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成長

 岩肌に囲まれたこの空間で、太陽はどこに沈んでゆくのだろうか。

 サディンはふと、傾いた陽光を見て考えた。

 創られたこのアビスがどれ程の広さなのかは解らない。

 ひょっとしたら世界の反対側まで続いていて、あの太陽も本物と同じように、ぐるりとアビスを一周しているのかもしれない。


 いくら考えたところで、真実を確認しなければただの想像。

 嘘か誠かを判断するには、判断するに足る知識が必要となる。

 自分には、そのための知識が足りない。


 これからアイテールを裁こうとしている神たちにも、それは言えるのだ。

 なぜこんな子供が裁かれなければならないのか?

 もっと別の方法もあるのではないだろうか?

 それを知るためにも、知ってもらうためにも、今はサディンが動かなければならない。


 地獄を治める王の居城は、目前に迫る。


 同時刻、サタンの居城の前には、ジュピターとサタンが並んで立っていた。

 その後ろに控えるのは二対の翼。ミカエルとルシエルだ。

 他の天使や悪魔たちは、城の中で待機している。

 救援のために来た天使たちは戦闘に向いておらず、ましてや負傷している悪魔たちを戦わせる訳にはいかない。


 それぞれの顔には、各々の覚悟が刻まれている。

 彼らが見据える荒野の向こうから、小さな人影が二つ、徐々に近付いてきていた。


 サディンの背を、緊張の汗が滑り落ちる。

 話し合いだけで解決できれば良いが、自分が話している間に、この子供が何を口にするか解らない。

 ここに着くまでに、決して口を開くなと言い聞かせてはきたが、それは絶対の保証にはならない。

 アイテールが戦闘を指示するような言葉を出した瞬間、サディンはアイテールに支配される兵士になってしまう。

 それだけは避けたいと思いながら、サディンはアイテールの手を引いてジュピターの前で立ち止まった。


「よく……無事でいてくれました」


 ジュピターの口から、安堵の息が漏れる。

 優しい微笑みと温かな声は、この荒涼とした大地に見合わない。

 天の光が、木漏れ日となって降りてきたかのようだ。


 ジュピターの声には、アイテールとはまた違った、不思議な力がある。

 聞く者すべてが安心感を得られるような、そんな声だった。

 彼女の声を聞いたサディンも、また同じだ。

 サディンはジュピターの前に跪き、深々と頭を垂れた。


「ご心配をおかけいたしました」


 サディンは表情を殺して無感動を装っているが、内心では泣きだしたい程の激情が渦巻いていた。

 すべてを放り出してジュピターに預けてしまえたら、どんなに心が軽くなるだろう。

 しかし、そんなことができるはずもない。

 己には、この子供を守らなければならない義務がある。


 サディンとは対照的に、怒りを露にしているのはアイテールだ。

 その目はジュピターを……いや、すぐ隣に立つサタンを凝視している。

 今にも呪咀の言葉を口にしそうな形相で、それでもただ黙っているのは、サディンとの約束があるからである。

 これから先、何が起きようとも一切手も口も出さず黙っていてほしいと、サディンに頼まれたのだ。

 神や悪魔たちは許せなくても、彼だけは特別。

 彼の頼みなら、聞いてやってもいいと思っている。


 アイテールから放たれるプレッシャーを受けて、言葉を失くしているのは、神と悪魔の背後に控える二人の天使だ。

 目の前に友の姿を見ながら、一歩も動けないでいる。

 彼らはアイテールが何もしないよう、祈ることしかできなかった。


「サディン、さあ、顔を上げてください。あなたが無事だったことが何よりです」


 ジュピターの柔らかな声が言葉を紡ぐ。

 なるべくアイテールを刺激しないよう、慎重に言葉を選んでいるのが、サディンにも解った。

 神も恐れているのだ。

 アイテールの力を。


 サディンは静かに顔を上げて立ち上がる。

 サディンの袖を、アイテールが強く握り締めた。

 サディンは目だけ動かしてアイテールを見下ろす。

 アイテールは未だ、じっとサタンを睨んでいた。


「この子供は……」


「その子は私たちが保護しましょう。さあ、こちらへいらっしゃい」


 サディンの言わんとしていることを察知して、先にジュピターが口を開いた。

 サディンはほっと安堵の息を漏らす。

 ジュピターたちが問答無用でこの子供を殺すのではないかと、いらぬ心配をしていたようだ。

 ジュピターの方へ踏み出した足は、しかしアイテールの声で遮られた。


「うそつき」


 ピンと場の空気が張り詰める。

 そこにいた誰もが、表情を強ばらせた。


「あのお姉ちゃん、うそつきだ。ほんとはボクのこと、また封印するつもりなんでしょ?」


「お前……っ!」


 慌ててサディンがアイテールの口を塞ごうとするが、既に遅かった。

 アイテールはもう言葉を口にしている。

 アイテールは一層強くサディンの袖口を握り締めた。


「私は……」


 否定しようと口を開いたジュピターだったが、その声は途中で小さくなり消えた。

 アイテールの言葉の魔力。

 ジュピターは今、真実が言えなくなっている。

 如何な言葉を並べ立てようと、虚偽しか口にできないのでは、気持ちを伝えられるはずもない。


「口を挟むなと言ったはずだぞ!」


 怒りが混じったサディンの声に、アイテールはびくっと肩を竦める。

 だが、すぐに拗ねたような口調で異を唱えた。


「だって……」


「頼むから、俺が話し終わるまで待っててくれ」


 アイテールはしばらく口を尖らせて黙っていたが、ようやく一つ頷いた。

 サディンもやっと安堵の表情を見せる。


「ん、良い子だな」


 そう言ってサディンはアイテールの頭を撫でた。

 アイテールは照れたように撫でられた頭に手をやり、片足で地面の小石を転がしている。

 その様子を見て、サディンは再びジュピターたちに向き直った。


「あなた方はこの子供を危険視しているようですが、俺にはそうは思えない」


 サディンがゆっくりと語りだした言葉を、神たちは黙って聞いていた。

 しかし、その表情には多少なりとも驚愕の色が窺える。

 サディンはそれに気付きながらも、話を進めた。


「この子の言葉に力があることは解っています。ですが、それだけで封印するなんて……」


「甘いな小僧。貴様は何も解っていない」


 サディンの言葉を遮り、今まで黙っていたサタンが口を開いた。


「そのガキの言葉一つで、この世界そのものが消滅することもあるのだぞ。

 臭いものに蓋をするようなやり方は、俺様も好かん。だが、そいつだけは別だ」


 いきなり本音を言いだしたサタンに、ジュピターたちの視線が集まる。

 なるべくアイテールを刺激しないようにしてきたのに、急に態度を変えたのだ。

 皆が途惑うのも当然である。


 しかし、サタンのとった行動は、仕方のないことだった。

 アイテールの言葉によって、ジュピターは『うそつき』になってしまっている。

 その状態のジュピターがいくら誠心誠意交渉を行ったところで、信用できるものではない。


 他のメンバーにしても、サタンはアイテールに毛嫌いされているし、実力的に神に劣る天使では、対等に話し合うことすら難しい。

 精神的にまだ未熟なアイテールは、いつ癇癪を起こすか解らない。

 そのときに、力ずくででも押さえ付けられる者でなければならないのだ。


 ならば何故、ルシエルとミカエルがこの場にいるのか?

 アイテールを押さえるためではない。

 別の理由があるからだ。


 そんな四人を睨むように見上げ、アイテールは怒りを露に叫んだ。


「やっぱりそうだ! そうやって、またボクのこと封印するつもりなんでしょ!?

 お前らなんか嫌いだ! ボクの味方はお兄ちゃんだけでいい!」


 アイテールの声が、波紋のように広がっていく。

 それはそこにいる者のみならず、世界中にまで浸透する大きな波となるのだ。


 アイテールは気付いていない。

 己の言葉で、己の立場を危ういものにしていることに。

 過ぎたる能力。

 その力を使いこなすには、彼の精神は余りに幼いのだ。

 それ故、誰もがアイテールを危険視する。

 彼一人を除いては。


「何故……それしか方法がないんですか……?」


 静かにそう言ったのは、サディンだった。

 アイテールを庇うように前に出て、サタンを非難するような目で見つめる。

 その表情には途惑いがあった。少なからず恐怖もあった。

 しかし、サディンはアイテールを擁護する。

 この子の味方になれるのは、自分一人なのだから。


「もう少し、考えていただきたいんです。他に、何か、この子が苦しまなくて済む方法が……」


「無いな」


 必死に言葉を紡ぎ出すサディンを、サタンの一言が遮った。


「言葉を紡ぐ声を奪い、言葉を綴る身体を奪い、言葉を生み出す心を奪えばいいのか?

 はっ、貴様の方が余程残酷だな」


「違う! この子が言葉を選べるよう周囲が教育すれば……」


「待てんな。いつ爆発するか解らない爆弾を抱えていろと? 貴様は良くても、他の連中はその恐怖に耐えられんだろうよ」


 確かに、サタンの言うことは正しい。

 それはサディンも理解している。

 誰もが、いつか来る終末を忌避すべしと思うだろう。

 そのために、危険因子を持つものは排除しようとするだろう。


 だがそれでは、排除される側の意思はどうなるのだ。

 危険な可能性があるから排除しよう。

 それは裏を返せば、必ずしも危険であるとは言いきれない、ということだ。

 アイテールがこの世の滅びを口にするかもしれないと、あるかどうかも解らない未来に怯え、一人の子供の未来を奪おうとしている。

 アイテールがこの世界を滅亡させるかどうかなど、ただの可能性でしかない。絶対であるとは限らないのだ。


 サディンは、それが納得できなかった。

 根拠のない可能性を恐れて、罪もない子供から自由を奪うなど。

 或いは、サディンはアイテールと自分の境遇を、重ねていたのかもしれない。

 かつて、なんら根拠のない可能性を危惧し処刑された自分と、今まさに処断されようとしているアイテールとを。

 アイテールの言葉に操られているだけでなく、そのことも、サディンがアイテールを守ろうとする一因なのだろう。

 サディンは必死にサタンたちを説得しようとする。


「この子に力の危険性を教えて、自分の意思で力をコントロールできるようにすればいいでしょう!? きちんと教えれば、この子は理解してくれる!」


 しかしサタンは、それにすらも耳を傾けない。


「そのガキが理解する前に、貴様が殺されるだろうよ」


 そう言い放ち、軽く指を鳴らす。

 たったそれだけで、アイテールの足下から炎が噴き出した。


「うわぁっお兄ちゃん!」


 咄嗟に、アイテールはサディンに助けを求める。

 幼い彼では、突発的な事態に対処できる言葉を、思い描くことができないのだ。

 すぐ傍にいる、サディンを呼ぶことしかできない。


 サディンはアイテールの声を聞くと同時に、怯みもせずに炎の中に飛び込んだ。

 アイテールを抱えて、立ち上がる業火から飛び出してくる。

 サディンに抱えられたアイテールは、憎しみに満ちた瞳でサタンたちを睨んだ。


 ジュピターたちも同時に動いた。

 最早こうなってしまっては、力ずくでアイテールを黙らせるしかない。

 ジュピターは複雑な表情で、祈るように指を組む。

 サディンの足下から、絡み付くように緑の蔦が生えてきた。

 それは瞬時にサディンの自由を奪い取る。

 その隙に、サディンとアイテールを引き離そうと、ルシエルとミカエルが飛び出した。

 この二人は、サディンを押さえるためにここにいたのだ。


 アイテールを封じることができるのは、サタンとジュピターしかいない。

 その間、サディンが封印術を妨害しないよう、押さえ付けておく役が必要だった。

 それに選ばれたのが、この二人だ。

 なるべくサディンを傷付けないよう、蔦が動きを封じている間にアイテールの口を押さえ、無理矢理引き離すつもりだった。

 しかし、二人がアイテールを捕まえるより、アイテールが口を開く方が若干速い。


「こんな草、枯れちゃえ!」


 アイテールの言葉と同時に、サディンの足を絡めとった蔦は枯れはてた。

 サディンはすぐに蔦から抜け出し、アイテールを抱いたまま後ろに跳ぶ。

 二人の手は空を切った。

 怯えたようなアイテールの声が響く。


「お兄ちゃん、あいつらやっつけて! ボクを守って!」


 その言葉を耳にした全員の顔に、緊張が走る。

 ついに、言われてしまった。

 アイテールからサディンへ、攻撃命令が。


 抗えない言葉の波紋に、サディンの心が揺らされる。

 ルシエルたちを傷つけたくないのに、身体は自然と迎撃態勢になっていた。

 ミカエルたちと戦いたくないのに、頭は如何にして二人を攻撃するかを考え始める。

 心のどこかで止めろと叫ぶ自分がいながら、サディンはアイテールの支配に逆らえなかった。


 とにかく動き回って二人の天使から距離をとり、同時に、動かないジュピターとサタンへの警戒も怠らない。

 サタンとジュピターは、先程からじっとサディンの動きを目で追っている。

 恐らく、何らかの罠があるのだろう。

 追いかけてくるルシエルとミカエルには、サディンに危害を加えるつもりはないらしく、積極的な攻撃はしてこない。

 しかしだからと言って、気を抜くことはできない。

 サディンはアイテールを、守らねばならないのだから。


 一方、ルシエルたちも焦っていた。

 極力サディンを傷付けずに動きを止めたいのだが、それが中々難しい。

 ルシエルは手加減が苦手だし、ミカエルは攻撃そのものが苦手科目なのだ。

 サディンの動きを阻むべく、不可視の障壁を作っているのだが、サディンはそれらをほとんど躱している。


「探査能力を有する者に、障害物は無意味か」


「構いませんよ。とにかく動き回らせて、体力が尽きたところを狙いましょう」


 ミカエルとルシエルは、互いに小声で会話する。

 二対一、しかもサディンはアイテールという荷物を抱えているのだ。

 どちらが先に体力が尽きるかは明白だ。

 そこを狙えば、如何にサディンが体術に長けていようと、逃げることはできないだろう。

 二人は持久戦を覚悟で、手緩くサディンを追い詰めていく。


 サタンたちが動かないのも、それを狙っているからだ。

 サディンという足がなければ、身体が半分封印されたままのアイテールは、満足に動くこともできない。

 そうなれば、多少は楽に封じられる。

 実際、以前アイテールを封じたときは、サタンが押さえ付けてゼウスが術式を発動させたのだ。

 動けないようにしてしまえば、後は言葉にだけ注意を払えばいい。


 しかし、今回ばかりはサタンの失態だった。

 相手が半分封じられた不完全体だと、少しばかり油断していたのだ。

 身体は封じられていても、その口までは封じられていない。

 いくら天使二人がかりで追い詰めていると言っても、完全にアイテールを押さえ付けた訳ではないのだから。

 サディンにしがみ付きながら、アイテールは高らかに言った。


「お兄ちゃんはお前らなんかより強いもん。ぜったい負けないんだから」


 その言葉と共に、サディンの心臓が激しく脈打った。

 身体を駆け巡る血が熱い。

 体内の熱を放出するように、サディンは自らの能力を振るった。

 そのことに最初に気付いたのは、サタンだった。


「しまった! 小僧から離れろ!」


 咄嗟に上げた声に反応して、ルシエルとミカエル、二人の動きが一瞬止まる。

 これまた反射的にサディンたちから距離を取ろうとするが、少し遅かった。

 アイテールによって強化されたサディンの力は、二人を遥かに上回っていたのだ。

 瞬時に紡ぎ上げた糸が、二人の天使に放たれる。

 より強度を増した糸が、二人の腕を、足を、胴を絡め取る。

 はっとして後ろに跳ぶが、既に遅い。

 サディンは片手で糸を思い切り引いた。

 複雑な綾のように絡み合った糸は、ルシエルとミカエルをそれぞれ別の方向へと引きずる。

 滑車の原理を応用し、少ない力でも充分効果を発揮するよう、あの短時間で周囲に糸を張り巡らせていたのだ。


「くっ」

「また……!」


 ミカエルとルシエルの身体は、空中で停止した。

 まるで蜘蛛の巣に引っかかった羽虫のようだ。

 いくら藻掻けども、糸が切れる様子はない。


「あははっ。お兄ちゃん、やったね!」


 ルシエルたちを目にして、アイテールが無邪気に笑う。

 対照的に、サディンの表情は苦渋に満ちていた。

 そんな二人が見ている中、糸に捕らわれた天使たちの姿が、突如炎に包まれた。

 サディンの目が、驚愕で見開かれる。

 巨大な炎はすぐに消え、糸が焼き切れて自由を取り戻したルシエルとミカエルが地に降り立った。

 軽い火傷を負ったものの、それ以外はほとんど無傷だ。

 服についた汚れを払いながら、ルシエルはサタンを睨む。


「もう少し優しい助け方はないんですか?」


 ミカエルも何か言いたそうにサタンを睨むが、当の本人はまるで悪びれた様子もなく肩をすくめた。


「助けてやったんだから文句を言うな。そもそも、捕まる方が悪い」


 ルシエルもミカエルも、それ以上何も言えなくなって押し黙る。

 そんな彼らを見ながら、サディンは思わず安堵の溜息を吐きだす。

 アイテールがそれに気付き、わずかに怒ったような目つきになった。


「お兄ちゃん、はやくあいつらやっつけて!」


「う……っくっ」


 抗い難い破壊的な衝動を抑えようと、サディンは歯を食い縛る。

 だがそんなことでアイテールの支配から、逃れることはできない。

 サディンは再度、天使たちに向かって糸を放った。

 二人の天使もそれを察知して身を翻すが、サディンの糸は意思を持っているかのように二人を追う。


 そこに突如、突風が往き過ぎた。

 突風は鎌鼬のような鋭さを持ち、サディンの糸を切断する。

 ジュピターの放った攻撃だった。

 彼女は無言のままに、祈るような姿勢で戦況を見ている。

 アイテールに真実の言葉を封じられているものの、彼女の力には影響はない。

 サタンと二人、後ろからの援護は完璧だ。

 だが、当然アイテールはそれを許すはずがない。

 どうにか邪魔なサタンとジュピターを排除しようと口を開いた。


「もうっ、じゃましな……」


 しかしそれは途中で遮られた。

 ルシエルが放った攻撃が、サディンの足元へと突き刺さったのだ。

 それを避けようとサディンは素早く背後に跳躍する。

 ルシエルの放った珠は、地面に届くと同時に爆発した。

 爆風がサディンを襲い、彼に抱えられていたアイテールも揺さぶられ、強制的に言葉を封じられたのである。


 アイテール本人を押さえるのは難しいが、要は喋れなくなるような状況を作ればいいのだ。

 そのためには、連続でサディンに猛攻を仕掛け、アイテールの言葉を遮るしかない。

 激しく揺らされると、うまく言葉を紡げなくなるものだ。

 サディンには申し訳ないと思うが、もうそれしかない。


 ミカエルとルシエルは、今までよりもさらに攻撃の手を強めた。

 サタンとジュピターも、ルシエルたちの意図を悟り、積極的に援護をする。

 なるべく傷つけないようにしようとするのだが、サディンの身体は確実に傷ついていった。

 爆風に飛ばされた小石が皮膚を掠め、しなる荊が肌を裂く。

 噴き上がる炎は容赦なくその身を焼き、全身に痛々しい生傷が作られる。

 それでも、サディンが抱えるアイテールには、傷一つついていなかった。

 アイテールの命令通り、彼はアイテールを守っているのだ。

 サディンは苦痛に顔を歪め、荒い呼吸を繰り返し、傷口から流れる血も顧みず、ルシエルたちに襲い掛かってくる。

 ルシエルは堪らず声を張り上げた。


「もうやめてください! これ以上戦ったら、サディンは……!」


 しかし、ルシエルの悲痛な叫びも、アイテールには届かない。


「うるさいなぁっ。お兄ちゃん、やっちゃえ!」


「…………」


 サディンは無言のまま、袖の中に仕込んである針を取り出す。

 それを逆手に握り、ルシエルへと振りかぶった。

 ルシエルに鋭い針が振り下ろされる、刹那。

 ルシエルの周りを透明な障壁が覆った。ミカエルが咄嗟に張った防護壁だ。

 サディンの針は、防護壁に弾かれる。

 体勢が崩れたところを、サタンの炎が襲った。

 アイテールを抱えている腕を焼かれ、サディンは堪らず仰け反り倒れる。

 アイテールも投げ出された。

 ルシエルは咄嗟に、サディンの許へと向かい、彼を抱き起した。


「サディン!」


 名を呼んでも返事はない。

 荒く呼吸をする度、ヒュウヒュウと咽が鳴り、声も出せない程疲弊しているのが解る。

 アイテールによって無理に引き出された力のせいで、サディンの身体はとうに限界を迎えていたのだ。


 動けないサディンをルシエルに任せ、ミカエルは投げ出されたアイテールの確保に向かった。

 そのままアイテールの口を塞いでしまえば、こちらの勝ちだ。

 ミカエルの手が、アイテールに届く。

 サタンもジュピターも、勝利を確信したように口元に笑みを浮かべる。

 だが、ミカエルの手がアイテールを押さえつける直前、悲鳴にも似た声が、アイテールから発せられた。


「動くなぁっ!」


 その場にいた全員が、ぴたりと動きを停める。

 凍りついた時の中、アイテールだけがゆっくりと立ち上がった。

 包帯に覆われていない右目が、鋭くルシエルを射抜く。


「お兄ちゃんを返せ」


 怒りを孕んだアイテールの声が、しんと静まり返った空間に響く。

 サディンを守るように抱きかかえていたルシエルの手が、緩んだ。

 しかし、それ以上離そうとしない。

 必死にアイテールの言葉に抗おうとする。

 だが、それも無駄な抵抗だった。

 アイテールは動かない左足を引きずりながらサディンに近付き、更に言葉を重ねる。


「ボクのお兄ちゃんを返せ!」


 ついにルシエルは、サディンを地面に横たえて手を放してしまった。

 アイテールはサディンの腕を掴んで、立ち上がらせようと引っ張る。

 しかし酷く疲弊しているサディンは、中々立ち上がることができなかった。


「お兄ちゃん、はやく起きてよ」


 アイテールの言葉に急かされて、サディンは立ち上がろうと四肢に力を込める。

 最早自身の身体を支えるのも困難な程、サディンは消耗していた。

 アイテールはそんなサディンを気遣う素振りもなく、早く早くと何度も急かす。


「ほら、お兄ちゃん、何してんの。はやく立って、悪いやつらやっつけてよ。ねぇ……」


「もう止めなさい!」


 アイテールの言葉を遮って叫んだのは、ルシエルだった。

 そのあまりの剣幕に、アイテールも思わず口を閉じる。

 それ程までに、ルシエルの声は真剣なものだった。


「これ以上、サディンを巻き込むのは止めなさい!」


「な……なんだよ! お兄ちゃんはボクの味方だもん! 守ってくれるって言ったもん!」


「あなたがその言葉で、無理矢理従わせているだけでしょう!」


「ちがうもん! お兄ちゃんは……」


「いい加減になさい! サディンはあなたの人形じゃない!」


「…………っ!!」


 アイテールは目を吊り上げてルシエルを睨む。

 片足で地団太を踏み、うーうーと意味不明なことを叫んでいる。

 その様は、我が儘で自分勝手な子供の姿そのものだった。

 悪いことをして叱られているのに、それを認めたくなくて怒っている。


 我慢することを拒み、癇癪を起こした子供というものは、大概が泣いて暴れるものだ。

 それがただの子供ならばいい。だが、アイテールには力があるのだ。

 元々短絡的だったアイテールは、怒りに任せて更に短絡的な行動をとる。

 即ち、自分の気に入らない相手への、暴力。


「おまえなんか……!」


 死んでしまえ。そう言おうとしたのだろう。

 しかし、それは適わなかった。

 ようやく身を起こしたサディンが、アイテールの頬を叩いたのだ。


 小気味良い乾いた音が、余韻を残して消える。

 何が起こったのか解らずに、アイテールはのろのろと己の頬に触れた。

 赤く腫れた頬は、その時になって痛みを訴えだした。

 じんじんと痛む頬を押さえ、驚愕に目を見開き、アイテールはサディンを見つめる。

 アイテールが兄と呼び慕う青年は、駄々をこねる弟を叱るような目をしていた。


 サディンは未だアイテールの支配下にあった。

 しかし、ルシエルとのやり取りでアイテールが放った言葉が、謀らずもサディンにわずかな自由を与えていたのだ。


 アイテールは言った。「悪いやつを倒せ」と。

 『悪』というものはとても曖昧な言葉なのだ。

 何を以ってして悪であると認識するか、確かな基準は存在しない。

 更にその後、「サディンは味方である」と言いながら、直後に「違う」と否定している。

 アイテールにそのつもりはなかったのだが、その矛盾した言葉のお蔭で、サディンを束縛していた「アイテールを守らなければならない」という意識が一時的に消えたのだ。


 アイテールにその言葉を言わせたルシエル自身にも、誘導しようという心算はなかった。

 この場にいる誰もが矛盾した言葉を言わせることで、アイテールを無力化できるなど、知らなかったのだ。

 以前直接アイテールと対峙したことのあるサタンですら、この状況は予想していなかったのだろう。

 アイテールが何もせずに佇んでいるこの好機に、何もできなかったのだから。


 誰もが呆然とする中で、ただ一人、アイテールに動くことを許されているサディンが、ゆっくりと立ち上がった。

 器の許容量を超過する力を無理に引き出された身体は、たったそれだけの動作でも激痛が走る。

 それでもサディンは、言わなければならないのだ。

 過ちを犯そうとしているその子供に。ほんのわずかな時間だったとはいえ、その子を見守ってきたからこそ、言わなければならない。道を正すための言葉を。


「その言葉は言うなと……以前にも言ったはずだ。いけないことだと、教えたはずだ。何故理解しようとしないんだ」


 その声は激しく怒鳴ったりしている訳ではなかった。

 しかし、初めてサディンの怒りの表情を見たアイテールには、まるで鋭い刃物で刺されたような衝撃だった。

 今まで自分には優しかった彼が、自分を叱るなどあり得ないと思い込んでいたからだ。


「だ、だって……だって……」


 ひどく混乱して、言い訳の言葉すら出てこない。

 目の前にいるサディンの姿がぼやけて滲む。

 アイテールの目には、涙が浮かんでいた。


「だって、あいつが……」


「他人のせいにするな」


「でも……お兄ちゃ」

「俺はお前の兄じゃない」


 皆が固唾を呑んで見守る中、サディンははっきりとそう言い放った。

 それは、初めてサディンからアイテールに向けられた拒絶の言葉だった。

 アイテールの目から、一粒の涙が零れる。

 その一粒を皮切りに、アイテールの目から次々と大粒の涙があふれてきた。

 瞳に刻まれているのは怒りか悲しみか。半分を包帯で覆われたアイテールの顔からは、表情が読み取りづらい。

 しかし、アイテールの内に不穏な気配が集中しているのは判る。

 その場にいるサディン以外の者は、緊張から思わず身を固くした。

 そして、アイテールの口から出たのは、最悪の言葉だった。


「お兄ちゃんなんかきらいだ! 死んじゃえ!」


 アイテールの声が、奇妙な余韻を残して消える。

 言葉と共にサディンを襲ったのは、ずっと昔、一度だけ感じた痛みだった。

 抗えない強大な力に押し潰されるような、恐怖を伴う痛み。

 目の前が急激に暗くなる。自分の躰が重く感じた。震える程に全身が寒い。身体中の力が抜け、代わりに錆びた剣で刺し貫かれたような痛みが満ちる。声も上げられず、立っていることもできない。やけにゆっくりと景色が傾ぎ、そして、


 赤く染まる世界。




「サディン!」


 ルシエルの悲鳴が、赤く染まる大地に響く。

 声もなく、音もなく、ただ崩れ落ちるサディンを、ルシエルは受け止めた。

 両腕に伝わる重みと冷たさは、恐ろしい現実を突きつける。

 生を感じさせない虚ろな瞳が、すべてを物語っていた。

 手を濡らす赤い色は、まるで流れ落ちていく彼の命そのもの。

 呼吸も、鼓動も感じない。

 サディンの身体は、完全に動かなくなっていた。


「なんということを……」


 呆然と呟き、ミカエルは膝をついて項垂れる。

 ジュピターは両手で顔を覆い崩れ落ちる。

 隣に立つサタンは、険しい表情でアイテールを見ていた。

 当のアイテールは、涙の余韻を残し肩を上下させている。

 自分が如何に重大な過ちを犯してしまったのか、解りかねている様子だ。

 ただ呆然とサディンを見下ろし、立ち尽くしているだけ。


 誰もが言葉もなく、しばしの間呆然と立ち尽くしていた。

 そんな中、アイテールがおずおずと口を開く。


「お……お兄ちゃん……ボク……」

「黙れ!」


 何事かアイテールが言い掛けたそのとき、サディンを抱えたルシエルが、血を吐くような大声で遮った。

 その声に、アイテールがびくりと肩を竦める。

 アイテールだけでなく、その場にいた誰もがはっと顔を上げてルシエルを注視した。

 わずかに肩が震え、俯いた頬に一粒の雫が伝う。

 それは滴となって零れ落ち、血に染まるサディンの頬を濡らした。

 ルシエルがゆっくりと顔を上げ、アイテールを睨むように見据える。


「お前は、自分が何をしたか解っているのか!」


 ルシエルの声に揺さ振られるように、アイテールの身体が震える。

 アイテールの瞳が、サディンを捉えた。

 青白い顔と対照的な鮮やかな赤のコントラスト。

 どこか非現実的な光景を現実だと理解するのに、時間を要した。


 アイテールの放った言葉によって、サディンは記憶の奥底に持つ死のイメージを増幅させられた。

 天使とは、人間が死した魂。

 そのときの死の記憶が強烈に残っているからこそ、カエルスやアビスの住人にはアイテールの言葉が脅威なのだ。

 人間たちに同じ言葉を放っても、深刻なダメージを負うが最悪の事態までは回避できただろう。


 サディンは首に大きな傷を負い、夥しい量の血を流していた。

 それは彼がカエルスに来た理由、即ち死因とまったく同じ状態を再現している。

 サディンはかつて、祖国の内乱で命を落とした。

 そのときの傷が、アイテールの言葉で再現されたのだ。


 しかし、ここにいる誰もがそんな事情など知らなかった。

 アイテール本人でさえ、本当にサディンが死んでしまうとは思っていなかった。

 精々、痛い思いをするだろう程度にしか、考えていなかったのだ。

 アイテールが、自分にどれだけ危険な力があるのかを把握しきれていなかったことが、この事態を生み出した最大の要因とも言える。

 ようやく現状を理解したアイテールは、その場に座り込んだ。


「だ……だって……だって、知らなかったんだもん」


 震える声で絞り出したアイテールの言葉は、ただの子供らしい言い訳だった。

 知らなかったことなのだから、仕方がない。

 しかし、それで許されるような事態ではないのだ。

 ルシエルは怒りに染まった眼で、アイテールを睨み付ける。


「識らなかったでは済まされないんですよ! お前はサディンを……!」

「だって! 誰も教えてくれなかったじゃないか!」


 アイテールの声が、ルシエルの台詞を遮った。

 アイテールの紅い瞳から再び涙が零れる。


「誰も教えてくれなかった! 何も見せないように、何も聞こえないように、真っ暗なとこに閉じ込めて!」


 アイテールの言葉にはっとしたのは、ジュピターだった。

 彼女も、アイテールという存在がカエルスにいたことを識らなかった。

 知ろうともしなかった。

 それは何故かと問われれば、教えてくれる者がいなかったからだと答えるだろう。


 何か知りたいと思うには、その何かを識っていなければならない。

 識っているからこそ、人は知りたいと思うのだ。

 識らないものを知りたいと思うのは、実はとても難しい。

 だからこそ人は、親から子へ、師から徒へ、己の知った知識を伝えようとするのだ。


 しかしまだ幼いアイテールは、知るという行為自体識らなかったのかもしれない。

 そしてそれを教えることを怠ったのは、ジュピターやサタンやゼウス、大人たちだったのだ。


 今更後悔しても遅い。

 既に取り返しの付かない事態は、起こってしまったのだから。

 ふとサタンに目を向けると、彼も同様のことを考えていたのか、唇を噛み締め苦渋の表情を浮かべている。

 アイテールは未だ泣き顔のまま、サディンの方へと身を乗り出した。


「ウソだよ、お兄ちゃん、きらいじゃないよ。

 今まで言ったの、ぜんぶ取り消すから……」


 乗り出した身体を支えるため地についた手に、サディンの血が付着する。

 アイテールは一瞬そちらに視線を落とし、悲しみに顔を歪ませた。

 ようやく、事の重大性を理解し始めたのだ。


「起きてよお兄ちゃん……!」


 しかし、アイテールの言葉は虚しく響くだけ。サディンが動く気配はない。


「お兄ちゃんは、死なないもん。死んじゃえなんて、ウソだもん!」


 いくら言葉を並べてみても、目の前の光景は変わらなかった。

 どれだけ彼の死を否定する言葉を並べてみても、サディンはまったく動かなかった。


「なんで? 取り消すって言ってるのに、なんで起きないの!?」


 ヒステリックに叫ぶアイテールを見つめるルシエルの眼は、温かいものではなかった。

 いくら幼いと言えど、善悪の区別がつかない齢でもないのに。

 怒りを覚えたルシエルが、つい感情的に口を開くより早く、アイテールの身体が宙に浮かんだ。

 何事かと視線を上げれば、険しい表情のサタンが目に飛び込んでくる。

 サタンがアイテールの首を掴んで持ち上げたのだ。

 こんなにも怒りを顕にしているサタンを見るのは初めてで、ルシエルは思わず息を呑む。


「貴様ほど救えない馬鹿もおらんな」


 驚いて目を丸くしたアイテールに、サタンの叱責が飛ぶ。


「取り消すだと? そんな簡単な言葉で、己の過ちが許されるとでも思ったのか?

 貴様がどれ程強大な力を持っていようと、過ぎ去った刻を戻すことなど出来ん。これは誰にも侵すことのできない、絶対の摂理だ。

 半端な覚悟すら持てないひよっこが、軽い言動に随伴する責任の重さも知らないガキが、遊びで発していい言葉じゃねぇんだ!」


 皆が呆然と見つめる中、サタンは地面に叩きつけるようにアイテールを下ろす。

 首を掴まれていた圧迫が消え、アイテールは激しくむせる。

 涙で濡れた眼を開けば、映るのは血の気を失ったサディンの姿。


「よく見ろ! それが貴様の招いた結果だ!」


 サタンの怒声に、身を切られるような錯覚を覚える。

 アイテールは初めて、心の底から恐怖を感じた。


 サタンに怒られることが恐いのではない。

 目の前の、兄と慕った青年を失うことが、恐かった。

 何か言いたいのに、言葉が出てこない。

 何かしたいのに、どうすればいいのか解らない。

 アイテールにできるのは、ただ涙を流すことだけ。


「お……お兄ちゃん……」


 アイテールは声を上げて泣きじゃくる。

 その姿に、サタンは苛立ちを覚えた。

 泣けば許されるとでも思っているのか!

 思わず振り上げた手は、しかしアイテールに振り下ろされることはなかった。


 駆け寄ってきたジュピターが、サタンの腕を引っ張ったのだ。


「いけません! 怒りに任せて手をあげては、その子のしてきたことと同じです!」


 サタンは目だけを動かしジュピターを見た。

 ジュピターはサタンに縋った手を離そうとはしない。

 しかしサタンも、振り上げた手を下ろそうとはしなかった。


 元よりアイテールを封じるため、サタンはここにいるのだ。

 この絶好の機会を逃すことはない。

 ジュピターとて目的はサタンと同じはずだ。

 それなのに、ジュピターはサタンからアイテールを守るような行動をしている。

 ジュピターはサタンを見上げ、彼女にしては珍しい程に声を荒げた。


「この件の責任は、この子だけで負うものではありません。私たちにも責任はあります。

 私たちは、この子を導かなければならなかったのです。子が道を誤ることを、恐れてはならなかったのです!

 子を守り、教え、導くことこそ、私たち大人の責任なのですから!」


 だんだん大きくなる声を抑えようともせず、ジュピターはサタンの腕に縋りつく。

 真剣に己を見つめるジュピターを目にして、サタンは静かに手を下ろした。


 ジュピターの言っていることは正しい。

 サタンもゼウスも、その昔アイテールの力を恐れて封じた。

 アイテールに悪い影響を与えるもの──この世界の暗い部分を見せないように、聞かせないように、それらを口にしないように。

 その行動は、最善と思われた。

 しかし、諸刃の剣でもあったのだ。


 外界から遮断することで、アイテールに善悪を教えることができなかった。

 悪いことが何故悪いのか、理由も、倫理も、何も教えられなかった。

 子は失敗を繰り返し、失敗を回避する方法を学び、少しずつ成長する。

 心の成長は、失敗なくしては得られないのだ。


 だがサタンが言っていたこともまた正しい。

 しかしそれは、責任というものの意味、重みを知る者にしか解らない。

 何も知らないアイテールが責任を負えなくとも、仕方ないと言えないこともないだろう。


 だがそれでは、とサタンは思う。


「どうすれば良かったんだ? いつ爆発するかもしれない爆弾を抱えて、このガキの親代わりにでもなれと?」


「ふざけないでください!」


 口端を上げて肩をすくめるサタンに、ジュピターは表情を険しくする。


「あなたは、怒りに任せて力を振るうような方ではありません。この子とも、話し合えば解り合えるはずです」


 言いながら、サタンとアイテールの間に割って入る。

 アイテールを背に庇うように立つジュピターを見て、子を守る母親のようだとサタンは思った。


 母性でも目覚めたというのか。この神に創られた人形に。

 ああ、なんて苛立たしい。

 ジュピターそっくりの顔で、ジュピターと同じことを言うなんて。


 一瞬、脳裏を過ったその考えに、サタンは小さく舌打ちする。

 そんなことは、今考えても仕方がない。どうしようもないことでもあるし、関係のないことでもある。

 それでも腹が立つのは抑えられない。

 サタンはあからさまに苛立ちを滲ませた瞳でジュピターを一瞥すると、彼女の細い首を掴んだ。


「俺様を理解したような台詞は止めろ。勝手なことを言いやがって……」


「……!」


 ジュピターの眼が、驚愕で見開かれる。息ができず、喉の奥でひゅっと空気が漏れたような音がした。

 息苦しさよりも先に驚きを感じたせいか、まったく苦しくはない。

 息苦しさが驚愕を凌駕する前に、サタンの手が振り払われた。

 ミカエルが噛み付かんばかりの勢いで、サタンを睨んでいた。

 ジュピターは膝をつき、軽く咳き込む。


「…………」


 サタンは無言でミカエルとジュピターを見下ろした。

 どうしてこんなにも怒りを覚えたのか、自分でもよく解らなかった。

 そう、このジュピターは彼女の父が記憶を頼りに創った、そっくりの人形。

 そんなことは最初から解っていたはずなのに、彼女との相違点を見付ける度に、どうしようもなく苛々するのだ。


 サタンはまた小さな舌打ち一つして、ジュピターたちから目を逸らした。

 先程から妙に落ち着かない気分を紛らわそうと、見慣れた地獄の空を見る。

 しかし視線を動かした瞬間、視界の端に何かが映ったような気がして目を戻した。

 城の方。何か、白いものが……




 時を同じくして、サタンの城の中で、わずかに異変が起きていた。

 何かと問われても、答えられる者はいないだろう。

 敢えて言うなら、何かが孵化する直前の緊張に似ている。

 最初にそれを感じ取ったのは、救助活動から戻ってきたラファエルだった。


 ラファエルは、城から遠い集落へ治療チームを送り届けた後、城の広間へと戻ってきた。

 そこで城を出る前と、帰ってきた後との微妙な違いに気付いたのだ。

 空間を渡る能力を持つラファエルだからこそ、気付いたのだろう。

 城の中のどこかで、空間に罅が入ってきている。まるで、卵を内側から破ろうとしているように。


 しかし、それがどこで起きているのか、ラファエルには解らなかった。

 感じた違和感も微々たるものであったし、連続で移動能力を使用した疲労もあった。

 それ故、自分の勘違いかと思い込んでしまったのだ。


 果たして、このときに何か行動を起こしていたら、この後の事態は変わっただろうか。

 それは誰にも解らない。

 だが恐らく、誰にも、どうにもできなかっただろう。

 空間を割り光の渦から這い出してきたのは、神も魔も凌駕する力の持ち主だったのだから。




 城の中、サタンの部屋の前を、レミエルが走っていた。

 書物を収めた部屋がこの奥にあり、そこにより詳しいアビスの地図がある。それを取りに来ていた。

 サタンからもらった地図と、実際の集落の位置にわずかな違いがあったためだ。

 丁度サタンの部屋の前を通りかかったそのときが、ラファエルが空間に違和感を感じた瞬間だった。


 ぴしっと固い何かに亀裂が入るような、小さな音をレミエルは聞いた。

 何故かそれが気になり、音のした方向に目を向ける。

 部屋の扉の下。部屋の中から外へと向かって、小さな罅割れがいくつも作られていく。

 その亀裂から、光が漏れだしていた。


 気付いたときにはもう遅い。

 亀裂は一気に大きさを増し、まばゆい光が瞳を焼く。

 何かが破裂したような音と衝撃が、全身を襲った。

 いったい何が? 考える前に目の前が真っ白になった。

 身体中に感じる圧迫感のせいで息苦しい。

 為す術なくレミエルの意識は沈む。直前に見たものは、白い髪の子供の姿だった。




 サタンは己の目を疑った。

 城からゆっくりと歩いてくるのは、アイテールとよく似た姿をした子供だった。

 ただし、アイテールは左側を包帯で覆っているのに対し、あちらは身体の右側を覆っている。

 アイテールと対を成す存在、エレボス。

 それが、サタンの封印を破って現れたのだ。


 誰も気付かなかったが、泣き続けるアイテールは小さな声で呟いていた。


「エレボスに会いたい……」


 その言葉が何らかの影響を与えたのかもしれない。

 サタンの部屋の下、空間をねじ曲げて作られた光の牢獄から、エレボスは外へと足を踏み出した。アイテールに会うために。


 サタンの眼光が、より鋭さを増す。

 ジュピターやミカエルたちも異変に気付き、城の方へと目を向けた。


「貴様……俺様の許可なく外に出るとは、覚悟はできているんだろうな!」


 サタンの声に応えるように、エレボスが小さく口を動かす。

 未だ遠くにいたエレボスの姿が消え、刹那の後にはサタンの目の前に降り立った。


「ちょっとどいて」


 サタンが仕掛ける前にエレボスが言う。

 サタンは仕方なく道を開けた。

 エレボスの目に映っているのは、アイテールだけだ。

 アイテールが涙に濡れた顔を上げる。エレボスと目が合った。


「え……エレボスぅ、ボク……」


「うん、知ってるよ。ずっと視てた」


 泣きじゃくるアイテールとは対照的に、エレボスは無表情で近付いてくる。

 まるで感情をなくしてしまったように。

 二人が向かい合うと、鏡像を見ているような錯覚を覚える。

 しかし、二人の表情は真逆だ。これではまるで……


「封印、失敗してたみたいだね」


 エレボスが静かに言う。

 その言葉でサタンは悟った。

 二人に分けて天地に封じた際、偏りがあったのだと。

 即ち、アイテールには感情が、エレボスには知恵が。

 危険視すべきは、感情に任せて力の使い方を知らないアイテールではなく、知恵を持ったエレボスの方だったのだ。


 それに気付いた瞬間に、サタンは足を踏み出した。

 その手がエレボスを捕らえるより先に、エレボスが口を開く。


「触るな」


 その一言で、サタンの手はエレボスに触れる直前で止まった。

 アイテールと違い、エレボスは流れるように言葉を紡ぐ。


「ボクたちを害するものは、すべてボクたちに触れることはない。ここから先はボクたちの一方的な復讐だ」


 外見と釣り合わない、大人びた口調でエレボスは言う。

 その言葉が終わると同時に、サタンが動いた。

 掌の上に生まれた炎を、火炎の渦にして二人の子供に放つ。

 炎に巻き込まれないように、ジュピターたちは咄嗟に跳び退る。

 ルシエルもサディンの身体を抱えて炎を避けた。


「待って! お兄ちゃん連れてかないで!」


 渦炎からアイテールの声が言う。

 その直後、左足を引きずり、炎の中からアイテールが飛び出してきた。

 エレボスの言葉に守られているお陰か、髪の先にすら焼け焦げ一つない。


 アイテールの言葉に引きずられるように、サディンがルシエルの腕から転がり落ちた。

 アイテールは転ぶようにサディンに抱きつく。

 直ぐ様身を起こし、白い服や肌が赤く汚れることも意に介さず、必死に引き寄せサディンの頭を抱え込むように抱き締めた。


「サディン……!」


「もう死んでるんだろうが! 放っておけ!」


 足を止めたルシエルに、サタンの叱責が飛ぶ。

 しかしそう簡単に割り切れることではない。

 ルシエルはサディンを奪い返そうと手を伸ばした。


「届かないよ」


 そのとき、炎の中からエレボスの声が聞こえた。

 途端にルシエルの手は止まり、炎が割れて中から無傷のエレボスが姿を現わす。

 エレボスの左目がサディンを一瞥した。


「このお兄ちゃんにも手出ししないでよね」


 言葉の圧力が、ルシエルを後退させる。

 これ以上サディンの身体を傷つける心配はなくなったが、あの子供たちを捕らえるのが困難であることは変わらない。


 攻撃の手が鈍るルシエルたちに、何度目かになる小さな舌打ち一つして、サタンは間断なくエレボスとアイテールを攻撃した。

 仲間の遺体を気にして本気を出せない天使たちに、子供に暴力を振るうことができない母親面した神。

 頼りにならない味方に苛立ちを覚えては、その怒りの矛先を二人の子供に向ける。


 しかし火炎で焼いても焔は二人を避け、風刃で切り裂いても二人の前では微風になる。氷の槍は溶かされ、溶岩は砂となった。

 エレボスの言葉通り、二人を害するものは決して当たらないのだ。

 一撃も与えられないまま、エレボスから反撃の言葉が紡がれた。


「自分の炎でその身を焦がせ」


 言葉の余韻も消えないうちに、エレボスたちの周りを囲んでいた炎が大きくうねりサタンを襲う。

 咄嗟に身を捩り炎を躱そうとしたのだが、炎は意思を持った蛇のようにサタンを追った。

 サタンの身体は、瞬時に炎に包まれる。

 思わず駆け寄ろうとしたジュピターを、ミカエルが止めた。

 青ざめた顔でジュピターが叫ぶ。


「サタン!」


「なんだっ!」


 返答は、予想外に早かった。

 炎はすぐに掻き消え、そこにはほとんど無傷のサタンが立っていた。

 左手の甲が、少しだけ煤けたようになっているだけだ。



 エレボスの言葉の力で、炎はサタンの身を焦がすまでは消えない。

 サタンはわざと防御術を部分的に弱くして、『身』の一部に焼け焦げの痕を作ったのだ。

 そうなれば、役目を終えた炎を消すなど造作もない。


「俺様がそう簡単にくたばるわけないだろうが。余計な心配をする前に、あのガキどもをどうにかする方法を考えろ」


 高圧的な態度で言うサタンの姿に、ジュピターは安堵の息を吐く。

 一先ずは無事なようだが、それでもいつまで保つか解らない。

 己の身を犠牲にしながらでないと攻撃を防げないということは、いつかは蓄積したダメージで死に至る可能性もあるということだ。

 ジュピターもサタンも、天使たちも皆そのことには気付いている。

 実際、サタンの傷は小さいが、そこから感じる痛みは大きかった。

 一部分とはいえ、焦げて炭化する程の火傷を負ったのだ。

 砂埃を乗せた風が撫でるだけでも痛みを感じる。

 それを押し殺し、サタンは口端に笑みを浮かべた。


「この糞ガキにはキツい仕置きが必要だな。貴様らも黙って見てないで手を貸せ!」


 言うが早いか、サタンは地面に魔力を落とす。

 大地が揺れ、アイテールとエレボスの真下から槍のように岩が立ち上がった。

 しかしそれも二人を直撃することはなく、アイテールとエレボスの間に柱のようにせり上がるのみだ。

 まるで二人の周りだけ空間が歪んでいるようだ。


 サタンに続いてルシエルとミカエルが動く。

 ルシエルの攻撃が岩の槍を砕いた。

 無数の石の雨が、正確にアイテールとエレボスに降り注ぐ。

 ミカエルが二人の周囲に筒状の防護壁を張り巡らせ、瓦礫が落ちる道を作っていたのだ。


 エレボスとアイテールの姿が瓦礫の中に消える。


 だが、動きを封じることができたかというささやかな期待は、瞬時に打ち砕かれた。

 ミカエルの防護壁を突き破り、瓦礫がすべて四方に飛び散ったのだ。

 飛来する石を、ミカエルが咄嗟に張ったシールドが弾く。

 瓦礫の飛礫が治まった後には、やはり無傷のエレボスとアイテールの姿。

 間接的な攻撃でも、二人に届くことはないということか。


 砂煙が風に流され、サタンに向けられていたエレボスの無機質な瞳が、ルシエルとミカエルを捉える。


「ボクの復讐の邪魔をするなら、お前たちにも容赦しないよ」


 エレボスの冷たい声を聞き、二人は身構える。

 どんな言葉が発せられるか、解らないのが厄介なところだ。

 どうしても攻撃の後でないと、回避も防御もできない。

 アイテールのときのように事前に攻撃を防げればいいのだが、エレボスにこちらの攻撃が届かないのであれば、それも難しい。

 何しろ、エレボスたちに『害』のあるものはすべて、あの二人に触れないようにされているのだから。


「どうしようかな……」


 エレボスは品定めするように、二人の天使を交互に見つめる。


「ぼさっとするな! 奴の口を塞ぐことを考えろ!」


 すぐにサタンの叱責が飛んできて、ルシエルはエレボスの足元に光の珠を撃ち出した。

 それは着弾点の土を巻き上げて爆発するが、エレボスもアイテールも爆風に飛ばされる様子はない。

 言葉の力を打ち破るような『何か』が必要なのだ。

 それは恐らく、とても簡単でいてとても難しい。


「そうだ。そこの天使二人は……」


「おやめなさい!」


 エレボスの言葉を、ジュピターが遮った。

 彼女を庇うように立っていたミカエルの前へ飛び出し、エレボスの傍へと走り寄る。

 エレボスと目線を合わせるようにしゃがんで、祈るように胸の前で手を握り締める。


「あなたを封じたのは、私たちです。あの子たちは関係ありません」


「止せ。何を言っても無駄だ」


 ジュピターの声に重ねるように、サタンが吐き捨てる。

 その顔が、先程からいつにも増して青白く見えた気がするが、何のことはない。ただ日が陰り、辺りが暗くなってきているだけのようだ。

 サタンの赤い瞳が魔力を帯び、金色に鈍く光る。


「考えてみろ。話して済むようなら、封じることもなかっただろうが。

 ガキが被害者ぶってりゃ許してもらえると思うなよ」


「お黙りなさい! 私は今、この子と話しているのです!」


 悲鳴にも似たジュピターの叫びが響き渡る。

 何が彼女をそこまで駆り立てるのか。

 自分でもよく解らないが、ジュピターの中の何かが彼女を突き動かす。

 こちらの都合で、自分たちの安全ばかりを考えて、この子供たちを封じることはできない。

 この子たちに罪がない訳ではないが、それは自分たちにも言えることなのだから。


 しかしサタンは違った。

 彼はこの子供の恐ろしさを知っている。

 世界が滅びるということが、どういうことなのかを知っている。

 故に、滅びを招く可能性のあるこの子供を野放しにしておくことが、どれ程危険であるかを知っている。

 だからこそ、ジュピターの言葉に是を感じつつ、完全に肯定できないのだ。

 サタンはジュピターを睨み付ける。


「……何だと? 俺様に命令するのか?」


 静かなる炎の如く揺れるサタンの瞳に、ジュピターの横顔が映る。

 ジュピターは一瞬サタンを見たが、すぐに目線をエレボスに戻した。

 先程とはまったく違う優しげな声音で、彼女はエレボスに言った。


「私は私たちの非を認めます。あなたたちの時間と自由を奪ってしまった罪を、償いたいのです。

 ですから、あなたたちも約束してください。二度と人々を、この世界を脅かすような言葉は言わないと。

 私たちは、共に生きられるはずです」


 そう言ってジュピターは手を伸ばす。

 その指先が、エレボスの手に触れる。

 害なすものは触れないはずのエレボスに、ジュピターの体温が伝わってくる。


「ほら……私たちは、きっと歩み寄れます」


 今やしっかりと握られた左手に、エレボスは視線を落とす。

 無表情だったその顔に、わずかな変化が見られた。目を大きく開き、何か言いたそうに唇が震える。

 単純に、ジュピターが自分に触れられたことに驚いただけかもしれないが。


 例えそうだとしても、ジュピターは確かに手応えを感じていた。

 エレボスにも、こちらの話を聞こうとする意思はあるのだ。


 だが、サタンは黙っていなかった。


「貴様はそのガキが何者か知らんから、そんな悠長なことが言えるのだ!

 何も知らん者が、思慮の足りんことを吐かしやがる!」


 サタンのあまりに一方的な物言いに、今度はジュピターがサタンを睨み付けた。


「私は私なりに考えています。子供の自由な未来の可能性を奪っていい権利など、誰も持っていません。

 この子たちの気持ちも聞かずに、一方的に封じるなど、浅はかです」


「あぁ? そいつは俺様のことを言っているのか?」


 ひくりと顔を引きつらせ、眉間を寄せてサタンが言う。

 こめかみに青筋がはっきり見えている辺り、相当御冠のようだ。


「貴方のことだけを言っているのではありません」


「結局俺様も浅はかだと言っているじゃねえか!」


 大声で怒鳴るサタンに対し、ジュピターも表情に怒りの色を浮かべた。

 エレボスから手を離し、立ち上がってサタンを睨み上げる。


「貴方だけではないと言っているではありませんか!

 皆が互いの罪を認めて許し合わなければ、誰とも和解できなくなってしまいます!

 まずはこの子たちの気持ちを聞くことが第一です!」


「ああそれで全員死ななきゃ許さないとでも言ったらどうするつもりだ? ああ!? 世界が滅びるまで殺し合いでもするつもりか!?

 これだから自分を神だとか吐かす連中は傲慢なんだ! できもしない理想ばかり並べやがって、具体策なんか考えちゃいねぇ!」


「理想を求めて何がいけないのです! 理想は叶わぬと諦めてしまっては、道は閉ざされるのですよ!

 それにこれは実現不可能な理想ではありません! 現に私はこの子の手を取ることができました!」


 ジュピターもサタンも双方譲らず、言い合いながらじりじりと詰め寄り、ついに至近距離で互いの顔を睨み付けながらの舌戦になってしまった。

 その様相はまさしく痴話喧嘩であり、周囲の者は誰一人として口を挟むことができずにいる。


 いや、そもそも戦場でいきなり口喧嘩を始める神と地獄王など、誰が想像しただろうか。

 まさかこんな状況になるなど、誰一人、予想すらもしなかった。

 ルシエルもミカエルも、二人の子供たちまで、ぽかんと口を開けてその様子を眺めている。

 そんな彼らなど最早視界に入っていないかの如く、天地の頂点に立つ二人は口論を続けた。


「最初は貴様も封印に賛成してやがったくせに、今更何だ! 自分の感情でぽんぽん方向性変えられたんじゃ、カエルスの連中はさぞかし苦労してるんだろうな!」


「それは貴方が、この子たちを話も通じない極悪人のように説明したからです! 貴方の情報提供が足りなかったから、私も基本方針が定まらなかったのです! 私が悪いように言わないでください! 心外です!」


「貴様もこのガキと同じで自分の非を他人の所為にするのか!? はっ、そりゃとんだ指導者だな。己の言動に責任も持てないなんてよ!

 俺様が悪いってんなら、望み通りすべて教えてやる! このガキはな、かつて世界を滅ぼした魔王の眷属なんだよ!」


 その言葉に、ジュピターの表情が凍り付いた。

 サタンの言っていることが事実ならば、元通り一人に戻ったこの子供には、誰も力では敵わないだろう。

 だからこそサタンは、この子供を封じることに固執していたのだ。

 もしこの子供が本気で滅びを願えば、それを止められる者などいない。

 昔封印に成功したのも、奇跡のようなことだったのだから。

 あのような奇跡が、何度も起こることはない。

 封印術が解けきっていない今しか、再び封じる機会はないだろう。

 その思いから、サタンは焦りを感じていたのだ。


 世界の滅亡を直接知らないジュピターたちは、サタン程エレボスたちに脅威を感じていなかったのだろう。

 サタンとの意見の食い違いは、そこから来ていた。

 そう、ジュピターは何も知らない。

 彼女の記憶は、父によって植え付けられた紛い物だから。

 だから、サタンが今どんな思いで子供たちを封じようとしているのか、想像もできない。


 知らぬことが罪である、とはよく言ったものだ。

 この子供たちは、サタンにとって故郷を滅ぼした大敵なのに、その敵を庇うような真似をしてしまった。

 さぞかし自分を憎いと思っているだろう。

 しかしそれも、ジュピターの想像でしかない。

 どうすれば、双方が脅かされることなく手を取り合うことができるのか?

 どんなに考えても、上手い策が見付からなかった。


「もうケンカやめちゃうの?」


 ジュピターの意識を思考の海から引き戻したのは、エレボスの声だった。

 見れば、ルシエルとミカエルは何かに押さえ付けられるように、地に伏している。

 どうやら二人が口論に熱中している間に、エレボスにやられたようだ。

 起き上がろうと藻掻いているが、身体は地面から離れない。


「もっとやってほしかったのに。ね、アイテールもそう思うでしょ?」


「…………」


 エレボスが振り返るが、アイテールはサディンを抱き締めたまま首を振る。

 エレボスは肩をすくめてジュピターとサタンに目を向けた。


「ねぇ、そっちのお姉ちゃんは、謝る気はあるんでしょ?」


「……ええ」


 エレボスの問い掛けに、ジュピターは少し躊躇った後小さく頷いた。

 その横で、サタンがこれ見よがしに舌打ちする。

 エレボスは相変わらずの無表情で言葉を続ける。


「お姉ちゃんが謝ってくれるなら、ボクも今日のことは謝るよ」


 その言葉に反発したのは、サタンだった。

 怒りの冷めやらぬ表情でエレボスを見下ろす。


「謝って済む問題か、糞ガキが」


 思わず口を突いて出たその言葉を、エレボスは聞き逃さない。


「それなら、お前らがやったことも、謝って済む問題じゃないよね?」



 エレボスの眼差しは冷たい。

 単に感情が希薄なだけなのか、本気でサタンを憎んでいるのかは、その表情からは読み取れないが。

 何れにせよ、エレボスはサタンを許すつもりはないらしい。

 その昔、己の自由を奪った張本人である。そう簡単に、許せるはずがない。


「それじゃあ、何だ? 俺様に死ねとでも言うつもりか?」


 相手が子供であろうと容赦なく、サタンは冷たく吐き捨てた。

 互いに相手を睨み付ける。

 しかしそれも数瞬しか続かない。

 じっくりと相手の出方を見極めるような戦いは苦手なのだろう。

 子供らしい性急さで、エレボスは口を開いた。


「それは悪い言葉なんでしょ? そんなこと言わないよ。アイテールが怒るもん」


 その意外な台詞に、サタンは眉をひそめた。

 エレボスの前では、一度もそんな話はしていなかったはずなのに。

 だが、すぐに思い直した。アイテールとエレボスは元々同じ身体だったのだから、互いの得た情報を共有できても不思議ではない。

 それよりも気になった点は、エレボスがアイテールの意思を尊重しているということだ。

 知識が乏しく本当の幼子のように振る舞うアイテールより、知識の多いエレボスの方が主導権を握っているように見える。

 しかし、実際は違うようだ。

 人は知識よりも、感情が行動を決定づける。

 それは魔王の眷属たる二人も同じことだろう。

 恐らくエレボスは、アイテールの意思を己の行動の基盤としているのだ。

 封印の際、力のバランスが崩れたのをきっかけに、アイテールとエレボスの間に主と従の関係が出来上がった。そう考えれば合点がいく。


 サタンは脳内で瞬時にその答えを導き出した。

 そして、同時に思いついたことを、一番近くにいたジュピターに伝える。

 声には出さず、己の精神のみをジュピターに投げ渡した。地獄王と名乗るのは伊達ではない。この程度はお手の物である。

 突然頭の中に届いたサタンの意識に、ジュピターも気付いた。

 表情には出さず、サタンの目を見返す。

 二人同時に、無言で意思の疎通を図る。


 だが、故意か偶然か、エレボスが彼らの邪魔をするように口を開いた。


「そうだ。サタンはそのお姉ちゃんとケンカし続ければいいんだ。どちらかが動けなくなるまでさ」


「なに……っ!?」


 エレボスの言葉に動かされ、サタンとジュピターは対峙した。

 二人の表情にはわずかばかりの動揺が見られる。

 ここでジュピターが倒れるようなことがあってはならない。

 彼女には、アイテールを説得してもらわなければならないのだから。


 ジュピターにアイテールを説得してもらうこと。これはサタンが考えたことだった。

 サタンは今でも、あの二人を説得できるとは思っていない。

 ただ、力ずくで抑え込むことができないだろうことも、充分理解している。

 ならば、わずかでも可能性がある選択肢を選んだ方がいい。


 本当に苛立つ、ムカつく、虫酸が走る、策とも呼べないこの博打。

 俺様が意見を曲げてまで選択したこの行動を邪魔しやがって。

 この糞ガキには、後で尻百叩きの刑だ。


 頭の中でそんなことを考えながら、しかし身体はエレボスの言葉に従おうとする。

 ここはエレボスの言葉を逆手にとって、ジュピターに動きを封じる術でも使ってもらおうか。

 ジュピターも同じことを思っていたようで、彼女は封縛の呪を唱え始めた。

 だがエレボスはそれを許さない。


「ちゃんと二人で戦闘してよ。死ぬ寸前まで追い込むくらい激しくさ」


 この糞ガキが!

 心の中で吐き捨てながら、サタンはジュピターに向けて手を振りかざした。

 その掌に青い焔が点る。

 次の瞬間、青く燃える数百の矢が焔の中から放たれた。

 この至近距離では躱すことは不可能。

 だがジュピターも瞬時に印を組む。

 焔の矢が放たれるのとほぼ同時に、ジュピターの前に何本もの大木が立ち上がった。

 樹は太い幹で焔矢を受け止める。

 樹木は焔により燃え上がり、赤い炎の壁となってサタンに立ちはだかった。根元からサタンへと倒れ込む。


 ズンと重い音をたて、炎の壁は大地に倒れ砕けた。

 衝撃と炎の熱風で、砂埃が舞い上がる。

 その中にサタンの姿はない。

 炎の壁が倒れる前に、後方へと跳び退避していた。

 そして瞬時に次の攻撃に移る。


 放たれる閃光、湧き上がる炎柱、吹き荒れる雷撃。

 最高神と地獄王の『喧嘩』は、より激しさを増す。

 ジュピター、サタン共に、表情からは苦渋が窺える。

 だが、エレボスによる言葉の呪縛が、精神に働き掛けるものでなかったことは、不幸中の幸いだった。

 ただ「戦え」と命じられただけで、「憎み合え」とは言われていない。

 もしそんなことを言われていたら、ギリギリの手加減さえできなくなっていただろう。

 危うい均衡を保ったまま、二人の戦いは続いた。


 その『喧嘩』の余波が、観戦者たちを襲っていた。 エレボスたちは言葉によって守られているが、ここで被害を被っているのが天使たちだ。

 エレボスの言葉で地面に磔状態にされている今、飛んでくる喧嘩の余波を躱すことができない。

 どうにかミカエルの防護壁で防いでいるものの、いつ破れるか心配ではある。


「……ミカエル? シールドが弱くなってきてる気がするんですけど?」


 ルシエルが目だけ動かしてミカエルを見ると、彼は険しい表情で短く呟いた。


「話し掛けるなっ! 集中が途切れる……!」


 予想以上に切迫した声に、この喧嘩の凄まじさを知る。

 早く二人を止めさせないと、こちらも地味に限界が来そうだ。

 こんなところで、こんな地味なやられ方をするのはゴメンである。

 ルシエルはどうにかエレボスとアイテールの気を引こうと、二人に向けて声を張り上げた。


「エレボス、アイテール! こんなことはもう止めなさい!」


 ルシエルの呼び掛けに、アイテールはぼんやりと、エレボスは煩わしそうに顔を向ける。


「何?」


 感情が稀薄なエレボスは、喧嘩の観戦を邪魔されたくらいで腹を立てたりはしない。

 ただ少し、邪魔だな程度には感じたのだろう。向けられた目が冷たい。

 対照的に、感情の塊であるアイテールは、わずかばかり怯えの色が窺える。

 サディンのことで責められるのではないかと、警戒しているようだ。


 ルシエルは上から押さえ付けられる圧力に逆らい、必死に顔を上げて二人に語った。


「もう止めなさい。充分でしょう。サディンの他に、また犠牲者を出すつもりですか!」


 ルシエルの口から出た名を聞いて、アイテールがびくりと肩を竦める。

 だがエレボスの方はまったく動じていない。

 表情も変えず、ルシエルを見下ろした。


「そのお兄ちゃんのことは申し訳ないと思ってる。でも、サタンは別。あいつはボクらを閉じ込めたんだもの、許せないでしょ?

 本当はゼウスにも復讐してやりたかったんだけど、もうこの世界にはいないようだし、あのお姉ちゃんに責任とってもらうことにしたんだ」


 大人と子供が混ざり合ったような、安定しない口調は、エレボスの感情が少ないからだろうか。

 ルシエルはふと、そんなことを考えながら、エレボスを見上げた。


「復讐なんかしても、何も変わりません。そんなことをすれば、皆あなたたちを恐れ、また封じようとする。

 今ならまだ、サタンも許してくれますよ。だから、もう止めなさい」


「何故サタンに許しを請わなきゃいけないの?」


 エレボスの声音は淡々としていたが、内心は穏やかではないだろう。

 アイテールのように癇癪を起こさないのは、激昂する程の感情を有していないからだ。

 突然怒って暴言を吐かれないのは助かるが、こうも感情が稀薄だと、こちらの訴えを正しく理解してくれるかどうか。

 かといって知識が少なく思慮の足りないアイテールに訴えても、こちらも正しく理解してくれるかどうか解らない。


 どうする。どうすればいい。

 自問自答を繰り返し、それでもルシエルは有効な答えを見付けられない。

 アイテールとエレボス、二人が同じく、いや、最低でもアイテールが納得してくれるような説得を。

 何故復讐がいけないのか。何故、誰かを殺すことがいけないのか。

 理解しているはずなのに、子供に教えるのはひどく難しい。

 ルシエルは困却して唇を噛み締めた。




 今よりほんの少し前。

 サタンの城の中で、ラファエルは倒れたレミエルに駆け寄った。

 地図を取りに行ったまま戻らないレミエルを心配し、探しに来たのだ。


「レミレミ、どうしたの? しっかりしてよ!」


「う……っ痛……腰打った……」


 ラファエルがレミエルの身体を揺すると、彼女は小さく呻いて目を覚ました。

 どうやら大した怪我ではないようだ。

 ラファエルはほっと胸を撫で下ろす。


「よかったぁ〜レミレミ、死んじゃったかと思ったよ〜。ねぇ、何があったの?」


 ラファエルの問い掛けに、レミエルは痛む腰をさすりながら答える。


「わっかんない……急に、そこから何か出てきて……」


 レミエルが指差す先には、罅割れて穴の空いた通路と、壊れたサタンの部屋の扉がある。

 辺りには瓦礫が散らばっており、他には何も不審なものはない。


 飛んできた瓦礫が背後に当たり、その衝撃で意識が飛んでしまったようだが、その直前、レミエルは確かに見た。

 穴の空いた場所の空間が歪み、そこから白い誰かが出てきたのだ。

 誰だったのか、顔ははっきり見えなかったので解らない。

 だが、あの雰囲気はどこか覚えがある。

 サディンが連れていた、あの白い子供に似ていた気がする。

 レミエルは腰を庇いながらゆっくりと身を起こした。


「ちょっと待って……捜してみる」


 レミエルは城の外へ目を向けた。

 サタンたちがアイテールを迎え撃っているのは、この城から少し離れた荒野だ。

 先程見たものがもし、アイテールに関係するものならば、そこに向かった可能性が高い。

 そう思い、戦場となった場所を遠隔視した。


「…………え?」


 レミエルの口から、小さな声が漏れた。

 己が見たものを疑うように瞬きし、じっと荒野を見つめた。

 動揺を隠せずに瞳が揺れ、緊張から掌が汗ばんでくる。

 そんなレミエルの様子を見て、ラファエルは彼女の顔を覗き込んだ。


「どしたの? 何か……あったの?」


 ラファエルの問いに、レミエルはすぐに答えられなかった。

 口の中が渇き、まるで喉に何かが詰まったように、言葉を発することができなかったのだ。

 レミエルは青ざめた顔で荒野を見つめたまま、やっと声を絞り出した。


「……サディンが……」


「……何?」


「…………し、死んでるの……」


 それを聞いたとき、ラファエルはレミエルの言葉をすぐには理解できなかった。

 数回瞬きをして、ひきつった笑みを浮かべる。


「……うそ……?」


 かすれた声で紡いだ言葉は、およそ現実を受け入れない猜疑の言葉。

 だが、レミエルは首を振ってそれを否定する。


「嘘じゃないわ……だって、見えたんだもの……」


「うそだっ!」


 震える声で言ったレミエルの言葉を打ち消すように、ラファエルは叫ぶ。

 信じたくなかった。それが現実であると。

 きっとレミエルが見間違えたに違いない。

 そう自身に言い聞かせ、レミエルに詰め寄った。


「ねぇレミレミ、うそだよね。見間違えたんだよね、そうでしょ?」


 レミエルは肯定しない。

 ただ目を閉じて、首を横に振るだけだ。

 ラファエルは段々腹立たしくなってきた。

 嘘に決まっているはずなのに、何故レミエルは認めてくれないのか。

 きつくレミエルの肩を掴み、感情の赴くままに彼女を揺すぶった。


「うそなんでしょ? うそだよな? サっちょんが死ぬ訳ないだろ、嘘だって言えよ!」


「痛い……っ、やめてよっ!」


 力を込めるラファエルの手を、レミエルは力任せに振り払った。

 ラファエルは尻餅をつくように倒れる。


 急いで起き上がると、レミエルの眼から涙が零れるのが見えた。

 ラファエルは思わず言葉を呑み込む。


「嘘だと思うなら、自分で見てくればいいじゃない!」


 レミエルはそう言ったきり、両目を覆って座り込んでしまった。

 ラファエルが声を掛けても、返事もしない。

 こうなってしまうと、レミエルは何を言っても聞いてくれない。

 ラファエルは一人で立ち上がり、静かに目を閉じた。


 ラファエルは意固地なまでに、信じている。サディンはまだ生きていると。

 戦場でレミエルが見たのは偽物か、別人か、きっと見間違えたのだ。

 それならば、サディンはどこか別の場所にいるのだろう。

 捜さなくてはならない。そして、無事を確認しなくては。


 それがただの思い込みに過ぎないと、心の奥では解っていても、ラファエルは意思を曲げるつもりはなかった。

 己が一度に移動できる距離の空間を探る。

 ラファエルの、空間を瞬時に移動する能力は、移動先の空間を認識できなければ発揮できない。

 移動先を認識せずに飛ぶと、まったく見当違いの場所に出るか、下手をすれば地面の下や湖の底など、自力脱出も困難な場所に出現してしまう。


 移動先の空間を感知し、その場にあるものは草一本、虫一匹に至るまで把握する。

 それはカストルが持つ探査能力と非常に似ているが、感知できる距離には大分差がある。

 カストルは数千キロ先まで探査できるのに対し、ラファエルは精々、半径数百メートル程度しか感知できないのだ。


 その短い距離の中に、ルシエルやミカエル、ジュピターたちがいるのが判る。

 はっきりと景色が見える訳ではなく、ただその座標にシルエットが立っているように感じるのだ。

 無論そこに、サディンと同じ体格の人物が倒れていることも判る。

 だが、あれは違うと言い聞かせ、ラファエルは己が感知できる限界まで神経を尖らせた。

 少しでも意識を外に向けるため、廊下の端ギリギリまで歩み寄り、壁に身体を押し付けるように密着する。


 もっと遠くまで、もっと、もっと……

 普段の彼からは考えられないくらいの集中力。

 限界以上の力を引き出し、さらに遠方へ意識を向けた。

 能力と共に、己の精神まで遠くへ抜けていってしまいそうな錯覚が、ラファエルの全身を襲う。

 脚の力が抜けそうになりながら、それでもラファエルは、彼方の空間に違和感を覚えた。

 感知できるかできないかの、ギリギリの位置に誰かがいる。

 そう感じた瞬間に、ラファエルはその場所へと瞬間移動した。




 サタンとジュピターの『喧嘩』は、いよいよ激しさを増してきた。

 エレボスの命令のせいではあるのだが、巻き込まれる者としては堪ったものではない。

 ミカエルの防護壁のお陰で、襲い来る爆風もほとんど感じないが、それもいつまで保っていられるか。

 アイテールたちを納得させられるだけの言葉が思いつかぬまま、時間だけが過ぎてゆく。


 その一方で、サタンたちも焦りを感じ始めていた。

 手加減しながら派手に喧嘩するのは、案外難しい。

 ルシエルがエレボスの気を引いているお陰で『手加減するな』という追加命令が出ないのは有難いが、停戦の命令もまた出ない。

 やはりルシエルごときでは、あの子供たちを説得するのは無理なのだろうか。


 まぁ無理だろうな、とサタンは思う。

 ルシエルは子供の相手をするのが、決して得意であるとは言えない。

 しかも、目の前で親友の死を見た後だ。心の裡は穏やかでいられないだろう。激昂して二人を罵ったりしないだけの理性はあるようだが。

 そのルシエルの親友である彼ならば、子供たちを簡単に説得してくれたのだろうが、無い物ねだりをしても仕方ない。

 となると、子供の相手は武骨な男連中よりも、優しい女性と相場が決まっている。


 地の底で王を気取ったところで、なんと無力なことか。

 結局俺様はあのときからずっと、手の届かない処から藻掻くことしかできないのだ。


 サタンの口元に、凄絶な笑みが浮かぶ。

 その覚悟を決めた笑みに、ジュピターの目が奪われた。

 何をする気かと問う前に、サタンの唇が動く。

 声を出さず、唇の動きだけで、サタンは己の意思を伝える。


 止められる者は誰もいない。

 サタンが、手に灯した力を大地に叩きつけるような仕草をするのも、その大地から岩の槍が立ち上がるのも、それがサタンの身体を貫くのも、すべてが一瞬の出来事だった。

 斜めにせり上がった太い岩槍は、サタンの腹を貫通し、赤く染まる。

 円錐状の岩槍に貫かれながら、それでもサタンは口元の笑みを絶やすことはなかった。


 まるで時が止まったような錯覚を覚える。

 サタンの身体が傾ぐのを、ジュピターは瞬きもせずに見つめていた。

 サタンの腹を貫く岩槍が、風化したようにぼろぼろと崩れ落ちる。

 支えるものがなくなったサタンは、為す術なく地面に倒れ臥した。

 ジュピターの中で刻が動き出したのは、その直後だった。


 まるで身を引き千切られるような悲鳴が、ジュピターの口から迸る。

 弾かれたように、ルシエルたちが顔を向けた。

 ジュピターは迷わずサタンの許に駆け寄る。

 サタンの傷口から溢れた血が土を赤く濡らし、膝をついたジュピターの白いドレスを紅く染める。

 ジュピターの口から出たのは攻撃のための呪ではなく、治癒するための祈りの詞だった。


 エレボスの言葉による呪縛が、解除されたのだ。

 サタンは自ら、動けなくなる程の、死に瀕する程の傷を負った。

 エレボスの口からは、自傷を妨げるような言葉は出ていない。

 故にこその、サタンの行動だった。

 こうすれば、少なくともジュピターは自由に動ける。

 彼女に、あの子供たちを任せることができる。しかしジュピターは、サタンの傍を離れない。


「何を、してやがる……さっさとあのガキ共、手懐けてきやがれ……」


「あなたの治療が先です!」


 擦れる声で言葉を紡ぐサタンを、ジュピターが一喝する。

 霞む視界の中で、ジュピターが泣いているような気がした。

 対照的に、サタンは笑みを絶やさなかった。

 決して苦痛を顔には出すまい。

 これはサタンの意地だ。

 だが、その笑みがジュピターに安心感を与えることはない。


「お願い……」


 必死に治癒を続けていたジュピターが、声を絞り出す。

 出血を少しでも止めようと、大きな傷口を手で押さえながら、その瞳はサタンを見ていなかった。


「助けてください」


 震える声で、この世界の最高神である彼女が助けを求めている。人々に、救いの手を差し伸べるはずの神が。


「あなたたちの力が必要なんです」


 その瞳が、声が向けられているのは、小さな二人の子供。


「お願いです。助けてください」


 ジュピターは再度、二人の子供に呼び掛けた。

 その二人……エレボスもアイテールも、ただジュピターに顔を向けたまま、何の反応もない。

 否、反応しないのではなく、できないのだ。

 そんなことを言われたのは初めてで、どうしたらいいのか途惑っている。

 しかし……


「何故……ボクたちがサタンを助けなきゃいけないの?」


 エレボスが徐に口を開いた。

 二人は未だ、過去の怨恨を捨てられないでいる。

 そんな二人に助けを求めても無駄かもしれない。

 だが、サタンの傷は深く、ジュピター一人の力では手に余る。

 より強い力を持つ者が必要なのだ。


「過去の怨恨は、断ち切らなければなりません。でないと、怨みの輪廻は永劫続くことになってしまいます。

 私は、過去にどんな憎しみがあったのか知りません。ですが、これから知っていくことはできます。

 そのためには、互いに歩み寄らねばなりません。そのためには、互いを許し合わねばなりません。

 どうか、私に力を貸してください。私は、あなた方を許します」


 ジュピターの懇願を聞き、エレボスとアイテールは顔を見合わせた。

 彼女の言いたいことは解る。

 それでも、納得できない。いや、納得したくない。

 どうして皆、サタンばかり助けようとして、自分たちを助けてくれないのだ。

 そんなのはずるい。

 そう思ってしまうのだ。


 ただ僻んで拗ねていじけているだけならば、まだいい。

 その感情を憎しみに置き換えてしまったら、この子供たちは躊躇いもせずにサタンを見捨てるだろう。

 だが、互いに顔を見合わせ悩んでいる二人の姿を見て、ジュピターは確信した。

 今ならばまだ、この子供たちと和解できると。


「謝罪も償いもします。私には今、あなた方が必要なのです」


 黙ってジュピターの言葉を聞いていたアイテールが、ゆっくりと視線をジュピターに合わせた。

 彼女の傍には、大嫌いなサタンが倒れている。

 サタンは酷いやつだ。この世界に迷い込んだボクを二つに分けて何千年も封じ続けた。

 でも、ジュピターはそんなサタンを助けようと必死になっている。

 どうしてそんなに必死なのか。どうしてサタンを助けたいと思うのか。

 アイテールにはそれが理解できなかった。


「どうして……サタンを助けようとするの?」


「死なせたくないからです」


「どうして死なせたくないの?」


「彼が死んでしまったら、悲しいからです」


 アイテールの問いに、ジュピターが答える。

 誰も口を挟もうとはせず、二人の問答を見守っていた。

 アイテールの表情が、わずかずつではあるが変化していく。

 アイテールの心が揺らいでいるのが、そのことから読み取れたからだ。

 アイテールは今一度唇を開いた。


「かなしい……って、何?」


 ジュピターは一度、視線をアイテールが抱きかかえているサディンに移した。

 憂いをその瞳に湛え、ジュピターは静かに言葉を紡ぐ。


「その子が……サディンが倒れたときに、あなたが感じたもの。それが、悲しいという気持ちですよ」


 アイテールがサディンの顔に視線を落とす。

 途端に胸中に湧き上がる息苦しさと、背筋を駆け昇る寒気。

 吐きたくなるような胃の痛みと、冷たくなる指先、それとは逆に目の奥は熱くなる。

 恐怖にも似たこの感覚。これが……


「……わかった。なんて言えばいいの?」


 思わず溢れそうになる涙を拭い、アイテールが神妙な面持ちで顔を上げる。

 初めて見せてくれた協力的な態度に、ジュピターの口元には笑みが浮かんだ。


「サタンの傷が治るようにと」


 アイテールはジュピターに促されるまま言葉を紡ぐ。

 すぐにサタンに変化があった。

 完全に切れていた内臓、血管、筋繊維が見る見る繋がり、抉れた肉が盛り上がってきて最後に皮膚が再生される。

 ほぼ一瞬のうちに、サタンの傷は跡形もなく完治した。

 ここまで瞬時に、綺麗に怪我を治すことなど、かつて治癒の大天使と謳われたリリスでも不可能だっただろう。


 サタンがゆっくりと身を起こす。

 流れ出た血液が戻っていないためか、顔色は悪い。

 しかしそれも、数日もすれば回復するだろう。

 複雑な表情で黙っているサタンに代わり、ジュピターがアイテールたちに笑みを向けた。


「ありがとうございます」


「…………」


 アイテールは少しばかり照れたように首を竦めた。

 ありがとうという言葉が、嬉しくてくすぐったい。

 アイテールがジュピターに心を許したからだろう。エレボスの表情も、幾分和らいで見える。


 ジュピターは徐に立ち上がり、アイテールの傍へと歩み寄った。

 膝をついて座り、静かにアイテールに抱かれたサディンの手を取る。


「……さあアイテール、もうお兄様を眠らせてあげましょう」


「…………」


 アイテールはしばらく躊躇っていたが、ついに小さく頷いた。

 いつまでも、荒涼とした地面の上に、サディンを寝かせておけない。

 アイテールとエレボスはジュピターの指示に従い、ルシエルたちを解放した。

 次いでサディンをサタンの城へ運ぼうとしたそのとき、突然頭上から声が降ってきた。


「待って!」


 思わず空を見上げた皆の目に飛び込んできたのは、空間移動してきたラファエルと、彼に支えられた壊れかけのカストルだった。


「待って! サっちょん、まだここにいるんだ!」


「それは……どういうことですか!?」


 叫びながらラファエルが降りてくる。

 真っ先に飛び出したのはルシエルだった。

 ラファエルに支えられたカストルは、とても大切な何かを守るように己の肩を抱いている。

 カストルは何を守っているのか。

 ルシエルたちには見えなかったが、そこにいることは解った。

 サディンの魂が、カストルの中にいることが。




 つい先程のことだ。

 ラファエルが、戦場となっている荒野のさらに向こうに、何者かの気配を捉えてそこに向かった。

 そこで見たのは、岩場の陰にじっと身を潜めるカストルの姿だった。


「カーたん? なんでこんなとこにいんの?」


 ラファエルの呼び掛けに、カストルはわずかに顔を上げるが、それ以上は何の反応もない。

 カストルは人形で、痛みなど感じないはずなのに、まるで痛みを堪えるようにじっと蹲り震えている。

 それは来たる最期に怯えているようでもあり、大切なものを守ろうとしているようでもあった。


 カストルがサディンの傍を離れることなど、滅多にない。

 まして、戦いの最中にサディンを残して逃げることなど、絶対にあり得ない。

 ならば何故、カストルはこんな処に一人でいるのか?

 ラファエルは瞬時に思い至った。

 サディンが、ここにいるからではないかと。


「サっちょん、いるの?」


 周囲を見回しても、サディンと思しき人影は見当たらない。

 気配を捉えようと意識を展開しても、サディンの姿はどこにもなかった。

 しかし、代わりに妙なことに気付く。

 目の前にいる、カストルの座標がぶれているのだ。

 そう、まるで同じ座標上にもう一人いるような……


「もしかして……」


 ラファエルはカストルを見遣る。

 カストルが大事そうに抱いているもの。

 ラファエルには見えない。だが、恐らく間違いない。

 サディンの魂が、そこにいる。


「……サっちょんなの?」


 ラファエルの声に、カストルは小さく頷いた。


 サディンは賭けていたのだ。誰かが気付いてくれることに。


 己の死を予感したのか、サディンはそのときに備え、カストルを予め体外に出しておいた。

 カストルの探査能力なしで、ミカエルたちの攻撃を避け続けられたのは、サディンが細く紡いだ糸を張り巡らせ、センサー代わりにしていたからだ。

 そのため力を使いすぎて、早めに体力の限界が来たのだ。

 かといって、カストルを体内に留めたままでも、死は免れなかっただろう。


 自分の魂を自らの意思で他の器に移せるのは、サディンくらいしかいない。

 カストルという、魂の一部を共有した分身がいるからこそ出来る芸当だ。

 予備の器を持つミカエルですら、器替えは自由に行えない。


 サディンは致命傷となる攻撃を受けた後、瞬時にカストルの器の中へと魂を逃げ込ませた。

 それがカストルへ相当な負担を掛けることと知りながら、それでもサディンは生きたいと願ったのだ。

 大切な仲間がいるこの時の中で生きたいと。




 ラファエルは大急ぎでカストルを連れて空間移動した。

 カストルの器に、サディンの魂は大きすぎる。

 このまま放置すれば、器もろとも魂まで崩壊してしまう。


 他人の器に魂を入れるなど、本来ならば器に負担がかかるため、短時間しかできないことなのだ。


 いくら二人の繋がりが強いとはいえ、カストルの器は、サディンの魂を抱え続けられる程、強くは創られていない。

 あくまでもカストルはサディンの一部を与えられた従属であり、本体はサディンなのだ。

 そのため内包した魂に器が耐えきれず、カストルは徐々に崩壊を始めていた。

 早くサディンの魂を戻さないと、二人とも消滅してしまう。


「ジュピター様、早くサっちょんを助けて!」

「お願いします、サディンを!」


 天使たちに急かされ、ジュピターがカストルを見る。

 しかし……


「……できません」


 静かに、ジュピターは首を振る。


「何故です!?」

「どうして!?」


 詰め寄る二人をミカエルが抑える。

 ミカエルはよく知っていた。

 魂の離れた天使の器が、どれ程脆弱になるかを。

 彼らの視線を受けとめて、ジュピターは沈痛な面持ちで口を開いた。


「既に、器の崩壊が始まっています。この状態で魂を戻しても、二度と目覚めることはありません」


 サディンの器から流れる血が、どす黒く変色してきている。

 器の内側から、徐々に腐り始めているのだ。

 こうなると、もうこの器は肉体として機能しないだろう。

 そして、サディンはミカエルと違って、器の替えを創っていない。

 今から創るなど、到底間に合わない。


「そんな……」


 サディンもカストルも、必死に魂を留めようとしているのに、自分たちには何もできないなんて。

 遅すぎたというのだろうか。目の前の敵に気を取られ、大切な仲間が助けを求めていたことに気付かなかったから。

 力ずくで場を収めようとした、愚かな考えの報いがこれだというのなら、それはあまりに残酷だ。

 報いを受けるべきは、アイテールを守ろうとした彼らではなく、一方的に幼子を恐れた者たちの方ではないか。


 誰もが言葉もなく、ただ項垂れている。

 そんな中、怖ず怖ずと声を上げたのはアイテールたちだった。


「……ボクが言ったら、お兄ちゃん助かる?」

「可能性は低いけど、やってみなきゃ判らないよ」


 二人の子供は手を繋いで頷いた。

 どちらからともなく口を開き、祈りと願いを言葉に乗せる。

 二人の声が、同じ言葉を紡いだ。

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