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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
17/25

016 各々の内的変化

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

お楽しみください。

 



 クレアがルテニアへと行ってしまってから、一か月が過ぎた。

 アネットは相変わらず実家にいた頃よりも遥かに心地良い生活を送っている。

 ベイカー夫人とメイベルは決して神経質ではなく、細やかで良く気を配ってくれる。アネットはその心遣いが自分に向けられていると実感する度に、うれしさと若干の照れくささを感じずにはいられなかった。

 そして、アネットの心も段々と柔らかくなってきた。元々そうきつい性格でもなかった上に、こうして和やかな暮らしをくれたのがクレアだと思えば、感謝している。彼としては本意ではなかったかもしれないが、アネットは良いように思っていた。

(悪い方向に考えても、良いことないし。どうせなら良い方向に捉えたい)

 今まであまりにも悪いようにばかり思ってきて、クレアを傷つけてきたということが薄々わかってきたからだ。彼のためなら、自分が傍ら痛い人になっても平気だ。

(それに……)

 鈍感ぶるつもりはない。そんな純粋でいた頃の自分ではないと自覚している。クレアが時折見せていた行動や言葉などから、彼はアネットを想ってくれているのかもしれないと思う。そして日を追うごとに、それは確信に近づいていた。

(やっぱり、わたしの自惚れかもしれないけど)

 そうならば自分はかなり痛い思いをすることになるだろう。

「アネットさま、クレアさまからお手紙です」

 メイベルが嬉しそうにアネットへ封筒を持ってきた。それを受け取る時、毎回アネットは自分の表情を気にしていた。メイベルに変に見られてしまったらどうしようか。自分の邪な想いが彼女に不快感を与えてしまったら。

 しかし、なぜかは知らないし知りたくもなかったが、執事のウィルキンソン氏やベイカー夫人そしてメイベルは、クレアとアネットのの関係や互いに対する感情を粗方察しているようだった。

「クレアさまったら、本当に毎週お手紙くださるんですねえ」

「意外よね」

 そうだった。クレアはてっきり手紙の一つも書かないような無味乾燥な人間かと思いきや、それは偏見だった。

 彼はかなりまめな人だった。

 毎週というか、およそ三日に一度の頻度で手紙が届くのだった。

 内容はこれといって特記すべきものもなかったが……彼がアネットに対してまめに手紙をくれること自体が特記すべき点といえば、特記すべき点かも知れない。綴られているものは例えば天候だったり、例えば訓練メニューだったり、例えば同僚との対話だったり、例えば食事のことだったり。実にたわいないものばかりだったが、これこそ彼が狙っていたことなのかもしれないし、そうでなくともこの普通の手紙に安堵する自分、期待する自分がいた。

 最初は期待していなかった。むしろ、彼が向こうに行ってしまってから六日経った日に手紙が来た時は随分と驚いてしまったものだ。もしかしたら実家に届くべきものがこちらに来てしまったのかも、とメイベルと何度騒ぎあったことか。

 それくらい意外だった上に驚愕ものだった。

 それから三日後に二通目の手紙が来た時も、本当にこれは間違いなのでは、と依然思っていた。

 しかし、三通目でようやくこの状況を受け入れた。彼はそういう人なのだ、今までは自分でも気づかないうちに彼に対して偏見を持っていたのだなと。

 三日が過ぎれば「そろそろ新しい手紙が来るはずなのだけど」と一人首を長くして待ってしまったり。やがて待ち焦がれた先に来た手紙を全て読み終われば、一度窓の外へ、ルテニアの方へ目を向けたり。

 そして、我知らずため息をついてしまったり。

「そうね。やることないのかしら」

「それはないでしょう! きっと、アネットさまにお会いになりたいんですね!」

 そんなことを堂々と公言できる状況ではないが、ここはメイベルと自分の二人だけなのでまあいいとしよう。アネットは丁寧に手紙をしまった。

「アネットさま、そのお花は何ですか?」

 物思いに耽っていると、側からいきなり声がかかったので驚いた。見返るといつのまにかメイベルがすぐ側まで寄ってこちらの手元を覗き込んでいた。

 アネットは持っていたものを彼女のほうへ突き出した。

「これのこと? サルビアよ。刺繍に興味ある?」

 メイベルはにこにこと布の上に咲きかけている赤いサルビアを見つめていたが、その笑みは段々と意地悪なものに変わっていった。

「ふふーん。さてはお嬢さま! クレアさまが花言葉に詳しいってわかってから、そうやってお花を刺繍していらっしゃるんですね!」

「え、な、何を」

「だってそうじゃないんですか。えっと……あれは確か、十日前くらいでしたっけ。クレアさまがお手紙の中で、花言葉に詳しいってこととか書いたでしょう? それで、お嬢さまはあたしに『ねえねえ、クレアは花言葉を知っているの?』っていろいろと聞いてきたでしょ?」

「な、なっ」

 そうだった。今から十日前に届いた手紙に、クレアが花言葉について書いていたのだ。彼としては特に書くこともなく、女性が興味ありそうな話題を適度に選んでくれたのかもしれない。彼は器用で、気が利くから。

 初めはそう思って読み進めていたが、段々と本当に彼は花言葉に詳しいのだと感じられた。

 そして、それならばと入り用になりそうな種類のもので、負担なく使えそうなもの、軽いもので何か花に関連したものをあしらって用意できないかと思いあぐねた。そこで、良い花言葉の花を選んでハンカチーフに刺繍したものを思いついたのだった。

 誰かに話すということもなく一人で黙々と作業していた。だが、メイベルにはばれていたらしい。もしかすると、というよりほぼ確実にウィルキンソン氏もベイカー夫人も気づいているのだろう。

「サルビアの花言葉って何ですか?」

「『友愛』ですって」

「へえ……」

 ふと、メイベルはうっとりとした目線を布の上に落とした。

「綺麗ですね。赤色が鮮やかで、でも単純ではなくて……いろんな色が見えます」

「……そうなの。異なる色の糸をさまざまに使うとこういった複雑微妙な色合いが生まれるのよ」

 アネットの説明に、メイベルはその大きな目を輝かせながら言った。

「刺繍ってだけでも難しいのに、こうやって素晴らしいものを作れるなんて。ほんとにすごいです。アネットさまって何でもできるんですね!」

 アネットは首を横に振った。

「そんなことないわよ! ……そうね。確かに刺繍は向き不向きがあるかもしれないけれど、あなたはうまくできると思うわ」

「ええ、そんな! あたし不器用で」

 またそんなことを、とアネットは呟いた。

「あなたさえよかったら暇を縫って教えてあげる。わたしはあなたも知っている通りいつも暇だから、あなたに合わせるわよ」

「えっ! …………いいんですか?」

「もちろん」

 アネットはにこにこして力強く頷いた。メイベルはだいぶ迷っていたようだったが、やがてアネットの微笑みに誘われるように笑った。

「よろしくお願いします!」

「こちらこそ。ベイカー夫人にはわたしからも言ったほうがいい?」

 メイベルは気まずそうに消極的に返事した。

「あ、えっと。お願いします」

 アネットはまた笑って頷いた。ここはベイカー夫人に自分からも一言言ったほうが、彼女も怒られずに済むだろう。

「任せて」

 メイベルは嬉しそうに笑った。その白い顔に散っているそばかす一つ一つが愛らしく見える。

 不意に、彼女はアネットが傍によけておいた布にも目を向けた。

「あれ? こっちの刺繍は」

「それはスイセン」

「何に使うんですか?」

 小首を傾げて不思議そうに聞いてくる彼女から逃げることもできない。

「…………えっと、自分用に一枚こしらえようかなって」

「へえ、そうなんですね」




 カチャカチャ、と食器の音しかしない。

 キャンベル連隊長はモヤモヤしていた。彼はそれを隠そうともしなかった。

 しかし、当の部下は一言もそのことに関して口にしない。彼の性格を考慮すれば特別なことでもない。至って普通だ。

 だが問題は、今目の前に座っている彼を取り巻く状況が普通ではないということである。


 クレアはあの夜から思いつめたように一人考え込むことが多くなった。

「フェイン、散漫だぞ。俺の前だからいいものの、上官の前でそんなアホみたいなツラするなよ」

「ああ」

 一応返事は返ってきたものの、クレアは以前上の空だ。同僚は彼の肩に手を置き、ポンポンと叩く。

「お前おかしいって。何かあったのかよ」

「いや、何でもない」

「何でもなくはないだろう」

「大隊長!」

 クレアと同僚は敬礼を払った。大隊長は彼らに敬礼を返すと、すぐさまクレアに指示を下す。

「フェイン、連隊長から呼び出されている。行け」

「ハッ」

「––––––いい」

 その場にいた全員が敬礼を払う。キャンベル連隊長ご入室である。彼は入室するや否や真っ直ぐにクレアへツカツカと歩いて行き、直立不動の姿勢で構えるクレアの顔に自分の顔面をズイッと寄せた。

「フェイン、貴様はちとばかり生意気な節がある。今晩は俺と夕食だ」

「……ハッ」

「何だ今の間は! しっかりせんか貴様ああ」

「ハッ」

 やってしまった。逆鱗に触れてしまった。

「まあ、上官と食事というのは緊張するだろうな。そんな貴様の食欲を増進させる為に連隊長直々に任務をやろう。……貴様は今から陣営地外周二十周だ!」

「ハッ」

 妙な間を作らない一心で答えたは良いが、面倒な事になってしまった。周辺に突っ立っている同僚の視線からは同情と憐憫しか感じられなかった。


 そして、この状況に至る。会話などは往き交いもしない、気まずい事この上ない夕食である。

クレアは礼儀作法に則って非常に優雅に食事をしていた。まさに貴族である。

 キャンベルは只管溜息を吐いていた。原因は御前の若き部下である。

 見れば見るほど素晴らしい容姿であり、知れば知るほど素晴らしい実力者だ。彼は赤の他人として捨て置くに非常に勿体ない人物であるのは確かだった。

「あの日ルテニアの輩から何を言われた」

「お答えできません。申し訳ありません」

「謝って済むものなら、こんなのはしなくていいという事くらい解るだろう」

「は……」

「もういい。……貴様にいい話がある」

「…………」

「今の貴様に更なる翼を授ける為にだな」

 クレアはやたら冷めた表情でポツッと言った。

「空軍に行けということですか」

「若造がボケるな! 縁談だ」

 クレアは案の定「遂に来てしまった」とでも言いたげな、憂鬱な表情をしている。ちっともいい話ではないと言外に語っていた。

(けしからん!)

 キャンベルがキッと睨み据えると、クレアはほんの少しも怖気付かずに見返してきた。

「慎んでお断りします」

「それのどこが慎んでいるんだ!」

「縁談の力で上を目指すくらいなら、下で頑張ります」

「いいか、清廉で若い貴様に納得いかないのは承知の上だ」

 だがな、とキャンベルはクレアを真っ直ぐに見つめた。

「この職に身を置こうとなれば、この先白か黒かではっきり分けられないことの方が多くなってくる。これはその第一歩とでも思っておけばいい。それに詳細を聞けば悪くはないはずだ」

 詳細も何も、相手がアネットではない時点で十分に悪い。

「俺の娘と婚姻しろ。さもなくば貴様は」

「特殊部隊行き、ですか」

「…………そうだ。何故解った」

「先のルテニアの者から聞きまして」

 しかし、キャンベルは自分の分の説明を全うする必要があった。

「貴様の知っている通り、特殊部隊は表には出れん。貴様が失う物も多くなる。だが、貴様が賢明な判断をすれば騎兵の誇りの下、誰よりも優れた軍人の華になれる。その輝かしい未来を捨てて特殊部隊に行こうとはしないだろう」

「僭越ながら」

 その一言は極めて控えめだったが、キャンベルの表情が硬化するに十分だった。

「喜んで特殊部隊に入隊する所存です」

「何だと!?」

「ここまで育てて下さったご恩は忘れません。今までありがとうございました」

「知らん! 誰がそんなこと聞きたいと言った!」

 キャンベルの怒りは凄まじかった。若造が何も知らずに飄々と抜かしている事が耐えられなかった。

「失礼だぞ! 女性の父親に恥をかかせたのだ!」

「重ねてお詫び申し上げます。しかし、まだ婚姻は考えられません」

「特殊部隊に行けば『騎士クレア・フェイン』は死んだと思っていい。任務は通常の兵科より格段に困難だ。そんな危険を冒してまで」

 キャンベルは一度言葉を切った。そして、また話し始める。

「入隊当初、貴様は他の輩とは全く違う答えを示した。他の輩が『軍の為に喜び勇んで命を投げ打つ』と抜かしていた時、貴様は『軍の為に何としても生きて帰る』と言っていた。俺はそれが気に入っていたんだ」


 ––––––こいつは本物だ。


「貴様のような奴は、死ぬより生き延びた方が確かに軍の為だ。それだけの実力も証明してみせたじゃないか。だから」

 だから、尚更手放したくない。

「…………」

 当人はただ沈黙を貫いているのみだ。

「いいか! 貴様は特殊部隊で生き延びる類の人間じゃない」

「それはやってみないと判らないでしょう」

「らしくないな。貴様はそういう事をほざく奴じゃない」

「そうだったかもしれませんが、諸事情あって変わりました」

 クレアは甘い苦笑を浮かべた。

 想うだけでも胸が張り裂けそうで、でも忘れられない人がいる。

「やってみないと解らない事は、沢山ありますから」

「…………ほう。で、貴様にそう思わせた女性がいるのだな」

 そんなに分かり易かっただろうか。

「…………」

 再び沈黙すると、キャンベルは「フン」と踏ん反り返った。

「貴様の恋愛事情なぞ興味ない。知りたくもない。滅多にないこんな素晴らしい縁談を無下にした輩は、その分痛い目に遭ってみればいい」

 クレアは愛想笑いをした。

「これは本当に軍の為なのか」

「正直に言えば縁談を断りたいから、というのが一番大きな理由ですが……はい。軍の為でもあります。私が軍に尽くす事で、一番に守りたいものを守れるので」

 キャンベルは瞠目し、クレアを凝視した。そのまま口をナプキンで荒く拭うと、突然ガタッと音を立てながら派手に立ち上がった。クレアもキャンベルに合わせてナプキンで口を拭い、物音立てずに立ち上がる。

「夕食はお開きだ。––––––帰れ」

「ごちそうさまでした。有難うございました」

 クレアは敬礼をする。

 キャンベルは不機嫌丸出しだった。

「敬礼はしよう。貴様自身は気に入らなくても」

 連隊長は敬礼を返した。

「人に敬礼するのではなく階級に敬礼するのだからな。貴様もそうだろう、フェイン?」

「……ハッ」


 特殊部隊入りが決定した。




今日もありがとうございました。

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