったはずだった。なぜここにいて、しかもアネットがいたということに気がついたのだろうか。

 彼女はあまりにも吃驚して口をパクパクと動かしてはまともな声が出ず、また口をパクパク…の繰り返しだ。クレアは益々怪訝そうに片眉を上げた。それすらも様になっていて姉としては嬉しいが、今この状況を考えるとどうも素直に喜べない。

「わ、わたし……掃除をしてて」

「見れば判る」

(ですよね……)

「さ、さっき、向こうに行ったんじゃないの?」

 このどもりをどうにかしたい。

「あれは父上の給仕の使用人」

 クレアは不機嫌な声を出し、笑ってこそいなかったが、不思議なことに雰囲気は心なしか柔らかく感じられ、先ほど父と話していたことが原因かと思った。

 彼は無表情でアネットの手元を凝視した。

「それ、掃除用具?」

「え? あ、うん……」

 先ほどの彼の台詞を思い出し、「見たらわかるんじゃなかったの」と返したかったが、生憎そんな度胸を欠片も持ち合わせていない。

 彼はアネットをちらりと見て、彼女の持っている掃除用具に手を近づけた。

(え?)

 が、その寸前に手を止めて突如アネットを押して突き放した。

「あっ!」

 アネットは咄嗟のことで対応しきれず、そのまま横に転んで倒れてしまった。当然、頑張って持っていた荷物は音を立てて床に散らばる。あまりにも一瞬の出来事だったので何が何だか理解できず、彼女はただ呆然と尻餅をついたまま、目の前の彼の足元に視線を向けている。怖くて顔は上げられなかった。

「さっさと行けば?」

 背筋がぞっとするくらいの、心臓があっという間に凍るくらいの冷淡な声で告げられる。喉から心臓が出そうだ。アネットは唇を噛んで荷物を持ち直し、不安定な姿勢でありながら早足で立ち去った。

 その後、クレアはアネットが去ったのを確認すると、彼女がいた場所から視線を近くの角の方に移した。そこはアネットの位置からは死角だった。

「コンスタンス。まだ食堂にいたわけじゃないんだね」

 コンスタンスがそこからカツカツと歩いてきた。彼女は兄の顔を探るようにじいっと見つめた。クレアはただ静かに微笑した。

「ええ。––––––一緒に行きましょう?」

 クレアはすっと妹に片腕を差し出した。コンスタンスは自身の腕を兄のそれに絡ませる。彼女は兄の横顔をじっと見つめた。

「それよりもお兄さま、あの女のこと相当嫌っているのね」

「俺が父上の後を継ぐのに一番邪魔になるからね」

 兄が冷たく即答したのを見て、妹は満足げに笑む。

(楽しくなりそうね)

 麗しき兄妹は長い長い廊下を優雅に歩いて行った。


 主人一家の昼食後、アネットが使用人らと一緒に食事を取ろうとすると、彼女より三歳年上の侍女がメモを片手にやって来た。彼女はコンスタンスの使用人の一人で、アネットのことを嫌っているらしい。

「アネット。これ、奥さまに言われた品物のリストなんだけど。わたし今忙しくて手が空いてないの。代わりに行って?」

 今から食事なのだから忙しいも何もないのだが、よりにもよって今それを頼む底意地は知れている。アネットは昼食を諦めメモを受け取った。

 アネットが出て行ったのを見た他の侍女がくすくすと笑った。

「ねえ、あの子この間も食事抜きだったじゃない。大丈夫なの?」

「そんな一食抜いたくらいで死んだりしないわよ。それに、わたし本当に忙しくて疲れたんだから。この後またお嬢さまにお呼び出しを食らうのよ? あの子は暇なんだから別にいいじゃない」

 開き直る同僚に何人かの侍女が賛同したようにうふふ、と笑った。

「ふふっ、そうね。今更仕事が一つ二つ増えたからって文句は言わないわね」

「それにわたしたちがあんなに汗水たらして仕事していた時に、あの子は一人良いご身分でパーティーに参加していたじゃないの。もう! ずるいったらありゃしないわ。不公平よ」

 実は彼女らとて仕事熱心ではないが、もしアネットが彼らの要求に否と答えれば、すぐにヒルドレッドとコンスタンスに報告して罰を受けさせるだろう。アネットは文句の一つも言わずに黙々と仕事をこなすしかなかった。

「それより今日は何食べるの? わたし今日は給仕しなかったからメニューわからないのよ」

「今日はねー、何とビーフシチューよ!」

「きゃあっ、わたしそれ大好物ぅ!」

 皆で一緒に仲良く食べましょう、と堅い友情で結ばれた彼らは楽しげにはしゃぎ合い、笑い合った。


(おなかすいた…)

 アネットは街中を歩いていた。周りの道行く人々は活気に満ち溢れていて日々を充実に過ごしている。それは楽しいことも苦しいこともあろうが、アネットには彼らが楽しそうにしているところがやけに大きく映る。

(もう嫌だわ。昨日パーティーに行ったからって僻んでいるのかしら……はぁ。人を虐める子たちの心理って解らない。解りたくもない)

 使用人として働いてはいるが、元は主人一家の一員なのだから寝食は自分の家である侯爵邸で済ます。そしてそんなわけで勿論給料はもらえない。元々任されている仕事が面倒で大変なものが多い上に、使用人らの嫌がらせや余分な仕事までさせられるので疲れは並大抵のものではない。病気の父の心配に、継母や双子から受ける心労も一助している。

 しかし、くよくよしていても仕方ない。助けてくれる救世主なんていないのだ。自分に降りかかったものは自分で解決しないと生きていけない。メモをざっと見直す。気のせいだろうが、街のあちこちに離れた店の名前ばかりが並んでいる。

(これとか、これとか……そんなに急用のものではなさそうだけれど。あっ! これ、これなんかはまだ倉庫にたくさんあるの、昨日見たのに! もう、あいつら!)

 普段おっとりしている彼女は、つい怒りで心中の口調が荒くなった。

(黒砂糖とか絶対要らないわ。家にきっとあるし。使い道なんてせいぜい砂糖菓子くらいしかないのに、何でこんなにたくさん……帰りは肩が重くなるわ)

 どうすれば最も負担を少なくし短時間で全ての店を回れるか思案していた。しかし、空腹で頭がうまく働かない。何せ街には食堂や茶屋もたくさん並んでいるからだ。道の向こう側のパン屋からはとても良い匂いが漂ってくる。

(ああ、昨日のパーティーは緊張で水しか飲まなかったし、今朝は掃除を終えたらもう皆食べ終わっていたし……)

 要は、昨日の夕方からろくなものを食べていない。しかもずっと働き通しだ。ヒルドレッドの気に障ることをしてしまうと食事を抜かれることはしょっちゅうあるため慣れているつもりでも、やはり空腹は立派な空腹だ。

(お金は悔しいくらいきっちり計算してあって余分なものは買えないし。こういう時は恐ろしく頭が回るのね!)

 いつもは気弱に下げている眉尻をキッと吊り上げたアネットは挫けそうになる心を叱咤し、負けじと足を動かして、やがてある店の前に立ち止まった。

『マダム・ド・フルール』

 例のポムポム姫ドレスを作ったあの仕立て屋だ。

 コンスタンスはどうやら兄が王都に戻った後から本格的に見合いを行うらしい。その度ごとに着るドレスを今のうちに何枚か仕立てておくのだろう。見合いなのだから、ポムポムドレスは勘弁願いたい。

「あら、ごきげんよう」

 アネットが店に入ると、中からくるくるした赤髪を派手な帽子とリボンで飾り立て、服も同じくけばけばしく飾り立てた小太りの婦人が出てきた。しかしなかなか似合っていてセンスの良さが窺える。彼女こそがこの店の主、マダム・ド・フルールことペチュニア・ブラウン夫人である。「フルール」とはガリア語で花という意味で、彼女は自らの名前が花の一種だったのでこれをもじって「花の夫人」という名前を店につけたらしい。これがガリア語なのは彼女の母がガリア出身だからだとか。

 話は逸れるが、今着ているドレスはかなりセンスの良いものだ。あのポムポムドレスは一体どうして誕生したのか、真相を知りたいものである。

「こんにちは。ドレスの注文をしに来たのです」

「ウェストモーランド伯爵の方?」

「はい」

 ブラウン夫人は常連のヒルドレッド母娘とよく接触するが、たまに一緒に来ていて蔑まれていたアネットには特に嫌みを言ったりせず、普通に接していた。

 彼女はアネット一人で来たのを見て、店の奥からペンと帳簿を引っ張り出して来た。彼女は真っ赤なルージュを引いた口に魅力的な笑みを乗せた。

「お疲れさまですわねえ。それで、何に使うドレスで?」

「コンスタンスの見合いに使うのですけれど。色は……この間見せてくださった紫色の生地を使いたいという要望があって」

「ああ、こちらの……これでございましょうか?」

 ブラウン夫人は丁度近くに置いてあった濃い紫色の花柄の生地を指し示した。アネットは首を縦に振る。

「ええ」

「まあ、コンスタンス嬢のことですからきっと最新の流行ものに仕立てたほうが良うござんすわね。でもお見合いと言いますと、やはりお上品なものが好ましいでしょう。フリルとリボンは控えめにして……」

 夫人は一人であれこれと言いながら見通しをつけている模様だ。帳簿にはヒルドレッドの名前とその他の情報が事細かに書き込まれてゆく。

「で、他には?」

「ええと、そうですね。ドレスとお揃いの帽子も作っていただきたいのです」

「この間と似たような型で?」

「ええ」

 彼女はまた何かをさらさらと書き足した。

「以上でよろしいのですか?」

「はい。これで全部です」

 アネットがしっかりと頷くと、ブラウン夫人はにっこり笑った。

「かしこまりました。ご注文ありがとうございます。––––––そうだわ、これ」

 彼女は懐から何かを取り出し、アネットの手に握らせた。

「え?」

「あなたももう恋人とかいらっしゃるんじゃありません?」

 アネットはマダムの突然の言葉にあわあわとしながら、頭と手を同時にぶんぶんと振り全否定する。

「ええ、そんな、とんでもないです」

「まあまあ。これ、イングリッドの菓子屋の無料券なのだけれどカップル専用だから、わたし使えないのよ。良ければ貴女が使ってくださいな」

 イングリッドの菓子屋というのはこの街の有名な菓子の店である『ハピネススイーツ』のことである。その家の娘がイングリッドだったので「イングリッドの菓子屋」と呼ばれるようになった。あの菓子屋は若い娘たちをはじめとして性別を問わず様々な年齢層の人々に人気のある、なかなかの規模を持つ菓子屋だ。

「だ、旦那さまとお二人で行かれればよろしいんじゃ」

「あの人ったら甘いものが好きじゃなくてねぇ」

「…………でも」

「じゃあ、またのご来店お待ちしていますわ」

 アネットは店を出た。嵐が過ぎ去ったような疲れを覚える。

(無料券か。お腹は空いたけど、恋人なんていないし。そういうふりしてくれる人とか男友だちもいないんだけど)

 彼女は力なくうなだれた。

 この際コンスタンスに渡して恩を売る……わけではないが、これを渡せば当分は意地悪しないはずだ。

(コンスタンスに渡そう。そうしたら食事を抜かれることもちょっとは減るかもしれないし)

 これの効力がいつまで続くかは未知数だが。

 アネットはその後も空腹を我慢していろんな店を回り、リストに書かれた品物を買い揃えていった。

 最後の店から出るともう夕焼けに空が赤く染まっている。この分だと邸に戻れば暗闇になるだろう。結構時間を捻り出して急いだつもりだったにも関わらず、これではとてもじゃないが夕食の時間にも間に合わない。ふう、と溜息を吐いた。

(今日は痩せる日なのね)

 食べないままかなり動き回ったため、正直ヘトヘトだった。この分にはどうせ遅く帰っても何も言われないだろう。あまりにも疲れたのでどこかで一休みしようとベンチを探す。

 その時、向こうから来た男性とぶつかってしまった。

「あっ、すみません」

「…………」

 咄嗟に謝ったが、向こうはこちらの言葉を聞いたのか聞いていないのか、何も言わずにさっさと行ってしまう。

(……怒っちゃったのかな)

 お腹が空いてとにかくイライラする。アネットはそんな自分に嫌気がさした。気分を変えてリストをもう一度見て買い落としがないか確認しようとメモを取るために鞄をまさぐる……はずだった。しかし、自分の手にあるべき鞄がない。

「ない!!!」

 思わず叫ぶと、先ほどぶつかってすれ違った男がそそくさと走って行くのが見えた。

「あっ、待って! 泥棒、泥棒です!! 誰か捕まえてっ!!」

 しかし、男の動きが俊敏な上に街路が家族連れで混雑していたので、近くの男らが捕まえようとしても難しかった。

 アネットは必死に走って追いかけた。人ごみを分け入ると、例のスリはなぜか道端に倒れている。その傍には長身で黒髪の、こぎれいな身なりだが野性味に溢れた男が立っていた。手袋をした彼の手には紳士の必需品である杖が握られており、状況を粗方確認すると彼が一人でその杖を使って男を張り倒したらしいことがわかる。しかも倒した本人は一糸の乱れもない。

 倒れたスリを見下ろしていた彼は鞄を拾い、その他に何か盗まれたものはないのかとでもいうようにスリの体のあちこちを探る。アネットが慌てて駆け寄ったのに気づき、スッと彼女の方に視線を移した。

 アネットは我知らず花のように笑ってお礼を述べる。

「助けてくださってありがとうございます。お陰さまで何も失くさずに済みました」

「当然のことをしたまでだ」

 彼は髪と同じくらい深い闇色の目で彼女を見つめてくる。彼女は背筋がぞくりとしたが、それはけして社交界で感じたような悪いものではなかった。

(あ、かなり良い感じの人だわ。クレアとはまた違った感じの……まあ、美しいといえば、クレアの方でしょうけど。この人は大人の男って感じ……?)

 アネットはそんなことを考える自分に苦笑した。


「あの、何かお礼をしたいのですが…」

 彼は首をゆったりと横に降る。

「礼ならいい」

「でも」

 と言っても、アネットは彼に何のお返しも出来ないということに気づく。

 彼が自分を助けたと紹介すればヒルドレッドやコンスタンスは忌々しげに何であんな子を助けるのよ、などとぶつくさ言って門前払いこそすれ、礼など欠片もしないはずだ。

(どうしよう。……あっ!)

「すみません。わたしが何か役立つものでお返しできれば良かったのですけれど、何も持っていないんです。これは頂き物ですが、もしよろしければどうぞ」

 そういって先の店でもらった菓子屋の無料券を差し出した。

 彼の上品な手袋に包まれた大きな手が彼女のむき出しの小さな手から無料券を取り上げてそれをじっと見る。

 アネットは恥ずかしくてその場から消えたかった。

(いくら何でも頂き物の菓子屋の無料券なんて、普通に考えたらないわ! いっそのこと、お名前だけお聞きして後で良いものでお返しすることもできたかもしれないのに…)

「あ、あの! お気に召さないようでしたら、お名前を教えていただけますか? やはり後日きちんとした形でお礼いたします」

「いや、それには及ばない。これをいただこう」

 アネットはほっと溜息をついた。そして付け加えるべき注意事項を述べた。

「ただ、これはカップルだけが使えるとのことですので、くれぐれもお一人では行かないでくださいね」

 彼女は冗談めかしてにこっと笑った。

「…………」

 男は半ばきょとんとした様子でこちらを凝視してくる。

(……あら?)

 何かまずいことでも言ったのだろうか。失恋とかしちゃったりして!?と焦った。しかし、その次の男の言葉は予想を超えるものだった。

「じゃあ、あんたが一緒に行かないか」

「え?」

 唐突で素っ頓狂な提案に、今度はアネットがきょとんとする番だった。

「あんたと行きたい」

「あ、ええと……」

「別に今日じゃなくてもいい」

 恋人がいるかいないかはさておき、自分と一緒に行っても差し支えないようだ。

「そうですか……。でも、よろしいのですか?」

「ああ」

 アネットは近くの時計を見た。夕焼けもそろそろ終わりに近づくが、そんなに遅くはない時間帯。今頃邸では皆で夕食の準備に取り掛かっていることだろう。しかし、邸までこの荷物を抱えて夕食に間に合う自信もなく、何よりも彼女は本当に疲れていた。

 気力も体力もあまりにたくさん消耗してしまったので最早食欲も感じなかったが、少しでも何か口に入れれば元気が出るかもしれない。

「じゃあ、今から……というのは大丈夫でしょうか」

 アネットが恐る恐る聞くと、男はなぜかとろけるような柔らかな笑みをこぼし、「ああ、そうしよう」と短く告げた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ