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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
19/25

018 継承の貴公子

ブックマークや評価ありがとうございます。本当に励みになります。お楽しみください。

 



 ヒルドレッドは非常に満足そうにしている。

 我が母ながら俗世の欲に塗れていて非常に醜い。アネットにあれだけの苦労を強いておいて、自分は相変わらず華やかで楽な生活を謳歌しようとしている。

 彼女が父の隣にいるのも幾許ぶりだろうか。きっと、自分の相続の話し合いがなければエリオットの元になど訪れない筈。

 反吐が出る。

 クレアは顔が引き攣りそうになるのを押し留めた。これはそんなに難しいことではない。自分が最も得意とする事の一つが、愛想笑いである。

「ご存知かとは思いますが、軍務でルテニアに滞在していた時、二十歳を迎えました」

「ええ、勿論ですとも。同じ誕生日であるコンスタンスをあんなに盛大に祝ったのですから」

 煩い。喧しい。姦しい。話に入ってこないでほしい。母親に対して、嫌悪の感情がどんどん膨らんでいく。自分の表情が憎悪に濡れていくのが解る。

「クレア」

「はい」

 エリオットに呼ばれると、感情を再び制御しやすくなった。エリオットは実父ではないが、クレアの精神的支柱だった。



 いつか夢に見たあの場面。あれは十二歳になったばかりの頃だった。

 あの日、父を捜して彼の書斎に入った。そこには誰もいなくて、しかし棚にビッシリと並んだ書物や本に興味があって背表紙を面白半分に眺めていた。

 やがてその関心は父の机に注がれる。机には幾つかの引き出しがあって、そのうちの一つが少しだけ、ほんの少しだけ開いていた。いかにも見てくれとでも言いたげに開いていたその引き出しに、クレアは何かに取り憑かれたように腕を伸ばす。

 その中には紙が何枚か重なった状態で保管されていた。

 ––––––何だろう。

 初めは軽い気持ちで、少しだけ大人になったつもりでパラパラと難しそうな書類をめくっていた。そのうち一枚だけ他とは様相が違っていた。それは病院で医者がいつも何かを書き込む、処方箋だか診断書だか、とにかくそういった類の書類だった。

 慣れない難しい書類を読み下していく。医者の診断書というのはいつも何が書かれているのか読めないくらい字が汚い印象があったが、それはただの偏見だったのだろうか。この日クレアが読んだ診断書はやけに綺麗な字で整然と様々な事が綴られていた。

 患者は父だった。そして目に留まったのは。

 ––––––!!!!!


 『先天的無精子症』という文句だった。


 健常な男の子なら、大抵はこの年頃になれば性に関して色々な興味を持つようになる。しかもクレアはかなり専門的な知識まで少し齧ったことがあった。だから、診断書に書かれた内容がどんなものかは察することができた。

 だが、まだ即断するのは早いと思った。父に直接確かめなければならない。

 もし父が本当に自分の父じゃないとしたら、そして……。

 異母姉の父でもないのだとしたら。

 それは、それは…………。


 ––––––そうか。解ってしまったのだね。

 日和を見て父に確かめに行った。念のために、父と二人きり邸にいた時を見計らった。

 ––––––貴方は、本当に僕の父上ではないのですか?

 ––––––そうだよ。私は君の実の父ではない。診断書を見たのなら、頭の良い君は解るはずだ。私は今まで、どの女性との間にも子供をなした事がない。

 ––––––では…………姉上は。

 ––––––アネットも実の娘ではない。

 何故だろう。クレアは自身の身体が打ち震えるのを感じた。これは驚愕? 失望?

それとも、歓喜?

 ––––––僕達の実の父親は誰ですか?

 ––––––そうだね。クレア、私は君を信頼しているし、いずれ知らなければならないことだから話そう。

 その時、父はどんなに勇気を掻き集めていたことだろうか。

 自分が男としての機能をきちんと果たしていないと息子に話すということは、どんなに彼の自尊心を傷つけたことだろうか。

 それでも、父は話してくれた。子供達の為に。

 ––––––君の実の父親はね、私の弟ジョージだ。驚いただろう? 叔父上が、実は君の父上だったなんてね。

 ––––––…………。

 当時の自分の気持ちをこれと断言することはできないが、一つだけ確かだった事がある。

 真実を聞いたことで、無性に叔父を実父として慕わしく思うようになったわけでは決してなかったという事。それどころか、寧ろジョージを憎悪するようになり、エリオットが憐れに感じられたということだ。

 そして心のどこかでは、アネットが血縁上何の繋がりもないという事実を得られたにも拘らず、一瞬だけ、エリオットが本当に自分の実父だったら良かったのに、とさえ思ってしまった。

 それくらいクレアはジョージよりエリオットの方を遥かに父として敬慕していたのである。

 ––––––コンスタンスと僕は双子ですか?

 ––––––それは安心してくれていいよ。君たちは紛れも無い双子さ。

 ––––––では、姉上は? 姉上の実の父親は誰ですか?

 ––––––アネットの父親は私の友人だ。名前をアルフレッド・コートニーという。

 それは随分前に滅門したデヴォン伯爵の家系だったと聞く。その領地は既に他の家門の手に渡って久しい。

 ––––––アルフレッドと私は友人だった。彼のデヴォン伯爵家は彼が幼い頃滅門に追い込まれたが、当時彼は幼かったから私の父が引き取ったのだ。それで、私達は実の兄弟と間違えられるくらい仲良く育った。ある日、私は領地内で微睡んでいた。そうしたら、どこからか旅人の格好をした女性が現れたのだ。彼女は真っ黒な髪に黒褐色の美しい目を持っていた。遠い東からやって来た女性だった。それが……

 ––––––アネットの母親……?

 思い返せばアネットの容貌は完全に西洋的ではなく、どこか幼く見え、神秘的な雰囲気があった。その原因は多分に母親の出自にあったと考えても良さそうだ。

 ––––––彼女の名前は……。アルフレッドと私は彼女にパールという名を付けた。彼女は幸いその名を気に入ってくれたようで、パールと呼ばれると嬉しそうに笑っていた。パールは故郷を出て長い間旅を続けてきたという。そして辿り着いたのが、このフェイン家の領地であるウェストモーランド伯爵領だった。彼女に関して、あまり多くは語れる気がしないが……とにかく彼女は私の父の庇護下、我々と過ごすようになった。そして、私が彼女に想いを寄せるようになるまでそう長くはかからなかった。ただ……アルフレッドも彼女を恋慕してしまったのだ。そして私にとっては残念なことに、パールはアルフレッドのことが好きだった。私は二人の恋を応援した。実際、私の父はパールに良くしてくれたが、息子の嫁としては好かなかったようだね。親切に世話をしてくれてもやはり根底では「東洋から来た素性不明の女」として認識していたのだろう。パールもそれを承知していて、それで私とは距離を置いていたのかもしれないし、単に私に男としての魅力がなかったのかもしれない。そんな中、私の父が突然事故死してしまった。私はその爵位を継いだ。アルフレッドはその頃には事業を立ち上げていて中々良い調子で運営していた。そのうちパールと共に独立するつもりだったのだろう。

 クレアは嫌な予感がした。

 ––––––そのはずだったが、アルフレッドは何者かに襲撃を受けてしまった。死に間際、パールを頼まれた。「パールを幸せにしてくれ。頼む」……これが彼の最期の言葉だった。彼の遺言状に従って、私はその事業を引き継いで運営してきた。今もそうだ。私が色々と事業を運営しているのには、彼の事業が布石となってくれたことが大きい。

 ––––––アネットの母親はどうなったのですか?

 ––––––パールは既にアネットを身籠っていた。それで、私は公然と彼女を保護したいという名目の下、半ば無理に妻にしてしまった。彼女に一応承諾を貰ったが、あれはどう見ても脅しに近い。今となっては後悔ばかりが残る。まだまだ寒い日だった。

 エリオットはある鍵を取り出した。そして、部屋の奥にしまい込んであったオルゴールを持ってきた。

 ––––––パールと結婚して七か月経った頃、アネットが生まれた。アネットは本当に可愛かったよ。血の繋がりがなくとも、兄弟のような親友と心から愛した女性の子供だ。皮肉ではあるが、本当に大切な存在になった。何と言っても私はアネットの父親になれた。もうそれで十分だった。パールも娘が生まれて喜んでいた。アルフレッドの死以降、彼女は何となく不安定で儚くて、今にも消えそうだった。だが、彼女は母親になってから強くなった気がした。アルフレッドの遺した形見を頼りに生きていければ、と願って止まなかった。

 そこで、エリオットはオルゴールを開け、その中から手垢がついて古い紙をカサリと取り出した。

 ––––––これは彼女の残した最後の手紙だ。彼女はアネットが七歳の頃、忽然と消えてしまった。

 ––––––!

 ––––––当初は理解に苦しんだよ。彼女は幸せそうにしていたのに、なぜ。アルフレッドの唯一の形見を取り残して、なぜ去ってしまったのだろう。それで思い当たったのは、自分の不甲斐なさしかなかった。

 エリオットは手紙を広げた。

 ––––––パールは結婚当初にはっきりと言った。「わたしはあなたとは真の夫婦にはなりません。だから、あなたも他に愛する女性を見つけることを願います」とね。私は当初そんな馬鹿なことあるかと少し怒った。彼女は申し訳なさそうにしていた。だが妻にした手前、人前では仲睦まじい夫婦を演じるしかなかった。無理に婚姻を結んでしまった罪悪感があったから、彼女の要望通り、一度も彼女と閨を共にした事はない。最初の数年は、彼女と精神的に繋がっていると満足した。どう言っても彼女は公的には私の妻だったから。ただ……それも一、二年経つとそうもいかなくなった。私も若い男だったし、人並みに女性との閨事もしたかった。それに、パールは私に女性の影がないことを寧ろ気にかけているようだった。おかしな話だ。無理を言って結婚を承諾させたのはこちらだというのに。

 苦笑を刻んだエリオットはクレアから視線を逸らした。そして、息もせずに一気に話し出す。

 ––––––そこで君の母、ヒルドレッドと出会った。彼女もやはり名家の娘だったが、素行不良な面があったらしく、結婚に難ありといった様子だった。それで、私は彼女と偽りの逢瀬を重ねた。そのうち……君達を身籠ったと……私の子供だと、そう告げてきたのだ。それでパールにはその事は暫くは言わず、ヒルドレッドの元に通っていた。だが、パールは察してしまったようだった。アネットが七歳になった時、この手紙を置いてこの家を出ていった。



 〈親愛なるエリオット


 いよいよ来るべき時が来たようです。わたしは去って行きます。今まで妻としてお留め置き下さり、ありがとうございました。わたしたち母娘を大切にお世話してくださって感謝しております。あなたは、わたしにはもったいないほどに良き友人です。そしてやはり、あなたのことを男性として恋い慕うことはありませんでした。わたしには後にも先にも彼しかいません。あなたには随分と酷なことを強いてしまって、ごめんなさい。でもどうか、アネット……あの子だけは、どうかお父上として愛情を注いでやってくださいませ。アルフレッドはわたしの唯一の恋人で、わたしはアネットの母です。しかし、あの子の父はあなたしかいません。

 時が来たら、添えておいた封筒をあの子に渡してくださることをお願いします。


 あなたにとって、わたしはどんな妻でしたか。

 良きものも悪しきものも、全ては水に流れるように、時は過ぎていくものです。

 あなたに恋い焦がれることはなくて、恨めしかったでしょうか。嫌われてしまったでしょうか。

 ふとした時に、あなたはわたしを思い出してくれますでしょうか。


 エリオット、大切な人。わたしたちの間に深い友愛の情があったことを忘れないで。


 パール〉



 ––––––そして、このもう一つの紙の方が、アネットへの手紙だ。だが、まだあの子には渡せていない。時が来たら渡そうと思っている。だがね、私はそう長く生きられそうにないのだ。

 ––––––どういうことですか!?

 ––––––私がそもそも病院に行ったのは、持病の検診をする為だった。それで、持病が悪化して手遅れな事態に来てしまっているようで、余命も残り十年いくかどうか……。

 ––––––父上!

 ––––––君は、まだ私を父と呼んでくれるのだね。

 ––––––僕の父上は後にも先にも貴方だけです。


 その時、エリオットの目元が光った気がした。クレアはそれを見て見ぬ振りをした。


 そうして積もってきた、血脈を越えた父子の情である。ヒルドレッド個人の欲でどうこうできるものではない。ヒルドレッドの好きにさせる気なんてこれっぽっちもなかった。

 彼女は自分を息子クレアとして愛したというよりは、自分の将来を保証してくれる頼み綱として頼っていたという方が正しいだろう。

「クレア、この書類を」

 エリオットは手元の書類をクレアに渡そうとした。その時、ヒルドレッドがすかさずそれに手を伸ばした。

「わたくしがクレアに渡しま……」

「母上!」

 彼女はクレアの剣幕にヒルドレッドはびくりと肩を震わせ、まるで裏切りにでもあったかのような表情でこちらを凝視してきた。

 クレアは若干気まずくなり、咳をして誤魔化した。

「……書類は私が直接預かります。相続者は私ですから、こういう所ははっきりさせた方が、後々禍根にならずに済むでしょうから」

「そ、そうね。あなたがそう言うなら、この母は何も言いません」

 やたら自分が母だと強調する目の前の女が煩わしい。母としてやったことなんて、父を差し置いて不倫を繰り返し、自分達を産み落とし、父の金で派手に浪費しながらまたもや不倫に走り、事あればヒステリーを起こすことくらいだったか。

 それくらいしか能のない、愚かな女。

 それが成長したクレアの頭に浮かぶ、ヒルドレッドの定義だった。


 クレアはエリオットから差し出された書類にサッと目を通した。しかし、大切な所を見落とさないように慎重を期した。


「確かに承りました。父上、貴方様の爵位を継承させていただきます」





ありがとうございました。

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