第三章
(一)
明るい春の光が真新しい机の上にもふりそそぐ。引き出しをひらくと新品のスチールの薫りが政晴の鼻腔をつく。
「先生はマッキントッシュにしはります? それともウィンドウズどすか? 」
いきなり京都弁で尋ねられて、椅子に座ったばかりの政晴はどきまぎする。
「ああ、挨拶もしませんで、失礼しました。わたくし、佐沼教授の秘書の田所洋子ともうします。よろしゅうお願いします」
「あの、わたくし、今度こちらに配属になりました水上政晴といいます」
「ええ、よう存じてます。とっても優秀な脳外科医さんどすやろ。で、パソコンはどうなさいます? 」
「こちらの研究室で買っていただけるんですか? 」
「ええ、もちろんどす」
「じゃ、ウィンドウズ8ができるのがいいな」
「はい、わかりました。じゃ、こちらで適当なメーカーのノート・パソコンをみつくろうておきますから」
政晴が脳外科の研修医で一年間いたころと、大学病院の研究室のようすは、すっかりか変わってしまっていた。そのころ、ここにいた由香里のところには、よく遊びにきていたけれど、特に、この産婦人科は建物全体が斬新なアルミ外装のインテリジェント・ビルに建て替えられてしまっていたのだ。
研究員一人ずつに割り当てられた席を区切るパーティショナーは淡いパープルで、靴音を吸い込む床の絨毯は、落ち着いたブルー・グレーである。その床下を何千本もの信号線と光ファィバーが駆けめぐっていたのである。そして、なんの目的で設置されているのか、おびただしい数のパソコンとモニターが、ぎっしりと並んでいるのだった。
美しいといってもいい、その無機質な造形のなかを、洋子の形のいいヒップが遠ざかっていく。
「彼女、美人だな」
「そうかな? ぼくの好みじゃないな」
パーティショナーの陰から突然、若い声が響いてきた。
「あっ失礼。つい独り言が聞こえたものですから。ぼく、角倉といいます。ここの講師の端っくれに、かろうじてひっかかっています」
「わたくし、あの、こんど救命センターから、こちらに来た」
立ち上がって軽く会釈する政晴に向かって角倉は、とっても魅力的な笑顔をつくる。
「知ってますよ。水上先生でしょ。先生は笹川助教授とは同期なんですってねえ」
この男は薄く化粧をしているのではないだろうか?
そう思えるほど唇が紅い。
「はあ」
少年は、ある日、どんな少女よりも輝くときがある。しかし、それは一瞬のうちにくすみだすものであるはずなのに、この男は不思議なほど瑞々しさを残していた。
「笹川助教授こそ、美人中の美人だと、ぼくは思いますよ」
「そうでしょうか? 」
政晴はちょっと複雑な表情になる。昔つきあっていて、一時は結婚も考えたことのある女性が上司である職場で働くというのは、あまり居心地のいいものではないはずだった。
「まあ、今日の所は先生のご意見を入れて、あの秘書を超美人としておきましょう。彼女は、ちょっと前までは陣痛促進剤を売りまくっていたプロパーだったんだよ」
現在はMR(Medicalメディカル Representativeリプリゼンタティブ 医薬情報担当者)と呼ばれることが多いが、プロパーとは、製薬会社から派遣されてくるセールスマンのことである。
「京都の人なんですね」
「まあ、京都生まれらしいんだけれど、あそこまで京都弁をどきつくやらなくてもいいと思うんだ。本人は、どうもそこを自分の売りにしたがっているみたいなんだ。プロパーのときは、ガゼット社のMrミスター.SAエスエーって呼ばれていたんだよ、彼女」
「SAってサービス・アシスタントのことだろ。でも、Mrミスター.じゃなくてMissミスの間違いじゃないのかい? 」
「綴りをそのまま読んでみればわかるよ」
「あっ、『MRSA』のことかい」
MRSAとは、Methcillin - Resistant Staphylococcus Aureusの略で、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌のことである。どのような抗生物質にも耐性を持つ菌で、この菌で敗血症が起これば、どのような治療法もなく、患者は死を迎えることになる。現在は院内感染は下火になっているが、一時は、かなり深刻な社会問題になっていたのだ。
「そうだよ。製薬会社は第三世代のセフェム系の抗生物質を売って売って売りまくって、そして、その抗生物質の耐性菌を作ってしまったんだ。そして、またそのための薬を作って、製薬会社は儲ける。これがマッチポンプさ。
この場合、マッチもポンプも抗生物質。火を消しているはずのポンプがいつのまにか、さらに強力な耐性菌をつくりだして、マッチになってしまうところがミソなんだよ。つまり永遠に、その商売を続けられるってことだよ」
「ひどいことだ」
「彼女の前では、決してそんなことを言っちゃ、いけないよ。きみは彼女に感謝しなくちゃいけないんだからね」
「えっ? 」
「きみをここの講師に推薦したのは、あの田所女史だからだよ」
「そんな権限があるってことかい? 」
「彼女のことは、おいおいとわかると思うけれど、佐沼教授の単なる秘書なんかじゃないからね。若いけれどガゼット社の東京西部地区の拡販のチーフをしていたんだ。
今年からは総合企画担当のオーガナイザーとして、副部長待遇になったらしいよ。あー、それから彼女に手を出そうとしても、無理ですよ。男なんてハナから相手にしてないんだ。女性には珍しいほど仕事がすべてっていうタイプだからね」
「つまりこの研究室は、丸ごとガゼット社に取り込まれているっていうのかい? 」
「それどころじゃないよ。今じゃ、この医学部全体がガゼット社、丸がかえなんだよ。医学部長の車も運転手も、みなガゼット社持ちだよ。そのうちわかると思うけれど、佐沼先生と奥さんは離婚を前提に別居しているんだ。先生は、この半年ほどホテル住まいでその宿泊代も、離婚訴訟の費用もガゼット社が出しているんだよ。各教授のプライバシーに関する経費もかなり支払っていて、どの教授も、国立大学ならとっくに収賄罪で逮捕されてもおかしくない状況だよ」
「ふーん、それは知らなかった」
「もっと重要なことは、ガゼットのグループ企業から支払われる億単位の受託研究費なんだよ。私学の場合には、文部省への自主的な届け出だけで、民間企業からお金を受けとることができるんだけど、それがいかに巨額であるかわかるかい?」
「文部省からも私学の研究室には研究予算が配分されるんじゃないのかい?」
「その額は、一研究につき、年間たったの二百万円ぽっきり。水上先生、産学協同なんて世間では言われているけれど、実際には企業からの補助がなければ大学の研究など続けられるわけがないんだよ」
ガゼット社は、もともとは大正時代に京都で創業された寿々一 商会という名前の薬の卸問屋であった。三代目社長が店を広げ、製薬会社を傘下に納めた。運のいいことに、その会社がすぐに画期的な制癌剤を開発し、株式公開で得た巨額の資金で、今度は医療機器の電子メーカーも傘下に納めた。
その会社も次々とヒット商品を出し、またたくまに、巨大な医療コングロマリットと成長したのである。さらにオーナーが会長に納まり、厚生省の高級官僚を次々と社長に起用したことも、その成長におおいに寄与したのだった。
東和大学医学部は、K大学医学部とならんで私学の雄であり、東日本の学閥の双璧であった。あまり伝統があるともいえないガゼット社はK大学には、どうしてもうまく食い込めなかったため、東和大学に総力を注いでいるといってもよかったのだ。ここが関東での橋頭堡であり、そしてT芝電気など他の医療機器メーカーの動向を探る情報基地でもあった。
この大学には医学部、歯学部、看護学部、体育学部が戦後すぐに創設されていた。その後、理学部、文学部、法学部が設置されたが、伝統的に医学部長が学長になるしきたりであった。そして佐沼を医学部長に推しているのも、ガゼット社の方針であった。
「うちの研究室に入ったということは、とりもなおさずきみ自身もガゼット社のラインに入ったということだからね。これからは、使用する医療機器だけでなく、使う薬もそのラインから、はみ出さないように気をつけるんだよ」
「処方のたびに、薬のメーカーを、いちいち確認するなんて無理だよ」
「そこは大丈夫、うちはカルテをパソコンに入力することになっているけれど、同じ効能がある場合には自動的に他社の系列の薬は排除されるようになっている。どうしても使用するときは手書きの申請書を佐沼教授に出して、サインをもらわなくてはいけないんだ」
「すごいシステムだね」
「田所女史がここにやってきて三ヶ月で作ってしまったんだよ」
「あの女性がやり手だということはわかったよ」
ただ、それにまったく従わなくてはいけない、というのは納得できない政晴である。
角倉は端正な眉を、やや上げるようにして、声をひそめる。
「とにかく彼女の動向には常に気をつけることだよ。そうでないと、きみをここに引っ張ったのと同じ権力で、きみはここから放りだされることになるんだよ」
政晴の前で、その眉が小しさがった。美しい顔が人なつっこい表情になる。
「おっと、おでましだ」
洋子がぴっちりとしまったワンピース姿を強調するような歩き方で近づいてくる。
手には、もうノート・パソコンを持っている。
「新品が来るまで、これを使うていてください。あっ、それから水上先生、インターネット上のガゼット社のホーム・ページに一日一度は必ずアクセスしはるといいどすわ。そこでは特殊なキーを使うて、ガゼット会員の方だけの特別な医療情報も得られるようになってますから、よろしゅうお願いします。
それに週末でも、できれば一度ぐらいは、ご自宅からでもアクセスなさってください。先生がたが安う遊べるお店なんかも紹介してますから」
「はい」
「では失礼します」
洋子は、そのまま結い上げれば舞妓になるのではないか、と思えるくらいに長い髪をかるく揺するように会釈して、教授の部屋に戻っていった。
「ガゼット社は胎児や新生児の臓器の販売に乗りだそうしているんだ。あそこの研究所には、うちの標本室の百倍も胎児のサンプルが集められているんだ」
角倉はすこし声をひそめる。
「標本室って? 」
「おや、きみはまだ見せてもらっていないのかい。きっと感動するよ」
「わたしは専攻が脳外科なんで知らないことが多くて大変なんです。産婦人科でわからないことがたくさんあると思うので、これからもいろいろと教えてください」
「ええ、どんどん聞いてください。ぼくのわかる範囲のことなら、なんでもお教えしますよ。でも、脳外科医だったなんてうらやましい。教授がこれからやろうとしていることにはぴったりじゃないですか。教授は胎児の脳をいじろうとされてますから」
「胎児の脳ですか? 」
「マイクロ・サージャリーというか、顕微鏡下での胎児治療の分野を開拓しようとしていらっしゃるんですよ」
「ほう、難しそうだけど、やりがいがありそうですね。角倉先生は産婦人科の分野で主に、なにを専攻なされてきたのですか? 」
角倉はそこでは急にかむような表情になる。
「実は、ぼくもあなたと同じで産婦人科が専攻じゃないんですよ」
美しさが一瞬凄惨さを帯びたような気がした。
「ぼく、去年まで精神科にいたんです」
「えっ! 」
(二)
研究室に異動して、ひと月ほどは政晴は主に内視鏡の操作の研修を受けていた。
「担当医が熱を出してダウンしてしまった。さっそく、きみの腕を借りなければいけない仕事ができた。手術室に来てくれ」
教授からの緊急の呼び出しに、手術服に着替えて入ってみると、かなり腹部の大きくなった一人の妊婦が手術台に横たわっていた。
麻酔医を初めとする十人もの医師と、ほぼ同数の看護婦がその周りをとりかこんでいた。おびだたしい数の電子装置が並び、広い手術室も立錐の余地がないほどだった。
「こんな珍しいケースはわくわくする。見たまえ、この胎児の心臓には穴があいているよ」
超音波の画像を佐沼は指さす。
「教授、この患者は何ヶ月なんですか? 」
「八ヶ月の後半だ」
出産間近い妊婦に全身麻酔をかけているなんて!
そのことの方に政晴は驚いていた。
「患者は手術に承諾したのですか? 」
「もちろん、承諾書は取ってある。直接、胎児の心臓を見て、できれば小さな手術をしてみたいんだが」
「出産後に手術するのではないのですか? 」
その質問に答えるかわりに、佐沼は見なれない形の内視鏡を手術台のところに持ってきた。
「新しいタイプのファイバー内視鏡だ。これを試すときがきたんだ。すぐに、子宮内に入れて、胎児を観察したいんだよ」
救命センターでも、何回か帝王切開をしたことはあるが、母胎内の子供の心臓手術をいきなりさせられるとは、思ってもみなかった政晴である。
「わかりました」
切開する場所は医療用マジックでもうマークしてあった。大きく膨れ上がって静脈の浮き出ている産婦の腹に×印がついていた。呼吸のたびに、大きくなったり小さくなったりするマークの表皮を小さく切開して、ファイバーを入れた。
「うまくいったかな? 」
教授は興味深そうにのぞきこむ。
妊婦の厚い脂肪組織のなかにするりと、チタニュウム製の先端が入っていく。それはシュークリームのなかにステーキナイフを突っ込んでいくようだった。
「でも胎盤に穴をあけていいのでしょうか? 」
「大丈夫なようにできている」
ファイバーの先端を子宮壁の外側に押しあてたときに、政晴はなんだか、奇妙な予感に包まれる。
「はい、ではケーブルを入れます」
先端のメスが、それ自身がまるで意志を持っているかのように、するりと子宮のなかに入っていったのには驚いた。
「どこを見ればいいのでしょうか? 」
「心臓のところに持っていけ」
ハイビジョンのモニターには、胎児の体がきれいに映し出されていた。
「うん、うまいぞ。さすがわたしが見抜いただけのことはある」
「心臓の真横に入りました。胎児が出血した場合はどうしましょう? 」
「大丈夫だ。臍帯血管内輸血できるようになっている」
これは、母親の体外から細い針を使って、臍の緒に直接輸血するという最先端の医療技術であった。
「でも血液型適合が……」
「ちゃんと血液型は調べてある。いいかね。この研究はO型の男の子じゃないといけないんだよ」
「どうしてでしょう? 」
「わからないかね。O型は完璧なんだよ」
「えっ、完璧? 」
「ぼくがO型なんだ」
「はあ……で、これからどうしましょう? 」
「とりあえず、そのファイバーを心臓に差し込むんだ」
「えっ! 」
手術室の全員の呼吸が止まったような気がした。
メスを差し込むということは、この胎児を殺すということではないか? すっかり眠っている妊婦が本当にそこまで承諾しているのだろうか?
その間にも子宮に差し込まれたファイバーの傷口からは、鮮やかな血が流れつづけている。吸血装置のシュルシュルという音が不気味に響く。
「早くしたまえ」
政晴の手は麻痺したように動かない。
そのとき、思いもかけないアクシデントが起こった。
「ファイバー先端のメスが開いたままになってしまいました」
医師団の一人がそう叫ぶ声が政晴の耳に聞こえてきたのである。その男が実はガゼット社のエンジニアであるということは、ここに立ちあう医師でさえ、ほとんどが知らないことであった。
「この大切なときにどうしたんだ。この子の心臓を救えないじゃないか」
佐沼は舌打ちする。
「教授、どうしましょう? 」
「仕方ない。今日の手術は中止だ。ファイバーを引き抜こう」
「このままですか? メスの先端が開いたままです。それでは、子宮が破裂する恐れがあります。胎児が生きられません」
「かまわん。引き抜くんだ」
「しかし」
「あとの処置は、わしがうまくやる。引き抜きたまえ」
政晴が引き抜いたとたん、風船が割れるような大きな音とともに子宮が破裂して、手術灯にまで、飛びあがるほどの大破水となった。
しかし、佐沼はどこにあったのかと思うくらいのエネルギーで開腹し始めた。いつの間にメスを手に持ったのかのも、わからないほどの早業である。
さらに子宮をわしづかみすると、信じられないような的確さを発揮して、子宮を縦に切り開き始めた。胎児を取りだしたあとに、あっという間に子宮を縫ってしまったのだ。
「この開腹部の皮膚の再縫合は、きみたちにまかせるよ」
手術室に響く赤ん坊の大きな泣き声に、かき消されそうな落ち着いた静かな声に戻っていた。頭の先からつま先まで、産婦の破水と血しぶきを浴びた姿でそう言うと、佐沼は手術室から去っていったのだ。
ビデオテープのポーズ状態のように、立ったままでいた看護婦たちは、子供の泣き声を聞いた瞬間に、倍速再生になったような勢いで動き出した。保育器が用意され、素早く酸素が供給される。
「体重一五〇〇グラム。男子。外貌、四肢に特に異常は見当たりません」
「わかった。すぐにNICU未熟児集中治療室に移動してくれ」
小児科の担当医の指示の声を半分も聞かないうちに、看護婦たちの半数は、赤ん坊とともに手術室から消えて、残りは手術の後かたづけを始めるのだった。
救命センターで長年やってきて、手際のよい手術というものも見慣れていたはずだが、いまみたいなのは、見たことがない。
政晴は驚きと、そして子供が助かったことの喜びで思わず涙を流してしまっていた。もっとも、その顔も教授の姿と大差なくて、だれにも気づかれることはなかったが。
(三)
「あっ、やっぱり角倉先生の言っていた通りか」
ノートパソコンの液晶画面に見入りながら政晴がつぶやく。
「あなた、なにを調べているの?」
「この薬のことだよ」
白いカプセルを美沙に見せる。なめらかに輝くその表面には、細かい数字が並んでいた。
「これはアメリカの薬の識別番号なんだ。インターネットで調べればどんな成分でどんな効果があるのすぐに分かるんだよ」
「なんの薬なの?」
「角倉先生にもらったんだ。研究室できみの目まいの話をしたら、そういう症状に効くいい薬があるって、取り寄せてくれたんだ。試してみないかい?」
「大丈夫かしら?」
「いま調べたらアメリカでは大衆薬として、もう認可されている薬だったよ。副作用がとっても少ないらしいんだ」
「アメリカの薬って信用できるの?」
「日本の薬こそ信用できないのを君は知らないんだね」
政晴はそこで急に含み笑いをする。
「なにがおかしいの?」
「ぼくの高校で同級だった相川ってやつ覚えているかい? 披露宴にも呼んだんだけど」
「演劇とかやってたちょっとハンサムな人?」
「そいつ、このあいだ会ったらすっかり頭が薄くなってたんだ。でも『最近売り出したミノキシジルの入った発毛剤を使っているから、これからなんとか元に戻すよ』って言ってた。彼はまだ結婚してないからね。深刻なんだろう」
「それと薬の話と関係あるの?」
「副作用の少ない発毛・育毛成分として発見されたミノキシジルがアメリカで発売されたのは、いまから二十年以上前。そして、アメリカで発売されているものはミノキシジルが通常五%含まれているんだ。ところが最近まで、厚労省の承認を受けたのは、たった一%しか含まれていなかった。
なぜだかわかるかい。日本独自の安全性の審査を通りやすくするためなんだよ。そこまで薄めれば水同然、副作用なんか起こそうとしても起こりそうにもないのに、安全審査には六年もかかったんだよ。どうしてだと思う?」
「日本の育毛薬の業界を守るため?」
「その通りだよ。そのあいだに、日本の製薬会社がきっと、もっといい薬を作るだろうと引き伸ばしていたんだが、ついにそんなものはできなかった。仕方なく最近になって、ようやくアメリカと同じ濃度のものを承認したんだよ。でも値段はべらぼうに高いんだ。
日本人は効かない薬を高く買わされるシステムができあがっているんだよ。医者とか薬剤師で頭が薄くなってきても、正直に日本製のを使っている人間なんて一人もいなかったんだよ。ほとんど効果がないって知っていたからね。みんな通販でアメリカから直接購入していたんだ」
「そのことは、相川さんにちゃんと教えてあげたの?」
「いいや、彼はプレイボーイで女をくどき落とすテクニシャンだ。頭が薄いままでいてくれなきゃ、ぼくたち普通の男は困るよ」
「まあ、あなたったら」
二人は声をあげて笑った。
「じゃ、そのカプセル、さっそく明日から飲んでみるわ」
「朝と晩、食後一カプセルずつだよ。それ以上は飲んじゃだめだから」
「ええ」
美沙の笑顔を見ながら、政晴は笑ってはすまされない重大な問題を思いだしていた。
「厚生省は、血友病患者にずっと非加熱製剤を投与させ続けたんだ。在庫がほとんどなくなるまで。アメリカ製の加熱製剤だってすぐに認可を下ろせたのに、わざと遅らせて多くの血友病患者にエイズを発症させてしまったんだよ」
そういえば、いつか厚生大臣があやまっていた事件があったけれど……。
非番で久しぶりに二人ですごす日曜日の午後、夫婦で交わすには、すこし難しすぎる話題に美沙はとまどう。
「そうだ。ガゼット社の関連会社も非加熱製剤を売っていたんだ」
不意に、田所洋子のふくよかな胸とピッチリとしまったスカートのしなやかな動きが政晴の目のなかに浮かんできた。
「厚労省はいったいなんのためにあるの?」
美沙の質問が、そのなまめかしい腰の動きを消した。
ガゼット社のやり方、つまり田所女史とおれは、あの研究室のなかで、そのうちいつかぶつかってしまうような気がする。そんなことをすれば、佐沼教授にもにらまれて、せっかく手に入れたいまの地位を失うことになるかもいれないけれど……。
「厚生省と製薬会社が、国民のことだけは絶対に考えていないことは確かだね」
政晴は、きっぱりと言いきっていた。
(四)
「先生、新しいパソコンには、もう慣れはりました? 」
田所洋子が政晴の席にやってきた。
「あっ、ちょうどよかった。すいませんが、ここのネット共有の設定はどう変えればいいんでしょうか? 」
「あっ、それどすか。ちょっと貸してください」
洋子がマウスをてきぱきと動かすと、すぐに軽やかなサウンドが響いてデータベースとのネット共有ができた。
「さすが早いですね」
「毎日、使うてますから、慣れどすわ」
洋子は、そっと部屋を見回していた。木曜日の午後、佐沼教授が厚労省の審議会に出かける日で、四時過ぎには、だれも研究室に残っていないのだった。
「標本室をご覧になりはらしません? 」
「でも、あの部屋は教授の許可がないとだれも入られないのでしょう」
政晴は洋子の意図を警戒した口調になる。
「大丈夫おす」
どこから取り出したのだろう?
洋子の右手には小さな鍵が握られていた。
「ここの鍵は先生だけが持っている、と聞きましたが」
「この鍵のことは、だれも知りはらしません。でも、ここの標本は、先生だけのものやありまへん。どちらかといえば、ガゼット社のもんどすから」
カチリと音がして、ドアにオート・ロックがかかった。
「こ、この標本は? 」
「無脳症の子供たちどす。おそらく大学施設としては、日本一のコレクションですわ」
「初めて見ました。よく、こんな珍しい子供たちを集めることができましたね」
「いいえ、ちょっとも珍しいものやありまへん。無脳症というのは、中枢神経系の奇形の一種で、先天的に頭蓋内部の大部分が欠けている子供のことどす。胎児期に死亡することが多く、もし生まれても一週間程度しか生存できまへん。無脳症の出生率は、一九五〇年までは、十万の出産で一〇以下の妥当な数字どした。
つまり新生児、一万人にひとりの割合だったんどす。けれども現在では十万に対して五〇以上となってます。食品添加物の増加に比例するように急上昇のカーブを描いているんどす。おそらく添加物に含まれる複数の化学薬品による母体の複合汚染が主因ではないか、と言われているんどす」
「初めて知ったよ。でもその環境汚染のこと、厚労省でよく問題にならないね」
「食品添加物は農水省の所轄だということで、興味がないんですやろ」
洋子の胸の膨らみが政晴の目の前をゆっくりと動く。
「去年、日本では、約一〇〇万件の出生がありましたから、先ほどの確率から言うと、日本全体では、五百人も無脳児が生まれていることになるんどす」
「こんな奇妙な子供が、そんなに生まれているんだ」
洋子は、それには返事をしないでゆったりと笑っているだけである。
政晴は標本棚の一番端に、なにも乗っていない所があることに気づいた。
「ここが空いていますね」
「ここに①番ってナンバーが打ってあるでしょ。ここには先生が完璧な標本を置かれる予定なんどす」
「完璧? 」
「ええ」
「どういう意味でしょう? 」
「わたしにも、よくわからないんですけれども、先生の頭のなかには理想的な標本の姿ができあがってるみたいなんどす」
「角倉先生は、この百倍の標本がガゼット社にある、と言っていた」
「先生の勘違いどすわ。こんなにホルマリン漬けの標本なんか、持っていてもほとんど意味がありまへん。こんなもん集めはるの、考え方がよっぽど古くさい学者だけどす」
突き放したような言い方だった。
「ガゼットには、この百倍の数の胎児あるいは嬰児からとった細胞が、液体窒素のタンクのなかでマイナス一九〇度に冷凍保存されてます。それぞれ臓器別に分けられて試験管に入れられてます。シークエンサー使うて、その遺伝子構造を調べてますし、コンピュータ使うて、分子構造が調べられてるんどす」
うす紫のシャドーに縁どられた洋子の瞳は、きらきらと光る。
「無脳児は脳以外の発育は、出生するまで、まったく正常なんどす。移植用の臓器の宝庫になります」
政晴は、その瞳の色に吸い込まれそうになる。
「鎖骨の下の静脈に高栄養の点滴を行えば、無脳児でも一ヶ月ぐらいなら生かすことは簡単どす」
「一ヶ月も」
「もう、おわかりですやろ。そんな無脳児を集めると、新鮮な移植用の臓器のパーツ・センターになります。ガゼット社は、こんなことを見逃す会社やありまへん」
「ガゼットは具体的には、どの臓器で商売をするつもりなんだい」
「あらゆる臓器、極端なことをいえば、すべてどす。新生児は拒絶反応ができていまへんさかい、無脳児の臓器こそ理想的な移植用臓器になるんどす」
無脳ではなく有能だってことかい?
「あんな小さな心臓をどうするんだ」
「超未熟児で心臓に欠陥のある子供に移植することは十分に可能どす。この背景にはドナー(臓器提供者)不足があるんどす。
これアメリカの話になりますけれども、医師会の倫理委員会が、生存の見込みのない無脳症児の臓器を活用できるように、法律を改正すべき、との提言まですでに表明しています。
日本では、国の基準で脳死と判定された大人の臓器移植さえままならないですやろ。さらにたちの悪いことに、厚労省研究班の脳死の基準は、六才未満を判定の対象から除外しています。
無脳症児は脳があらしまへん。それなのに脳死じゃないだなんて、臓器の提供者として、まったく中途半端なことになってしまっていて、残念なことどす。佐沼教授には厚生省の審議委員として、ここを使えるように、いま頑張ってもらってます」
なんとも言えない、やさしい髪のかおりがその雄弁とともに漂ってきた。
「教授が、毎週木曜に出かけるのは、そのためだったのか。でも、そんなことできるようになるのかなあ? 」
「大丈夫どす。うちの社長は、前の厚生省の事務次官、副社長は薬務局長、次の専務にならはるかたも、偉いはんどすから」
「いずれにしても、とんでもない構想力だね」
「わたし、仕事好きどすから」
ゆったりとした笑い。京女の笑いとは、こんな笑いをいうのだろうか?
「うそ、うそ。みんな、会社の偉いはんが決めたことどす。
あと無脳症児の肝臓や腎臓などは、成人用としては、半永久的な移植には耐えられません。けれど、一週間単位の応急用の移植には十分役立ちます。角膜、水晶体などは、ほとんど大人のものと同じ大きさどす。半永久的な使用に耐えられますわ」
と言いながら洋子は自分自身の水晶体を、きらきらと輝かせる。
「先生は驚かれるかもしれませんが、いま最も興味を持たれているのは、胎児の臓器どす」
「胎児のそんなものこそ、どうするんだい」
「例えば女の胎児の卵巣どす。女の子は胎内で、すでに二百万個ほどの卵母細胞というもの、あの将来卵子になる元の細胞どすな、それを持ってます。それは性ホルモンと関係する癌に対する画期的な治療薬になる可能性があるんどす。
また胎児の大脳の成分はアルツハイマーの特効薬となる可能性もあることがラットで確かめられて、いよいよ、それを人間で試すときがきたんどす。臍帯血をふくめて胎児こそ未知の薬の宝庫だと佐沼教授もおっしゃってます」
こんなにきれいな女だったんだ。
「日本では去年、百万人の赤ん坊が生まれたんですけれども、その陰で堕胎された胎児も三十万人もいます。政府はこの数を減らそうと必死になってます。でも、これは母体保護法に基づく正式な届けのあったものだけどす。実際には、この倍の子供が闇で堕胎された、と思うて間違いありません」
こんな神秘的な唇の色もあるんだ。
「二十二週未満という法定に違反して、二十二週以降、なかには四十週ぎりぎりで堕胎されている子供がたくさんいます。それも大きな宝の山であることにガゼットは気づいてます」
「あれ? ぼくが大学で習っていたころは確か、法定で堕胎が許されていたのは、二十三週以前のはずだったよ。医師の国家試験にも出ていたから間違いないよ」
「ええ、そうどした。けれども、なんや二十二週目の早産でも、無事に生育した子供がどこかの大学で一例あったことを根拠に、最近、強引に法律を改正しはりました。これもみんな、少しずつ堕胎しにくうして、少しでも子供の出生率を上げさせるためどす」
「ずいぶん、無茶なことをしてるんだな。厚労省っていうところは」
「先生は、まだ日本という国のことを、ご存知ありませんねえ」
「きみは、なにを言い出すんだい? 」
「佐沼教授は、厚生省の平均寿命の調査に関する審議会の委員もしてはるでしょ。現在、出生届けの提出の猶予期間として二週間も設けられてます。こんなに長い期間を設定しているのは、先進国では唯一、日本だけなんどす」
また、なにを言い出したんだろう?
白いカーテンをバックに洋子のくびれた腰の曲線がまぶしい。
「子供が生まれても、すぐに死んだ場合、法律に従えば、出生届と死亡届を順番に出さなければいけないことになってます。もちろんこれは立て前どす。子供の死に動転している親に、そんな面倒なことできるわけありまへん。
また生まれた時点で死亡していた場合には、死産届を出さなければいけないんですけれども、そんなものを書きたがる医者なんて一人もいませんわ。病院の評判にかかわるからどす。そして行政上の理由から役所も、それらの届け出の督促などは、決してしません」
この饒舌にはかなわない。でも不思議に引き込まれるような話術だ。
「行政上? 」
「ええ、平均年齢の魔術のためどす」
「魔術? 」
「日本人の平均寿命は男子七十九才、女子八十四才とされ、世界最長ということになってます。でも、それが真っ赤な嘘や、いうことを産婦人科医はちゃんと気づいてます。
平均寿命というのは、いま生まれた子供が、あと何年生きるか? という年齢どすやろ。いま仮に生まれて二週間以内に、死んでしまった子供がいたとしたら、その子たちの平均寿命は〇歳になりますやろ。出生七日未満の早期新生児死亡だけでも、厚生省の統計では五千人前後ということになってますが、ガゼット社のつかんでいる数字はその四、五倍はあります。 そんな子供がもし、二万人もいたりしたら、おおざっぱに言うても平均寿命は、かなり下がることになるやありまへんか」
「あっ! 」
「そうなんどす。それに、このごろは流産も、とってもふえてます。妊娠したときに、すでに日本人になってますやろ、だれでも。受精したときをマイナス一歳として、その胎児が何年生きられるかいう統計をとったなら、さらに恐ろしいことになりますわ。ひょっとしたら、その平均寿命は六十年にも満たないことになるかもしれません」
「本当だとしたら、あまりにおそろしい話だ」
「あと、年金の問題もありますから」
「年金? 」
「ええ、年金の受給年齢は六十五歳からになってます。平均寿命が六十五歳以下になったりしたら、まじめに年金を払う人間など一人もいのうなってしまいますからね」
「要するに操作された数字なんだ」
「まったくその通りどす。いまの日本の社会体制が間違っていない、ということを知らせるために故意に統計をいじってはるんやないですかねえ」
「それが本当だとしたら、ひどい話だ。確かに自然環境もどんどん悪くなっていく。食品添加物だけじゃなくて、化学薬品、電磁波が飛び交う環境、そして過労死が頻繁と起こっている加重労働。こんな社会で寿命だけが伸びるのが不思議だった」
「いま、平均寿命が伸びてるのは、自然食品で育った年寄りに、薬漬け医療を行って、ひたすら死なせないようにしているせいなんどす。この社会の矛盾が突然はじけて、これから平均寿命はずるずると短こうなっていきます」
「そういえば、昭和四十年代に生まれた人間の平均寿命は四十歳代だと書かれた本を読んだことがある」
「それは、きっと正しい予言どす。ガゼット社の社内では、それを『寿命バブル』というふうに呼んでます」
「バブルはいつかはじけるか。統計の嘘は、ぼくにも思いあたることがある」
「なんどす? 」
「交通事故死者の統計だよ」
「わかったわ、それ。年間、死者五千人割れという嘘ですやろ。アメリカでの死者は四万人を突破していて、人口比からいうと日本の四倍も死者がいるという、あの大嘘の話ですやろ」
さすがに、この女は頭の回転が早い、でも今度こそ、おれがまくしたてる番だ。
「そうだよ。日本では、事故から二十四時間以内に死亡した場合のみ交通事故死者という統計に乗るんだよ。救命センターの医者だった者として言わせてもらうと、二十四時間が過ぎてから死ぬ人間もずいぶんたくさんいるんだよ。一ヶ月たって死亡したとしても、その原因が交通事故なら、『交通事故死』以外のなにものでもないのに変な話だよ。
保険会社は絶対に正確な数字をつかんでいるはずだよ。おそらく依然として一万人近い数になっているはずだ。すぐにでも出せるのに、でも正確な数字が公表されることはないんだ。きっと、どこかでだれかが圧力をかけているんだ。こんな社会の仕組みは変えなきゃいけないんだ」
いつの間にか窓の外に夕暮れが迫ってきた。
もう、何時間ここで二人だけで話をしているのだろう?
「わたしも先生と同感どす」
明るいと言ってもいい淡いたそがれの闇のなかで、洋子の体の輪郭がうっすらとぼやけていくようである。
「きみは、統計をいじる側の人間じゃないのかい? 」
「先生は、わたしのことをなにも知りはらしません。いまは立場上、ガゼット社を利用しているだけどす。わたしもあんたはんと同じで、この社会がこのままでいいと思うているような人間やありまへん」
やわらかい胸を政晴の二の腕に押しつけてきた。
「きみは、こんなところでぼくを誘惑するのかい」
「あんたはんこそ、そんなに、はっきりとした形でわたしを誘惑しているやありまへんか」
洋子の目が自分の下半身に注がれているのに政晴は気づいた。
いつのまに?
あわてて言葉を探す。
「こ、これは、そうじゃなくて……」
その答えを洋子の熱い唇が塞いでいた。
(五)
「このあいだは、なかなか、よくやってくれたねえ」
教授室のソファにゆったりと座ったまま、佐沼が話しかけてくる。
「いや、わたしこそ、先生の意図を誤解していたみたいで、失礼しました。あんなに素晴らしい応急処置は初めて見ました」
「まあ、ちょっと、これを見てくれ」
佐沼はファイル棚から大きな図面を出して、マホガニーの机の上に広げた。
一分ほど見つめていた政晴は、それが新型のファイバーであることがわかった。
「新しい弁を考案したんだ。こんどは子宮が破裂するようなことは絶対にない」
佐沼は自信満々に答える。
「教授、このファイバーの先端の手術用のメスの根本から中空のチューブが伸びています。これはどこにつながっているのでしょうか? 」
「このポータブル・ポンプにつながっているんだ」
「このフアバーには、吸引装置が付属しているということですね。いったい、なんの目的なのでしょうか? 」
「来週のカンフアレンスには発表できると思うけれど、みなガゼットとの共同研究の目的に沿ったものだよ」
確かに図面の上にガゼット社のマークが印刷されていた。
これを調達したのも田所洋子なのだと思うと、政晴は奇妙な気分になる。
「きみにはこれを使って、ちょっと新しいことをやってもらいたいんだ」
「胎児の心臓の隔壁を縫うだけではないのですか? 」
「よくよく考えたんだが、胎児の心臓手術は時期尚早だった。それよりも、きみの脳外科医としてのキャリアを生かすためにも、胎児の脳の方をやってみようと思うんだよ」
「はあ」
胎児の脳手術というもののイメージが、どうも思い浮かばない政晴である。
「ところで、ちょうどいま、多胎妊娠している患者で、妊娠中毒症がひどくなって、かなり危なくなっている患者がいるんだ。区内のクリニックで不妊治療を受けた結果、そうなってしまって、緊急に運び込まれたんだが、もう放りだすわけにもいかない。母親は、どんなことをしても子供を生みたいと願っているんだ。こういう場合に残された手段は、なにがあると思うかね? 」
「減胎手術でしょうか」
「そうだ。しかし、世間には減胎手術に反対しているという立場だから、ちょっと、ぼくの名前ではできないんだ。このファイバーを使って、きみにやってもらいたいんだよ」
「これは、堕胎にも使えるのですか? 」
「うん、試用としては、ちょうどいいケースに思えるんだ。前回のものに比べて危険度はぐっとすくなくなっている。もちろんわたしも立ちあうよ。ただ、カルテ上ではきみだけが執刀した手術ということにしてもらいたい。わかったね」
「はい」
厳密にいえば、これは医師法違反である。しかし、大学病院では、よくあることだった。
そのときドアが開く音がして、政晴の表情は少し固くなる。
田所洋子が入ってきたのじゃないのだろうか?
ノックもせずに入ってきたのは、角倉であった。教授の相好がやさしく崩れる。
「なにか用事かね」
「学長と理事長が、本部校舎でお呼びです」
「なんだろう?」
「例の告訴の件ではないでしょうか? 実はとんでもないことがわかりかけてきました。あの面高という町医者が先生の告訴にかかわっているようなのです」
「なんだと、あのマッチポンプ医者がか」
「それだけではありません。どうやら学内から面高に接近して、資料を渡している者がいるらしいのです」
「どんな資料があるというのだ」
「教授のコレクションの写真が裁判所に証拠として提出されたらしいのです。つまり教授のことを奇形児のコレクターと決めつけて、ダウン症児をわざと出産させるために、その母親に染色体の異常を告知しなかった、というストーリーを組んでいる者がいるということではないのでしょうか」
角倉の説明に佐沼の表情は硬くなる。
「裏切り者が、このぼくのすぐ近くにいるっていうことなのか」
いつになくあわてて教授室を飛び出していく佐沼であった。
「新しいファイバー・スコープですね」
佐沼が急いで出ていったあとも、角倉と政晴は、教授室に残っていたのだ。
角倉は政晴の肩越しに図面をのぞいている。その顎が政晴の右肩に軽く乗るすれすれまで近づいてきた。
「来週、これで手術をするので、よく構造を調べておかないとね」
政晴の声には、角倉を突き放すような冷たさがあった。手術前の緊張感が生み出すもの、外科医が持つ、内科系の医師に対するある種の優越感をふくんだ職人意識のためである。政晴からは見えなかったが、角倉はうつむいて、形のよい眉に暗い陰をつくっていた。
「奥さんはお元気ですか?」
「ああ、先生にもらった薬を飲むようになってから、もうすっかり目まいも起こさなくなったんだ」
「お役に立ててよかったです。今度一度お会いしたいですね、奥さんに」
「ん、まあ」
食い入るように図面をながめている政晴の横顔をじっと見つめる角倉である。
「あれは副作用もない、とってもいい薬なんですよ」
しかし、ファイバーの経路を指でなどり始めた政晴は、もう返事もしなくなっていた。角倉の頬から血の気が引いていった。
「先生、もっと新しいタイプのスコープの図面を、お見せしますよ」
角倉は教授のファイル棚を勝手にあけだした。あっけに取られる政晴の目の前で、そのなかから一冊のファイルを取り出す。
「大丈夫ですよ。教授は、あと二時間は、戻られませんよ」
その大胆な行為に政晴が驚きの声をあげる前に、角倉はにっこりと笑って片目を閉じる。いままで見ていた図面の上にかぶせるように広げられたのは、さらに精巧な図面であった。その表題は『ユニバーサル・タイプのファイバー・スコープ』となっていた。
「この設計図はすごいね」
「先生、気をつけてくださいね」
体をすりよせるように政晴に近づいてきて、軽く息を吹きかけるようにして政晴の耳もとにささやく。
「教授はこのユニットごと、核医学研究所に運ぶ予定なんですよ」
核医学研究所というのは、大学のキャンパスの端にある脳腫瘍の患者をX線などで治療するための施設であった。
目の前にある外科医のたくましい両肩を抱きかかえるようにして、角倉は、さらに美しい爪を図面の一部に当てた。
「ここの、オプション・ユニットにも注意してくださいね」
「この鉛の管の先から飛びだしてくるのはなんだろう」
「ヨウ素二三です」
「それは放射能じゃないか」
「教授は、それを胎児に直接照射なされるつもりなんです」
そんなことをしたら、遺伝子に傷がついて、胎児にどのような影響が出るかわからなかいじゃないか。
「教授は、まさか……」
「ええ、そのまさかでないことをぼくは祈りますよ」
角倉は澄んだ瞳で、政晴をじっと見つめる。
「田所女史は、教授の、どんなリクエストにでも答えてきているけれど、ちょっとこれはやりすぎじゃないかなあ。患者だけじゃなくて、水上先生も被爆してしまいますからね。
先生、ぼくは先生の体を傷つけるような人間は、絶対に許せませんよ」
角倉の饒舌も政晴のショックを和らげはしなかった。
佐沼教授が、もし胎児に放射線を照射させるのだとしたら、その目的は、たったひとつしか考えられないじゃないか。それは……。