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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
14/25

013 しばらく

お待たせしました。




 ブリタニア王国の首都・ロンドンは非常に栄えている。

 科学も文化も魔法も最先端を走るこの国の中心であるこの都市には、様々な人と物が行き交っている。

 クレアの暮らすタウンハウスはその都市の中でも少し落ち着いた場所に位置していた。


 ––––––使用人として連れて来たわけではないから、俺がいない間は好きに過ごして


 彼は確かにヒルドレッドにはアネットを使用人として連れて行くと言っていたはずだが、実はそうではなかったようである。

 なぜなら、クレアとアネットがタウンハウスに着くや否や、タウンハウスでは一人の執事と、二人のメイドが控えていたからである。

 執事はアンドリュー・ウィルキンソンという名の初老の男性で、白髪が見事に似合っていて落ち着いた雰囲気を持っている。

 アネットが緊張まぎれに佇んでいると、ウィルキンソンはにこやかな微笑を浮かべ、まるで孫娘にでも接するかのように、しかし礼儀を徹底的に守った上で待遇した。

「何かあればお申し付けくださいね。最も、お年頃のお嬢様は、私よりはあちらのご婦人方の方が何かと話しやすいと思いますが、重要なことやご主人様のことなど何かありましたら、遠慮なく老いぼれをお使いください」

 メイドについては、一人が中年の女性でもう一人がアネットとそう歳の違わなさそうな若い女性である。前者はバーサ・ベイカー、後者はメイベル・タットンと名乗った。黒髪のくるくるとした巻き毛が印象的なベイカー夫人は夫を疫病で失くしてしまった未亡人である。貴族に仕えながら子どもたちを女手一つで育て上げたが、彼らが今は独立したそうである。そのまま仕えていたところに仕えていたが、やがて仕え先の家長も亡くなり、これを契機にもう少し子どもたちの生活場所に近い地域で働こうと思った彼女は、たまたま元の仕え先の伝手でクレアに仕えることになったそうだ。燃えるような赤い巻き毛とそばかすが魅力的なタットン嬢はベイカー夫人の妹の娘である。タットン嬢の母君もこれまた今は亡きベイカー氏と同じ疫病で数年前に亡くなったという。それで去年の春に田舎でベイカー夫人の長男の農作業を手伝っていたところを夫人が連れてきたらしい。

「アネットお嬢さま、何かとわたしたちにお申し付けくださいね」

「お嬢さま、あたしは不器用で要領が悪いですが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」

 ベイカー夫人は朗らかでふくよかな印象があり、対してタットン嬢は痩せぎすで少しばかりおどおどしているようにも見えるが、二人とも為人は良さそうだ。今まで使用人の中で人を見る目を養わざるを得なかったアネットにとって、彼女らはかなり好印象だったし、特に悪さを思想にも見えなかったのである。

「よろしくお願いしますね」

 人に仕えて久しいせいか、逆に人に仕えられる立場になると正直戸惑いが大きい。しかし、それを改めて仰々しく表立たせる必要もなかろう。彼女は三人の挨拶にしっかりと頷き、返事をした。


「お前も知っているとは思うけど、俺は普段は軍にいる。毎日帰宅できるわけではない。それも進級すればいくらかは融通が利くようになるけどね」

 クレアは夕食の場でそう言った。正直この時、アネットは自分が何を飲み込んでいるのかさえ気にする余裕はなかった。

 彼と二人きりで、一つの卓子で向かい合って食事を摂るなんて!

 まるで砂袋を飲み込むような心地だ。アネットはこの状況をどうにかしたかった。

「そ、そう。別に、フェイン邸にいる時よりは遥かに過ごしやすそうだし、大丈夫よ」

 アネットの毒気づいた一言に、クレアは苦笑した。

「まあ、そうだろうね。お前にとってあの家は、父上以外に相手する価値のある輩なんていなかったからね」

「…………」

 アネットは呆気に取られた。この人は何をここまで言わなくても。それはわたしの台詞じゃないの?

「別に、あなたが自分の家族をそう貶さなくてもいいわよ。あなたが今さらそうしたところで、感謝するわけでもないし、あなたも一緒になってわたしを蔑視していた事実が消えるわけじゃないわ」

「お前に感謝されようとして同調しているんじゃないよ、愚かなアネット」

「な……」

「俺はあの人たちのことは正直どうでもいいから、別にお前が彼らをどう思おうが構わないんだよ」

「……そうなの? コンスタンスとはかなり仲が良かったと思うんだけど」

「仲良くはしていたけど、何か感情があるかというと、そういうわけではない。今日限りの付き合いでも、表面上はにこやかにやり取りして、そのまま別れるだろう? あれと同じだよ」

「…………」

 何も、言葉が出てこなかった。

 彼からは、少なくとも今この場では、家族に対する情が一片たりとも感じられなかった。

 ただ無意味に名札を貼っただけの関係としか捉えられていないような気がした。

「そんな、家族に何の感情もないの? みたいな顔をしているね」

 アネットの顔に朱が散った。特に恥ずかしいことを考えていたわけではないが、こうして彼に心の内が何もかも見透かされているのだと思うと、頰を赤らめずにはいられなかったのである。

 クレアは手元のグラスを煽った。

 血のように赤い酒が、彼の美しい口を、喉を伝ってその中に入り込んでゆく。

「家族というものに対して、特に感情はないよ。それは否定しない」

 そして、それはやがて彼の真っ赤な血となる。

「むしろ、その名札の存在意義に対して疑問を持っていたくらい」

 彼はくだらないものを見たとでも言いたげに眉と口を歪ませた。

「アネット、お前はどう? この、無意味な名札について」

 アネットはクレアを睨みつけた。彼はどうしても自分の心証を悪くしたいらしい。彼の挙動からは、どうにもこうにも、関係をめちゃくちゃにしたいとしか感じられない。

「愚問よ。あなたの一挙一動からは悪意しか感じられない。そんな人にまじめに答えを返しても、それこそ無意味だわ」

 食事はもう続けられる気がしなかった。久しぶりの、本当に久しぶりの豪華な食事だったが、何の味も感じられない。

 カトラリーを置いた。

「あなたが、家族という名札に感じる以上に、無意味」

 アネットは椅子から立ち上がると、振り返りもせずにその場を去った。

 クレアは彼女を止めなかった。



 部屋に戻り、そのまま中にある浴室で体を洗う。

 一日の疲れが吹っ飛ぶようだった。

 香油などいろいろ置いてあったが、基本綺麗に汚れを落とせればそれで十分なので、アネットは洗い終え次第寝間着を身につけ、浴室を出た。


 すると、扉を開けた先にはメイベルがいそいそとベッドを整えているところだった。扉の音がすると彼女はさっとこちらを振り返る。

「お嬢さま!」

 アネットは申し訳ない気持ちになった。きっと彼女は、浴室にアネットの気配を感じてかなり焦った上に急いでいたのだろう。当然だが、彼女がこの場にいることは全く気に障らなかった。が、メイベルはむしろ恐縮してしまい、さらに焦ってしまったようである。

「あっ、ごめんなさい。戻るのが早すぎたわね」

「いやいや、あたしがいけないんです。今日は色々とごたごたしてしまって、仕事を早くできなかったんです」

 そう答えつつも、手はテキパキと、たまにミスをしながら作業を進めている。

 アネットは微笑ましく思った。自分が主人の立場だから彼女は礼儀正しくしているのもあるだろうが、元々素もこんな感じだろうと思えてきたのだ。

「わたしがやるわ。もうあなたは戻っていいわよ」

「とんでもないです! これはあたしの仕事です。もう少しで終わるんで、もうちょっと我慢してください。あっ、えっと、そうだ。何ならお茶でも淹れましょうか」

 アネットは笑って首を横に振った。そして、彼女が苦手そうだったところをさりげなくやってみせた。これで要領を学んでくれれば何よりだ。別に覚えられなかったらまた今度教えてあげよう。

「いいのよ。クレアから聞いたかどうかわからないけれど、わたしは元々そんな高貴なお嬢さまじゃないのよ」

「あの、でも……」

「それこそ、あなたよりよっぽどこういうのは慣れていると思うわ。だってあなた、まだ一年目でしょう」

「はい、そうなんです。本当にあたし不器用で」

「あなたが特に不器用なわけじゃないと思うわ。不器用って言っているわりには、すごくうまくお仕事できていたじゃない。わたしはもう何年もこういう仕事していたのよ。見たらわかるのよ」

「お嬢さま」

 アネットはベッドメイクの仕上げまでやると、メイベルの方に向き直る。

「それもいろいろ虐められていたから、きつい仕事は結構やったと思うわ。だからこんなの本当にどうってことないの。あなたの仕事を取り上げるつもりはありません。もう今日は十分働いてくれたから、ご褒美だと思って。もう休みなさい。だって、あと残ったお仕事はわたしの身の回りの世話をするだけでしょう?」

 メイベルは目を丸くした。痩せているせいか、目が余計に大きくぎょろっとして見える。しかし、その目は星のようにきらめいていた。

「はい、まさに……」

 灯の確認などがあるだろうが、それはそんなに長くかかることでもないだろう。メイベルがまさに寝る直前にやることだ。メイベルでなくとも、ウィルキンソン氏かベイカー夫人がやるかもしれない。

「じゃあ、早くお風呂にでも入って、もうお部屋に戻りなさい。自分のお手入れは自分でやります」

 メイベルは戸惑っていた。

「わたしに仕えている間はあまり力まなくていいわ。他のご主人に仕える時は気をつけたほうがいいけどね。でも、わたしにでもクレアにでも仕えていればそのうち仕事の要領はつかめてくるだろうから、わたしより厳しい主人に当たっても大丈夫そうだけれど」

「は、はい……」

 アネットは渋るメイベルの背中を押しながら、にっこりと笑った。

「夜はまだ冷えるから、あったかくしてね。それと、これからもよろしくね。おやすみ」

 メイベルがおろおろしながら去って行くと、アネットは苦笑した。

(我ながら、ちょっと経歴あるからって、いい気になっていろいろ言っちゃった)

 ベッドによじ登る。

(ふかふか……)

 我知らず感動が込み上がってきた。

(なんだかんだ言って、クレアのおかげでこうなったのだから、あまり攻撃的にならないようにしよう)

 そう思うけど、うまくいかない。


「他の奴らには、随分と饒舌だね」


 皮肉げな声が、アネットの思考を停止させた。

「な、人の部屋の前でそんなこと聞いていたの?」

「そういや、元は結構お喋りだったよね」

「話を逸らさないで。ありえないわ。盗み聞きだなんて」

「俺からすれば、特にこれといった侮辱を聞いたわけでもないのに一人で勝手に興奮して食卓に人を残して去った方も勝るとも劣らないよ」

「……いいえ、盗み聞きのほうが断然おかしいわ」

「それに、盗み聞きじゃない。部屋を普通に開けっ放しにしているなんて、聞いてほしいって言っているのかと思ったよ」

 開けていたのかしら。ああ、メイベルを出したあと、いろいろ思っていて扉を閉め忘れたのだ。恐らくそうだ。

「それは、わたしが悪かったわ。これからは気をつけます」

「別に気をつけなくていいよ。どうせ、ここと俺の部屋は繋がれているんだから」

 確かに彼の部屋とこの部屋を繋ぐ扉が一つあるにはあるが。

「まさか、あれから勝手に入るなんてことしないでしょう。当たり前のことだわ!」

「そう? 別に、他のご婦人に対してはそういうことを気をつけないといけないだろうけど、お前には該当しないね」

 クレアは馬鹿にしたように笑っていた。アネットは頭が沸騰するかと思った。

「確かに、あなたにとってわたしは女ではないけど、わたしは一応、生物学上女なの。これを考慮してくれないんだったら、部屋を変えるわ。それが気に食わなかったら、この家を出ます」

 クレアはハハハ、と普段の彼からはおよそ想像もつかないほど豪胆に笑った。そして、こちらをジッ…と見つめてくる。

(やめて)

 その目にこの身が映れば、何もかもが露わになってしまう気がして、息苦しくなる。このまま死んでしまうのではないかと、極端なことを思ってしまう。

 アネットの願いが通じたのか、彼は目を閉じた。氷青はその薄い瞼の下に沈んだ。

「解った。生物学上女扱いは言われなくてもするつもりだからご心配なく」

 何か含みがあるような気がするのは、気のせいであってほしい。

 アネットが疑わしさに溢れた視線を寄越すと、クレアは顔を逸らして肩を竦めた。

「どうせ、暫く俺はここにはいられないし」

 いきなり話題が転換した。そして、話についていけない。

 なぜだろう? しばらくとは、どれくらいの期間をいうのか。

 そんな諸々の疑問を解消するべく、クレアは淡々とこれからの予定を話してくれた。

「ルテニア軍との合同演習がある。今年からはカリキュラムが変わって、ルテニアの山間地で訓練することになった。八週間」

「それって……二か月も」

 何だろう。彼にあんな風に接しておいて、この理解不能な自分の感情は、何だろう。

「何、俺が行くのがそんなに嫌?」

「は、そ、そんな、そんなわけ、な」

「吃ってる。馬鹿だな」

「ありえないことを言うからでしょう!」

 彼はらしくもなくなぜこんなにからかってくるのか。そんな親しげに悪い冗談をやり取りする仲でもないのに。

 自分が子どもみたいにムキになって返すのが嫌になる。春先とは大違いだ。

「アネット」

 たわいない応酬の末に、いきなり真摯な声音が来ると、どう対応すれば良いのだろうか。

「俺が帰省した時よりは、ちゃんとムキになって応酬できるくらいには治ってきたな」

「––––––––––––」

「その調子で、変わっていけばいい」

 彼は、何を言っているの?

 なぜ、そんな顔をするの?


 アネットが呆然としていると、クレアはつかつかと近寄ってきた。

 避ける暇も与えてくれなかった。


 彼は、アネットの鼻に唇を落とした。




ご愛読ありがとうございます。

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