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風見鶏

作者: スズカ




 ある街に、古い洋館がありました。


 赤い屋根のすてきな洋館で、屋根の上には風見鶏かざみどりがついています。風見鶏はにわとりの姿をしていて、風が吹いてくる方向にくるりくるりと回り風向きを教えてくれるものです。

 その洋館に住んでいたのは、ひとりのおばあさんでした。おばあさんはもうずいぶん年で、老いてからは洋館をきれいなままにすることが難しくなっていました。

 長い間に赤い屋根はペンキがはがれ落ち、白いかべは汚れて灰色です。屋根の上の風見鶏も雨と風に晒され続けたせいで、いつのまにか動かなくなっていました。時おり風に吹かれて、ギギ、ギギ、と体をゆらすだけです。


 秋の初めのころ、洋館のおばあさんは寝たきりになってしまいました。歩くことも一人では上手くできません。

 遠くに住んでいるおばあさんの息子がやってきて、大きなカバンを持っておばあさんを洋館から連れ出します。息子夫婦の家で住むことになったのです。

 おばあさんは洋館を見上げて「今までありがとう。元気でね」と小さく呟いておじぎをしました。それからタクシーに乗って出て行ったきり、おばあさんは帰って来ませんでした。




 それから冬になり、春になりました。

 春先の風はまだ冷たいけれど、太陽の光はぽかぽかとしています。そんな気持ちの良い日に、一匹の猫が洋館の上でくつろいでいました。野良猫ですが、なめらかな毛並みを持った黒猫です。寝転んで優雅に毛づくろいをするさまは、まるで気高いお妃様のようでした。


「おばあさん、亡くなったんですって?」

 ふいに、落ち着いた女性の声が聞こえてきました。たった今思い出したというように、そっけない声でした。

「うん。もう90歳をこえていたし、仕方ないよ……」

 今度は子供の声が聞こえてきました。10歳くらいの男の子の声です。

 不思議なことに屋根の上には誰もいません。いるのは美しい黒猫、それから時おり春風にゆられている風見鶏だけです。

「おばあさんと70年近くも一緒にいたのに、こんなに呆気なくお別れだなんて……。僕、一人ぼっちになっちゃった」

 子どもの声は力がなく、今にも消えてしまいそうでした。

 そんな子どもをなぐさめるわけでもなく、女の声は呆れたようにため息をついて言いました。

「おじいさんがいなくなった時だって、同じ経験をしたのでしょう?」

「ううん、違うよ。おじいさんは……って当時は旦那様って呼んでいたんだけど、戦争に行ったまま帰って来なかったから。だから僕は旦那様がどうなったかは知らないんだ」

 丸くなって寝ている黒猫が僅かに首を傾けました。うっすらと開いた猫の眼は、珍しい紫色をしています。風見鶏がギギィ、と体をゆらしました。

 女性と子どもの会話はまだ続きます。

「ふうん。じゃぁ、それからずーとこの館はアナタとおばあさんの二人だけ?」

「そうだよ」

「気の長いことねえ……。アナタはともかく、人間ってもっと気の短いものなのに、年を経るごとに気が長くなるのかしら?」

「うん? 気が長いとか短いって、どういう意味?」

「アナタって、私なんかよりずっと長く生きているくせに、ほんと物を知らないのねえ」

 黒猫のしっぽがぱたりと屋根をたたきました。ペンキのはがれ落ちた屋根はところどころ黒ずんでいます。黒猫の隣にいる風見鶏もさび付いてみずぼらし姿でした。

 でも黒猫にはそんなことは関係ありません。黒猫にとってここは日向ぼっこにちょうど良いお気に入りの場所なのです。


 子どもの声が言いました。

「そんなこと言われたって、僕が知っているのはこの館のことと、この場所から見える景色だけだよ。だって、僕はこの館の風見鶏だもの」

 風見鶏はさび付いて回らなくなった体を精一杯ゆらしていました。まるで洋館の周りの景色を見ようとするかのようでした。

「はぁ……、こんな屋根の上からじゃ、分からないことだってたくさんあるのよ。特にこんなビルに囲まれた小さな世界じゃね」

 女性の声が言うように、この洋館は街の真ん中にあるため大きなビルに囲まれていました。見上げればビルの間から四角に切り取られた青空と太陽が見えます。でも後数時間もすれば、太陽は西に傾いてビルに隠れてしまいます。

 気持ちよく寝ている黒猫も、いつもほんの少しの間だけこの洋館に日向ぼっこにやって来るのです。

「昔はもっと見渡しが良かったんだよ。海だって此処から見えたんだ」

「海、ねえ……。確かに海はあるけれど、そこはもう埋め立てられて空港になっているわよ」

「くう、こう?」

「とにかく、もう海は遠くに行っちゃったの」

「そっかあ……。僕全然知らなかったや……。黒さんは本当に物知りだよね、人間のことも、この土地のことも、僕よりずっと知ってる。さすが黒猫だよね」

「猫は情報に通じているものよ。特に人間の噂にはね。そう、例えば―――『住人が居なくなったこの館が、取り壊されることになった』とか、」


「―――え?」


 子どもの驚いた声が響きました。

 それから少し間を空けて、女性が静かに言いました。

「やっぱり、知らなかったのね。」

「え、どういう……こと?」

「そのままの意味よ。こんな一等地にある古い洋館なんて、土地代が高いだけで誰も住みたがらないものだから、とある会社が買い取ってここに新しいビルを建てようっていうのよ」

 土地は場所によって値段が違います。街の中にあって便利な場所ほど値段が高いのです。だから街の中心には会社のビルが多くて、家族が住む家はあまりありません。

 子どもの声が、小さな声で聞きました。

「また、新しいビル?」

「そうよ」

「僕も、この館と一緒に、壊されるのかな……」

「……そうよ」

 子どもの声が悲しそうに震え、女性の声も小さくなりました。

 女性はずっと前から知っていたのです。おばあさんがいなくなれば、ここに洋館はなくなってしまうことを。

「そっか。僕もおばあさんと同じように、お別れの時が来たのかな」

 子どもの声に反応したのか、黒猫の耳がぴくりと動きました。それからゆったりと立ち上がって、ぴょん、と跳ねてみせました。

 女性の声が言います。

「ばかねぇ。逃げればいいじゃない。こんな館なんか捨てて、好きな所に行けば良いじゃない」

「好きなところに? でも僕は一歩も此処から動けないよ?」

「私が連れてってあげてもいいのよ? そうよ、海に行けば良いじゃない。見せてあげるわよ。遠くからじゃなくて、すぐそばで」

「黒さんが、僕を海へ……?」

「見に行きたくないの?」

「行きたい! とっても行きたいです!」

 飛び跳ねるような声で子どもは言いましたが、すぐに沈んだ声になってしまいました。

「でも、長年おばあさんと過ごしたこの館を捨てるなんて……」

 風見鶏がカタカタと音を立てます。それを黒猫が目を細めながら眺めていました。猫のしっぽは、ぱたん、ぱたんと屋根を叩いています。

 洋館の前を通る車が大きな音を鳴らしながら通り過ぎていきました。前は大きな道で朝から晩までたくさんの車が行き交います。大きな荷物を載せたトラックも通っています。トラックに乗れば海まで行けるかもしれません。

 しばらくしてから、女性の溜息が聞こえました。

「全く、優柔不断ねぇ。これだから風見鶏は」

「そうだね……」

 しょんぼりした声で子どもは言いました。

「せめて、風の吹く方に向かってしっかり立ちなさい。行き先を示すのも風見鶏の役目よ」

「え……。ああ、そうか!」

 とつぜん、子どもが大きな声を出しました。黒猫が驚いて、しっぽをピンとまっすぐに立てて、それからゆっくりとおろしました。

「風に向かって立つ鳥。風向きを示す鳥。それが風見鶏……」

「何? まさか今気づいたの?」

 女性の声が不思議そうに聞きました。

「ううん、だけど思い出したんだ」

 子どもは懐かしそうに言いました。

 それはずっと昔に聞いた、おばあさんの言葉でした。


『風は今、何処から吹いている? 西か東か、北かそれとも南か? 教えておくれ風見鶏。――あの人の便りを』


 子どもの記憶の中で、ずっと若いおばあさんは毎日洋館の風見鶏を見上げて問いかけていました。雨の日も、風の日も、雪の日も。それはおばあさんが寝たきりになるまでずっと続いていました。

 その言葉の意味に、子どもはようやく気付いたのです。

「おばあさんは、昔旦那様の帰りを待っている時も、国から手紙が届いた後も、よく僕を見上げてそう聞いたんだ。おばあさんは、いつも僕が示す風の吹いてくる方向を見上げていたよ。ずっと旦那様を待っていたんだ」

「風の便りという訳ね。本当に、気が長いお人だわ」

「僕……、やっぱりこの館に残るよ。最後まで館の上で風に向かって立っていたいんだ。おばあさんが風向きを見失わないように、ちゃんと旦那様まで辿り着けるように。それが僕の仕事だから」

 風見鶏はカタリと、ビルの隙間風に吹かれて揺れました。それを見た黒猫はひとつ大きな欠伸をして、とんとん、と軽やかな足取りで屋根を降り、そのまま姿をくらましてしまいました。


 そして、一か月後。

 洋館は取り壊されました。ですが――…。




「良かったじゃないの、取り壊しじゃなくて本当は解体で」

「うん、別の場所に同じように建てられるとは思わなかったよ」

 女性の声が、少しだけうんざりした声で言いました。反対に子どもの声はとても嬉しそうにはずんでいます。


 今日も、太陽の光が気持ち良い天気です。

 丘の上には赤い屋根のすてきな洋館が建っていて、屋根の上には風見鶏がついています。風見鶏は初夏の風に向かって気持ちよさそうにゆれていました。ときおり風向きが変わるとくるん、くるん、と向きを変えます。

 街の人たちは、そのすてきな洋館を一目見ようと、大勢集まって来ました。人々は口々に洋館のことをほめました。

 そんな洋館の周りの騒ぎを気にもしないで、赤いピカピカの屋根で日向ぼっこをしている黒猫がいます。その隣でさびをすっかり落としてきれいになった風見鶏がくるん、と自慢げに一回転しました。

「まさかねぇ、この洋館を移築して文化遺産にするだなんて。そんな願いをおばあさんが行政に交渉していたなんて知らなかったわ。おばあさんは、この館とアナタを。本当に大切に想っていたのね」

「そっかぁ……、なんか嬉しいな。ふふ、ここは良いね! 賑やかで、見晴らしもいいし。何より海が見えるよ、黒さん!」

「そう、良かったわね……。だけど、ゆっくり日向ぼっこするのには、ここは不向きなのよねぇ……」


 にゃーん、と。不機嫌そうに黒猫が鳴きました。




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