エピローグ
天空に漂う雲の上に佇む白亜の神殿。
その広い庭園の一画に、繊細な彫刻が施された大きなオブジェが立っている。
そのオブジェの一面に、幾つかの文字が彫られていた。
その中に一つ、真新しい文字がある。
その文字を指先でなぞり、彼は小さく唇を開いた。
「…………」
大きな溜息と共に小さく呟いたのは、友の名。
いつか戻ると信じて、彼は待ち続けている。
あのとき、アイテールたちの言葉を以てしても、サディンの器が癒えることはなかった。
傷が治るのは、身体に備わる治癒力があるからだ。
しかし、器から完全に魂が離れてしまうと、身体の機能はすべて停止する。
そうなってしまうと、いくら身体の治癒力を底上げしても、傷が治ることはない。
そこで新たな器を創ってみようとしたのだが、それも無理だった。
天使の器には、カエルスの聖樹に実る果実を使う。
それを錬成して人型の器にするのだが、そのためのアルケミア・ルーン術式を、アイテールたちは知らなかった。
言葉の力を最大限に発揮するには、言葉そのものとその意味を正しく理解していなければならない。
付け焼き刃の知識では、不完全な器しか創れないのだ。
また、ジュピターがサディンの器を創るまでの間、魂を入れておくカストルの器を強化しようともした。
しかしカストル自身も崩壊が始まっており、まずはその傷を治す必要があったのだが、できなかったのだ。
カストルの器は木で作られた人形だ。
そもそも自ら傷を治す治癒力がない。
神も魔も、それを凌駕する力を持つ者でも、どうすることもできない。
サディンの時を巻き戻す、時を止めるということも考えたが、それこそ不可能だった。
時は不可侵にして、その流れは絶対だ。
流れに逆らうことは決してできない。
起こってしまったことは、既に歴史の一つとして書き込まれ、決して消すことも書き替えることもできないのだ。
故に、これしか方法がなかった。
「サディンの魂を……転生させる?」
「ええ。このまま何もしなければ、魂は消滅してしまいます。けれど転生すれば、この子らの魂を受け継いだ生まれ変わりが、いつか、どこかで生まれてくるはずです」
確かにジュピターの言う通り、何もできないまま時間が過ぎていくよりは良いのかもしれない。
しかし、生まれ変われば、サディンはまったくの別人となってしまう。
それは果たして、サディンの命を救ったことになるのだろうか?
「ボクは……お兄ちゃんが消えないなら、それが一番いいと思う」
絶望的な思考に沈みかけたルシエルの意識は、アイテールの声で浮上した。
このまま消滅するのを待っているだけなら、例え別の人間になったとしても、転生させて新しい生を送る方がいいのかもしれない。
そうすればいずれ、サディンの魂を持った誰かに再会できるだろう。
サディンの魂は消えていない。
消滅さえしていなければ、未来は鎖されていないのだから。
サディンの魂を、未来に繋げたい。
サディンもきっと、それを望むはずだ。
「そう……だね。サっちょんの魂は、まだ消えてないんだから……それなら俺、サっちょんを転生させてあげたいな」
ラファエルも同意した。
ミカエルも同じようだ。静かに頷いている。
ルシエルは何も言わなかった。
ただ黙って、カストルの身体を支えている。
彼らの顔を見渡して、ジュピターは決断したようだ。
カストルの魂ごと、サディンの魂を転生させることを。
何時、何処に転生するのかはまだ判らない。
ジュピターが送り出した魂は、一度世界に融け、新たに生まれる命に宿る。
転生したときに、前世の何を受け継ぐのかも不明だ。
容姿か、記憶か、能力か。はたまた何も受け継がないか。
未だ不確定な魂は、友に見送られて世界の中へと旅立った。
神殿に佇むオブジェには、殉職した天使の名が刻まれている。
その中の一つを指先でなぞり、ルシエルは深く溜息を吐き出した。
そこに刻まれた友の名を目にする度に、深く胸を抉られるような感覚に陥る。
そうして開いた胸の穴が埋まらないのだ。
ルシエルは何度も自問自答を繰り返す。
他に方法があったのではないか、と。
しかし返る答えは不可能ばかり。
現実を真摯に受けとめて、前を向かなければならないことも理解しているつもりだ。
それでもルシエルの問いは尽きない。
そう、ルシエルは……未だ現実を受け入れられていなかった。
ただ認めたくなくて、こうしてぼんやりと一日を過ごしている。
このままではいけないことも理解しているつもりだ。
だが、心の中の自分は頑なに現実と向き合うことを拒否している。
「僕は、あなたを……」
失いたくなかった。助けたかった。
しかしサディンが聞きたいのは、こんな言葉ではないはずだ。
もし立場が逆だったなら、待ち続けると、サディンは言ってくれるだろう。
再び会ったそのときに、おかえりと言ってくれる。
あのときも、そうだったではないか。
だから、ルシエルは待つことしかできない。
いつか友が帰ってくると信じて、待ち続けるしか。
例えその先に、自身の望んだ未来がなかったとしても。
「僕は……あなたを諦めません」
そう呟く彼が抱えているのは希望か、それとも……
暗い闇の中から眩しい光の中へ。魂は目覚めて産声をあげる。
小さな命の焔が灯るのは、未だ来ぬ未来の物語。
END