001 ウェストモーランド伯爵邸
ブリタニア王国のアングリア地方に位置する立派な屋敷。規模からして屋敷と言うよりは城や小さな宮殿に近い。ここは由緒正しいウェストモーランド伯爵フェイン家の城館である。外装に劣らぬ華麗さを備えた内装。どこもかしこも細やかに手入れされており、眩しいほどだ。
パシン!
乾いた音が廊下を駆け巡る。続いて、苛立ちと怒りに満ちた甲高い声が響いた。
「邪魔よ」
声の主は伯爵の次女、コンスタンス・フェイン。天然のプラチナブロンドを持ち、菫色の目であらゆる男性を虜にする。現在彼女は社交界で話題となっている。その類稀なる美貌に立ちはだかる女性は皆無に等しい。
「何をしているのよ」
彼女は柳眉を吊り上げ、憎々しげに目の前で座り込んだ、亜麻色の髪を持つ華奢な女を見下げる。
アネットはたった今受けた、ここ数年においてもう何度目かわからない平手打ちにバランスを崩して倒れたものの、すぐに立ち上がった。痛みを覚える段階は過ぎて久しい。
「………掃除を、」
「は?何て言っているのか聞こえないわよ」
彼女は伏せていた面を上げた。翠の目は真っ直ぐに前の令嬢を見据える。
「掃除をしていたわ」
「もう、お母さま! この女どうにかしてよ! ただの使用人のくせに、何様のつもりでそんなへらず口叩くわけ!?」
また始まった癇癪。
あなたこそ何様のつもりよ、とアネットは心の中で毒づく。しかしそれをぐっと堪えて喉の奥に呑み込み、淡々と告げた。
「……今、奥さまはいらっしゃらないのです。お茶会にお出かけになりましたから」
「あらそう。あんたが未だに娼婦として下町をうろうろしていないことを感謝しなさいよね」
父が五年前に病にかかり、暫くして床に寝たきりになると、これ幸いと喜んだ継母とその子らから侍女と同じ扱いを受け始めた。しかし、虐待は彼らがこの家に入った頃からじわじわ始まったことなので、改めて言及する事ではない。元々あったものが父の病を機に表立っただけの話だ。
虐げられる度に悲しくて悔しくて、心が冷えて刺々しくなる。これではだめだと毎回自分に言い聞かせるが、さすがに気が参ってきた。虐待されて初めは涙に枕を濡らす日々が続いた。父が寝床での生活を始めたせいで外出できなくなると、彼らはアネットを屋根裏部屋に押しやった。腹立たしさを覚えるも、どうしようもない。侯爵の子どもで母もおらず後ろ盾のない自分より、侯爵の現在の配偶者で女主人としての采配を振るう継母の方が権力が大きいというのは当然だ。そしてその実子らが自分より待遇されるのは仕方ない。
母が失踪する前、時たま母と手を繋ぎ下町に連れて行かれることがあった。当時幼かったアネットは母の目的をあまりよく理解しなかったが、あれは一種の慈善活動だった。母は領地で穫れた野菜や穀物を農民から買い上げ、下町の貧民街で配っていたのだ。その時見た家、道端、そして人々……どれもが薄汚れくすんでいて、どんよりと暗く疲弊していた。家なき子、親なき子もたくさん見かけた。盗みを働く子どもも少なくなかった。だから家があり、親がいて、衣食住に困っていない自分は本当に恵まれた幸せ者なのだ。しかも学校までしっかり通わせてもらった。何か愚痴を言える立場ではない。
そう思って、耐えてきた。
「目障りよ。ここを片付けたらとっとと消えて」
コンスタンスはそう言い捨てて長い白金の髪を靡かせつつ踵を返した。
返事はせず、黙々と掃除用具を片付ける。先ほどはその辺の掃除を既に済ませていたのであとは用具を片付けてここを去るはずが、運悪くもコンスタンスと遭遇してしまったのだ。
(あなたこそ消えてくれたらいいと思うわ)
しかしここで言い返すとろくなことがないということは経験済みである。できるだけ刺激しないようにするのが一番だ。
(もうここも終わったし、あとは洗濯物を取り込んで……そういえば明日コンスタンスの作文の先生はいついらっしゃるんだっけ)
継母の当初の計画としてはアネットを学校も通わせないつもりだったらしいが、それだけは譲れず、強気で交渉した。使用人の仕事とも両立すること、使用人として働いていることを父にはうまく取り繕うこと、中等教育課程を十七で卒業したら大学進学は諦め、正式に使用人としてここで働くかもしくは完全に家を出ることを条件にした。結果はアネットの粘り勝ちだった。独立したい気持ちは山ほどあったが、状況がそれを許さない。学校を卒業すると病床の父が心配で彼の面倒を見たかった。そしてコンスタンスの代わりに宿題などをやってくれる人が必要で彼女が駄々をこねたこともあり、現在はここで使用人として働いている。夜には求人誌や市場に出かけた際に手に入れたパンフレットなどを見ては条件が良さそうな仕事を探す日々だ。
いつ追い出されてもいいように。
(ああ、そうだわ。あの子に宿題任されたんだった)
アネットはこめかみを押さえた。コンスタンスは家庭教師から論文課題の及第点をもらえず、課題をアネットに任せっきりにしたのだ。急がないと。自分では何もできないくせに、風呂に入る前には渡さないと癇癪を起こす。
––––––わたし、風呂に入る時からは一日のリセットの時間なの。その前までやって来なさいよ。
ちなみにこのセリフは『ポムポム姫名台詞』上位三位に入る傑作である。ポムポム姫とはコンスタンスにアネットが心の中でつけたあだ名で、彼女が数年前の舞踏会で着込んだドレスに因む。流行に則って仕立てたクリーム色のドレスだ。歩くたびに上下に激しくポムポムと揺れるあれは、ドレスというよりウェディングケーキだった。再度強調するが、ドレスではなくケーキである。
嫌がらせなんていうのは、コンスタンス一人だけならまだかわいいものである。しかし、ここに継母が加わればさすがに対処しきれない。そして更に……
「彼」が加われば、なす術がなくなる。
夕方。洗濯物も取り込み、コンスタンスの部屋に宿題を届けに行った。案の定、母の不在をいいことに連絡を取り合った彼とお楽しみの最中だったらしく、勿論のことだが部屋に入れられなかった。ドアの前に立ち、彼には聞こえないような声で、
「よりにもよってこんな時に! 出て行きなさいよ間抜け」
などと罵倒を浴びせられ、文字通り門前払いされたのだった。そもそもアネットはコンスタンスの部屋に全くもって興味はなかったが、なぜかものすごく警戒され、未だに一度も彼女の部屋の掃除を任されたことはない。もしかして、アネットが自分の部屋を漁るとでも思っているのだろうか。
気分はなかなかに悪い。せっかく人が忙しさの合間を縫ってやってあげたというのに……。しかし、だからと言って彼女に感謝を求めているわけでもない。それはとうの昔に諦めた。モヤモヤとした気持ちを抑えようとせっせと使用人の合同浴場で風呂を済ませ、屋根裏部屋に向かう。部屋の中は殺風景だ。勉強机、それに付随する椅子、小さな寝台しか置いていない。しかし、一つだけ彩りが添えてある。彼女は机の上に置いてあった、花の生けてある水差しを手に持って屋根裏部屋を出た。向かう先は父の部屋である。勿論アネットの今の服装は使用人のそれだ。
アネットはそっとドアを叩いた。本当は継母の許可なしに入ってはいけないのだが、彼女がいないからといって、代わりに妹に許可を得るのもおかしい話である。
(奥さまを迎えに行くまでは部屋でじっとしていよう)
先ほど彼女を訪れた時には面食らった。どうやら最近できた恋人のようだ。さすがにアネットにはコンスタンスが彼を呼ぶのを引き留める力はなく、こればかりはアネットが注意をしなくてもそのことで継母にとやかく言われることはない。アネットはなるべくどこかの部屋で空気のようにしているのが一番だと思った。
実は三年前のある出来事を境に、コンスタンスの恋人や男友だちとはできるだけ距離を置こうとしている。その出来事があった日からコンスタンスのアネットに対する虐待や嫌悪も加速した。
「お父さま、お休みですか?」
傍によると、白金の無精髭もそのままに両目は閉じられており、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。近頃はかさついた肌が青白みを増し、線がだいぶ細くなった気がする。
(花だけ替えておこう)
庭師のパークスは昔から仕えている者でアネットと仲が良い。本来なら三年前に解雇されるはずだったものの、腕がとても良く庭師の職業柄、屋敷の権力争いに参加するほどの者でもないために今もなお屋敷に残っている。アネットが心を許せる数少ない内の一人だ。彼から週に一回の割合で新しく花を貰い、父の部屋に飾る。その都度前の枯れかけた花は自分の部屋に飾っている。
その時、窓の外で馬車の音がした。
「お父さま。奥さ……お母さまがお帰りのようですわ」
コンスタンスはどうしているのかしら。母の帰宅に気づいたら今頃は慌てて服を着込んでいることだろうか。少し面白そうだ。
「それにしても、最近のお茶会は随分長いですこと。もう日も落ちているというのに」
近頃、継母の外出の頻度はさらに増した。朧げに告げられる行き先は日ごとに異なるらしいが、帰宅時間は大体同じ頃である。
「じゃあ、また今度来ますね」
彼女は答えない父にそっと告げた。
父の部屋を後にしてエントランスに向かうと、丁度使用人達が出迎えをしているところだった。
「お帰りなさいませ、奥さま」
この家の女主人、コンスタンスの実母、そしてアネットの継母であるヒルドレッドは周囲を見回す。
はじめて出会った時から黄金の髪と華やかな顔立ちは変わらずそのままだが、その雰囲気は年齢を経て若干神経質さを醸し出すと同時に、あの時の質素さと清楚さはどこかに消え失せていった。今目の前にいるのは真っ赤なドレスで派手に着飾り、自信と傲慢に溢れた王妃顔負けの貴婦人だ。
ヒルドレッドは使用人の一人に菫色の目を固定した。
「コンスタンスは?」
「あっ、えっと。その…」
使用人は皆目を床に落とす。
「主人の娘の位置も知らないとはどういうこと?」
ヒルドレッドの気迫にその場はしん…と静まる。
「そこの娘」
「はい」
アネットはこの呼び名が自分の持分であると知っている。
「コンスタンスはどこ?」
「お部屋にいらっしゃいます」
アネットははらはらと緊張していたが、一方では早くコンスタンスがどうなるか見てみたいという矛盾した気持ちを抱えていた。
ヒルドレッドは無言で娘の部屋に向かった。カツカツカツカツとけたたましく鳴る音。高いヒールはちっとも黙ってくれなかった。
扉の前でコホン、と一つ咳払いをしたヒルドレッドは娘を呼ぶ。その際使用人は全て追い払った。
「コンスタンス!」
「はいお母さま。どうなさいましたの?」
扉を開き、けろりと何事もなかったように余裕綽々に振る舞うコンスタンス。アネットは心なしか失望を覚えた。
(なんだ、もう恋人は逃げたのね。コンスタンスは何とか叱られずに済んだってことか。残念……って、何考えているの! わたしったらこんなこと考えちゃって……だめね)
アネットは自分の中の悪魔に失望しつつ、コンスタンスの部屋の方に伸びる階段を見た。
コンスタンスはこういうことでは非常に頭が良く回る。恐らく何らかの対策を立てたのだろう。アネットとしては、その良い頭をなんとか勉強に活用してほしいと思う。
「この母が呼んでいるのに、聞こえなかったのですか」
「いいえ。ただ最近、お母さまはお忙しいから、ここで直接お話ししたくて呼び寄せた…と言ったら信じてくださる?」
良く言えたものである。
アネットはそろそろと他の使用人達と共に持ち場に着いたのだった。
「……まあ、良いわ。それで?」
「あのね…」
その晩、コンスタンスは何とかたわいない話で母を騙せたと思っているようだった。見る限り、ヒルドレッドは全てお見通しらしいが、騙されてやったらしい。
ヒルドレッドの帰宅から間もない頃。
居間にアネットは執事が慌ただしくヒルドレッドのいる居間に駆けて行くのを見た。
「奥さま、電報です」
翌朝。気持ち良い朝というには幾分霧が濃くて何ともいえない。そして春先の朝らしく肌寒かった。
「なりません」
「なぜですの!?」
朝からずっとこの調子だ。隣で給仕をしているアネットは頭をキンキンと鳴らすコンスタンスの甲高い声に耳を塞ぎたくなるのをやっとのことで抑えていた。
同じような性格の母と娘の口論で一日が始まるなど勘弁してほしいものだ。
「お兄さまが帰ってくるのに、わたしがお迎えをしないのなら誰がすると仰るんですか!」
ことの起こりは昨日届いた電報である。この家の長男でコンスタンスの双子の兄であるクレアが、一週間後のハミルトン侯爵邸での社交パーティーに合わせて一旦帰郷するとのこと。そしてその時は同期も何人か一緒に参加するとのことだった。
ハミルトン侯爵はここ近辺でフェイン伯爵より一段格上の大領主で、彼の邸でのパーティーとなると相当大きなものになる。
「皆行くのにわたしが抜けるとか、ありえないわ! それに、妹がいなかったらお兄さまに変な女が近づきやしないか監視もできないじゃない。お母さまはお兄さまがそういう女どもとつるんでも良いんですの?」
(クレアに限ってそういうことはないと思うけど…)
クレア・フェイン。彼はもうすぐ二十歳を迎える。彼は双子の妹と違って優秀だ。
現在、法で指定されている教育課程は初等学校と中等学校と高等学校の三つに分かれている。一月から新年度が始まる。十歳から十三歳までを初学、十四歳から十七歳までを中学、それ以降は高学とし、初学と中学は義務教育とされている。両課程は基本四年間である。高学はそれこそ様々である、基本は三年間である。中には学ぶものによっては四年間であるものも存在する。また、成績が芳しくなかった者のための留年制度が存在する一方で、成績優秀者のための飛び級制度が存在する。クレアの場合、本来は十七歳で卒業するはずの中学課程を飛び級して二年早く終わらせ、士官学校の中では国一番と呼ばれる王立第一士官学校にすぐさま入学した。その上、水準がかなり高く厳しい士官学校で、本来なら三年間で行われる大学課程をたった二年で終わらせたのは、開いた口が塞がらないほどのものである。
鬼才と呼ばれた彼は、たったの十七歳で騎兵少尉に任官し、現在昇進して騎兵中尉である。
アネットは彼の名前を聞くと心臓を鷲掴みにされたような息苦しさに悩まされる。良くない意味で動悸が激しくなる。しかしその動揺を表出するわけにはいくまい。彼女は落ち着き払った様子で自分の仕事に勤しむ。
ヒルドレッドは苛立たしげに声を荒げた。
「では家で迎えれば良いでしょう。なぜわざわざパーティーに行くのです?」
それは決まっている。出会いがあるからだ。兄と同じように国のエリートである男たちとの出会い。
「それは勿論、お兄さまに一刻も早くお会いしたいからですわ」
淀みなく流れ出る嘘、嘘、嘘。
上手すぎて彼女が眩しいとさえ感じられる。昔からあんな調子だ。
「…………」
「もう、お母さま! わたしもう十九よ? 一人前なの。それに、いつも参加しているのに今回だけ禁止とかおかしいですわよ」
十九で一人前なのに未だに家庭教師から及第点をもらえず、軽蔑する使用人に泣きつくのはどういった了見だろうか。
「いいでしょう」
「本当に? 二言はなしよ」
いつもの令嬢ぶりはどこぞにやり、目に見えてはしゃいでいる娘にヒルドレッドはぴしゃりと言った。
「その代わり、お兄さま以外とはあまり馴れ馴れしく話さぬように」
「わかったわ」
(これはわかっていないわね)
アネットは苦笑を抑え、あくまでも無表情を装う。コンスタンスは男好きだ。彼女が果たして母の言うような聖女ぶりを果たしてくれるのだろうか。
二人は朝のメニューであるベーコンエッグにナイフを入れる。 コンスタンスは至って上機嫌だ。
「お兄さまに会うの、久しぶりね。いつ以来でしたっけ」
「去年の冬王都の郊外であった時以来でしょう。今年の夏はずっと都にいたから」
アネットはその時彼らに同行しなかった。当時、理由は覚えていないがコンスタンスの怒りを買い、部屋に閉じ込められていたのだ。よって実質、アネットが彼に会うのは三年ぶりということになる。
どう成長しているのだろうか。記憶の中では細身で相変わらず彫刻のように美しく––––––冷淡な彼。
「あ、そうでしたわ。手紙で確か、成績がまずいって書いてありましたの。お兄さまったらそれで夏は猛訓練して」
とは言っても、彼の「まずい」はコンスタンスのそれとはかなり違うだろう。基本的には「首席をとるのに成績がまずい」、「飛び級で卒業するのに成績がまずい」、「一等の奨学金を取るのに成績がまずい」などのものであった。きっと今回もそういう類に決まっている。そう、例えば「最年少大尉昇進の為の成績がまずい」というような。
不意に、ヒルドレッドからお呼びがかかる。
「そこの娘」
「はい」
「旦那さまの様子を見ていらっしゃい」
「かしこまりました」
珍しい。アネットが言い出さない限りこういう指示を出すことはなかったのに。それでも父に会いたいのは本当だったので、何も言わずにダイニングを後にした。丁度息が詰まっていたため、この命令はとてもありがたかった。それに、普段から毎朝父がしっかり起きているか心配でもあった。 今日とて例外ではない。
「お父さま、アネットです。起きていらっしゃるかしら」
「ああ」
「おはようございます」
アネットは入室してすぐにカーテンを開けた。霧が濃く依然として薄暗いが、開けないよりは開放感があってだいぶマシだ。
振り向くと、父がこちらを見て何か言いたそうにしていた。
「おはよう。……仕事はつらくないか」
アネットにはその一言で充分だった。彼女は花が溢れるような笑みを浮かべた。
「大丈夫ですわ。わたしは、このお仕事好きですし。お父さまの顔を毎日見られるっていう贅沢もしていますもの」
フェイン伯爵エリオットは力なく微笑んだ。アネットは話題を変えようと言葉を選ぶように話し出す。
「そういえば、来週クレアが帰ってくるんですって。近々ハミルトン邸で社交パーティーがあるでしょう。それに合わせて来るらしいですわ」
「ほう。便りはいつ来たんだ」
「昨日の夕方、電報が来ました」
「そうか。ずいぶん急だな」
「本当。いろいろと忙しいんでしょうね。……お父さま、お着替えはこちらにありますわ。ガウンはわたしにください」
父が着替えを探そうとうろうろしていたのだ。アネットは着替えを渡してガウンを受け取る。
「朝食はどうしましょう。こちらに運んだほうが良いですか?」
「いや。私が直接行こう」
アネットはにっこり微笑んだ。
「そうですね。それが良いと思います」
彼女は早速ドアを開け、父が部屋から出やすいように道を作った。
「あら、あなた。珍しい。今日はここで召し上がるのね」
「たまには一緒に食べたほうが良いと思ってね」
食卓に向かうと、ヒルドレッドとコンスタンスはまだメインを食べ終えていなかった。アネットは二人がデザートにまだ取りかかっていないことにほっとする。せっかくなので、父が食事をある程度進めてから、一緒にデザートを食べたほうが良いと思った。
続いて他の使用人が静々とエリオットの分の食事を運んできた。
ヒルドレッドが媚をたっぷりと含んだ目つきでエリオットを見つめた。
「あなた。嬉しい知らせがございますわ。クレアが帰ってくるんですの」
「うむ」
「何かの克己訓練で重役を担ったのですって」
「それはすごいな。自分より年上の才子たちを抜くことはかなり難しいのに」
「そうでしょう! 本当に素晴らしいですわよね…」
しばらく夫婦はクレアの話に花を咲かせた。コンスタンスはあまり面白くなさそうだ。侍女にデザートを運んでくるよう言いつけると、ただ黙々と運ばれてきたデザートのマロングラッセを頬張る。
延々に続くと思われた話は突如方向転換した。
「それで、クレアが今年の五月で二十歳なのはご存知でしょう」
「………そうだな」
エリオットは一瞬動きを止めたが、ヒルドレッドはそれに気づいたのか否か、話を続ける。
「丁度数もぴったりと都合が良いことですし、爵位をそろそろお譲りに…」
「ヒルドレッド」
「はい」
「お前が言わずとも、譲ろうと思っていたところだ」
思わぬ一言に、ヒルドレッドの口端がみるみる上がっていく。本人は懸命に抑えたつもりなのかもしれないが、できていない。
「あら本当に?」
「私はこの通りだからな」
「無理をなさってはいけませんものねえ。あなたの健康を思えばそれが一番ですわ」
エリオットの健康を思っての言葉ではないだろうが、子を思う母としては当たり前のことかもしれない。アネットに冷たく当たるとはいえ、やはり自分の子どもたちをこよなく愛する母なのだ。
そしてふと、十四年前に失踪した実母を思った。
(お母さまの顔が、ぼやけているわ)
アネットの思考はそこで途切れる。
エリオットは自分の分を食べきれず、残すようだ。彼はゆっくりと口をナプキンで拭った。
「大事なことはクレアに言ってある」
「えええっ! わたくしは何も聞いておりませんわ」
嬉し紛れに慌てるヒルドレッドにアネットは冷笑を噛み殺した。
(面白いわ。この人があんなに驚くだなんて。さぞ嬉しいでしょうね)
「それで……私からも条件があるのだが」
「な、何でしょう」
ヒルドレッドはトントン拍子に上手く進みすぎる話について行けないようだ。
エリオットは至って静かに、だがはっきりと告げた。
「クレアが爵位を継ぐ条件に、私の持つ財産の三分の一と、アーデンの別荘はアネットに与えたい」
アネットは弾かれたように顔を上げた。コンスタンスはフォークを握ったまま固まっている。ヒルドレッドは先の嬉しい様子とは一転、勝気な眉を吊り上げ、言うまでもなく唇をわなわなと震わせていた。
「な、なっ……!」
「どうだろうか。半分とも言っていない。三分の一だ。子どもは三人だから平等じゃないか。しかも爵位はクレア持ちだ。驚くことでもないと思うが」
「なりませんわ! 嫡子以外は財産を受け取らず、領地を出るのが暗黙の決まりというもの」
「ではコンスタンスも一緒に領地の外に出すのか。そもそも、嫡子とはなんだね。アネットの母は妾とでも言いたいのか」
「っ! それは、」
ヒルドレッドが怯んだのを見て、エリオットはここぞとばかりに早口でまくし立てた。
「良いか、コンスタンスには許されるものがアネットには許されないということはありえない」
「あなた! それではまるで、わたくしがアネットを愛していないように聞こえるじゃないですの。あんまりだわ!」
ヒルドレッドが目を潤ませながらエリオットに縋り付く。
(よく言えたものだわ! どうして母娘共にあんなにもふてぶてしいのかしら)
アネットは腸が煮えくり返る思いをした。しかし。
(でも、財産は分けてもらえそうにもないし、考えたこともないわ。家を出て独立しようと思っていたから、あんな大きな財産なんて要らないのに……どうして)
父は突然何を言いだすのだろうと不可解でしかたない。
「では、財産をアネットにはやらぬと言うのかね」
エリオットが呆れたようにため息を吐くと、それまで目を潤ませていたヒルドレッドはあっという間に開き直り、要求したいことを堂々と並べる。
「もっと他に使い道があるでしょう。アネットもコンスタンスもいずれは嫁に行くから財産の分配なんて無意味だわ。相手方が良い思いするだけですよ」
エリオットの顔色は非常に悪かった。もしかしたら今すぐ寝台に横になった方が良いかもしれない。
「……解った。では先に失礼するよ」
「あなた!」
「この話は終わりだ。あとはクレアと話す」
エリオットが立ち去った後、ヒルドレッドはアネットをキッと睨んだ。アネットはどきっとした。焦った。
「お前、よくもぬけぬけと…! あの人に何を吹き込んだのよ!!」
「違います、奥さま。それは誤解…」
ヒルドレッドはガタッと音を立てて席を立ち、皆の前でアネットに二度、大きな平手打ちを食らわせた。
パシン! パシンッ!!
「っ……」
「お前、今日の食事は抜きよ」
カツカツカツカツ、バタン!!
コンスタンスは憎悪に満ちた視線をアネットに寄越し、母の後に続いて食堂を出た。
まるで嵐が過ぎ去ったかのようだった。
アネットはジンジンと痺れる両頬を押さえ、周りの使用人達からの同情や嘲笑、軽蔑や無関心を感じつつ、気まずさを振り切るように食事の片付けをし始めた。