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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
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第四章

(一)


 打ちっぱなしのコンクリートの壁に走る不規則な模様は、まるで抽象画に描かれた精霊のようである。無表情な姿でこの部屋に横たわる何人の人物を眺めてきているのだろう。


「みんな拾い集めたってのは、本当か?」

 青白い蛍光灯の光の下で一人の男がため息をついている。

「ちょっと少ないような気がしますね」

「やな感じだな」

「妊婦です。胎児は正常に育っていて、検死官に確認したところ、だいたい六ヶ月ぐらいじゃないかって、言ってました」

 吉野刑事の言葉に、村山警部補のため息は止まる。ひとつ深呼吸をして腕組みをする。


「どんな動機が考えられると思う?」

「想像もできません。もっとも自殺をする理由を考えにくい状況じゃないですか」

「だんなはどこに勤めているんだ」

「電機会社のエンジニアです」

「会ってきたのか」

「ええ、意外に落ち着いているみたいでしたが、話していることが、すこしずつ錯乱していくようで、『で、妻はいつ帰ってくるのでしょうか?』なんて聞き返してくるんです。たんだん気持ち悪くなってきましたよ」

「頭の中は、もうすっかり半狂乱になっているんだ」

「近所に聞き込んでも、とっても奥さんとは仲がよかったみたいですから」

「そうだろうな。顔は半分だけどかなり美人だからな」

 最後には迫り来る電車の車輪を目撃したはずなのに、うっすらと化粧したその頬には、おだやかな安らぎの微笑さえ浮かんでいるように見えた。


「警部、本当ですかね」

「えっ?」

「胎児には母親の声が聞こえるって」

「うーん、ちゃんと耳はあるしなあ」

「母親の顔が見えるって、言う人間もいますよ」

「それは無理だろう。いっくら、こんなにきれいな目があってもなあ」

 村山は、母親の胎内から取り出された六ヶ月の胎児を見おろした。おだやかな母胎の海のなかですくすくと育っていた命は、もう大きなつぶらな瞳をもっていた。






(二)


 空調された室内のあたたかさを知らせる装飾のように、窓の外では枯れた木の葉が舞っている。


「失礼します」

 応接室のドアを開いて、その男は入ってきた。

「まあ、どうぞお掛けください」

 そう答えながらも、ずいぶん歪んだ顔の男だと政晴は思った。

 間違いなく重症の顎関節症患者だ。

 顎をかみ合わせる筋肉は一回の咀嚼そしゃくで七十キロ以上の力で上顎と下顎を引き寄せる。そのバランスが崩れると、あっというまに顔面の骨格、さらには頭蓋骨全体が歪んでしまうのだ。

 それにしても、これはずいぶん極端な例だな。


 相手の異様な風体に続いて、政晴は差し出された名刺をじっと見る。

『警視庁 捜査一課二係 係長補佐 警部補 村山康浩』

「捜査一課というと、どのようなご用件なのでしょうか? 」

「失礼ですが、水上先生は、ごく最近、この研究室に招かれて、講師になられたそうですね」

「いや、この春からですから、もう八ケ月になりますが」

「以前は、こちらではなくて」

「はい、豊島区にあります救急救命センターにいました」

「ああ、救急車がよく行くところですな」

「はい、確かによく来ます」

「交通事故の被害者というのは、ずいぶん惨いものらしいですな」

「悲惨さからいうと、熱傷患者の方がすごいと思いますが」

「列車に飛び込んだ患者さんも多いんでしょうなあ」

「いや、わたしの勤務していた期間には一人もいませんでした。ほとんどが四肢を轢断されて、即死状態だからでしょう。死体は救命する必要がありませんから」

「はあ、確かにそうですな」


 ここで、小さな舌を出して、村山はすっかり歪んでしまっている唇を湿らせる。

「救命センターの外科医から、大学病院の講師に抜擢されたんですな。ずいぶん異例なことだと聞いておりますが」

「はあ」

「お給料も上がったんでしょうなあ」

「そんなことはありませんよ。残業や、超過勤務が少ないし、交代勤務手当ても基本的には出ないので、かえって少なくなったくらいですよ」

「外川教授をご存知ですな」

「はい」

「日本医学界の重鎮とか。先生は教授の命を救われたとか。そのご褒美で大学病院に戻られたんですな」

「だれがそんなことを言ったのでしょう? 」


 村山は歪んだ頭をくるりと回すようにして、部屋のなかを見まわす。

「大学の研究室というところはすごいところですね。表にずらりっと並んでいるのは、みなコンピュータってやつですか」

「失礼ですが、ご用件をおっしゃっていただけないでしょうか? 」

「おや? おわかりにならないんですか」

「ええ、もちろん、わかるわけがないじゃないですか。こんなふうに殺人捜査の刑事に突然たずねてこられて、わけ理由がかわるほうがおかしいと思いませんか」


「あれ? やっぱりか」

「『やっぱり』って、なんでしょう? わざと、わたしを混乱させようとしているんですか? 」

「まあ、そう怒らずに。殺人捜査だなんて、まだ一言もいわないのに、あなたの方から、そう切り出されたから『やっぱり』って言ったんですよ。どうして、そう思われたんですか? 」

「警視庁の捜査一課は殺人担当だというようなことを聞いたことがあるからで、別段、他意があるわけじゃありません」

「殺人だけではなく、強盗などの凶悪犯罪も扱っています」

「では、どのような犯罪の捜査なのですか? 」

「実は、まだ犯罪になっておりません。いまわたしが捜査しているのは『偶然』というやつです」


「偶然? 」

「飛び込みのない駅って、一駅もないんですなあー」

「はぁっ? 」

「ええ。ところで先生『マグロ』って言葉をご存知ですかな?」

「『マグロ』? あの魚の」

「ええ、鉄道関係者ならだれでもみんな知っている言葉らしいですよ。飛び込んだり、偶然列車から落ちて巻き込まれたりして死んだ人間のことを、みんなでそう呼んでいるとか」

 マグロの切り身の鮮やかな色から連想した隠語なのだろう。しかし一度聞いたら忘れられない生々しさを、その言葉から感じる政晴だった。


「実は、ちょっと見ていただきたい写真があるのですが」

 村山は一枚の写真を取り出す。

「ちょっと刺激が強いものですが、先生のようなご職業でしたら大丈夫でしょう」

「これは? 」

「先月、千駄ヶ谷駅のホームから、身重の体で飛び込んだ女性です。『小寺光代』さんという名前ですわ」

 線路のあいだに横たわる肉体の腹部がたしかにやや大きくなっているようである。


「妊娠六ヶ月目に入っていました。子供の生育は極めて順調で、夫との関係、夫の親族との関係もなんら問題がないことがはっきりしています。動機が不明ということで親族から調査依頼が出されたんですよ。事件だとしたら、いろいろな可能性を含んでいます。とっかかりとして、ホームから突き落とされた、という仮定から捜査を開始したんです」

「で……」

「他殺の線は、消えました。目撃者が駅員を含めて五人もいましたが、みな、この女性が自ら狙いを定めるように電車の先頭に飛び込んで行った、と証言しているのです。

 それでも、やっぱり自殺は納得がいかないんで、わたしは資料を調べてみることにしたんです。一年前まで遡って記録を見てみたんです。すると似たようなケースがあと一件出てきたんです。その女性も妊娠三ヶ月で電車に飛び込んでいるんです」

 机の上に、いろいろな角度から撮った数枚の写真を出す。


「この二体とも、この半年のあいだに、東京近辺で列車に飛び込んで轢死した女性たちです」

 どの写真も、普通の人間ならすぐに嘔吐してもおかしくない刺激的な代物である。しかし救命センターで交通事故直後の人体を見慣れていた政晴は、ごく自然に見ることができた。

「見覚えがあるでしょう? 」

「そんな、わたしが知ってるわけないでしょう」

「おかしいなあ。二人とも先生に裸体をさらしているはずなんですがね」

「あっ! 」

 政晴は軽い悲鳴をあげる。

「みんなぼくの患者だった、って言うんですか? 」

「ええ、その通り。みな東和大学病院の患者で、カルテを見させていただいたところ担当医の欄には、すべて『水上政晴』と、いう名前が書かれてありました」


 村山は手に持っていた大きな封筒からCDロムを取り出す。

「ここにカルテのコピーがあります」

 じっと見つめる政晴の耳元に、村山の声が響く。

「偶然なのでしょうが、母親の血液型はみんなO型でした」

 どこか遠雷の音が鼓膜の奥に響くような感じがした。

「知らなかった」

「本当にご存知なかったんですか? おっと、まだ言い忘れたことがある。胎児の性は二人とも男の子で、血液型は、同じくO型だった」

「えっ! まさか……」

「なにか、心当たりがあるんですな」

「い、いいえ別に」

 政晴の表情を確かめるようにして、村山は唇をしめらせる。封筒からさらに少し皺のよった紙を出す。


「このカルテを紙に印刷してみました。症状は、みんな英語で書かれているんですね」

「うちは、ずっと、英語で診断書を書くことになっています。戦後すぐに設立されたので、当時の占領軍に配慮してだと聞いていますが、いま世界の医学の研究の中心は英語圏になっていますから」

「旧帝大系の医学部やK大では、未だにドイツ語で書かれているらしいですな」

「なかなかお詳しいですね」

「ところで、このコピーにある小寺光代さんの、カルテですが、警視庁の監察医に確認したところ『二十一番トリソミー』と書かれてあるんですが、これはなんですかな?」


「ああ、それはダウン症のことです。トリソミーというのは常染色体異常のことで二十一番目の染色体が一本余分にある症例ですよ。あと十八番トリソミー、十三番トリソミーとかがあります。いずれも深刻な先天異常となり、もし生まれてきたとしても現代の医学では治療法は、まったくありません」

「じゃ、誤診ということになりますな」

「えっ? 」

「列車でバラバラにならなかったんですよ。胎児は」

「どういうことなんですか」


「ちゃんときれいに形が残っていました。六ヶ月の胎児には、もう大きなつぶらな瞳ができていました。で、念のため冷凍保存しておいた胎児の血液から染色体を調べることができたんです。染色体だけでなく、どこにも異常のない健康な男の子だったんです」

「信じられません」

「いいですか。もし仮にですよ。この小寺光代さんという母親の自殺した理由が、お腹のなかにいる胎児の先天異常を気に病んでのことであったとしたなら、この誤診は重大な意味を持つことになるのですぞ」

「そのコピーを貸していただけますか」

「ええ、どうぞ」


「少し調べさせてください。わたしは二ヶ月ほど前から臨床を離れて、研究の専属になったものですから、患者さんの情報が入りにくくなっているんです」

「でも患者の自殺という重要なことがらが、こちらでも話題にならなかったなんて変じゃないですか」

「産婦人科の患者の数は、うちのような大病院になると天文学的です。はっきり言って、そのうちの二人が今日すぐに蒸発しても、わかりません。ホスピタル・ショッピングしている患者も多いんです」

「なに? ショッピングだって」

「次から次へと病院を転々としている患者さんのことなんですよ」

「ご説明はよくわかりましたが、でもどうしても納得できませんな。その肉体のすべてを見た患者さんでしょ」

「見るといっても、あくまで診察対象としてその病状を観察するのが目的なのですよ」

「まあ理屈では、そうでしょうが、先生もお若いんでしょう。美形な患者さんを前にして思わず欲情してしまったなんてことがあるんじゃないですかな」

「なにか勘違いなさっているんじゃないですか? 」


 それには返答をしないで、村山は歪んだ唇の端ににやりとした笑いを浮かべる。

「いいですか。うちにはガキが三人います。三人とも男の子ですがね。家内はオンナとしては、いまや最低の生き物になりさがってます。まあ、わたしにも、その責任の一端があるんでしょうがねえー。

 いいですか、よーく聞いてくださいよ。その子どもたちを身ごもっているときだけは、うちの家内も、天使を待っているようなやさしい表情をしていたんです。

 子供を孕んだ女性の飛び込みに、どんな理由があったのか? 産婦人科医としてでなく、人間として、あんたは知りたくはないのかね」


 村山は、歪んだ顔についている歪んだ頭のポマードをなでつける。

 これがこの男の癖なんだ。それにしても、この臭いはなんとかならないのだろうか。

 顔をしかめる政晴の前から、村山はようやくゆっくりと立ち上がる。

「先生、わたしは犯人と目星をつけた人間には、いつもこう言うことにしてるんです」


 一呼吸してから、奇怪な顔の警部補は、べたべたの手をドアのノブにかけた。

「『白状するなら早い方がいい』ってね」






(三)


「ねえ、シスター・マグノリアのこと覚えている? 」

 白衣を着た由香里がなにげなくきりだしたのは、美沙が長いあいだ忘れていた名前だった。


「マグノリア? ああ、そういえば、そんな名前の先生がいたわね。あっ思い出した。確か神学の先生だったでしょ」

「いま、何歳になられたのかしら? 」

「さあ」

「わたしたちが、卒業するときに五十を過ぎていたから、もう六十を過ぎて、学校を辞めているかも知れないわね。生まれ故郷のアイルランドに帰られたのかしら? 」

「あら、あの先生って、アイルランド人だったの」

「そうよ。みんなに母国の自慢をよくしていたじゃない」

 眼鏡越しに生徒を見つめる冷たい視線しか思い出せない美沙である。


「ごめんなさい。あの先生のことはほとんど覚えてないの」

「確かに、すごく潔癖で規則にうるさいシスターだったわ。いまから思うと、一種の更年期ヒステリーだったんだわ。『あなたたちも、わたしたちのようにイエスさまのみに仕えて、清い体のまま一生を終えなさい』って言ってらっしゃった」

「それは、思い出したわ。みんなくすくす笑ってた」

「そうよね。医学的に一番疑問な点は『男と結ばれない女』の肉体が本当に清められたものなのかってことでしょ。結論から先に言うと、処女が聖女なんてことは、決してないことなのよ。

 修道院の尼さんの肉体を診察することもあるけれど、同年齢の経産婦と比べても、皮膚の衰えは早くやってくるし、膣癌、子宮癌にかかりやすことからみても、すこしも清いものではないわ。もともと、女の性は醜くどろどろとしたものよ。そして、そのなかでも、もっとも醜いものは、処女のまま朽ち果てていく女の性なんだわ」

 いつもより、突き放したような由香里の口調が急にやさしくなる。

「ただ聖母はいるわ。出産を終えて、子供の顔を初めて見るときの母親こそ、ひとり残らず聖女なんだわ」


「そうなのかしら? 」

 あまり子供に興味の持てない美沙は、気のない返事になる。

「修道士も同じだわ。聖人だとは思えないのよ。性とは聖のこととだと思う。そして聖こそ、セックス〔性〕があって、初めて成り立つものなのよ。ええ、セックス〔性〕を拒否したところに聖なるものなんてないわ。このごろ本当にそう思うわ。

 産婦人科の勉強をすればするほど、神様がわざわざ授けてくれた男としての、そして女としての性本来の機能を拒否することこそ、穢れていることだと思えるのよ」

「じゃあ、あのシスターたちは穢れているということなの? 」

「その通りよ。あんな非人間的な環境で、一生涯を過ごさせるということこそ、堕胎よりも、もっともっと罪深いことだと思うわ」

「いまの由香里の考えが高校のときに、わたしの頭に浮かんだら、おもしろかったのに」

「どうするつもりなの? 」

「授業中に、シスター・マグノリアに、きっとそのことを言ったと思うわ」

「神学の成績は、絶対に落第点になるわね」

 ふたりは顔を見合わせて、笑った。


「由香里が聖母になった姿を見たいわ」

 美沙の目の前で由香里の頬が少し赤くなる。それはすぐに女学生だったときと、まったく同じバラ色になっていった。

「わたしが? 」

 そのとき、ドアが軽くノックされた。

「失礼します」

 入ってきたのは田所洋子である。

「笹川先生、先週ご依頼いただいたデータをネットワークのなかに入れときましたから」

 そして、驚いたように美沙を見つめる。


「まあ、おきれいなお方どすな。先生のお知り合いどすか? 」

「ええ、高校時代の同級生、というより、水上先生の奥様よ」

 洋子は美沙の姿を上から下まで軽くチェックする。

「そうどすか。わたし教授の秘書をしております田所ともうします」

 ショート・カットされた頭を軽くさげる。

「あっ、あなたが田所さんですか。水上美沙です。主人がいつもお世話になっております」

「美沙はんどすか。いいお名前どすな」

 ゆっくりと体の向きを変えて、部屋を出ていこうとする田所のうなじの白さに美沙は、はっとするほど色っぽさを感じてしまっていた。


「田所さん」

「えっ」

「いつでもいいですけど、おひまなときにぜひ一度うちに遊びに来てください」

「ええんどすか、おじゃまして」

「夕ご飯でも、ごちそうします」

 洋子は、にっこりと笑って部屋を出ていった。

 なぜ急にあんなことを言ったのだろう。美沙は不思議な興奮につつまれていた。

「なんて、いい匂いの香水なのからしら? 」

 洋子の振りまいていった淡いバラの香りが残る。


「あれ、サンローランのパリスよ」

「わたしも欲しくなったわ」

「女の香水が生理日のきつい匂いをごまかす目的から発達したのは有名なことだわ」

 由香里はその香りを、あまり気に入っていないようだった。

「女はなぜ、あんなに花の香りが好きなの? 」

「女は花に最も近いもの、そして最も遠いものだからだわ。花は青空に、むき出しになっている生殖器で、花びらは機能も形も女の小陰唇そのものなのよ。しかし、もっと重要なことは、完全生物としての植物の素晴らしさを、もっとも体現しているものが花なのよ」

「完全生物って? 」

「植物は、水と二酸化炭素と太陽の光だけでタンパク質を作れるでしょ。生物学ではそれを完全生物って定義しているのよ。ところが動物はタンパク質を消費するだけの生物、つまり植物に寄生しないと生きていけないでしょ。学問的には寄生生物って呼ばれているのよ」

「ふーん」

 また、美沙には少し難しすぎる話になってきた。


「だから、植物は廃棄物が出ないのよ。それに比べて、動物の集団は、かならず排泄物を出すでしょ。人間でいうなら大小便。

 ところがどこのひまわり畑に行っても、ラベンダー畑に行っても、その植物自身から出る排泄物を集めるためのトイレなんてないでしょ。女はなぜ、あんなに清潔ずきだか知っている?

 それは自分の醜さを知り尽くしているからなのよ。女というか、動物というものがいかにどろどろとした生き物なのかを、女は一番よく知っているの。そして、そこから一番遠いところにいる花という生物にあこがれているのよ」

 少し力んで話す由香里は、田所のどこに嫉妬しているんだろう?


「田所さんって、恋人とかいるんでしょ」

「あんな美人なのに、彼女には、まったく男の噂がないのよ。ひょっとするとレスビアンかもしれないわね」

 美沙は、ほんの少し胸が高鳴るのがわかった。

「同性愛も社会には必要なものなのよ」

 由香里の話は飛びすぎる。

「そう? 」

「そうじゃない。みんなが結婚して子供を作ってしまうと、その負担に社会が耐えきれなくなってしまうのよ。持ってみればわかることだけど、子供を育てるということは、子供を産むこと以上に大変なことなのよ。一生涯独身を通す同性愛者のような集団がある程度存在しないと、社会は支えきれないことになるの」

「佐沼先生は、テレビで子供を産まなくても母になれる道があるって言ってらしたわ」

「そうよ。子供は、特に高度に発達した社会では、産んだ親だけが育てているものではないのよ。毎月払っている地方税だって、その三分の一は学校教育費なの。高い税金を払ってくれる独身者がいなければ学校の運営もできないのよ。

 子供は社会全体が愛情もって育てなければいけないものなのよ。その考えが歪んできたから、幼稚園から自分の子供だけは有名校に入れたいという、受験戦争が起こってきたんだわ」

「そうね、わたしも同性愛って決して悪いこととは思わないわ。いつもいがみ合っている冷たい仲の夫婦よりは、よっぽどいいと思うわ。相手の個性を尊重しあえるなら、むしろレスビアンの方がすばらしい関係なのかもしれない。そして、その相手があなたみたいな人だったら、最高かもしれない」


「美沙がそんなこと言うなんて、やだ、もう……」

 論理的な答えを組み立てることもできないで、由香里は、いままでだれにも見せたこともないほど真っ赤な顔になっていた。






(四)


「教授の秘書の田所さん、とってもきれいなのに、男の噂がまったくないんですってね」

 食事を終えテレビを見ている政晴に向かって、美沙はさりげなく切り出す。


「ひょっとするとレスビアンかもしれないって、由香里が言っていたわ」

「そ、そんなことはないだろう」

 あの翌週、あんなに長い髪をばっさりと切って、ショートカットにしていた。そして、それ以来、まったく何事もなかったように、自分に接している洋子だ。

 おれの方は、あのねっとりとした京都弁を聞くたびに、体の芯のほうから、なにかがつきあげてくるような重苦しいような、なつかしいような気分になる。

 おれのことを、まったく嫌いなら、あんな大胆なことをするはずがなかった。でも、そのあと、どうしてあんなに突き放したような態度でいられるのだろう? いや、そうじゃない。嫌いな態度を示してくれているのなら、まだよかった。研究室のだれとも寸分も違わない態度でおれに接してきている。もし仮に研究室のほかの男と寝ていたとしても、あれでは、まったく気づかれることはないはずだ。

 洋子は、あの肉体で研究室を支配しているのかもしれない。

 ひょっとすると教授とも男と女の関係ができているのかもしれない。


 妄想で熱くなりかけている政晴の鼓膜に美沙の声が響く。

「あんなかわいい人と、一緒にお仕事ができるなんてうらやましいわ」

「かわいい? そうじゃないよ。出世志向もすごいしね。あのエネルギーがどこから出てくるのか知りたいよ」

「一度ぜひ、ゆっくりお話ししたいわ。実はうちに遊びにいらしては? とご招待もしたのよ」

 政晴には、まさに寝耳に水のことであった。


「同性愛なんて信じられないよ」

「ええ、そんなにムキに否定することでもないと思うけれど……」

 美沙は真っ赤になっていた由香里の頬のことを思い浮かべる。

「高校のとき、隣のクラスにいたやつでも、ニュー・ハーフになったやつがいる。形なんて、なんの力もないものなのに、可視光の領域の範囲内だけで表現されていることに左右されるなんて愚かなことだよ」

 理屈っぽさで頭のなかの妄想を追い払おうとするかのように政晴は、勢いよく語る。

「そうね、確かに目に見える形だけに捕らわれ過ぎている、と思うわ」

「そうだよ。遺伝子が変わったわけじゃない。性染色体を遺伝子レベルで変えることのできる性転換というものができたなら、それこそ本当の性転換だよ」

「ふーん」

 食後の話題にしては、あまりに理屈っぽい政晴の言葉である。


 美沙は、読みかけていた週刊誌に眼を落とす。

「ねえ、あなた信じられる? やっと初めての子供ができたのに電車に飛び込むなんて。なんのために六ヶ月もお腹のなかで育てていたのよ」

「あの子はダウン症だった」

「えっ! あなたの病院の患者なの? 」

「生まれる前に絨毛(じゅうもう) 診断ではっきりわかるんだ。先週、刑事がやってきた。その女性はぼくの担当だったんだ。カルテを見てわかったよ」

「なぜ刑事さんが? 」

「どうも他殺の疑いがあるということで調査に来たんだ。でも医療関係の裁判というものは、とつても難しいから、たぶんあきらめて、もう二度と来ないだろう。胎内の子供がダウン症であることを悲観して、その女性は自殺したんだよ」


「ダウン症って、前にワイドショーで佐沼先生が説明していた、あの……」

「刑事には言えなかったけれど、カルテのデータに変なところがあったんだ。おれは本当に初診のときの問診をしただけなんだ。そのあと担当医は何人も変わっているはずなのに、なぜかおれの名前だけが載っていた」

「確か『ダウン症は天使だ』と、いうようなことを佐沼先生は話していらしたわ」

 佐沼教授の名前を聞くと、このごろ政晴の眉間に皺ができるようになっていた。


「医者のなかには、博愛主義の固まりのような人もいれば、極端に現世快楽追求主義になってしまう者も多い。おれはどちらも、そんなに誉めることも、けなすこともないと思う。自然にどちらかに別れるんだ。あまりにも人間の体が不完全で、あまりにも人間の健康なんてちっぽけなものだと知ってしまうからなんだろうな」

「あなたの尊敬する佐沼先生はどちらなの? 」

「先生は、そのどちらでもない。ただ決して、お前が思っているような天使を救う人間でもない」

「先生のことで、なにか知っているの? 」

「強いて言えば、先生は『天使を作っている』んだ。そして天使が・ふ・え・て・い・く」

「えっ? なんて言ったの、あなた」

「……いや、なにも……」






(五)


「これが、ロシアから流出したものですか? 」

 ボトルを見上げる角倉の瞳が輝く。


「うん、全部でアメリカ・ドルで十万もとられた」

 今日の佐沼はラフなポロシャツ姿である。

「これって『プルーン・べリー症候群』ですか? 本物は初めて見ましたよ。なかなかの一品ですね」

「そうだろう。筋肉欠損のうちの代表的なもので腹筋欠損したものだよ。この子は腹式呼吸ができないんだ。呼吸困難から肺炎になり、生後一週間以内に肺機能不全で例外なく死亡するんだ」

 母親に向かって、なにかを叫ぼうとした最後の言葉がそのままホルマリン漬けになったように、嬰児はその唇を半開きにしていた。


 それから二人は、次々と並ぶ奇形児の標本を見て歩く。

「わっ、これは素晴らしい! 」

 角倉が叫んだのは、『シャム双生児』の前であった。上半身が二つに分かれたものと、下半身が二つに分かれたものがワンセットになって展示されていたからだ。

「先生、この『ゴールデンハー症候群』と、いうものはどういうものなのでしょう? 初めて聞きました」

「そうだろう。通常十万件の出産のうち数件起こるだけの極めてまれなものだよ。この子たちには、なぜか体の左半分の形成不良が起こるんだ。左目も左耳もないし、ほとんど左の頬もない。心臓も右側にある。まあ、見かけがよくはないが、これはそれほどひどいことでない。

 問題は食道と気管がまったくひとつになって肺につながっていることだ。胃は腹腔のなかに、しぼみかけた風船のようにようになって、肛門からつながる腸の先端にあるだけだ。つまり、この子は口から食物をとることはできないんだ。腹部への栄養点滴でのみ生きながらえるんだ。日本では五歳より長く生きた例はない」

「死因は、やはり栄養失調ですか? 」

「いいや、口から食物をとれないことと、親から見放されたストレスから狂死するんだ」

 小児精神病で、そのような事例があっただろうか?

 少し首をかしげながらも、角倉は、感嘆の息をはく。


「これだけ系統だってサンプルを集めていたとは大国は違いますね。どこの研究所に所蔵されていたものですか? 」

「どうも、そうじゃなくて、旧ソ連時代の党の指導者の別荘に個人的に所蔵されていたものらしいんだよ」

「おや、こちらは『外脳児』ですか。珍しい」

「普通の子供とは逆に頭蓋骨の外側に大脳皮質ができてしまったんだ」

 このむき出しの大脳でなにを考えていたんだろう?

 精神科医として、角倉には興味をそそられる例である。


「あっ、これも『外脳児』ですね」

「違うよ。よーく見たまえ。この頭に巻きついているのはちゅうたい臍帯だよ」

 そのへそ臍の緒は、男児の頭にぐるぐると巻きつくようにして首の根本に入っていた。

「この子は首に臍があるんですか! 」

「そこから血管が通じていて、体内に栄養を補給していたんだ。こちらの方が合理的なのかもしれない。いずれも、素晴らしいコレクションだ。これを手放すことはどんなに惜しかったことだろう」

 空調にかすかに混ざるホルマリンの臭いを、角倉の形のいい鼻腔が嗅ぎとっていた。


「これは珍しい『長尾児』ですか? 」

「ちがうよ。この女児の尾てい骨から生えている尾のようなものは、実際は変形した男性器だよ。これは体の前後に違う性を持つ世界初の『両性具現児』なんだよ」

「夢を見ているようです」

「そうだろう。ぼくにもこのような奇跡が起こったとは、まだ信じられんのだよ」

「本物なのでしょうか? 」

「ロシア科学アカデミーの鑑定書もあるから間違いはないと思うが、一応、念のため笹川くんにDNA鑑定を依頼してある」


「先生、おめでとうごさいます。ついに、ここに入れるものができたのですね」

 角倉は①番の棚にちらりと目をやった。

「いや、違う。こんなレベルのものじゃない。ぼくが求めているのは、もっとすごい神のミステイクを具現化したものなんだ。それで神の無力を全世界に知らしめたいんだよ」

 佐沼は、パントマイムのように、まだそこに置かれていないボトルの形を空中でなどっていた。

「ここには、完全な男女両性を具現してるような標本を入れたい」

 いつも口癖のように繰りかえされる佐沼の言葉に、まだ見もしないそのボトルの子供に軽い嫉妬を覚える角倉だった。


 そして、『無心児』という真新しいラベルが貼られている、その横のボトルに気がついた。

「先生、この子はかなりの大きさに育ちましたね。これもロシアから手に入れたのですか? 」

 佐沼は角倉の形のいい唇をじっと見つめる。

「この子は、最近、うちの病院で生まれたんだ。タダで手に入ったにしては、なかなか貴重なものだよ。妊娠五ヶ月だ。ここまで育った無心児のサンプルは、国内でもこの研究室にしかないだろう。もう少し育てたかったな。わしの究極の狙いは無心児を出産させて、人工心臓を埋め込むことなんだよ」

 艶のある角倉の唇すれすれに佐沼の唇が近づいてきた。

「なんて素晴らしい研究なんでしょう」

 角倉はだれをも引きつけるその瞳を閉じる。形のいい眉がわずかに痙攣する。


 佐沼は角倉の両肩を抱くようにして、ふいにそれを突き放す。

「そうだろう。無心児か、どうかはすぐにわかる。正常妊娠の場合、六週間目には、胎児の心拍が始まるからだ。それが全く無音であることを妊婦に告げないで、ここまでもってくるのは大変だった」

「どう説得して、開腹手術されたんですか? 」

「胎児はすでに死亡していて、このままではあなたの母体がもたない、と言ってやった」

「それにしても、うまく傷つけないで出せましたね。 この子を」

「そこは、ちゃんと抜かりなくやったよ。母体から、まず子宮を丸ごと摘出したんだ」

「えっ! 」





(六)


「どなたでしょう? 」


 研究室に向かう政晴を、八時半に送りだしたあと、美沙は、ゆっくりとテレビを見ていた。今日もそんなに大した事件はなく、やがてワイドショーの番組にも一区切りがついた。

 そろそろ、部屋の掃除と洗濯を始める時刻である。室内で洗濯物を乾燥する機能もついたエアコンに、夫が買い換えてくれたので、美沙は洗濯物を干すためにベランダに出なくてもよくなっていた。

 今日は、とっても天気がいい。久しぶりに布団でも干してみようかしら?

 あの白いカプセルを飲むようになってからは、目まいもなくなった。ベランダに出てもたぶん大丈夫なはずだけど……。


 美沙がためらっているとき、突然玄関のチャイムが鳴ったのだ。

「わたしですよ、おじゃましていいかしら」

 聞き覚えのあるその声に、時計を見る。まだ十時前である。

 主婦にとって、こんな無防備な時間にやってくるなんて。姑は、どんな用事があって、たずねてきたんだろう?

 共働きではないから、それなりに自宅は片付いてはいたが、突然来られるのは心臓によくない。


 姑は明るい色の和服に、大島紬の帯をしっかりと締めていた。

「あら、政晴は? 」

「病院に出かけました」

「おかしいわね? 今日は休みだって聞いたから、わざわざ来たのに。急にゴルフにでも行ったんのかしらね? 」

 あの人がゴルフなんてしないのを知っていて、わざと言っているのかしら。


 美沙は、姑の訪問の意図を探る視線になる。

「お茶会ですか? 」

「いいえ、吉右衛門の『夏祭(なつまつり)』を見にいくんですよ」

「はあ? 」

「歌舞伎座でやっている『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわのかがみ)』よ。まあ、知らないの? あなたもいいお芝居でも見て、気晴らしをしなさいな」

 そう言いながら、姑は部屋をそっと見回す。


「ねえ、一枚ぐらいなら切符をとれると思うのよ。一緒に行かない」

 薄暗い劇場のなかで二時間も三時間も、椅子に座ったままでいるというのは、生理的に我慢できそうもなかった。

「えっ、ええ、でもあの人が帰ってくるかもしれませんから。次の機会にお願いしますわ」

「そうなの。まあ、年寄りが多いから、気詰まりでしょうからね。これから娘の子供の顔を、ちょっと見て、それから銀座に行こうと思ってるのよ」

「銀座? 」

 美沙は、歌舞伎座が東銀座の駅前にあったことを思い出した。


 政晴の妹夫婦は、目黒のマンションに住んでいる。いずれにしても、帰ってもらえると、ほっとする美沙であった。しかし、実際に姑が腰をあげたのは、それから一時間もたってからである。年寄りの時間の流れはゆっくりと動いているようだ。

「あの、タクシーでも呼びましょうか? 」

「いいわ、歩けるから。でも、ちょっと重い荷物があるのよ」

「駅までお送りしますわ」

「あら、悪いわね」

 駅まで続く赤煉瓦の道は、いつのまにかイチョウの落ち葉に埋まる季節になっていた。こんな、さわやかな青空の下を散歩するなんて、本当に久しぶりのことだった。


「少し顔色が悪いみたいね。美沙さん、どこか具合でも悪いの? 」

「いいえ、そんなことありませんわ」

「本当に一度、うちの娘といっしょにお買い物にでもでかけましょうよ。昼間は、いつもひとりで寂しいんじゃないの? たまには政晴と一緒に、うちにごはんでも食べにいらっしゃいな」

 あたたかい姑の言葉ではあるが、それをそのまま素直に信じるには、美沙は現代人でありすぎた。

「それにしてもあなたを放って、どこに行ってしまったのかしら、政晴は? 」

 疑惑の瞳を光らせる姑である。


「やっぱり、大学だと思います。臨時の呼出しとか、あるみたいですから」

 姑が電車に乗るのと入れ違いになるように、ゴルフバックをかついだ男たちが電車から降りてきた。

 こんな平日の昼間にゴルフに行けるのは、どんな人たちなんだろろう? 奥さんたちは、みんな知っているのかしら?

 気がつくと、美沙は携帯から研究室に電話していた。

「水上先生は、本日はお休みですが」

「けっこうです。また電話します」

 あの人はどこに行っているのだろう?


 煉瓦造りの道をゆっくりと団地に戻る途中の公園で、母親たちが、まだ幼稚園に行けない三歳未満の幼児たちを遊ばせていた。

「あら奥様、おひさしぶりですわね。今度バザールをやりますのよ」

 後ろから不意に声をかけてきたのは、自治会の副会長をしている奥山夫人である。

「まあ、そうですの」

「なにか、お出しになれるものありませんか? 子供の古着なんか」

 わたしに子供がないってことを間接的にほのめかしているのかしら? 夫もわたしも子供なんか、少しも欲しくはないのに、どういう勘違いをしているのだろう。いくら説明してもわからないんだわ。


「ねえ、奥様、今週の自治会の議題をご存知?」

 子供たちの元気な声が秋の高い空にむかって響く。

「いいえ」

「もう夏も終わったので、網戸なんかを開きっぱなしでお寝みになられることはないでしょうけど……」

 奥山夫人は意味ありげな目くばせをする。

「窓を閉めきっていたとしても、思いもかけない音までがいろいろ上下階にも響くんですのよね。若いご夫婦の方が、あの大きな声を出して、夜中にいろいろなさると、これから大切な時期を迎える受験生だけでなく、そう小さな子供たちの教育上もよろしてくないでしょ」

 セックスの声も大きさまでも、団地の規則で決めようとしているのかしら、この人たちは。


 止めどもない会話を避けるように、美沙は背の高い団地の上の空を見上げる。

 人間の世界のごみごみとしたこととは、まったく関係のない青い空に、脱脂綿のような、やわらかな白い雲が浮かんでいる。その切れ端にほんの一点、血の滴がついた。

 美沙の視界の隅を、小さな赤い点が、かすかに動いていたのだ。

「あんなところに人が……」

 東十一号棟の屋上に赤い服を着た人間が立っていたのである。

「あら、ほんとおかしいわね。あそこの棟で壁の塗装工事が始まるのは、来月のはずなのにねえ? 」

 奥山夫人も銀縁の眼鏡に手を添えるようにして、軽く背伸びをした。


「それに、あそこにいるのは女の人みたい」

 真っ赤なワンピースのすそが風に揺れている。

「いやだわ、この団地は屋上に出ることは禁止されているのに」

 じっと遠くを見るようにして立ち止まっているけれど、あんなところでどんな用事があるのかしら?

「危ない! 」

 その女性の姿が、手すりもない屋上の端に近づいてきたのである。


 公園にいた他の主婦たちも気づいて騒ぎ出す。

「あーっ! 」

 自分自身の叫び声にかぶさるように、何人、いや何十人もの女性の悲鳴が美沙の鼓膜を突き破り、脳の奥にまで響いてきた。

 その女性は、なんでもないような自然さで、ゆっくりと一歩前に足を踏み出して、すっーと落ちていったのだ。


 それからどういうふうに時間が過ぎたのだろう?

 美沙はベッドの上に横になっていた。

「あら、奥様、やっと気がつかれました? 」

 奥山夫人の顔が目の前にあった。そして、そこが団地のすぐそばにある農協の付属診療所であることを知らされた美沙である。

「えっ、わたしどうしてここに? 」

「あの飛び降りを目撃されたあと、しばらくしてから急にあの公園のなかでしゃがみこまれて、気を失われてしまったんですよ」

「飛び降り? 」

 そう、確かに真っ赤なリボンのようなものが落ちていくのを見ていたんだわ。


 ワンピースのままベッドに横たわっている美沙自身も、このままどこかに落ちていってしまいそうな気がしてきた。

「目撃者として、みなさん一人一人、警察官の尋問も受けたんですのよ。ご存じでした? 亡くなられたのは五号棟の倉田真由実さんっていう方なんですよ。でも、なぜ東十一号棟で飛び降りられたんでしょうね」

 奥山夫人は、ずるがしこい猫のような目を細めるようにして声をひそめる。

「これ、噂なんですけど、どうやら団地のなかで不倫なさってたみたいで、それを精算しようとして自殺なったみたいなんですのよ」

 どうして、こんなに早く、そんな事情がわかるのだろうか?


「お相手の方は東十一号棟にいるに違いないって、いま大騒ぎになっているのよ」

 そのとき病室のドアが開いた。

「あっ、あなた」

 政晴がかけつけてきたのであった。

「大丈夫かい? 」

 優しく肩を抱かれるだけで、急に涙があふれてくる美沙だった。

「あなた、わたし……」

 奥山夫人は、部屋の隅からずっとするどい視線を浴びせかけていた。まるで若い夫婦の動作を一コマたりとも、見逃さないとするかのように。


 その夜、美沙は奇妙な夢を見ていた。

真っ青な空のまんなかに、突然、五階建てのビルほどの巨大な黒い箱が現れた。まるで重力から解き放たれたように、それは空中に浮かぶように漂っている。やがて、その箱の上蓋がゆっくりと開いたかと思うと、その中から、人間がバラバラと落ちてくるのだった。

 そして不意に、美沙も、その箱の縁に立っていた。下に見えるのは、恐ろしいまでの深さの谷底である。

 不安定な場所から、ふり落とされないように、誰もが必死にしがみついていた。しかし美沙の周りからも、力つきて、次から次へ谷底に転落していくのだった。

 落ちいく人間たちは、みんな同じ言葉を叫んでいる。

「ぼくは、きみが好きだ」

 美沙の耳元には、その声がこだまのように響く。


 そして突然、箱はまぶしいまでに、きらきらと輝く鮮やかな色彩のモザイク模様になって、さらに不安定に揺れ始めるのだった。

 やがて、ついに美沙も力つきて落ちるときがきた。

 手を離したその瞬間、美沙は、真っ赤なドレスを着た人形になっていた。


 夢を見ながらも、その箱のことがすぐにわかった。高校生のころから持っていて、結婚するときにも、この団地に持ってきた小さな引き出しのついた小物入れのことだと。

 翌朝、美沙は、それを取り出して、上蓋の裏側についている鏡に顔を映してみた。かなり古くなってきたものだけれど、手放せないでいたのは、その鏡を見るといつも不思議に心が落ち着くからだった。

 でも今日の美沙の気持ちの乱れは収まらない。

 わたしは、この箱の縁からふり落とされてしまった。きっとあの女の人と同じように、ここから飛び降りてしまうんだわ。ベランダに出ただけで足がすくむようになったのも、きっとそのせいに違いないわ。


 その日の昼間、まだ、寝床に伏せっていた美沙は、電話で起こされた。

「ひ・と・ご・ろ・し」

 押し殺したような女の声だった。

「どなたでしょう? 」

「ひ・と・ご・ろ・し」

 この人は、なぜ『人殺し』って言っているのかしら。

「どういうことでしょう? わたしは女のかたが飛び降りたのを、公園から目撃しただけなんです。止めるなんて、できるわけがないじゃありませんか」

 返事の代わりにゆっくりとかみしめるように、同じ言葉が繰り返された。

「ひ・と・ご・ろ・し」

 そして電話は切れた。


 夕方、帰宅した政晴は、美沙の表情がすっかり変わってしまっているのに驚いた。

 化粧をまったくしていないというだけではない。瞳がうつろになって、そう、表情そのものがなくなってしまったようにさえ見えるのだった。

「どうしたんだい? 」

「ひどくめまいがするの。わたし、こんな高い所にはいられないわ」

気がつくと、部屋の窓にはすべてしっかりとカーテンが引かれている。

「いまも気分が悪いのかい」

「ええきっとあの事件のせいね。吐き気もひどいの。食欲もぜんぜんないの」

「あのカプセルを飲んだんだろ」

「ええ、たぶん」

「たぶんってなんだい。こんなときはきちんと薬を飲まなきゃだめじゃないか」


 そのとき政晴を見つめていた美沙の視線が激しくゆれだした。

「あら、あなた、いつ帰ってきたの? 」

 初めて夫の顔を見たように驚く美沙に、政晴は愕然とする。

「いまだよ」

「ごめんなさい。夕ごはんの支度も、なにもできないの」

 美沙は大粒の涙を流し始める。

「昨日のことは、早く忘れるんだよ」

 そうだ、昨日だわ。


 政晴を急に、にらみつける美沙だった。

「あなた、昨日は、おかあさまが来たのよ。どこに行っていたの? 」

 その表情の変化に政晴の気持ちはついていけない。

「友達と大切な話があったんだ」

きっと、どこかで女の人と会っていたのね。

「友達って男の人? 」

「……ああ、そうだよ」

 夫が少し言いよどむのを、美沙は聞き逃さない。

 その女性と、どんな秘密のときを過ごしていたのかしら?


 美沙の瞳には、再び涙があふれてきた。

「ねえ、わたしもあんな風に飛び降りて、死んでしまうのね」

「バカなことを言うんじゃないよ」

「わたしは『人殺し』かしら? 」

 昼間の電話のことを知らない政晴には、この言葉の意味のつかみようがない。

「君の気持ちもよくわかるよ。あんなショッキングなシーンを目撃したんだからね。きっと精神的外傷ってやつだろう。重い病気じゃないはずだ。そうだ、明日にでも角倉先生の新宿のクリニックに行ってみないかい」


 わたしの気持ち? あなたには、わたしの哀しみのどこがわかるのかしら。でも、いつも楽天的すぎるくらい顔色のいい、あなたをこんな深刻な表情にしてしまったのも、みんな、わたしのせい……。

「ええ、わかったわ」

 美沙はゆっくりとうなずいていた。 

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