002 再会
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晴れた昼下がりである。
フェイン伯爵邸の人々は朝から大忙しだった。
この家の長男で優秀な後継者であるクレアが帰ってくるのだ。彼は若年で輝かしい成績を修めて卒業し、騎兵に配属、今年の初めにはには中尉に昇進するという慶事を起こした。彼はあとわずか数年で中佐や大佐に昇進することが約束されているほど将来有望である。末には将軍や軍部の大臣になるだろう。
彼とその同期たちの帰郷に際し、近辺の大領主ハミルトン侯爵邸でパーティーが開かれるとのことで、母から参加を許されたコンスタンスは気合を入れて準備に取り掛かっていた。
アネットも彼女の要望に合わせて、ドレスや装飾品、香水など、様々なものを運び込んでは侍女たちと一緒にコンスタンスを飾り立てている。相変わらず数日前の気まずさはあったものの、皆はとりあえず忙しさで紛らわすことにした。それでも、侍女たちの中にはアネットの耳にボソッと嫌みを投げるものもいたのだが。
コンスタンスは彼女が着る予定の青いドレスについた糸屑を取っているアネットを呼んだ。
「ちょっと、そこの女」
「はい、何でしょう」
「このリボン古くて嫌。捨てて」
ひらっと投げ捨てられた紫のリボンを拾う。少しだけ端がほつれているが、捨てるほどでもない。
「まだ使えますよ」
「煩いわね。わたしの言うことが理解できない?」
「……いいえ。では捨てて参ります」
コンスタンスはアネットが部屋を出る間際、「あの女、今に追い払ってやるわ」と意気込んでいた。アネットとしてはぜひそうしてほしいものである。
(誰のせいで家から出られないと思っているのよ)
父のことが心配だからという理由もあるが、第一の原因はあの異母妹である。彼女の勉強が終わるまではアネットもここに留まらなければならないらしい。課題を代わりにやったり、八つ当たりの格好の的になってくれるのはアネットだけだからだ。憎き異母姉がいなくなれば苛める相手がおらず、あのご令嬢はさぞ退屈するに違いない。
アネットが部屋を出てドアが閉まる音を確認すると、コンスタンスはアネット以外にその場にいた令嬢と使用人たち———彼女の取り巻き、つまりはアネットの敵たち———に話を振った。
「ね、もう私耐えられないわ。どうしたらあの女の鼻をへし折ってやれるかしら」
「人に命じて本当に鼻をへし折らせるのはいかが?」
コンスタンスの親友の一人、ラヴィニアがそう答えると、周りの者がそれは面白そうね、とくすくす笑う。ラヴィニアって本当に素直だわ、とも言い合った。
「そうね。それも良いけど、証拠が残っちゃうし、何よりもあの不細工な顔がさらに不細工になったらわたしたちの目が腐ると思うのよ」
「いいえ、むしろそれは整形ではなくて? 鼻が曲がればいくらかはあの顔もマシになるんじゃないかしら?」
ラヴィニアの絶妙な言い草に、興に乗って令嬢たちはきゃっきゃっとはしゃぐ。
「もし、皆さん方」
鈴を転がすような声に皆は静かになる。皆部屋の奥の上質なソファの方を向く。そこには、見事な黒髪を持つ妖艶な令嬢が上質な黄色のドレスを身に纏って上品に腰掛けている。コンスタンスよりも序列が上のご令嬢、デジレ・ハミルトン侯爵令嬢だった。彼女はハミルトン侯爵本家の一人娘で母が国王の妹である。彼女はコンスタンスも黙らせる社交界至上の姫であった。
「この間、アデレード・ハーバート伯爵令嬢の醜聞、聞いたかしら?」
令嬢の名と醜聞という言葉の不釣り合いに皆は目を丸くした。
「醜聞ですって? あの方は確か、慎ましやかで清楚なことで有名じゃなかった? ……何ですの?」
「そのご様子だとまだお耳に入れてはいないようね。彼女、男に誘われて庭でことに及んだのですって」
「まあ! 何て破廉恥な!」
「同じ貴族として恥ずかしいですわ」
皆くすくすと笑うが、コンスタンスは一瞬固まった。ラヴィニアは怪訝な目で彼女を窺う。
「ねえ、コンスタンス。聞いていらっしゃる?」
「……それだわ」
「え?」
「それよ、それ!」
コンスタンスはここ最近一番生気に溢れた笑顔を見せる。しかし、それは得体の知れない狂気を孕んでいた。
そして、その笑顔は間もなく入室したアネットに向けられたのだった。
数刻後。ハミルトン侯爵邸。
煌びやかなシャンデリアの下で、華やかに着飾った人々が心地良いパーティーを楽しんでいた。
その中でアネットは一人、緊張でカチンコチンに固まったまま大広間の隅に立っている。自分があまりにも場違いな感じがして息苦しかった。
(何でわたしがこんな所に…)
時は数刻前に遡る。
コンスタンスの命令の下で仕方なく紫のリボンを処理した後、彼女の部屋に戻ると、なぜかコンスタンスはアネットには滅多に向けない満面の笑みで迎えてきた。
アネットは背筋が凍るかと思った。こんな表情をしていた時は、彼女はいつも何らかの形で自分を貶めてきたものだった。今度は一体何を企んでいるのかしら。しかし、変に問い質して刺激したら逆に危ない。どうしようもなく黙っているとコンスタンスは突然こちらに来てアネットの細腕を掴み、乱暴に部屋の中央まで連れて行くではないか。アネットは九月生まれで、誕生日を過ぎればコンスタンスより二歳年上になる。が、母系の影響かコンスタンスは十四の頃には既にアネットの身長を抜いていた。しかも栄養状態の良い異母妹は体格も良く、食事をしばしば抜かれて一日中働き通しのアネットが敵うはずもない。
無理やり連れて行かれた先には等身大の姿見と、その隣にはかわいらしい一人がけのソファがあって、上には色とりどりの布地やドレスが積み重なってある。
「ねえ。今夜はわたしと一緒にパーティーに出ましょうよ」
「え?」
(本当に何を企んでいるの?)
「あなたならそうね。これが似合うかしら」
コンスタンスは目を白黒させるアネットを前にドレスを選び出した。
「じゃあ、また後で。コンスタンス」
「ごきげんよう」
デジレやラヴィニアらご令嬢たちはハミルトン侯爵邸に戻る。ラヴィニアたちは勿論他の領地に住んでいるのだが、ここ数日はハミルトン邸で滞在するという。
「ええ。後ほど」
コンスタンスは侍女から渋々といった体で差し出された数点のドレスに目を通し、選び取ってはアネットに押しつけて確認する。しかし華奢で小柄なアネットにコンスタンスの服はどれも大きく、彼女は苛々としてため息を吐く。アネットは何事かと身構える。
「あーあ。貧相でみすぼらしいから、わたしの服だとサイズが合わないわ」
そこで、後ろに控えていた侍女たちのうちの一人が口を開き、慎重に提案した。
「……お嬢さま。確か以前ご購入されたもので、サイズが一回り小さいものでお召しになれなかったものがございます」
コンスタンスはぽんと手を打った。
「あぁ。そうね。それがあったわね。新品でいい感じのドレスを着せるのは癪だけど、まあ良いわ」
考えても考えても理解しがたい状況にアネットは目を回した。
(どうして。何か変なものでも食べたのかしら。この子は一体どうしたの?)
そうこうするうちに彼女らはあっという間にアネットのドレスを合わせ、髪をいじり始めた。
「あ、あの…」
「黙って。たてつく気?」
コンスタンスは自分の邪魔をされると異常なほど癇癪を起こす。アネットは彼女の様子に言葉を喉の奥にしまい込み、されるがままになっていた。
そして彼女は自分の準備に忙しいヒルドレッドを呼び止め、アネットをパーティーに連れて行くと進言したのだった。驚く母を置き去りにした彼女はアネットを馬車に乗せた。後から馬車に乗り込んだヒルドレッドに睨まれた。アネットはますます縮こまるが、背筋を伸ばそうと努力した。
(コンスタンスが何を思っているのかはわからないけれど、怖気づいちゃお終いよ)
アネットは元々そんな図太い性格ではない。どちらかというと気弱であり、控えめで慎ましやかな性格だ。数年の虐待を耐えて少しは気丈になったものの、本質的な面では恐れもするし、緊張もするし、萎縮もする。
今まさにその本来の性格が丸出しにされそうだった。
そして現在に至る。
アネットは大広間の自分と反対側の壁に備え付けてある数枚の大きな鏡を見つめた。自分の姿が映っている。
彼女は今、淡い緑のしっとりとしたイヴニングドレスを着ていて、緩やかに波打つ亜麻色の髪には深緑のリボンと赤い実を模した小さな玉でできた可愛らしい髪飾りがついておある。髪はまとめてアップにし、女性らしい繊細な線を描く肩とうなじが露わになっていた。コンスタンスはさすがに宝飾品まで貸す気は無かったらしい。アネットは首飾りも耳飾りも何もつけてはおらず、白く見える鎖骨と胸元がむしろ映えていて衣装の危うい不完全さを醸し出していた。
先ほどからチラチラと男性の目線が来ているようで居た堪れない。初めはそれが果たして自分に向けられているか確信していなかったのだが、どうもそうらしい。とりあえず息苦しさを紛らわせようと近くで給仕をしていた侍女を止め、水の入ったグラスを頂戴した。
(コンスタンスはどういうつもりなのかしら……。みすぼらしいわたしを見せひけらかすわけでもないんだし、でも虐めるわけでもなく放置されているし……。一人で自由にしていろってことかしら。でもありえないわ。何か裏があるはず)
もしかしたら。万が一の確率でコンスタンスが純粋に、「たまには」とアネットを宴会に参加させようとしたのかもしれない。裏表ない厚意かもしれないのに、裏を読もうと何でも疑ってかかる自分が悲しかった。
(でも……)
これまで儚い期待をして毎度裏切られて傷ついたのは自分だ。勝手に期待して勝手に惨めな思いをして。
(今回もそんな風にならないようにしよう。自己防衛して悪いことはないわ。どうせわたしをまた貶めようとしているのよ。弱くならないで、アネット)
我知らず水を一気飲みした後、手持ち無沙汰な状況を耐えきれず、腰掛ける椅子がないかと辺りを見回したその時だった。
「お兄さま!」
コンスタンスのはしゃいだ声が聞こえる。アネットは硬直してしまった。コンスタンスがそう呼べる人はただ一人。
「––––––コンスタンス」
遠くにいるわけではなかったものの、騒がしいはずのパーティー会場で、それほど大きくもない彼の声がここまで聞こえてくるというのは、よほど自分の意識が集中していることが解る。以前よりもさらに低くなったような声は、しかし、聞き間違えるはずもなかった。
(……『彼』だわ)
アネットはグラスを近くのテーブルに置き、声のする方向に顔を向けた。
すらっと高い身長。凛々しく軍服に包まれた均整のとれた身体。女性なら誰もが振り向くであろう美貌。月光のような白金の髪。氷海の色を宿す切れ長の目。
彼は何気なく会場を見渡し––––––その目が、こちらを射抜いた。
「っ!」
アネットは息を詰まらせた。さっと顔をあらぬ方向へ向かせ、身を翻した。ほぼ走るようにして無我夢中で外に出る。幸いここは一階。外に出ると広い庭に続くようになっていた。木がたくさん植えてあって茂みも豊かだ。暫くの間はここで身を隠し、心を落ち着けよう。
「…………」
そう思ったところで自分の愚かさに笑えてきた。彼が追いかけてくるわけでもないのに、身を隠す必要はどこにあると言うのだろう。自意識過剰だ。
(わたしったら、ばかね)
自嘲めいた笑みを浮かべつつ、辺りを見回す。どうやら随分奥まったところまで来たようだ。
(クレア、また一段と成長したのね)
自分の手の届かないところに行ってしまう。どんどん遠ざかってしまう美しい弟。昔の幼い姿は見る影もない。
そろそろ大広間に戻ろうと足を踏み出すと、突然、横から男の声がした。
「失礼、お嬢さん。見かけたことがない方だと思って…」
アネットがびくっとしてそちらを見ると、そこには上質な服を身に纏った、二十代前半とみられる男性が立っていた。
「………どなたですか?」
「まあまあ。君のような美しい人を見逃しておけなかった男とでも名乗っておこうかな」
何とも胡散臭い言い回しだ。名乗る気は無いらしい。
「せっかくだからちょっと楽しまない? 可愛いのに損でしょ」
「い、いいえ……わたし、戻らなきゃ」
この状況。身体が震え出した。まずい、早く逃げなきゃ。じりじりと迫ってくる男に怯えるアネットはただ後ずさりするしかない。
「実はさっきから君に興味があったんだ。コンスタンスと一緒に来たよね? 親戚? それとも友人? 名前は何て言うの?」
「あ、あの。わたし、は……」
「おいでよ。楽しいことしない?」
伸ばされた手が小さな手に触れる。背筋に鳥肌が立ち、その手を振り払おうとしたその時だった。
「こんばんは」
聞き覚えのある美声に、アネットは硬直した。なかなか動かない首を無理に捻れば、先ほど会場で見かけた彼が立っていた。
三年前よりもさらに男らしくなった弟。
「ああ、確か君は、コンスタンスの……兄君かな?」
「覚えていただけて光栄ですね」
彼は氷の美貌に似合う冴え冴えとした微笑を浮かべていた。その凄艶さに背筋をぞっとしたものが駆け巡る。
「ところで、何の用だい?」
白々しく問う男にクレアはただ穏やかに答えた。
「そこのお嬢さんに用があって」
一瞬だけ、クレアと目が合った。
「すまないな。このお嬢さんは先約があって」
そう言って男はアネットに更ににじり寄った。
「それ本当? 姉さん」
いきなり不機嫌さが増した声でこちらに話を振られ、アネットが戸惑っていると、隣に立っていた男は状況を呑み込むのに驚愕を隠せなかったらしい。
「は!? 姉さん?」
クレアは皮肉げに笑んだ。一歩一歩とこちらに近づいて来る。
「––––––それともお楽しみの最中を邪魔した?」
「っ……ちが、う」
アネットは目の中から熱い雫がこみ上げる感覚に襲われ、掠れた声で否定した。彼にわたしの否定はちゃんと届いているのだろうか。
その心配は無用だった。
「そういうことで、戻っても良さそうですね」
「お……おい!」
男がアネットの腕を引っ張るより先に、クレアが今度は大きな歩幅でずんずんと近づいてきた直後、彼女の手首を掴み、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
アネットは翡翠色の目を丸くして捕らわれた手首に視線を注ぐ。思いの外の力強さに、ただただ戸惑った。
その後、クレアはすぐに手を離した。
彼は冷ややかに男に一瞥を投げると、アネットに向き直る。
彼の目はぞっとするほど艶やかだった。
「戻ろうか、姉さん」
「う、うん……」
距離を置いて行こうとしたが、こちらが動くまではそのまま待つことに徹するらしい。アネットは諦めの溜息を呑み、動かない足を運ぶのだった。
カツ、カツ。二人分の靴音が石段に響く。
隣に並ぶと改めて彼の成長ぶりを感じた。まず、頭一つ分は優に差があり、彼女の頭が彼の胸にやっと届くくらいだった。そして三年前より肩幅が広くなり、だいぶ鍛えたのか軍服の上からでもその均整の取れた体つきが容易に想像できる。美少年とも言えた顔つきは今ではすっかり男の色香に満ちていた。彼は元々年齢の割に落ち着いていて大人びていたが、これではどちらが年上か判らなくなってしまう。
「あの」
アネットが下を向いたまま勇気を振り絞って口を開くと、クレアの視線がこちらに移ったのを感じた。
「ありがとう。その、助けてくれて……」
彼が自分をわざわざ助けてくれるほどの仲でもないことは重々承知している。守ってもらえるくらいに慕われていると自惚れるつもりも毛頭ない。しかし、先のあの状況は自分が助けられたという事実がどう見ても明白だ。彼は自分を助ける意志があって実行してくれたのだと思う。しかし……。
終わりのない考えに終止符を打ったのは彼の冷淡な一言だった。
「俺が邪魔したんじゃない?」
アネットはたった今耳を打った言葉をうまく飲み込めず、驚愕に目を見開いて横を歩く彼を見上げる。彼は氷海の双眸でじっと彼女を見据えていた。
「気づけば男を誑かしているし。相変わらず男遊びが激しいんだね」
「…………」
アネットはその突き刺す視線に耐えられず、顔をまた下にする。息を呑んだのを気づかせないように繕うので精一杯だった。
彼はフッと皮肉げに形の良い口を歪ませた。
「否定しないんだ」
「……否定したって、信じてくれないじゃない」
「姉さんは嘘つきだから」
彼女は下を向いたまま瞠目した。
「今まで何人と寝た?」
呼吸が、止まった。
彼の言葉が刃となって胸に突き刺さる。心臓を抉られ、淀みない血が噴き出るようだった。視界がまた徐々にぼやけていく。
(知ってるわ。わたしを嫌っていることくらい。でも、痛い)
アネットは不規則な呼吸と零れ落ちそうな雫をごまかすように俯いたまま、震える唇を噛み締めた。顔を上に上げ、彼の方を見もせず前だけを見つめる。つっかえそうになりながらやっとのことで口を開けた。
「––––––わたし、先に戻るわ」
彼女は振り返りもせず一目散に立ち去った。
会場に戻ると、上機嫌なコンスタンスとその取り巻きたちに出くわした。
「あら、お姉さま。庭で何をしていたんですの?」
彼女とは一言も交わしたくなかったが、人前で面と向かって話しかけられれば応答しなければならない。
「少し風にあたっていたわ」
コンスタンスの傍にいたヒルドレッドは周りの大人たちにアネットを紹介すらしなかった。アネットが彼らの横を通り過ぎようとすると、何かが足に引っかかった。気がつけば前につんのめって転んでしまった。直後、裾から何かがすっと急いで抜けていった。
どうやら誰かが足を引っ掛けたらしい。
振り向くと令嬢たちが彼女をジロジロと見てはくすくすと笑い合っている。扇で隠してはいるが、その下に現れる嫌悪の微笑みがいかに醜いかを知っている。
アネットは立ち上がってドレスを軽く払い、鼻の奥がツンとなるのを堪えながら大人しく隅の椅子に座った。
(パーテイーなんて、二度と参加するものですか)
とても惨めで卑屈な自分。自分を哀れむ趣味はないが、こんなことを思わざるを得ない。
早く家に帰りたい。早くあの狭くて殺風景な屋根裏部屋に籠りたい。少なくともあそこにはこんなにも自分を絞め殺すような視線はないのだから。ここでは思いっきり泣くこともできない。やはりあの時コンスタンスが引っ張った時に何としても断っておけば良かった。
「あらクレア、どこに行っていたの! 早くこちらにいらっしゃい。こちらはハミルトン侯爵の……」
ヒルドレッドが晴れやかな声で自慢の息子を呼び寄せる。隣にはコンスタンスが勝ち誇ったように微笑み、クレアの真向かいには艶やかな黒髪の麗しい女性が立っていた。ハミルトン家のデジレだ。
見渡せば、皆誰かしらと一緒にいる。喋り合い、笑い合い、ダンスを共に楽しむ。自分のように一人で座っている人も何人かいたが、そのうち誰かに声をかけられ席を立っていく。
周りの地面がどんどん崩れていく気がした。くだらない比喩と想像だったが、こうでもして気を紛らわせないとやっていけない。
アネットは、自分を着飾らせわざわざこのパーティーに連れて来たコンスタンスの思惑が何となく解った気がした。
(こういうことだったのね)
帰りの馬車の中には、ヒルドレッドとクレア、コンスタンスだけが乗っていた。ヒルドレッドとコンスタンスは今日のパーティーに大満足だったらしくその話に花を咲かせ、クレアは妹の隣で背を座席に預けて腕を組み、目を閉じていた。
ヒルドレッドは嬉々として上ずった声で言った。
「ハミルトンの方々はクレアのことをかなり気に入ったようだわ。あのお家との縁談は悪くないし、進める価値はあるわね」
「そうね。デジレは社交界令嬢を率いるくらいのお姫さまだけど、今までお兄さまみたいな人とは付き合ったことがないんでしょうね。ずっとお兄さまのこと見つめていたわ。お兄さま、あの子のことどう思う? 好き?」
話を振られたクレアは目を開けずに答えた。
「可愛く着飾っていたね」
「そうでしょ! あの子センスも良いし、頭も切れるのよね。半分、あの子のお陰で楽しいものも見られたわけだし。あーあ! せいせいした。お母さま、見ていらっしゃった? あの女の惨めな感じったら!」
その時クレアが目を開けたのを二人とも気づいていなかった。
「……ああ。あの娘ね。あなたがいきなり連れて行くって言い出すものだから、どういうつもりかと思えば、そういうことだったのね。淑やかなふりしてあんなに軽率な娘だったとは嘆かわしい」
「でもおかしいわ。会場出て行った後からすぐに戻って来たじゃない。早めに手配をしたのだけれど……やっぱり急すぎてわたしの意図が解らなかったのかしら、あの男たち」
コンスタンスが考え込むように顎に指先をやると、最後の方はほとんど聞こえなかったのでヒルドレッドは首を捻る。
「何て言ったの? 聞こえなかったわ」
「ああ。ええ、えっと。何でもないですわ」
コンスタンスが訥々とごまかすと、クレアが横目でチラリと妹を見た。
「コンスタンス」
「なあに?」
「楽しかった?」
兄の冷ややかで魅力的な笑みは妹の目で見ても綺麗だと思った。コンスタンスは愉悦に満ちた笑みを美顔に乗せる。
「当たり前よ。ここ最近一番楽しかったわ。そうだわ、今度お兄さまも一緒に遊びましょうよ。随分と享楽的な遊びですけれど、楽しめるわよ」
「コンスタンス。あなた何をやって……」
「あら、いやね今さら。決まってるじゃない。あの女いじりよ。いつものことじゃない」
「なるほどね。でも、ほどほどにしなさいね」
「もちろんよ」
クレアは何も言わず、上質な座席に背中を預けて窓外の夜空を見ていた。
コンスタンスはそれを無言の肯定と受け取った。
その頃のアネットはというと、御者の隣に座っていた。
この壮年の御者は新しくヒルドレッドによって雇用された者だった。大きな体躯にこげ茶色の目と口髭が彼を熊のように見せる。アネットとは言葉をあまり交わさなかったこともありそれほど親しくなく、ヒルドレッドの前では尚更アネットに優しくすることはないにせよ、特に貶しや蔑みをするわけでもなかった。彼は日々の生活のための賃金を得るために雇われ、仕事に忠実なだけである。アネットはそういう人々が自分の味方でないからと嘆くほどの非常識な人間でもない。彼が自分を軽蔑して虐げに一助しないだけでも感謝していた。
アネットはそっと謝った。
「あの、わたしのせいで席が狭くなってしまって……ごめんなさい」
「お気になさらず」
「!」
彼は前を見たままだ。口調が明らかに主人一家の一員に対するもので、驚いた。アネットは勇気を出して恐る恐る尋ねた。
「………失礼ですが、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「トムです」
落ち着いた低音の返事にアネットは嬉しくなった。
「わたしはアネットと言います」
「存じております」
アネットは心が温かくなるのを感じた。彼女はにっこりと微笑んで言った。
「あなたの立場もありますし、わたしには他の使用人の方々と同じように接してくださいね」
「………ああ」
「トムさんと話したことがなかったから、今回話せて良かったです」
「そうだな」
邸に到着すると、アネットは何事もなかったように席を立ち、ドレスが汚れないように飛び降りた。トムはアネットの降り場に回ろうとしたらしいが、当人が既に降り立ったのを見て、そのまま主人一家の乗った扉を開けることにしたようだ。
三人は馬車から降りて邸の中に入って行った。アネットはトムに目だけで会釈すると、一人でひっそりとその場を後にした。
心身共にくたくたな一日が終わった。
アネットは固く狭いベッドに薄いシーツを敷き、それと同じくらい薄い掛け布を広げた。その後椅子にかけてあった自らの侍女服を取る。傍に一旦置いておき、着ていたドレスを慎重に脱いだ。
(そういえばこれ返さなきゃ。でも、本当に会いたくない)
ドレスは綺麗だが着る人が違っていたのだ、とアネットは思う。今夜だけのお付き合いだった服を脱ぎ、髪飾りも解いて慣れ親しんだお仕着せに腕を通した。急いで邸内の明かりの程度を確認しなくてはならない。一日の仕事が終われば、早く沐浴を済ませて寝る。
(はあ……やっぱり慣れない宴会とかは出るものじゃないわね)
いくら動揺していたとはいえ、一人で庭に出るなど迂闊だった。危うくどこかに連れて行かれそうになった。自分は過去の教訓を全く生かせていない。
そして思い出すのは三年ぶりに会った弟のこと。
(本当に…帰ってきたんだわ)
彼に忌み嫌われているのは解っていたつもりが、それを露骨に示されればさすがに堪えた。 アネットは窓より差し込む月の光を背に儚く微笑んだ。
「……仕方がないよね」
ポツリと紡がれた言葉は暗闇に溶けて消えた。