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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
13/25

012 首都へ

お待たせしました。お楽しみください。

 




 沈黙には慣れている。

 それよりは理不尽な叱咤や苛烈な虐待の方がよっぽど恐ろしい。

 しかし、人は誰しも未知なるものに対しては何でも恐怖を抱いてしまうものだ。

 今のアネットがまさにそういう状況に置かれていた。

「………………」

 狭い空間にクレアと二人きりというのはなかなかの苦行である。

 馬車で首都までは二日ほどかかる。二日もこの状態なのかと思うと、気絶しそうだ。

 彼は今窓の外を無心に見遣っていた。無心なのか、無心に見せかけているのかは判然としないが、とりあえずこちらに視線を寄越さない分まだましだ。できれば眠っていてほしいところではあるが、彼は元々眠りも浅く、馬車で寝ているところを見たことがない。

 もしかすると、一見神経質な彼の性格は睡眠不足によるものなのかもしれない。アネットはそんなことをぐるぐると考えながらこの瞬間をひたすら耐えていた。

 今、二人の間はかなり気まずい。いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。クレアは至って飄々としているのだ。飄々あまって冷淡である。しかし、たとえ彼にとっては自分が意識する価値さえなくとも、アネットにとっては彼こそが最も意識する対象である。

 彼は自分を首都に連れて行って一体どうするつもりなのだろう。使用人としてこき使われるのだろうか。

 しかし、あの口づけに何か意味を見出そうとすれば、単なる使用人として連れて行くつもりであるとはどうしても思えない。

 もしかしたら、いわゆる愛人という存在として随伴しているのかもしれない。

 思考が飛びすぎているのだろうか。クレアにそういうつもりが全くなかったのなら、自分のとんでもない妄想になる。恥ずかしい。

(クレアはわたしが赤の他人だということを知っているんだし、昨日の口づけも……)

 アネットから見た彼の性格上、何の気もなしにあんなことをするとは思えない。

 しかも、過去に自分を手酷く裏切ってしまい、今は嫌悪しているだろう女に。加えて、表面上は一応姉である。

(もしかしたらお父さまが無精子症だと知ってしまっているのかも。違うかもしれないけど)

 アネットが赤の他人だという事実を知っていても、エリオットの無精子症については知らないのかもしれないのだ。

(これについては、クレアから言い出す前までは黙っておこう)

 アネットはそう決心すると、目の前に座る美貌の青年から目を離した。

 十一の時。初めて出会ったかわいい弟。

 しかし、物心ついてからいきなり現れた彼が弟だと告げられても、実感は湧かなかった。そして、彼から自分との血の上で結ばれたゆかりを感じることは一切なかった。直感は頼りにならないかもしれない。根拠もない。

 しかし、彼は時折弟にしては親密すぎる、一種異常な態度で接してくることがあった。

 十七の時。彼が叔父の子どもであり、さらに自分は父と何の血縁関係もないということを知った。

 そして、クレアのことを異性として意識し始めた。否、本能的には既に彼を男性として捉えていたのかもしれない。ただ理性で否定していただけなのかもしれない。

 十八の時。彼から異性としての好意を明確に感じ取ってしまった。

 ふと、クレアのプラチナブロンドが瞼の裏を過ぎる。

 なぜ、自分は父の白金の髪でもなく、母の漆黒の髪でもないのだろう。

 こんな半端な亜麻色の髪ではなく、せめてどちらかに似れば良かったのに。父の白金はもう赤の他人だったから仕方ないにしても、せめて母の髪色が欲しかった。

 今でもそう思う。


 しかし。

 ああ、だから。

 だから彼は、わたしを女として見てくれたのか。

 論理的に何も繋がっていない詭弁だが、何となく筋が通っているような気がしてきた。

 まるで夢の中。今なら何だって辻褄が合っているし、何だって叶えられる。


 アネットがこくりこくりと船を漕ぎ始めた。そのまま放っておこうかとも思ったが、窓にゴチンと頭をぶつけそうなのを認めたクレアは、そっと彼女に屈む。彼女の上半身を横に倒し、頭の下に柔らかいクッションを差し入れた。普通なら気がついて目も覚めてしまいそうだが、彼女は依然としてこんこんと眠り続けている。余程疲れたのだろう。

 自分は男で軍人だから鍛えていて疲れなど感じないが、彼女は一般的な女だ。鍛えることはおろか、きちんと食事さえ取れていないのだから、体力がないのは自然なことのように思える。

(それに……)

 自分と二人きりだから余計に気疲れしているのだとも、思う。

 自惚なのかもしれないが、昨夜の口づけ以来彼女は自分のことをかなり意識しているようだった。純粋で素直な彼女のことだ。見れば大体何を考えているのか解ってしまう。

 彼女のことをじっと見ているのもそれはそれで面白い気もするが、それでは慌ててしまうのが目に見えたため、やめた。こちらのことを気にしないよう、窓の外に視線を向け、話しかけることもなく黙っていた。

 が、効果はあまりないようだ。

(まあいい。意識してくれればこちらとしては万々歳だ)

 クレアはアネットの綺麗に揃っている亜麻色の睫毛を見てほくそ笑んだ。




 コンスタンスはアネットが消えてしまい、兄と二人でということが気になりはするものの、とりあえずフランシスと接触する機会がなくなったことに喜んでいた。

 一方、フランシスに関しては憂いを帯びた横顔が、日に日に白く血の気がなくなっていった。

「フランシスさま。お加減いかが? お顔の色が良くないですわね」

「大丈夫ですよ。お気になさらず」

 フランシスは力なく微笑んだ。コンスタンスは顔を曇らせた。

 彼女がここまで他人を心配するのは初めてだ。これもみんな、フランシスに対する恋心によるものである。

 フランシスは知っているだろうか。コンスタンスがどんなに彼を想っているのかを。

 そして、知りたい。彼がどんなに自分を想ってくれているのかを。

「お兄さまは今頃どの辺にいらっしゃるのかしら……」

「そうですね。ちょうど首都に着かれたのではないでしょうか」

「お兄さまとは仲良くなれましたの?」

「さあ……。やはりお互い心ゆくまでに仲良くなれる関係ではありませんから」

 コンスタンスは俯いて何か考え込んでいる。やがて、ぱっとその麗しい顔を綻ばせた。

「………………そうですわね。だって、わたしはお兄さまにとっては唯一の妹ですし、双子だから、あまりこう、お互い他人のものになるということが想像つかなくて。あなたにとっては、わたしは唯一の妻になるのですし……」

 そこで彼女はぽっと顔を赤らめた。

「やはり、女性が嫁ぐというからには、男性陣の神経戦は欠かせないものですのね」

 うふふ、と嬉しげに笑う。

「わたしのことで、お兄さまが少しつれなくなさっても、あまりお気になさらないでくださいね」

「…………」

 黙りこくってしまったフランシスに、コンスタンスは詰め寄った。そして上目遣いで彼を見上げる。

「ね?」

 念を押すように、ほんの少しだけ不安げな光をちらつかせながらコンスタンスは彼を凝視した。

 フランシスは苦笑しながら首肯するしかなかった。



 クレアが住んでいるタウンハウスには使用人がいない。

 それも、クレアは元々あまり使用人に頼らず生活している癖がついてしまったからである。

 もちろん、軍隊では士官として上にいる身であるので、一般兵が身の回りの世話役についている。しかし、私的な空間に踏み入った途端、彼は他の誰にも共に入ることを許さない。

 それがたとえ、血を分かち合った家族だとしても。

「アネット」

 彼がこの呼び方を使い始めたのはつい最近のこと。

 彼にこう呼ばれることに慣れることはできるのだろうか。呼ばれる度に本意ならずドキッとしてしまう自分が情けない。

「お前の部屋はここだ」

 指し示されたのは、彼の部屋のすぐ隣にある部屋だった。

「でも、近すぎて居心地悪かったりしない?」

「お前は?」

 彼が氷青の目をこちらにまっすぐ向けてくる。以前より、彼の感情がその目に剥き出しになっている気がする。

 彼を包み隠していた薄い膜のようなものが、取り払われている気がしてならないのだ。

 その目を見つめ返すのも苦になって、アネットは視線をあらぬところへ逸らした。

「わたしは……大丈夫だけど」

「なら、問題ない」

 クレアはさらりとそう言ってのけると、つかつかとアネットの部屋に入って行った。

 彼に続いて部屋に踏み入った時、アネットは目を瞠った。

「…………」

「元は俺が書斎として使っていたが、諸事情あってほかの部屋に移した。そこでここが余ったから、気まぐれに少し手直しした」

 彼は事もなげにそう言うが、実際はどうなのだろう。

「こんな風に役に立つとは予想外だ」

 嘘だ。

 アネットはささやかな確信を持った。

 見渡す限り、これはどこをどう見ても手の込んだ淑女の部屋だった。

 とても暖かな空気に包まれ、穏やかな時間が流れるような、そんな部屋。

 壁紙や天井の飾り一つ取っても優雅で気品があり、選んだ人の趣向の良さをうかがわせる。

 椅子や机なども女性の体格に合ったものだった。

「まあ、コンスタンスが来るかもしれなかったからな」

「…………」

 いつもより随分と口数が多い。彼らしくない。

 それに知っている。この部屋はクレアが先ほど言った通り、長年彼の部屋と隣り合わせの書斎として使われていたため、誰も自室として使えなかった。しかも彼はコンスタンスさえこの空間に踏み入らせることはなかった。

 彼にはコンスタンスを招き入れるつもりは、恐らくなかった。

(自惚れだってわかってる。でも)

 期待せずにはいられない。

 彼はまだ、自分があんなに手酷く拒んだにもかかわらず、まだ、まだ。

「ありがとう」

 ––––––まだ、彼は思い遣ってくれている。心を砕いてくれている。

 アネットは彼を見つめて、花が綻ぶような笑顔を見せた。

 彼は何も物言わなかった。


 でも気をつけよう。もうお互い血縁上は無関係だとわかっていても、やっぱり姉弟として生きてきたのだから。



 ふと、クレアは口を開いた。

「別にありがたく思わなくていい。俺もお前に遠慮するつもりはないよ」

「…………」

 何を言い出すのだろう。力んでしまう自分を叱咤する。彼の一言一言にこう怯えて暮らすのは

 いつまで続くのだろう。

「父上が無精子症だということはお前も解っているだろう。それに、俺がそのことについて既に知っているということも察しているはずだ」

「っ、お父さまが無精子症でもわたしたちのお父さまよ」

 正しい。これだけは本当に正しい。アネットは自分を奮い立たせる。

 しかし、クレアの言葉はその意志を呆気なくも折ってしまった。

「確かに。ただ、俺たちはもう姉弟じゃなくなる。俺が二十歳になると同時に、俺は父上から爵位を譲り受ける。その時、お前はこの家から除外される」

「!!」

 アネットの翡翠色の目がみるみる大きくなる様子にクレアは鼻で嗤った。

「お前はこの家の娘なんかじゃないから」

 アネットは俯いてしばらく無言を貫いていたが、やがて顔を上げた。

「それを言うなら……」

 彼女が何を言おうとしているのかは、なぜかクレアには解ってしまったらしい。

「コンスタンスのこと? あの子は血縁でも姪だよ。お前とはわけが違う」

「……………」

 惨めだ。彼からこんな風に言われるなんて。

(やり直せると思っていたのに、こんなことって)

「でも心配しないで。アネットの居場所はちゃんとこの家にあるから」

「…………それは、使用人として?」

 投げやりにそう問うと、彼は冷笑して彼女に挑発的な視線を寄越した。

「さあ。それはアネット、お前次第だよ」

 アネットの怒りと悲しみとやるせなさは頂点に達した。

「もうお父さまの娘でも何でもないわたしは赤の他人としてここにいるしかないの? でもそんなの嫌よ。わたしだって、あの方の娘として生きてきた。お父さまを慕ってきた。少なくとも、コンスタンスよりは娘の務めを全うしたと思っているわ! 今までのわたしの行いは、不十分だったというの?」

「…………珍しく自己主張するね。でも、コンスタンスのことは出さないでもらえる?」

「…………」

「お前と妹が仲が悪くなると、俺としては面倒なんだ。それに、そこまで心配しなくていい。お前は、赤の他人といえばそうかもしれないけど、そうでないといえばそうでもない立場にいるようになる」

「どういうこと」

 アネットが怪訝に眉をひそめると、クレアは首を傾げて彼女を煽るように挑発的な笑みを浮かべた。

「さあ。これから解るんじゃない? お前が馬鹿じゃなければ」




 彼女は馬鹿だ。

 純粋すぎて、優しすぎて、馬鹿だ。

 そして、そんな彼女を愛していて、それでも寄り添えない自分は彼女よりも愚かだ。

 しかし、自分にできることといえば彼女を悲しませることと、こうして彼女にこれ以上嫌われないように祈ることしかない。

(アネット。……お願いだ、俺を嫌わないでくれ)

 こうも切実に願っていても、もう長い時間をかけて深まってしまった溝は修復するには困難だ。

 それでも、時間をかけて直してみせよう。


 そうでもしないと、自分はもう死にそうだ。




読んでくださり、誠にありがとうございます。

感想やご指摘などお待ちしております。

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