011 真実
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クレアはこちらを凝視している。アネットは居ても立っても居られない気持ちになった。
彼の視線には、冷淡さよりは真摯さの方が際立っていた。
「ど、どうしたの? こんな夜更けに」
アネットがそう訥々と問いかければ、クレアの目が悪戯っぽく光った。
「夜更けに男が女の部屋にくる目的なんて、一つしかないでしょう」
「な、なに……!?」
クレアが一歩、また一歩と距離を詰めて来る。その度にアネットが目を丸くして後ずさる。
ただでさえ、こちらは抱いてはいけない感情のせいで後ろめたさでいっぱいなのに、クレア本人がそういうことを言ってくるものだから、警戒せずにはいられない。
しかし、クレアは自分が今言ったことを忘れたのではないかというくらいにあっさりとアネットから離れた。
彼は窓の外を見遣った。夜の空はこれでもかというほど深い闇色をきらめかせる。
「まともに取らないでくれる? 姉さん相手にそんな……。呆れちゃうんだけど」
アネットはほっとすると同時に、邪な失望を感じた。
自分でも驚くほど冷たく低い声が響く。
「…………冗談でも、そういうことはやめて」
「………………」
「これからは、二度とそんなこと言わないで」
自分は一体、何を期待していたのだろう。そんなこと、期待してはいけないのに。他でもない自分が、そんなこと望んだらだめなのに。
クレアは冴え渡る美貌を閃かせ、凄艶に微笑する。
「冗談じゃないとしたら?」
アネットはハッとして彼の方を向く。
「あなたがそんなこと言うわけないって、今言ったじゃない」
「姉さんは本気で取ったんじゃない?」
「違うわよ! そんなわけないでしょう!」
「もうやめよう。悪かった」
クレアは柄にもなくやや気まずげに頭を掻いた。その度に白金の髪が眩しく輝いた。
「こんなくだらないことを言いにきたんじゃない」
クレアの目から悪戯の色は消え失せ、真摯さを取り戻した。その目で、アネットをじっと見つめている。
その迫力は真に迫ったものがあった。そこに込められた熱を認めたアネットは息を詰める。
「––––––本題に入ろうか」
ああ、来るべきことが来てしまった。彼の話を拒めないのならば、せめてその姿でも拒もうと、アネットは目をぎゅっと閉ざした。
「アネット、俺はお前の弟じゃない」
クレアの気配が近づいて来る。彼がこちらに歩み寄って来る。
「お前は俺の姉なんかじゃない」
最後に、とどめの一言がアネットを貫いた。
「––––––俺たちは、血を一滴も分けていない」
アネットは顔を両手で隠した。彼と顔を合わせられない。面と向かって言葉を交わす勇気が出てこない。
もし、もしクレアがわたしの心を定義してしまったらどうしよう。
彼はわたしを嫌悪するだろう。忌み嫌うだろう。
二度と、会ってくれないだろう。
知っていたのに、もっと一緒にいたくて、もっと近くにいたくて、姉という身分を隠れ蓑にしていたのだから。こちらに歩み寄ってくれた彼の意思をないがしろにして、彼の心よりは安穏な生活を取ってしまったのだから。他の男を慕っていると目の前で言ってしまったのだから。その上で…………クレアを酷いやり方で、拒んでしまったのだから。
たとえ、それにアネットの意思がこれっぽっちも含まれていなくとも。
クレアは力なく俯いた。その姿は普段の威風堂々たる雰囲気からはおよそ想像のつかないものだった。
「叔父上が実父だったと知ったのは、十二歳の時だった」
「!」
ということは、クレアはアネットよりもかなり以前から事実を知っていたことになる。
「まさかとは思ったけど、ね」
九歳になってやっと取り戻した父が、実は本当の父親ではなかったのだという事実を、十二歳という歳で突きつけられてしまったのだ。彼は、一体どうやってそれを克服していったのだろう。クレアが強く明晰で冷静な人物だということは、いやというほどわかる。だが当時は、所詮は十二歳の子どもだった。信じがたい事実を強いられるのは随分と酷だったことだろう。
しかもクレアの父親は、他でもない、エリオットの弟でクレアが今まで叔父だと思ってきた人だったのだ。
「でも、そんなに驚きはしなかったよ。母上のことだからね。別に珍しくもないな、くらいに思った」
クレアは苦笑した。
(やめて)
彼は何ともないような体を装い、続ける。
「でも、そんなことで感傷に浸る必要は全くない。理由もない」
(やめて、そんな無理しないで)
クレアはいっそ晴れやかな笑みを見せた。しかし、それはどこか暗く歪んでいた。
「それよりも、俺はこれを知った時、これと同時にもっと良いことを知ることができた。嬉しかった。その時は、なぜ自分がこんなに嬉しいのか、測りかねていたけど……」
アネットは途中で話についていけなくなった。喜ばしいとは言えない自分の出生の秘密を知ったにも関わらず、それを圧倒するほどの良いこととは、一体何だったのだろう。
「それは、お前は結局俺の姉なんかじゃなかったということ」
アネットは首を横に振った。
「でも、お父さまがあなたたちのお父上だということは変わらないわ」
クレアは眉を寄せた。
「……わたしは、あなたの姉よ。さっき、あなたは血の一滴も分けていないなんて言ったけれど、実の姉でなくても、血縁上は従姉弟だからそう変わらないわ」
クレアは険しげにその秀麗な容貌をはっきりと歪ませた。
「この期に及んでまだ騙せると思っているの?」
アネットはびくりと肩を震わせた。
(まさか……まさか!)
なるべく平静を装って聞き返したが、それがどれくらいそれらしく見えたかは未知だ。
「どういうこと?」
クレアは暫くアネットをじっくりと観察していたようだったが、やがて溜息を吐いて首を横に振った。
「……こっちの話。俺はこれからお前のことを姉とは思わないし、そう呼ばない。お前が俺にそう呼ばれる資格はない。俺のことももう弟扱いしないで」
その時だった。クレアが突然、前屈みになってこちらに顔を寄せてきた。
一瞬だった。
唇に、柔らかくて温かい感触がした。
「っ!?」
それがクレアの唇だということを理解するのに、数拍かかってしまった。
そして当の彼は何事もなかったかのように、颯爽とした動きで扉まで向かう。こちらに背を向けたまま、彼の低い声が彼女の鼓膜を打った。
「––––––もう遠慮はしない」
ガタン、と大きくも小さくもない音が響き、扉は閉まった。
アネットは膝から崩れ落ちた。唇はそこだけ熱を持って、溶けてしまうのではないかと感じた。生まれて初めての口づけがこんなにも儚くて哀しいものだったとは思わなかった。
両目からはぽろぽろと涙がとめどなく零れ落ちた。もう彼とはこれっきりなのだと。もう、彼らの関係に付けられていた、一つしか残されていなかった名前さえ取り払われてしまうのだと。そう思うと、自分の今までの振る舞いがいけなかったのかと必死に頭を動かす。
そして。
(クレアはあれっきり黙っているけど……やっぱり、ばれたのだわ)
アネットが、お父さまの子どもじゃないということを。
クレアとは血縁関係が全くないということを。
一方、同時刻。
フランシスは自身に与えられている客室のバルコニーからベッドに戻って来たところだった。
思うことは沢山ある。そのうちの最も大きなものはやはり、昼にエリオットが話してくれたことだった。
––––––コンスタンスは、私の実の娘ではありません。
––––––はい? それは、どういう……
––––––あの子は、妻と弟の娘です。兄のクレアも同様です。
––––––!!!
––––––しかし、コンスタンスは知りません。クレアは、とある契機で知ることができました。自ら私に確認を取りにきましたからね。
––––––あなたは、なぜ……。
––––––なぜ黙っているか、ですか? それは私が不甲斐ないからです。仕方ないのですよ。だってね、私は……
その時のエリオットの表情は、何とも形容しがたいものだった。
––––––無精子症、ですから。
エリオットの話によれば、彼が無精子症であることを教えたのは、彼自身、クレアの二人だけだという。しかし、恐らく彼の妻と弟も知っているはずだという。
しかし、アネットとコンスタンスには話してもいないし、二人とも知らないだろうとエリオットは言っていた。
エリオットは無精子症。それはつまり、彼の実の子どもは存在しないことになる。
クレアとコンスタンスはエリオットの弟・ジョージとエリオットの妻・ヒルドレッドの子。
ならばアネットは一体誰の子なのか。
しかし、エリオットはそれについては何も語らなかった。
ヒルドレッドも、アネットがエリオットの実の娘でないことは知っているのだ。しかし、それを言ってしまえば結果としてエリオットの無精子症が公になってしまうし、そうなれば自分の不倫と子どもたちまで危ない立場に追いやられる。
だから、今の今までそのことには触れず、ただアネットを使用人扱いして虐待しているのだという。
しかし、エリオットにもまた、それを追求できない理由があった。
クレアとコンスタンスがまだ自分の血縁であることに比べ、アネットの父がエリオットの血縁でないか、あるいは血縁だとしても少なくともジョージよりは遠くなってしまうので、アネットの方が不利になってしまい、強く出られないのである。
––––––あなたはこれからコンスタンスの夫となる人です。アネットの分の遺産まで、全て取りたいと思いますか。
––––––いいえ。決して。
フランシスはアネットがエリオットの実の娘ではなかったからといって、遺産相続問題などを拗らすつもりは毛頭ない。むしろ、彼の本心としては……もう少し早くアネットを知っていれば、と後悔するばかりだった。
一目惚れだった。
財産なんていらない。権力なんていらない。ただ、アネットが欲しい。
しかし、もう縁談は取り返しのつかないところまで進んでいる。大貴族の子として生まれた以上、私的な感情は捨て、あくまでも政略としての結婚に望むべきだと思っている。幸いその相手であるコンスタンスとの中は良好だ。自信に溢れた、しかし自分の前では恥ずかしそうに頰を染める彼女は美しい。一緒に暮らしていれば、互いの情も深まることだろう。
そう頭で言い聞かせているものの、どうも心がついてきてくれない。
心は、これでもかというほどアネットを欲している。
これから姻戚として顔を合わせると思うと、そして彼女が他の男のものになるのを目にすると思うと、耐えられない。しかし、それを押し隠して自分は「義姉上、おめでとうございます」と言わなければならないのだ。
彼女との関わりはこれといってない。しかし、彼女は彼の中で特別な位置を占めてしまった。
当初の予定と違って、伯爵領にやや長めに滞在していたクレアが、やがて首都に戻る日がやって来た。
アネットは他の使用人らの嫉視と軽蔑の中、黙々と日々の仕事をこなし、毅然と移住の準備に取り掛かっていた。
あの日以来、碌にクレアと話すことはおろか、顔すら合わせていない。
(本当に、行かなければいけないのかしら)
何とか取り下げてもらえないのだろうか。
(無理、かな……)
どう考えてもうまくいく気がしない。クレアの態度や行動がどう転ぶか予測ついたものでもなければ、現に、アネットは自分の気持ちを持て余していた。
(お父さまも心配なのに)
一つ心が軽くなるのは、継母と継妹から離れられるということくらいだ。
(そりゃ、あの二人は積極的に虐めてくるものだから)
クレアとの気まずさは、自分だけが感じていて一人心中で騒いでいるだけなのかもしれない。
数年前、彼の前で嘘の想いを言わされたパーティーで垣間見た、彼の心というのも今はすっかり消え失せていることだろう。
(確かに、あの時は既にわたしが自分の姉ではないということを知っていたっていうのが、問題といえば問題かもしれないけれど……)
ブリタニアでは一応いとこ同士の婚姻は認められているが、現実には避けられている。
(わたしのことをいとこだと知っていたのに、あの態度だったなら……)
自分がコンスタンスの男友達に対する嘘の愛情を言わされ、その上でクレアを無理やり離してしまったあの夜、クレアは確かに自分を想ってくれているようだった。
一人の女として、見られていたと自惚れてしまう。
(やっぱり、距離はしっかり取ろう。それがお互いにいいよね)
首都への出立の前夜、クレアとフランシスは二人きりで酒を飲み交わすことにした。
場所は北の奥まった所にあるテラス。フェイン邸にはいくつかのテラスがあるが、このテラスは主に夜、酒を飲むために使われている。
クレアの部屋でゆったり飲むのも良かったかもしれないが、クレアがフランシスを部屋に入れたくなかった。フランシスに限って遠慮せず長居するとは思わなかったが、ただただ招き入れたくなかった。こういう所こそ、クレアが大人びていつつも未だに大人になり切れていない部分なのかもしれない。
「呉々も、コンスタンスを宜しく頼みますよ」
「ご心配なく。もう家族になるわけですし、他人行儀なのはやめませんか?」
「そうだな」
クレアは冷笑を引いた。
「じゃあ、これからこちらこそ宜しく頼むよ」
「僕のことはフランシスと呼んでくれて構わない」
「だが、俺のことは義兄と呼んでくれ」
「…………」
フランシスが年上ではあるが、クレアがコンスタンスの兄である以上、それは間違っていない。しかし、クレアが年下である上にそこまで序列や呼称にこだわる必要はない気がした。それに、クレアはどうもそういうことを一々気にするような人物ではないと確信していた。彼は実利主義だ。
「君のような人が、妹の夫君となってくれて良かった。これで安心して首都に帰ることができる」
「…………貴方は、僕とコンスタンスの仲を早く密なものにしたいらしい。そしてどうしても、君は僕を一日でも早くコンスタンスの夫にしたいようだ」
「––––––」
「それには、何か特別な理由でもあるのか?」
「特別な理由……逆に聞くが、何か思い当たりでも?」
クレアは慇懃な態度を崩さずどこまでも穏和な微笑を見せているが、その腹の中が黒いということをフランシスは何となく感じ取っていた。
こいつは、歳に比べて老練な狸のような奴だ。
それが、フランシスが感じ取ったクレアの為人だった。
「回りくどいことは嫌いだ。どうせ僕がこれを口外することはない。だから単刀直入に聞く。君は、アネット嬢のことを女性として好いているのか?」
瞬間、沈黙が降りる。
こんなに緊張したのは初めてだ。フランシスはクレアの口から何が出てくるかと待ち構える。
手に汗が滲み出た。
「は!」
その沈黙を破ったのは、クレアだった。
フランシスは思わずビクリと反応し、肩を震わせた。
彼はフランシスを嘲るように嗤った。普段の彼からは想像もつかないほど豪胆に笑い転げた。
「ははははは! はーっはっはっはっは……なるほど、はは、そういうことか」
やがて思う存分に笑ったのか、満足げな笑みを刻んでフランシスに挑発的な視線を投げた。
「フランシス。君はなかなかくだらないことに時間を割いているようで、残念だな。その切れる頭でもっと違うことを考えた方がいいと思うけど」
「ふざけないでくれ」
「ふざけていないよ。至って真剣だ。そう、例えば……」
「…………」
「目の前の野郎をどう打ちのめすか、とか」
「!!!」
「ご心配なく。流石に妹の夫をどうこうしようという気にはならない」
フランシスは、先程から何も言えていない自分が情けなかった。
クレアは随分と魅力的に目で笑んでみせた。女性がこれを目にすれば、誰でもころりと彼の虜になるはずだ。
「君の勘の良さにはほとほと敬服するよ、フランシス。だが、ちょっと勘違いしているな」
「勘違い?」
勘がいいと言ったのに、勘違いをしているとはどういう了見だろうか。
それよりも、勘がいいと言ったということは、やはり。
「君はやはり、アネット嬢が好きなのか」
クレアの瞳に殺気が宿った。
「好きなんて、そんな軽薄な言葉では表せないね。俺はアネットを心の底から深く愛している」
「––––––!!!」
「それと、アネットの名前を呼ぶのはやめてくれないか」
「は……」
「貴様の義姉になる人だ」
フランシスはクレアのあまりの豹変ぶりに言葉を失ったが、やがて気を取直した。
「そうだ。全く君の言う通りだよ。彼女は俺の義姉になる人だ。それと、忘れてはならない。君の実姉だ」
「俺と彼女には血縁関係が全くないよ」
「知っている。君の父上から聞いたさ」
「……へえ」
「でもやはり現状、彼女は君の姉だし、君は彼女の弟だ」
クレアは背筋が凍るほどの冷笑を浮かべた。
「フランシス。君はやはり少し頭が弱いようだね」
「なっ……!?」
「人は良いけどね」
クレアはフランシスに嘲笑を投げた。
「アネットは君の義姉になる。しかし、それはコンスタンスの姉としてではない。––––––俺の妻として、俺との婚姻を通して君の姻戚の姻戚になる、ということだ」
フランシスは耐えられず、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「君には付き合っていられない。これ以上ここにいたら失礼を犯してしまいそうだ。今日はこの辺でお暇することにしよう。良い夜を」
フランシスが立ち去り、後に一人残されたクレアは、気狂いのように笑っては酒を一気に煽った。
アネット、お前を絶対に手に入れる。
ありがとうございました。感想などお待ちしております。




