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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
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第二章 (二)

 晩秋の曇天の空の下でも、団地の高層では明るい光が窓から射し込んでくる。


 テレビのスイッチを入れたときには、コマーシャルは終わっていて、『医療トゥディ』は始まってしまっていた。

「天使ですか? 」

 仮面のような厚化粧の奥でキャスターの三隅貴枝(みくまたかえ)の濁った瞳が光る。耳障りな、かん甲高い声である。

「ええ、確かにダウン症の子供は天使だと思います。実に悪意のない、まったく、うっとりとしたようないい表情をします」


 穏やかな顔をした紳士がそれに答えている。画面の下にテロップが流れる。

『東和大学・医学部教授・佐沼雅隆さん』

 美沙が初めて見る佐沼教授の姿だった。

「ほーつ」

 おおげさにうなずく三隅は、モスグリーンのシックなスーツである。きっとそのせいなのだろう、美沙には、その唇があまりにくっきりと赤く見えるのだった。

「ダウン症患者で二十歳ぐらいまで生きている方を見ると、聖者に会ったような印象も受けるんです。ええ、人間として二十年も生きると、必ず人を押しのけることや嘘をつくことを覚えるでしょ。ある意味で社会生活を営む上で必要不可欠な部分ですが、そのようなところがすっかり消えてしまっているのです。

 普通の大人は他人を自分の思うとおりに動かそうとして、単純に脅したりするだけでなく、いろいろテクニックを使うでしょ。偽りの愛情表現をしたり、尊大ぶったり、あるいはわざと卑下したりとか、そんなことも決してありません。実に素直な性格に育っているのです」

「本当だとしたら、素晴らしいことですね」

「一般の方には誤解があるのですが、ダウン症というのは、染色体の数が普通の方より少ないのではなくて、逆に多いのです」

「ほう、そうなんですか」

「具体的に言いますと、ヒトの染色体は一個の細胞のなかに、二十二対四十四本の常染色体と一対二本の性染色体、計四十六本あるんですが、ダウン症では二十一番目の染色体が三本あるんです。つまり染色体全体で四十七本もあるんですよ。このことは、ある意味では人類のあらたな進化の方向を指し示しているような気がするのです」

 画面には、奇妙な模様にしか見えない染色体のフリップが大写しになる。

「はあ」

 難しい話に困惑しているのが、美沙にもわかるほど、キャスターの弱々しい笑顔である。

「ダウン症のお子さんは、古今東西を問わず七百人に一人の割合で生まれるんです。その二十倍以上が流産しているので、実際には受胎したお子さんの三パーセントはダウン症なのです。これは大変な確率なんです。

 じつは人類が誕生したときも、そうでした。われわれの祖先はサルの仲間のなかに、突然ある確率で生まれた始めた変異種だったのです。腕力も強くなかったので、最初は仲間はずれにされたり、殺されたりしていたんだろうと思いますよ。

 でも今日では文明というものを築いてサルを駆逐してしまいました。生物は、そういうふうにして進化を模索しているのです。いまの人類が現状では進化の頂点にあることは認めますが、完璧な姿ではないことも、みな知っているはずなのです。これは三隅さんにもわかるでしょう」


 キャスターは、すっかり理解できなくなってしまったようである。だれかに助けを求めるような目になった。

「ええ、なんとなくわかるような気もしますが、具体的に言うとどういうことでしょうか? 」

「いまの人間社会を見回しますと、下はご近所の小さないざこざから、上は国会議員の乱闘まで、どうもレベルの低い争いが絶えないという気がします。さらには国家と国家の争いである戦争というものが絶えないじゃないですか。

 わたし、満州生まれなんで、言わせてもらいますと『満州は日本の生命線』だなんて、ふざけた理由で先の大戦を始めて、二百万人以上の若者を戦死させてしまったでしょう。いま、満州なんてなくても日本はこんなに繁栄しているじゃないですか」

 わかりやすい話になって、三隅は、やっと体を大きく曲げるようにしてうなずく。

「これらはすべて爬虫類の脳のせいなのです」

「爬虫類? 」


 厚化粧を破って、三隅の額には、また深いたて皺が走る。

「ええ、人間の祖先は爬虫類の祖先からかなり近いところから分岐しているので、他者に対する攻撃性や縄張り意識という爬虫類の行動様式から依然として抜けだせないでいるのです。そして、その影響で人間の脳はどうしても人を差別するようにできてしまっているんです」

 差別する心の底に爬虫類がいただなんて。

 美沙の新鮮な驚きをよそに、画面のなかで佐沼の柔らかい声は続く。

「ダウン症の人には、そんな属性はまったくありません。そのようなエゴイズムをすべて消し去ったある種、夢のような人格を持っているんです。わたしはダウン症の子供を抱いたときにすごく感動してしまうことがあるんですよ。もっとダウン症の子供がふえてくれたならなあ、と思っているほどです」

「ところで先生のご専門は小児科ではありませんよね」

「ええ、産婦人科です」

「生まれたお子さんに、ダウン症ではなくても、ほかになにか異常があると、それが気にかかる、というようなことはございませんか? 」

「わたしは非常に残念に思っていることがあるんですよ。それは、どんな子供でも、生まれたとたんに、新生児小児科に取っていかれてしまうことなんです。今の専門化した医療体制では困難なことでしょうが、産婦人科でも、なんとか続けて子供のケアができないものかと思っているんですよ。

 うちの大学では、今後、産科と小児科を統合した総合的な育児医療科学科というようなものを目指していこうとしております。二つの科の境界を実質的には、なくしていきたいと思っているのです。それが一番、生まれてくる子供のためになることですから」

「先生は本当に子供を愛してらっしゃるんですね」

「ええ、わたしの病院では、少なくともわたしの産婦人科では新生児はすべて、そのかわいい手のひらに、医者自身への手紙を持っている小さな天使だと思っています」

「小さな天使ですか? 」

「ええ、誕生の瞬間というのは、永遠の過去からつながっている生命の歴史、生命の神秘、そして生命の尊さを、我々医師に伝えてくれる瞬間でもあるのですから」

「そういう理由からなのでしょうか? 先生は、著書のなかで堕胎には絶対反対だとおっしゃっておられますね」

「ええ、現在では、子供にある程度の障害が起こるだろうということは、いろいろな検査で母胎のなかにいるうちに知ることができるようになってきています。いまのお母さんは、それがわかると、すぐに堕ろしてくれ、と言うようになるのです。

 しかし、よく考えてみてください。六ヶ月の胎児は、もうれっきとした人格を持っている一人の人間なのです。その子の、小さな障害、たとえば指が一本多いとか、超音波診断でわかるのですが、そんなことでその子の命そのものを葬り去ってもいいのでしょうか?

 ちょっと大げさになってしまうかもしれませんが、人間の都合、つまり弱者を軽蔑するという現在の社会の都合で処理してしまってもいいのか、と常々思うのです。さらには、人間をその効率だけで評価するような社会、人をその機能だけで差別するような社会が本当に正しいのだろうか、とも思うのです」


 そのとき、不意にキャスターの視線が左右に流れだした。

「どうも心温まるお話をありがとうございました。それでは三十秒のコマーシャルをどうぞ。佐沼先生には、そのあとも引き続き、ご出演願うことになっております」

 落ち着き払った声で三隅が大きな頭を下げると同時に、この日の最初のコーナーは終了となった。

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