第二章 (四)
東京は、この冬一番の寒さである。
「だたいま」
午前〇時から午前八時までの、夜勤が明けた政晴は、しかし、いつもより明るい声で玄関のドアを開けていた。コートを脱いだ夫の体から滲み出る寒さが美沙にも伝わってくる。
「あなた、お風呂わいてるわよ」
夜勤明けには、いつも軽く入浴してから、昼まで泥のように眠る政晴である。
「一緒に入ろうか? 」
「えっ! 」
「久しぶりに体の洗いっこでもしようよ」
「今日は、大きな手術はなかったの? 」
「うん、軽い交通事故が二件。あとはずっと仮眠していたんだよ。こんな晩ばっかりだったら、いいんだけどな。でも、もうしばらくしたら、あんな仕事ともおさらばさ」
「どうしたの、あなた」
「おれ、今度、大学病院に戻られることになったんだよ。しかも、あの佐沼教授の医局に移ることになったんだ」
「由香里のいるところじゃないの?」
「うん」
政晴の返事の声は急に小さくなる。
「じゃ助教授の由香里の下で働くことになるの?」
「佐沼先生の医局は、序列にこだわらない自由な雰囲気があるって聞いているんだ。上下関係にこだわることないよ」
「救命センターのお仕事は、もうしなくてもいいの? 」
「そうだよ」
政晴の声が元にもどる。
「じゃ、これからは夜間の緊急呼出しとか、夜明け前に出かけたりすることものなくなるのね」
「いや、病院の方にも、同じように、早番も夜勤もあるよ。ただ、いままでの半分か、三分の一ぐらいで済みそうなんだよ。それだけじゃ、ないんだ。研究室では助手じゃなくて、いきなり講師ということで、佐沼教授の研究への協力次第では、いくいくは助教授になれる可能性もあるんだよ」
「あなたが大学の助教授になれるの。すばらしいわ、夢のよう。でも、どうしてなの? 」
「先月末に医学部長で、外科医長でもある外川とがわ教授が胃癌の手術を執刀しようとして、着替え中に倒れたことを話しただろう」
「ええ」
「手術はその場で中止になり、先生自身をCTスキャンで検査したんだ。くも膜下に大きな出血をしていた。先生はそのまま、ご自身が執刀なさろうとしていた手術台に乗せられ、緊急手術されることになったんだ。ただ、そのとき、手術室にいたのは内蔵の専門家ばっかりだった。病院には脳の手術をできる先生がいなくて、朝番が明けたばかりのおれが呼ばれたんだ」
「他に先生がたはいなかったの? 」
「緊急召集をかけたんだが、みんな、いろんな口実をつけて手術の執刀を避けたんだよ。とっても難しいケースだったんだ。かなりの確率で後遺症が残るのがわかっていたんだ。外科の権威である外川先生の右手が動かなくなったりしたら、たちまち出世コースから外れてしまうことは目に見えていたからね。外科医長の開頭手術をするような勇気のある人間がいなかった、ということなんだろう」
「あなたは手際がいいから」
「うん、まあね。なるべく開頭時間を短くしたかったんで従来のやり方より、かなり端折ったやり方で、やったんだ。夢中だったから気がつかなかったけれど、外川先生の手術を記録するためのハイビジョンのビデオが回っていて、おれの手術を全部記録していたらしいんだ」
「外科医長さんは、無事だったのね」
「当然だよ。事後の経過もたいへんよくて、理事長からもお褒めの言葉をいただいたよ」
「まあ、大学の理事長さんから」
「そうなんだ。おれ、知らなかったけど、外川教授の奥さんは、理事長の姪ごさんだっんだ」
「それで、こんど大学に戻られるの? 」
「いや、本当は、佐沼教授がコンファレンスで手術のビデオを見て、とってもユニークだと誉めてくださって、新しい研究のための要員に、おれを指名してくれたんだよ。昨日も、夜勤に入るとすぐ、教授から直々に電話があって『単に救命センターの医師にしておくには、あまりに惜しい腕だ』と、おっしゃってくれたんだ」
「やったわね、あなた。で、いつから病院勤務になるの? 」
「早ければ、この春にも異動となるんだ」
「わあ、すばらしいわ」
浴槽のなかで夫の指が肌の上をやさしく動いている。
やがて、食い入るような瞳で見つめながら、政晴は、美沙の手をとって自分の体の方に引き寄せるのだった。
「これって解剖学的に言うと外性器っていうもんなんだよ。先月、緊急手術した十九歳の患者で、根元からここが切れてしまった患者がいるんだ」
「どうして、そんなことになったの? 」
「関西の方からオートバイに乗って旅行に来た学生だったらしいんだけど、環状七号線のガードレールにぶっかったんだ」
「あなたは、それをちゃんと繋げられたんでしょ」
「いや、無理だった」
「まあ」
美沙の驚きが波紋になって浴槽の縁ふちをあふれさせる。
「でも、病院に移った患者は肉体的にも精神的にも快方に向っているんだ。おれは、彼の心のケアを精神科医とも協力して、ちゃんとしていくつもりだよ」
「あなたって、ほんとうにいい人なのね」
「どうだ、おれの外性器を使ってみないかい」
「そんな」
浴槽のなかで、美沙の体はさらに別の情熱で熱くなる。
「おれ、決めたよ。これからは、いままでよりも、もっともっと、どんどん使うよ。根元が擦り切れるくらいにね」
「いやだわ、そんな言い方」
そう言いながらも、政晴の体から手が離せなくなる美沙だった。
天井を見あげる夫の額には、うっすらと汗がうかんでいる。
それにしても、あんなに大きな声を出してしまうなんて、美沙には、ほんとに久しぶりのことだった。
「あなた、まだ眠らなくてもいいの? 」
「おれは、やっとあそこから脱出できるんだ」
「脱出? 」
「三年前から救命センターを辞めたかった。いままで、だれにも言っていなかったけど、おれは一人の患者を自殺させてしまったことがあるんだ」
「えっ! 」
「婚約者のいた二十八才になる男性患者だった。今度の患者と同じように、バイクが道路標識にぶつかって、そのときに外性器が根元からちぎれてしまったんだ」
「そんな偶然ってあるの? 」
「いや、どこの救命センターでもあることで、別に珍しいことじゃない。不思議なんだよな。睾丸の破断というのは、めったに聞いたことがない。事故の瞬間に縮みあがって、腹腔のなかにもぐりこんでしまうからなんだろう。人間の体は未来につながる遺伝子は、守るようにできているんだ」
政晴はゆっくりとため息をつく。
「でも、そのときのカウンセリングをオールドミスの婦長が勝手にやってしまったんだ。なにを言ったのかだいたい想像がつくよ。一週間後に歩けるようになったとたん、電車に飛び込んで即死だよ。ぼくは、なんの説明もできなかった自分を責めたよ。ところが説明がなくて死んだんじゃなかったんだ。婦長が『そんなものなくても平気ですよ』とか、なんとか言ったに決まってるよ。結婚を控えた青年にいきなりだ」
「ずいぶん残酷なことね」
夫はまばたきもせずに、冬の星座を見あげる少年のように澄んだ瞳になっていた。しかし、その視線の先には、安普請の団地の天井のパネルがあるだけだった。なにかの虫に食われたような細かい模様がずっと続いていた。でも、どれひとつとして同じ形はなかった。
佐沼先生がいつかテレビ番組のなかで語っていた四十六本の染色体みたいな形。
肌の熱さはそのままだったが、政晴の息づかいも鼓動も少しずつおさまっていくのが美沙にも、伝わってくる。
「いまの患者は、なんとか精神的に回復する方向に向かっているから大丈夫だ」
そう答えると、政晴はすぐに徹夜明けの寝息を立て始めた。