第一章 (一)
心の奥に秘めた嘘をかくすかのように、ステンドグラスには聖人たちがうつろな目をしてならんでいた。
不必要なまでに高い天井の明かり採りの窓から、たくみな割合で差し込んでくる光と影。それを受けて、ドイツ製のパイプオルガンが銀色の不気味な輝きを放つ。
そして目の前にあるのは、すべての人を受け入れるような、あるいはだれをも突き放すような木製の十字架。
唯一の救いであるかのように、白い大理石のマリアの塑像がほほえんでいる。
昼休みには、だれでも自由に出入りできるチャペルのなかには、二三人ずつ固まって聖書を読んでいる女生徒もいた。そして窓から吹き込んできた涼しい空気がその少女たちの髪をゆする。学園のなかを吹き抜ける五月の風が、この薄暗い空間にも光と花の季節を運んでくるようだった。
遠くからはコーラスの練習をする聖歌隊の賛美歌が海鳴りのようにかすかに聞こえてきた。
「イエスさま、あれはイエスさまの声だったのですか?」
美沙のちいさな独り言が、その海鳴りに吸い込まれていく。憂いをふくんだ顔色は、級友には一度も見せたこともないものだった。だれにも話せないけれど、このごろ毎日のように奇妙な夢を見るようになっていたからである。
空中にはきらきらと輝く箱が浮かんでいた。その蓋がゆっくりと開かれると、中からだれかの声が聞こえてくる。
「ぼくはきみが好きだ」
また同じ夢を見てしまっている。
シーツのなかで身をよじらせるような形で眠りながら美沙はそう思っていた。
「ぼくはきみが好きだ」
すこしかすれた声、それはひどく遠くから叫ぶようにも聞こえ、耳元でやさしくささやかれるようでもある。
だれなんだろう? わたしのことを、あんなに好きだって言ってくれるのは?
心をほっとさせるような、なつかしさ。いつまでも聞きつづけていたいような声。そして夢を見ている美沙の体の芯からは、なにか熱いものが流れ出すようだった。
「また、なにをお祈りしているの?」
不意に声をかけられて美沙は現実に引き戻される。
「ねえ、シスター・マグネリアのおっしゃったことをどう思う? 」
創立当時そのままの、欅造りの木の椅子の直角の背もたれの向こう側に同級生の由香里が立っていた。
「えっ、さっきの授業のこと? ごめんなさい。あんまり眠かったので、ほとんどなにも聞いていなかったの」
由香里は自然な動作で美沙の隣に座る。そこがいつも二人の座る場所だった。
「まあ、どこのクラブで、そんな夜更かしをしていたのかしら」
艶のある由香里の長い髪が頭の動きにあわせて揺れる。
「そんなんじゃないのよ。昨日、夜遅くまでテレビを見ていただけなのよ。ほんとよ」
あわてて首をふる美沙の髪もしなやかに揺れた。
「神学の授業って、だれでも、ほんとにたいくつになるから、まあ仕方がないわね」
「ここが、いくらミッション系だからといって、週に二時間は、ちょっと多すぎるわ。由香里もそう思うでしょ? 」
「わたしは気晴らしになっているから、今のままでもいいと思うけど」
「で、シスターはなんておっしゃったの? 」
開いた窓からは五月の風が、またさわやかに流れこんできた。
「講義は旧約聖書の創世記の第一章二十七節からなんだけど、『神様はご自分の形に似せられて人間をお作りになった』と、言われたのよ」
「ああ、それはどこかで他の先生からも聞いたことがあるわ」
「ねえ、どう思う? 」
「どうって? 」
「人間といっても千差万別だし、神様って人間のだれに似ているのかしら? 」
美沙はチャペルの中央にある半裸のイエス像を見る。
「そう言われれば、変ね。イエス様の像を見る限りは男の人でしょ」
「男の人の体は完璧なのかしら? 」
由香里の口から出た『体』という言葉を聞くと、美沙の頬は少し赤くなった。
「シスターは、こうも言われたのよ。『だから、人間の体は完璧に作られている』んだって、『決して自分の体を傷つけたりしてはいけない』んだって」
「キリスト教が、自殺を禁じているのは、そういう理由からでしょ」
「ねえ、でも人間の体って、本当に完璧なのかしら」
そう言いながら由香里は長い睫毛を伏せる。
「わたしは、足も太いし、顔のニキビも気になるし、ぜんぜん完璧なんかじゃないわ。でも、由香里は完璧だわ。本当にどこにも欠点がないわ。成績だって、すごくいいし」
学園のなかはどこもツツジの花が咲き乱れている。そして、この五月のなかでどんな花よりも美しいものが美沙の目の前にあった。
「だめよ、おだてても。わたしほど不完全な人間はないって、このごろ思っているもの」
窓から差し込む春の光を受けて、自らの色彩を消し去ったように静かにたたずむ由香里こそ、神と自然が造形したどんなものよりも完璧な塑像に見えた。
「わたしは神様の失敗作よ」
その塑像が口を開く。
「由香里が失敗作なら、わたしなんて大失敗作になってしまうじゃない」
どこにもニキビがない柔らかな由香里の頬に、美沙は手を伸ばす。なぜか、人差し指でその唇に触れたくなったのだ。
「もし、そうでなきゃ、わたしは神様って、ずいぶん不完全な体なんだなって思ったわ」
少しうなだれる由香里の横顔に透かしだされたような、ある種の哀しさに美沙は、はっとする。
「あら、もうチャペルの鐘がなっている。由香里、次の授業はなに? 」
「数学よ」
「そうだったわ。どうしよう、わたし。昨日の積分の宿題を全然やってないの。当てられたらおしまいだわ」
「わたしにまかせなさい」
生気をとりもどした塑像は、たちまちバラ色の頬を輝かす乙女になっていた。
「ありがとう。由香里は、わたしの神様だわ