014 氷の帝国
お待たせしました。
ルテニアに来て約一か月が経つ。
ここは本土面積がブリタニアより遥かに広く、寒い。西方国家の中では東の方に位置する帝国である。
今は季節が季節なだけに極寒では決してないが、やはり比較的涼しくカラッとした気候である。
最近はここの山間地で遊撃訓練や総合克己訓練などの、普段の訓練より格段に困難で大変な訓練が行われている。その上、ルテニア軍と共に行動しているので軍の中もピリピリしており、互いに負けるものかと神経戦が繰り広げられていた。
そして、遊撃訓練においては各軍の騎兵中尉から遊撃隊長を選抜するのが慣例となっている。クレアは騎兵科に所属しており、少尉の頃は約十人程度の騎兵小隊を率いていたが、中尉に昇進すると大隊の参謀に抜擢された。大隊の参謀を務めて日は浅いが、実際に隊を率いるよりは実務が増え仕事は多い。その分、戦闘員としているより時間の融通が利くので、あまり不満はない。そんな中だった。
クレアは士官学校の成績や普段の行いも良好とのことで模範将校なるものに選ばれており、今回の遊撃隊長に適任ということで、中隊長の推薦を受けたのだった。
そして今日ようやく十日に及ぶ遊撃訓練を終えて本軍営地に帰還したのだった。
今は専ら多量の報告書をまとめている。
カタカタカタ……と無心に文字を打っていると、ふと、ある顔が脳裏を過ぎった。
クレアはここに来る前夜を思い出していた。
鼻に口づけると、彼女は面白いくらいに顔を真っ赤に染めて飛び退いていた。
「–––––––––っ!! 今すぐ出て行って! クレアなんか大嫌いよ!」
クレアもしつこく縋る気は全くなかったので、あっさりと引き下がった。そして、皮肉るつもりで口を開いた。
「別にいいんじゃない。『弟』なんでしょう?」
わざと冷淡な声音でそう言うと、彼女は目を丸くした。
(なんで、そう言う表情をするの? アネット、お前は俺のこと、弟としてしか見たくないんだろう?)
しかし、すぐさま眉を思いっきり寄せた。
「なら、なおさらこんなことしないで」
「俺のこと、好き? 意識しているの?」
彼女は口を噤んだ。そして、何を他にするでもなく、「信じられない」とでも言いたげにこちらをただただ凝視しているだけだった。
今夜はどんなに時間がかかっても、彼女の答えを待つことにしよう。
そう決めていたが、そこまで待つ必要もなかったようだ。
彼女はすっと横に視線を逸らし、訥々と告げる。
「––––––嫌いじゃないわ」
瞬間、クレアは彼女の首を絞めたくなった。怒りと遣る瀬無さでどうにかなりそうだった。
しかし、伊達に長年想ってきたわけではない。彼は溜息を一つ零した。
「そういう風に逃げるんだね」
「逃げているって表現しないで」
「じゃあ、何なの」
「逃げるってどういうことよ。それはまるでわたしが……」
「いけない感情でも抱えているみたい?」
「…………」
彼女は顔を真っ赤にして非常に不満そうだったし、不服そうだった。
自惚れるのは側から見て痛いし、自分がそんなことするつもりはなかったのだが。
これは、自惚れてもいいのではなかろうか。
数年前、コンスタンスの謀りと自分達を取り巻いていた状況。
自分達は幼かったし、それに対抗する術はなかった。だから、諍いを起こし溝は深くなり、距離を置き、次第に冷たくなっていったが……。
クレアが彼女を想う気持ちが揺れたことは一度とてなかった。
恐らくこれからもない。残念ながら。
何度も無理やり諦めようとしたが、できなかった。そもそも、きちんと諦める気も起きなかった。あまりにも想いが大きすぎた。
彼女を一人の女性として見るようになったのは、いつからだろう。
一目惚れ?
自分に話しかけてくれた時?
弟だと、温かく迎え入れてくれた時?
一緒に遊んでくれた時だろうか。
涙を見せてくれた時かもしれない。
それでも、大丈夫だと強がっているところに心を打たれたのだろうか。
気がつけば、いつの間にか彼女を心から愛するようになった。
自分は年若で、歳月を生きてきた人々からすれば、若造が一瞬の恋情に焦がれているだけだと思うのかもしれない。
そうかもしれない。だが、この情こそ己が身を破滅に至らせると何度自分に言い聞かせても、結局何も変わることはなかった。
むしろ、一時の恋情だったならばどんなに良かったか。そう思った時も数え切れないくらいあった。
しかし、最早そう思うこともなくなった。そう思いたくもなかった。
彼女へのこの心を捨てる気にはなれない。捨てようとしていた自分が許せない。
ならば、もう思い切って運命を自分に引き込むしかない。
いうなれば、彼女はその『運命』とやらだろう。
その時、コンコン、と自室の扉が叩かれた。
ルテニア皇宮の一室。
二人の男がいる。一人は奥のソファに寛いでおり、もう一人はきちんと姿勢を正して立っている状態である。
ソファに座っている男は長身である上に均整のとれた筋肉質の身体つきであり、今は軽装している分その体格の良さがはっきりと見て取れる。月明りに輝く豊かな金髪は目を瞠るほどの美しさを誇っていた。その秀麗な容貌は女性なら誰もが二度見するほどであった。彼は、その容姿に劣らない低い美声を発した。
「––––––見つかった?」
立っていて問いを投げられた方は、ややぼっさりとはしているが立派な黒髪を持ち、ソファの男よりも一回り大きい体格を持っている。そしてどこか野性的な雰囲気が漂っている。彼はつい先ほどまで旅をしてきたのか、典型的な薄汚れた旅人の格好をしていた。
「はっ。しかし、かのお方は既にいらっしゃらず、その子供だけがいる状況でした」
彼の答えを聞き、ソファの男は満足げに微笑した。
「ご苦労。夫君は何と」
「恐らく、かのお方は既に亡くなっているのでは、とのことです」
「まあいい。子供がいれば、それだけでも。その子供というのは男?」
「いえ、娘です」
ふと、ソファの男はフッと表情を柔らかくした。
「とりあえず、本人には言っておく。直接会ってみたいだろうから」
立っている男はその鋭い目を丸くし、慌てたように首を横に振った。
「しかし、今は彼女はここにいません。今ここにいるのは彼女ではなく」
それでもソファの男は不敵に笑うだけだった。
「解ってるよ。今からそいつに会う。––––––クレア・フェインだったか」
「では、今から」
「いや待て。ベルンハルト、お前はいい。他の奴を遣る。もう休め」
立っている男––––––ベルンハルトはムッと食い下がった。
「しかし、これには私も深く関わっていることです。直接フェインが何を話すかを聞きたいですし、それに」
「?」
いきなり言葉を止めたベルンハルトに、ソファの男は怪訝そうに片眉を挙げた。
「––––––私はフェイン嬢にまたクッキーを探してあげたいんです」
ソファの男は面白そうに笑った。
「そんなものは後日でいいだろう。退がれ」
シッシッと手を振られ、ベルンハルトは不服そうだったが、主君の言うことだ。従うしかなかった。
フェイン、お前何やらかしたんだよ。
扉を開けると入ってきたのは同じ中尉で、一期上の先輩である人だった。彼は部屋に踏み込むや否や怪訝そうにそう尋ねてきた。普段親しいだけに、特に喧嘩を売るような感じでもなく、むしろやや心配げに。どうかしましたか、と問えば、お前連隊長に呼び出しくらったぞ、今すぐ呼んでこいって言われたんだよ、と返された。
(なぜ?)
不可解だ。
そうして辿り着いた連隊長室。全く入る気はしない部屋のうちの一つだ。
同僚らの好奇と疑念と憂慮と同情の視線を向けられつつ、クレアは何とかここまでやってきた。
何でも卒なくこなしても、やはり上官は相手するには負担を感じてしまうし、あまり喜ばしい相手ではない。できれば相手したくない。扉で警備で立っている兵に敬礼される。
クレアは一つ咳をすると、丁重に扉を叩く。
「誰だ」
「フェインです」
「入れ」
「失礼します」
真っ直ぐに視線を這わせていけば、奥の机の方に連隊長のキャンベル大佐が窓に背を向けこちらに向かって座っている。逆光でその表情はよく判らない。
彼は四十代後半で、クレアと似た年頃の娘がいる一家の家長だった。
「貴様、ルテニアの間者じゃないだろうな」
「––––––––––––」
失笑とはこのことだろうか。
開口一番とんでもないことを言わないでほしい。肝が冷える。
「いいえ、事実ではありません」
「まあそうだろうな。貴様みたいな、やっと二十歳そこらのペーペーの小僧がルテニアの間者など、片腹痛いわ」
「…………」
無意味な喧嘩を売られるのだったら、帰りたい。売られた喧嘩は未練なく流すタイプだ。
「まあいい。貴様、ルテニアのお高い方に呼ばれている。何をやらかし、どんな関係なのか、俺にも聞かされていない。ここで吐け」
「連隊長より上の方々はご存知ですか」
「……かなり上はな」
「しかし、連隊長には話されていないということですね」
「そうだが」
クレアは軽く頭を下げた。
「それでは僭越ながら、連隊長に何も申し上げられません」
「貴様……」
そして顔を上げ、真っ直ぐに連隊長を見据える。一片の揺らぎも見せてはならない。
「より上に従うことが軍律です」
「正論ばかり言いやがって」
この連隊長は消して悪い上官の類ではない。恐らくこうして探ろうとするのも、クレアにもしものことが起こった時に自分の線で尽くせる手を尽くそうとしているからなのだ。
「今呼ばれているのですか?」
「そうだ。お前は今から一人でルテニア陣営に向かわねばならん。といっても、ほら。この窓から見える建物あるだろう? あれだあれ。ちなみに俺もこれだけは解るぞ。お前を呼んだのは、今この地域で最も地位が高い奴だ」
「…………向こうの皇子ですか」
今、形式上の指揮者として第三皇子が一番上の者として滞在している。彼より高い地位の者は来ていないはず。
しかし、連隊長は首を横に振って笑うだけだった。
「いや、その第三皇子なんて、お前を呼んだ奴に比べりゃ赤ん坊みたいなものよ」
「!」
まさか。
「まさか、皇帝––––––?」
「違う」
では一体、誰だ。皇帝より高い地位にいるものなんて、公的には神くらいではないか。一般的には。
もしかすると、神の代理人などと言って教皇が来たのだろうか。
わざわざ一介の中尉に会いに?
もうどうとでもなれ。投げやりな気持ちになる。
「神でしょうか」
「そうだ」
クレアは一瞬だけ固まってしまった。顔が引き攣っていくのが解る。本当にもう帰ってもいいだろうか。
「…………冗談やる気分では」
「冗談じゃない。神……厳密にいえば、天」
天。以前それに関する本は読んだことがあるが、内容に信憑性がなかったのですぐに閉じてどこかにやった記憶しかない。
「生憎、神だの天だのは信じていませんので」
「貴様の信仰なぞどうでもいいわ。こいつらの存在は国家間では公然の秘密のようなものだ。さすがに一般人の間ではそう信じられるほど姿を見せているわけでもなければ、あの者たちの能力はそう見せつけるものでもないだの色々とあってな」
それをなぜキャンベル連隊長がここまで詳しく知っているのも謎である。彼は国政や国家機密機関の重要人物でもなさそうだが。
(いや。本当に国家機密に関わる人だったら、それを察せられたりはしないか。それに、そもそもこんな軍で騎兵連隊長なんてやってないだろうし……)
クレアははあ、と力が抜けた態度で応酬する。こんなことで質問することさえ馬鹿馬鹿しく感じられるのだが……。
「それで、なぜその天とやらが私に会おうとしているんでしょうね」
そもそもその天とやらにルテニアという国籍があるのもおかしい。これは人間が作り上げた国家だし、国籍もまた人間が作った概念だ。胡散臭すぎる。国家の守護天使ということだろうか。
(そもそも、実在するんだな)
クレアはこれらを信じていなかった。自分からすれば、それらは飽くまでも絵空事だ。嘆かわしいことに、その胡散臭いものを目の前の上官含め結構な上の方々まで真に受けているようだ。
「接点も何もなく、会いたがる理由を察せませんが」
「だからそれは俺も知らん」
自分は今、寝際に小説でも読んでいるのだろうか。これは夢なのかもしれない。
「この先は自分で見てこい」
クレアは柄にもなく無駄な反抗心が生まれてくるのを抑えられなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
思わずボソッと呟いてしまった本音が聞こえたようだ。キャンベル連隊長は目をカッと開き、顔色をガラッと変えた。
「貴様、抗命するなら例外なく軍法裁判だぞ」
クレアは軽く頭を下げた。
「ご命令に従います」
「そう。それでいい」
連隊長はフウッ、と溜息を吐いたのだった。
(俺もつくづく運が悪い。中尉なんて溢れるほどいるのに、なぜ俺が)
ルテニア軍の幹部が駐在する建物に入った。宵闇に溶け込んだ空気は辺りを静寂に沈めており、廊下には人っ子一人見つからない。
(幹部の警備くらいいてもおかしくないんだが……)
怪しいくらい人がいない。全く、何の気配もしない。
自分も軍人だ。経験はそんなになくとも気配には鋭い方だし、人がいれば気付くはずだ。
(本当に誰もいない)
確かに、誰にも会わないほうが逆に都合がいい。何にせよルテニア軍の輩に紛れていればブリタニア人の自分は目立つだろうし、妙に視線を集めてしまったり挑発されたりするのも喜ばしくはない。
どうせ無差別に選抜されただけだ。お偉い方々を謁見し、一言二言交わすような、象徴的なことをするのだろう。
しかし、時間帯が明らかにおかしい。それに先の連隊長の話からすれば、そんな見せつけるためのものでもない。つまり。
(これは形式的なものじゃない。しっかりとした内容がある)
やはり自分は何らかの形で、この不可解な事態に関わってしまっているということになる。
だが、特に罪を犯したわけでもない。自分はただ堂々としていればいいだろう。
否、一つだけある。
姉に邪な感情を抱いてしまったこと。そしてそれを捨てきれないこと。
それを、神が罰するために来たのかもしれない。
こんな感傷的なことを思ってしまう自分に苦笑するしかない。
その時だった。
「遅いな」
暗闇に包まれた廊下の辺りに、一度聞いただけでも魅了されてしまいそうな声が響く。
暗く深い水底からやってきたような、澄み渡った月の光に乗ってきたような。
そんな美声。
信じられなかった。ほんの直前まで、何の気配も感じられなかったのだ!
いつもありがとうございます。寒い日が続きますが、体調などお気をつけてお過ごしください。




