透明な豚
私は透明な豚。
私は誰にも見えていない。
でも、私が豚だということはみんな知っている。
今日も休み時間、中村くんたちが、楽しそうにバカ騒ぎしている。今日は、益子さんの給食袋をサッカーボール代わりに、みんなで蹴り合っていた。
私は誰にも見えていない。
窓際に誰も座っていない机と椅子だけがポツンといつもの場所にある。矢川さんたちと仲良しだった谷澤さんが先週から学校に来なくなった。でも、誰も谷澤さんの話はしない。
私は誰にも見えていない。
休み時間、私は一人机に座る。
私は誰にも見えていない。
小松君の机の上に、通り過ぎざまみんなさりげなく小さなゴミを置き、
机の端に鼻クソをつけていく。
私は誰にも見えていない。
窓辺に置かれた名も知らぬ観葉植物は、夏休みを境に枯れ始めていた。
私は誰にも見えていない。
私を取り囲む、休み時間の喧騒。それは脅迫――。
私は誰にも見えていない。
窓辺に置かれた水槽の中で、長い糞を一本お尻から垂れ流しながら、大きな出目金が一匹のんびりと泳いでいる。
私は誰にも見えていない。
小学校という名の四角い世界。
四角い壁に囲まれた狭い部屋。ここが私たちの世界のすべて。
頑丈なだけが取り柄の簡素な作りの机と椅子。私たちに与えられた唯一の領域。
理由も分からず、私たちはいつの間にかこの狭い世界に閉じ込められていた。
私は誰にも見えていない。
私は一人机に座っている。
私たちに与えられた世界はあまりにも狭いから、私は、真っ白い大きな翼をはためかせ、いつも別の世界に飛んでいく。
真っ白い清潔な部屋。
その部屋には、真っ白なソファとベッドだけがある。
今日はソファに私は抱き着くように寝そべる。
ピーチスキンのなんとも心地よい生地が私の頬をやさしく包みこむ。
そこに窓からやわらかい南風が入って来て、そんな私のおでこと前髪をやさしく撫でていく。
多分、空はとてもきれいな青。
世界はとても平和で穏やか。
世界中のすべての人が、そんな愛と平和に包まれて昼寝をしている。
「乳首を舐めてあげる」
私がそう言うと彼は、とても喜ぶ。彼の彼女は、そういうことはしてくれないらしい。
私はフェラチオもしてあげる。彼はまたとても喜ぶ。
最後に手でしごく。激しく。激しく。とても激しく。
「出しちまいなよ。豚みたいに」
私は薄汚い言葉で叫ぶ。
「豚みたいに」
激しく激しくしごきながら薄汚く怒鳴るように叫ぶ。
「豚みたいに出しちまいなよ」
私は叫ぶ。
「豚みたいにっ」
「うう、ああ」
彼が、情けない声をあげ、私の右手の中で精子を無様にぶちまける。
「・・・」
そこで、時間がとまったみたいにすべてが終わる。
そこには、虚しい空っぽな世界があるだけだった――。
体が大きくなり、学校が小学校から、中学校、そして、高校へと変わっても、世界は何も変わらない。
世界はあの四角い箱のまま。
私は誰にも見えていない。
私は相変わらず透明な豚。
斎藤くんは、今日も誰ともしゃべらない。休み時間一人机に座っている。別に嫌われているわけではない。むしろ好かれている彼は、しかし、プライドが高過ぎて、レベルの低い他の同級生たちとしゃべることができなかった。
私は誰にも見えていない。
残酷な笑いが起こる。笑っているその中心にいるのは山崎君。高校入試に失敗し浪人していた彼は、だから、クラスの中で一人だけ年が一つ上だった。
私は誰にも見えていない。
休み時間、今日も私は、一人机に座る。
私は誰にも見えていない。
先生にも私は見えていない。先生は、いつもノートパソコンばかりを見つめている。そこには私たちのデータが入っている。
私は誰にも見えていない。
旭川さんをみんな見る。彼女はとてもかわいい。だから、みんな見る。チラチラチラチラ。みんな見ている。チラチラチラチラ。見ていない振りをして、みんな見ている。
私は誰にも見えていない。
小沢さんが一人机で泣いている。でも、誰も声を掛けない。彼女が何で泣いているのかみんな知っている。知り過ぎるほどに知っている。ここはそんな仕組み。
私は誰にも見えていない。
教室の丸い大きなアナログ時計のその太い針は、今日も、ゆっくりとしか動かない。ここには別の時間が流れている。
私は誰にも見えていない。
ここは誰かが偉くて、誰かがいじめられる場所。
私は誰にも見えていない。
屈辱を受けてしまった心。そんな心たちが、ひたすら耐え忍び、復讐を企んでいる関係。
私は誰にも見えていない。
休み時間の喧騒。教室の喧騒には痛みがある。
私は誰にも見えていない。
私は透明な豚。
心の底に溜まっている、どす黒いヘドロのような澱。
怒り――
私の中にあるあの腐ったヘドロのような真っ黒い怒り――。
心の底の方でグジュグジュと湧き出るドロドロに腐敗したどぶ川の底に溜まった真っ黒いヘドロのような怒り――。
私を誰か抱きしめて欲しい。温かく、そして強く、私のこのちっちゃな全身を、その胸にしっかりと、両方の腕で、強く強く――、
私が誰かを殺してしまわないように――。
またアメリカが新しい戦争を始めた。また画面の向こうでたくさんの人が死んでいる。
でも、そんなことはどうでもいい。どうだっていい。だって、私たちの世界は、この四角い箱の中なんだから。
大事なのは、この箱の中で、その中心にいる中沢くんや佐藤さんたちに嫌われないこと。
それが私たちの世界のすべて――。
「お前はいいよ。お前はいい」
鈴木くんが言う。
「お前はいいよ。何でもしてくれるから」
「生でさせてくれんのお前だけだぜ」
鈴木くんはうれしそうに言う。
私は知っている。この世界には何の価値もないことを。
私は知っている。生きることに何の意味もないことを。
私はそのことを知っている。私は知っている。
大統領の隣りに今日もファーストレディの彼女が立っている。彼女の夫が、まったく意味のない戦争をすることを決め、多くの罪もない人々がそのことにより殺され、世界中の多くの人たちがその煽りで大迷惑し、大混乱し、世界中で物価が高騰し生活に困窮している時、彼女の頭の中にあったのは、次のパーティーの招待状の表紙の色を何色にするかだった。
彼女の国のミサイルで、何の罪もない外国の子どもたちが何百人と死んでいるその時、彼女がしていたことは、新しく仕立てられたブラウスの襟のほんの数センチの膨らみの演出だった。
「生きているってなんですか?」
中学生の女の子が質問する。
「何でもないさ」
その偉い学者は答えた。
そんなこと私でも言える。私は、その先が聞きたいのだ。
私は透明な豚。
私は誰にも見えていない。
「お前はほんとメス豚だな」
裸で四つん這いになる私に、中山くんが言う。
「ブヒブヒ言ってみろよ。ブヒブヒブヒブヒ豚みたいに」
私のお尻を叩きながら中山くんはそう言って笑う。
「ブヒブヒ、ブヒブヒ」
私は彼にそう言ってあげる。卑屈に、堪らなく卑屈に――、豚みたいにブヒブヒ、ブヒブヒ――。
「お前は最高だよ」
中山くんは、爆発するみたいに喜ぶ。
「お前は最高だよ。お前は最高だ」
世界は間違っている。でも、世界は今そうなっている。それがこの世界の確かなこと――。
私は誰にも見えていない。
私は透明な豚。
私たちは、もうすぐこの世界を卒業する。
でも、この四角い世界を卒業しても、世界は四角いまま。私は知っている。私はそのことを知っている。
バシンッ
すごい音がした。
掃除の時間、雑巾がけをする豚みたいに丸々と太ったその山田君のケツをサッカー部の久保田君が思いっきり蹴る。
「まったく豚野郎だな」
みんなが笑った。大爆笑だった。
山田君は四つん這いのまま卑屈に久保田君を見上げ笑っていた。
怒り――
堪らない怒り――
私の中のあのどす黒い塊が、ゴボゴボと反吐を吐くみたいにせり上がって来た。
怒り怒り怒り怒り――
怒、怒、怒、怒、怒――
「豚野郎はお前たちだ」
私は叫んでいた。みんなが私を見る。
みんな豚。
みんな豚野郎。
ここは豚舎。汚い豚小屋。
ゴミみたいな知識や従順さを詰め込まれ、いいようにブクブクと肥え太らされた養豚野郎たち。それが私たちの正体。
卒業と同時に、出荷されていく哀れな豚。
豚に生きるなんてない。
肉になり、細切れになり、ミンチになり、骨の髄までおいしく利用されて料理になる。
そして、買われて食われてうんこになる。そして、汚物と一緒にトイレに流され、そのまま下水の底へと消えていく。そんな末路。
「自分に価値があるんなんて思っている勘違い野郎共。みんな死ね」
私は絶叫した。
教室は静まり返っていた。すべての時がとまったみたいに静まり返っていた。みんなが私を見る。異様な目で私を見る。頭のおかしな奴を見る目で私を見る。気違いを見る目で私を見る。
その時、私は見えていた。みんなから私は見えていた。
―――
私は誰にも見えていない。
休み時間、今日も私は一人机に座る。
私は誰にも見えていない。
世界はまたいつもの通り。
世界はその正解の世界に戻っていく。
私は透明な豚。
私は誰にも見えていない。
私は、出荷を待つ哀れな豚――。
それは何も変わらないし、これからも何も変わらない。
私は誰にも見えていない。
私は透明な豚。




