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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
11/25

010 氷青の思惑

お待たせいたしました。ブックマークありがとうございます。

 



 今日もウェストモーランド伯爵邸の景色は素晴らしい。

 春風そよぐ庭や、近くに広がる爽やかな緑は見ものである。


 しかし、当の邸内では緊張が走っていた。

「何ですって?」

 ヒルドレッドが勝気な眉を吊り上げ、反問する。その鋭い視線の先には他でもない、彼女の愛する息子が立っていた。

 クレアは軽装のまま乗馬に出かけていた。昼下がりになって食事を簡単に済ませ、その後は鍛錬に勤しんだ。もうすぐ首都へ帰還する。実家でのんびり過ごしたので、その分を取り戻す必要があった。

 そしてそのまま、思い出したように母を訪れたのである。

 後ろに控える使用人たちはいつ自分たちにとばっちりが来るかとハラハラしながら俯いていた。クレアはこの状況に彼らを追い込んだ責任を取って、視線で退室を指示する。

 使用人達が去り、母と二人きりになった彼は感情の読み取れない顔を母の方へ真っ直ぐに向け、もう一度言った。

「首都に戻りますので、その際アネットを使用人として連れて行きます」

「それはまたどうして。使用人がもっと欲しければ、つけるわよ」

 訝しむ母の口調に、麗しい息子は微笑する。

「いいえ、あの女の方が何かと使いやすい」

「わからないわ。どうしてあの娘にこだわるんだか」

「あの女をここに置くと、コンスタンスがいつか限度を超えて何かやらかしてしまうのではないかと不安です」

 最もな理由だが、それでも不服そうに疑惑の目を向ける。

「確かにそうだけれど、あなたに何かしたらどうするの」

「何かするとは?」

 彼は本当に解っていないとでも言いたいかのような顔で首を傾げた。ヒルドレッドはそれを大抵は信じ込んでしまうことをクレアは知っていた。

「…………あなたに襲いかかったり。ほら、事件なんて私怨が大半じゃないの。あの娘のことよ。あなたに恨みを持っているかもしれないわ」

 とんだ苦笑ものである。そんなに気にかかるくらいなら、虐待しなければよかったのに。

(だが、俺に言えたものじゃないな)

 クレアは溜息混じりに窓の外を見遣った。

「さすがに私に襲いかかるほど愚かでもないでしょう。そもそもあの女にそんな気力や度胸などありませんよ。仮に何かしようとしても、私がさせません」

「でも……」

「仮にも私は男で、軍人です」

 確かに、その軍人の中でも群を抜いて優秀であるクレアには余計な心配だったかもしれない。とは言っても、ヒルドレッドにとっては大事で可愛い息子だ。それはクレアがやがて国一番の壮年の将軍になっても変わらないだろう。

「…………」

 ヒルドレッドは黙り込んだ。母は何かを探るように息子の目を凝視する。クレアの表情が変わることはない。

 彼は、母が何を肚の中にしまっているのか察している。

 怪しい。聞いてみたい尋ねてみたい。でもそうするには息子は正直怖い。自分の思い違いであってほしい。仮にこれを聞いて、むしろ普通だった息子が変な方向に向かってしまったらどうしよう。それなら最初から聞かない方がいいだろう。しかし、気になるのは事実だ。いずれははっきりせねばあるまい。しかし…………。

(……まあ、大方そう思っているんだろう)

 ヒルドレッドは下唇を指先で弄りながら部屋の中を行ったり来たり、隅から隅へと徘徊した。

 ここ最近の中で一番頭を回しているはずだ。

 息子の意中を把握するために。

「何も仰らないのでしたら、可と取っても?」

「…………クレア」

 息子の催促に、ヒルドレッドは彼を確と見据えた。その瞳は不安と警戒と疑惑に揺れていた。

「わたくしはあなたを信じるわ」

 口は信を示したが、目は不信を顕にしていた。

「しばらくは何も考えず、とにかく自分の安全と昇進することだけを考えなさい。安定してきたら、この母があなたの妻となる女性を探します」

「………………」

 クレアもこれには閉口するしかなかった。

 やはり母も疑っている。

 クレアが、アネットを女性として慕っているのかもしれないと。

 しかしながら、まだ確信はしていないのだろう。あるいは信じたくないのかもしれない。ただ目を逸らしたくて、ただただ逸らしているのかもしれない。

 嫌なことから一旦はとにかく逃げてみるというコンスタンスの性向は母譲りなのだろう。そういうことは正直どうでもいい。

 今はアネットを自分の側に留め置くことが第一だ。これから首都に戻れば母と妹の視線を気にせずに済む。中尉の俸禄は佐官や将官に比べれば大したことはないが、それでも同年代の平均よりはかなり稼いでいるし、安定的だ。女一人養うくらいはできる。

 クレアは苦笑した。

 自分は未だ嘗てないほど必死だ。それを目の前の女性に見せるつもりは毛頭ない。

「解りました。元よりそのつもりです。周りにこれといった女性はいませんし、仕事に邁進しますのでご心配なく」

「わたくしは真剣に言っているのよ」

 さらりと言うや否や、母は鋭く念を押した。クレアは相変わらず飄々とした態度を貫いている。

「婚姻のことは一切を母上にお任せします。コンスタンスのことですが」

 クレアは一旦口を閉じ、数拍を置き、また口を開いた。

「フランシス卿との婚姻はいつ頃になるか、話はまとまりましたか?」

 ヒルドレッドの雰囲気が変わった。それまで吊り上がっていた眉の端は下がり、代わりに上がった口端からは溢れんばかりの嬉しさを隠せていない。

「ええ、双方互いに気に入っているようで。恐らく来年の秋には新居の扉をくぐることになるわ」

 ヒルドレッドはうっとりと答えた。

「そうですか。それは何よりです。心からお祝いします」

「コンスタンスは女の子だから、遅くないうちに早く嫁がせないとね。フランシス卿なら、次男だということ以外は文句のつけようもないわ」

「私としては、今すぐにでも結婚してほしいですね」

 クレアは冗談混じりに冷笑した。


 ––––––はじめまして。わたしはアネット。あなたは?

 ––––––クレア。

 ––––––クレア。綺麗な名前ね。これからよろしくね。

 ––––––はい。

 ––––––あなたはわたしの弟、わたしはあなたのお姉さんになるの。


 あの時、自分は確かに生まれて初めて慕情というものを覚えた。

 そして、初めは姉に対する慕情と憧れだと思っていたものが、ある時を境に明確に形作られ、現れた。困ったことに、その想いの形というものは理性が望んでいたものとだいぶかけ離れたものだった。

 理性と自分を取り巻く状況が望んでいたものではなかった。代わりに、自分の底辺にある本能は歓喜に打ち震えた。

 彼女が自分の姉でなければ、こんなに葛藤することもなかった。苦しむこともなかった。

 しかしまた、この関係でないと互いが出会うこともなかった。

 これは、必然だ。全て偶然を装って起こるしかない必然で、運命。

 クレアは基本、運命は自分で切り開いていくものだという考えを持っている。何でも神、摂理という他者によって決められているのは癪だったし、今までは何が起こっても自分で克服して生きてきたからだ。

 しかしアネットとのことになると、どうしても運命というものを考えてしまう。恐れを知らない自分を唯一恐れさせることのできる存在、それがアネットだった。

 そして、彼女が自分の姉だということ、幾多もある人のうち、自分の姉がよりにもよってアネットだということに、クレアは運命を呪った。

(だが……)

 これももう最後だ。


 ––––––姉さん、茶番は終わりにしないか。俺が分かっていないとでも思った?


 そう言い放ったのは、クレアの中で一種の確信があったからだ。

 彼女は知っている。

 知っていて、今まで自分を避けてきていたのだ。

 残念ながらアネットから答えを聞くことはできなかった。彼女は自分の問いの意味を深く考え込んでいるようだった。やがてその意味の全容を把握したのか、その麗しい顔はみるみる険しさと憂いと焦りに染まっていった。

 そのまま、アネットは熱で重い体を引きずって走り去ってしまった。

 彼女がまた倒れはしないかと心配にはなったが、止めはしなかった。



 エリオットは久しぶりに外に出た。

 これも、婿になる予定の男性がどんな為人をしているのか見極めることと、単に話し相手が欲しかったことによる。

 伯爵邸の近くには森が広がる。ここはよく客人がきた時に狩場として利用される。しかし、生憎エリオットは狩をできる状況ではなかったのでクレアが父の代行として先日狩を行ったのだ。

 この森には鬱蒼としつつも木漏れ日が美しく、息を呑むほど素晴らしい景色を備えた場所がいくつか存在する。そして、そこまで辿り着くために利用される小道があった。エリオットはフランシスと共に歩みを進めた。

「フランシス卿」

「はい」

「コンスタンスとは仲睦まじく過ごしていると聞いています。何よりで」

「ご令嬢がとても素晴らしい女性だと思ってやみません。一度お会いすれば最後、忘れるにも忘れられないほどにお美しいですね。先日は自らお育てになったバラの園を見せてくださいました」

「…………」

 エリオットは何か思う処があったのか、沈黙していた。フランシスはそれには気付かず、コンスタンスに対する千篇一律な称賛を述べる。

「コンスタンス嬢はとても繊細で心優しい女性だということが判ります」

「そうでしょうか……」

 エリオットは穏やかで静かな笑みを刻んだ。しかし、それはどこかに苦みを含んでいた。

「コンスタンスは可愛い娘だからできるなら庇ってあげたいが、アネットもまた私の娘なので言っておきましょう」

 フランシスはこの場に似合わない予想外の名前にハッとしてエリオットに視線を向けた。

(アネット……!?)

「あのバラはコンスタンスが育てたものではない。全てアネットが世話したものですよ」

「アネット」

「長女です。お会いになってはいないのですか?」

 思わぬところからの情報により、フランシスの頭は混乱を極めていた。

「いえ、その」

「………………」

 吃るフランシスを、エリオットは根気よく待っているようだった。

「恐らく、私の間違いでなければ……先日の朝方に外でお会いしました」

 エリオットはただ無言のまま遠くを見ていた。フランシスは予想外の機会を逃すまいとこれを十分に活用することにした。

「卿、一つお聞きしたいことがございます」

 フランシスはこの期に及んで少しばかり躊躇ったが、やがて決心したようにエリオットをまっすぐ見つめた。

「アネット嬢はコンスタンス嬢と同じような暮らしをされてはいないようですが。卿はそれをご存知ですか」

 あの奇跡のような朝に見たアネットの姿、態度、そして発言内容はどう見ても使用人でしかなかった。

 しかも、フランシスはとあることを思い出した。

 彼女と初めて出会った昨冬の日、そもそもフランシスがフェイン伯爵領の近辺にあるハワード家の別荘にいたのは、フェイン伯爵一家が長男クレアに会うために首都郊外に出かけるということを聞いて、気兼ねせずに辺りで乗馬に耽ろうと思っていたからである。

 しかし、自分はそこでアネットに出会った。

 軽く、華奢で、妖精のような彼女と。

 その時の彼女の状態はお世辞にも良いとは言えない。彼女の姿は如何にも病人のような、天使のような白い寝間着のそれだった。休暇を出されて家に帰っているか、出勤退勤が許された者ならそもそもあの期間、邸の近くにあんな姿でいるのもありえない。主人一家がいない間に屋敷の世話をする者でも、使用人があの時間帯にあのような服装で外を出歩いているのもおかしい。

 そうだ、自分はなぜこんな大事なことを忘れていたのだろう。

 このことを話すと、エリオットは瞠目した。

 フランシスはそれを見てやはり、と思った。

「確かに、昨冬のことだけを思うと、アネット嬢だけが病気か何かのせいで、一人家で療養中といえば辻褄が合わなくもありません。しかし、先日の朝見かけた使用人のような彼女と繋げたら、これは何かおかしいと感じられるのは私だけでしょうか」

「フランシス卿。これは全て、私が悪いのですよ」

 エリオットは観念したように苦笑した。

「どういうことですか」

 フランシスは焦らすように、どこか勿体ぶっているとも見えるエリオットに若干苛々していた。

 そして、許せないという気持ちが彼を包み込んだ。おかしい。彼女の保護者でもない、赤の他人で知り合ったばかりのフランシスにその権利はないはずだ。自分はアネットと近しい人物でもないし、彼女と会ったのもわずか二回。加えて、当人からは避けられているのだ。

 しかし、この迸る憤りを抑え込むことがこんなに大変だ。

「貴方は、アネット嬢を虐待しているのですか」

 震える声をやっとの事で制御しながら、わずかに低く堅い声で問う。

「違うとも言えませんね。結局は、私にろくな力もなくこのような状態を招いてしまったのですから」

 エリオットは目を伏せた。その視線の先は体を支えるための黒いステッキだが、心の先はどこか他に向けられているのだろう。

「フランシス卿。コンスタンスとの結婚をこの老人に約束してくれるのでしたら、貴方の人柄を見込んで全て包み隠さずお話ししましょう」

 フランシスは目を眇めた。



 アネットはポリーンから嫌みったらしい口調で言われたことを思っては頭を抱え、部屋の中を歩き回ってばかりいた。

 こんなことをするとまるでヒルドレッドのようなので今すぐにでもやめたかったが、やめられない。何せ自分を取り巻く状況が嫌がる自分を引きずって無理に前に進もうとしているからだ。

 先程厨房で皿洗いをしていたところ、ポリーンが親切にも皿に油を振りかけてくれ、いい迷惑をした。反論してもろくなことがないので、「床にまでかからなかったことを良しとしよう。皿は洗えばいいし」と思いながら黙々と作業を続けていた。

 そして、ポリーンに逆上された。

「あんた、クレア様と首都に行くんですって!? 一体どんなズルをしてそういうことになったのよ!」

 一瞬、彼女の言葉を理解しかねた。

「は……?」

「は?じゃないわよ! どうせあんたが色目使ってそうなったんでしょ!」

「どうしてそういう思考になるのかよくわからないわ。姉と弟なのに……」

 アネットが驚き半分呆れ半分でポリーンを見返すと、ポリーンは捨て台詞のように怒鳴り散らした。

「あんたなんて消えちゃえばいいんだわ!」

 よほど悔しいのか、扉が壊れてしまうのではないか心配になる勢いで、厨房を去った。

(確かに、あなたは間違ってはいないわ)

 ポリーンの見立て通り、自分は後ろめたい感情を持っている。


 そして今に至る。

(クレアと二人で、彼の邸に……)

 軍は普通集団生活をするものではあるが、一日中軍の中で生活かというと、そうではない。それが当てはまるのは一般兵士だ。将校や下士官以上は普通に出勤退勤をし、軍の外に家を持つ。

 クレアの場合は、伯爵家のタウンハウスが都にあるため、そこを住居として利用している。

 父も、継母も、コンスタンスも、使用人たちもいなくなる。

 皮肉にも自分の理性を保ってくれていた存在たち。それらが首都にはない。

 自分は果たして、姉弟として、それがだめならば主人と使用人として、自分はクレアとうまくやっていけるのだろうか。

 アネットの心配は尽きることがなかった。


 どのくらい時が経ったのだろうか。扉が叩かれた。

 こんな時間に誰なのだろう。月はもう夜空の一番上で輝いているというのに。

 もしかして、自分は今日の仕事を全部終えたと勘違いしていて、実は終えていなかったのかもしれない。

「はい」

 執事はこの時間に突然来たりすることは一度もない。所詮は自分に仕事を押し付けに来た使用人のうちの一人だろう。

 寝巻きの上に軽くショールを羽織って扉を開けた。そして、その先の立っている人物を目にした瞬間、ハッとした。

 急いで扉を閉めようとした時はもう遅く、クレアは既に部屋の中まで入り込んでいた。

「クレ……」

「黙って。煩くしたら、皆起きるよ?」

「…………」

 どうしてここに、という疑問は喉の奥で消えた。




誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると助かります。

また、感想などありましたら、くださると嬉しいです。

読んでくださってありがとうございました。

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