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 ミカエルたちがアビスを訪れる半日前、アイテールとサディンはカエルスの外を歩いていた。


「ねぇお兄ちゃん、エレボスどこにいるんだろうね?」


「さぁ……少なくとも、カエルスでそんな名前は聞いたことないな」


 サディンは雲のような地面を、アイテールの手を引いて歩いていく。

 アイテールは動かない左足を引きずりながらも、サディンにしっかりとついていった。

 いや、サディンがアイテールのペースに合わせているのだ。

 アイテールはそれに気付かず、小さく唸って首を傾げた。


「カエルスにはいないの? じゃあ、どこにいるの?」


 サディンは困ったように笑ってアイテールの顔を覗き込む。


「そうだなぁ……カエルスにいないなら、地上か、アビスにいるんじゃないか?」


「アビス……?」


 サディンの言葉に、アイテールは眉をひそめた。

 アビスという名に、どうしようもなく苛立ちを覚えるのだ。

 アイテールの表情の変化に気付いたサディンは、彼の前にしゃがんで肩に手を置く。

 アイテールは虚ろな目でサディンを見つめた。


「どうしたんだ?」


 サディンは小さく首を傾げてアイテールを見やる。

 アイテールは、何やらぶつぶつと呟きながら小さく頷いている。

 サディンの方を見つめていながら、サディンの存在が目に入っていないかのようだった。


「アビス……そう、アビスだ。ボクが最後に見た……アビス、アビス、アビス。あの男、サタンが僕を閉じ込めてるんだ」


 アイテールの瞳が、剣呑な光を放つ。

 サディンは背筋に冷たいものを感じ、思わず息を呑んだ。

 この子供と一緒にいては危険だと、頭の中で声がする。

 しかし、サディンはアイテールから離れようとはしなかった。

 アイテールの肩を揺さぶり、自分の方へと注意を引き付ける。


「どうしたんだ? 何か、解ったのか?」


 先程よりも強い口調で話し掛けると、アイテールはあっさりサディンに目を向け、二、三度瞬きを繰り返した。


「お兄ちゃん、何?」


 まるで同一人物とは思えないくらい、あどけない声。

 先程までのアイテールは何かが乗り移ったのではないかと思う程、暗く冷たい目をしていたというのに、今は外見の年齢に相応しい無垢な瞳をしている。

 サディンは途惑いを表情に出さないよう、努めて明るく振る舞った。


「いや、何でもないんだ。エレボスの居場所が解ったかもしれない」


「ほんと?」


 アイテールは無邪気に笑う。

 サディンはアイテールの動向に注意しながら、慎重に口を開いた。


「恐らくだけど、アビスに関係してるかもしれない」


 再びアビスの名を聞いて、アイテールが何か別人のようになってしまうのではないか、という思いは杞憂に終わった。

 彼は無邪気な笑顔のまま、サディンを見上げる。


「アビスにいるの?」


 内心胸を撫で下ろしながら、サディンは曖昧に頷く。

 先程のアイテールの呟きから、アビスとサタンという単語が聞き取れた。

 あの地獄王が、何らかの関わりを持っているのかもしれない。

 それはサディンの予想に過ぎなかったが、アイテールは嬉しそうに笑う。

 サディンの手を引いて、早く行こうと促した。


「早くアビスに行こうよ」


「ああ、でも道が……」


 ない、と言おうとしたサディンの言葉を遮り、アイテールは近くの地面を指差した。


「もうすぐそこに道、できるよ」


 その言葉が終わると同時に、目の前の地面に変化が起こった。

 ぽつんと黒い染みのようなものが現れ、それが徐々に広がって赤黒い穴になっていく。

 その穴を隠すように、周囲の霧が濃くなった。

 サディンは思わず身構えるが、その穴から地獄の獣たちが出てくる様子はない。

 アビスへの道は、人一人分程の大きさまで広がり、膨張を止めた。

 まるで、ここからアビスへ行けとでも言うように、赤黒い闇は静かに渦巻いている。


 サディンは目の前に現れた道を呆然と見やる。

 そして道の出現を言い当てたアイテールにも目を向けた。

 アビスへの道は出現に規則性はなく、今まで誰も予測できた者はいなかった。

 それなのに、この子供はあっさりと道の出現を言い当てたのだ。

 何か、自分の知らない特殊な能力があるのだろうとは思うのだが、それがどんな力なのかは解らない。

 預言の力でもあるのだろうか。


「お兄ちゃん、行こうよ」


 考え込んでいたサディンの手を、アイテールが引っ張る。

 しかしサディンは注意深く道を見ながら、未だ動こうとはしなかった。

 以前、この道でアビスに行ったときは、無数の腕のような触手に攻撃された挙げ句、上空から放り出されたのだ。

 触手の攻撃くらいならどうとでもなるが、空中に放り出されたらどうしようもない。

 サディンの背には、翼がないのだから。


「……大丈夫なのか? これ、アビスの天井に繋がってるんだろう?」


 眉をひそめて言うサディンに、アイテールは焦れたように叫ぶ。


「大丈夫だよ! いいから行くの!」


 アイテールの声を聞いて、サディンはようやく歩きだした。

 この子がそう言うなら大丈夫なのだろう。

 根拠はないが、何故かそう思えるのだ。

 サディンとアイテールは、一緒に穴の中へ飛び込んだ。


 風の流れる音が耳をかすめていく。

 赤黒い壁がものすごい早さで上へ上へと昇っていき、逆にサディンたちは下へ下へ落ちていく。

 やがて赤黒い壁は唐突に終わり、急速に視界が開けた。

 赤茶けた土が覆う空、荒れた大地、黒々と広がる森に濁った湖。

 遠くの山は煙を噴いていた。


 サディンがアビスを訪れるのは、これで二回目。

 しかし、最初に見た景色とは大分違っていた。

 道の出口が違うからだろう。

 あのときは、眼下には荒野が広がり、遠くに湖が見えた。

 今は、下には広大な森があり、遥か彼方に湖らしきものが見える。

 それらの景色を冷静に見つめてから、サディンは唐突に我に返った。


 ああ俺、今、すっごい落ちてる。


「全然大丈夫じゃないじゃないか!」


 サディンの叫びを聞いて、手を繋いで一緒に落ちているアイテールは首を傾げた。


「え? なんで?」


 本気で言っているのかとぼけているのか、アイテールはぱちくり瞬きする。

 ボサボサだった髪が、風に煽られてさらに方々へ翻っていた。

 一瞬、アフロになったらどうしよう、などといらぬ心配がサディンの頭を過ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


「俺は羽をなくしたから飛べないんだ! このまま落ちたら死んじゃうだろ!」


「うそっ! お兄ちゃん、死んじゃうの?」


「二人ともだ!」


 こうして言い合っているうちにも、地面はどんどん近付いてくる。

 それでもまだ遠いが、このままではいずれ墜落死してしまうだろう。

 何かないかと、サディンはあちこちに目を向けた。


 その目が、こちらに向かって飛んでくるあるものを捉えた。

 大きな羽を翻し、一直線にこちらに向かってくる。

 それは天使でも悪魔でもなかった。

 長い首に金の鱗、翼膜の張った翼と、首と同じくらい長い尾。

 腕はなく、鉤爪の付いた脚が二本ある。


「うそだろ……」


 サディンは呆然と呟く。

 こちらに向かって飛んでくるのは、本でのみしかその姿を見たことがない、飛竜だった。


 空を飛ぶことに特化した竜種で、前脚は退化し、後ろ脚で二足歩行する。

 竜種に見られる、炎や氷の吐息はなく、主に鋭い鉤爪や嘴で攻撃してくる。

 獰猛ではないが、肉食で鳥などを捕食する。

 図書館で読んだ本の内容が、脳内にそっくりそのまま蘇った。

 恐らく、あの飛竜はサディンたちを餌だと思っているのだろう。

 墜落死する前に、飛竜に食われてしまう可能性が出てきた。


 近付くにつれ、それは大きさを増す。

 最初は小鳥程に感じた姿も、今ではサディンが両手を広げるより大きい。

 しかし、アビスというところはどうしてこうも幻想世界の生き物が住んでいるのか。

 ここから地上に迷い出たものを人間が目撃し、そのため様々な幻獣伝説が世界各地に散らばっている訳で。

 その伝説の基となる生物を拝めたことは、幸運と言うべきなのだろうか?

 サディンはふと、そんなことを思った。


 しかし、これはチャンスでもある。

 あの飛竜を上手く利用すれば、墜落も捕食も免れるかもしれない。

 サディンは自由に身動きのとれない空中で、飛竜からアイテールを庇うように前に出る。

 飛竜は間近に迫っていた。


 飛竜が大きく口を開けて飛び掛かってくる。

 片手で上顎を叩き、その手を支点にアイテールを背負ったまま、飛び上がるように飛竜の背に逃れた。

 背中に乗せた異物が気に入らなかったのだろう。

 飛竜は大きく羽ばたき上昇する。

 縦に大きな輪を描くように飛び、頂点にまで昇るとわざと身体をくねらせ、サディンたちを振り落とした。


 思わず手を離したサディンは、アイテールと一緒に投げ出される。

 旋回して戻ってきた飛竜が、再びサディンに突っ込んだ。

 どうにか身を捻って牙を躱したつもりだったのだが、服の裾が嘴の端に引っ掛かってしまった。

 急に引っ張られて、風圧がサディンとアイテールを襲う。

 サディンとアイテールの手が、耐えきれずに離れる。


「ああっ」


「お兄ちゃん!」


 二人の声が離れていく。

 飛竜はサディンだけでも持ち帰るつもりのようだ。

 落ちるアイテールには目もくれない。


 サディンは急いで飛竜の首に掴まった。

 嘴に引っ掛かっている裾を、強引に引き千切る。

 飛竜の翼の付け根に脚を掛け、飛竜の背によじ登った。

 飛竜は再度背の上のサディンを落とそうとするが、それより先にサディンが仕掛けた。


 サディンの指先から、細く長い糸のようなものが紡ぎ出される。

 それは体内の気の力で紡いだ、不可視の糸だ。

 その糸はサディンの意思に従い、飛竜の身体に巻き付いていく。

 すべての糸が飛竜を絡め取るのは一瞬だった。

 糸でサディンと繋がった飛竜は、今までの動きが嘘のようにおとなしくなる。

 サディンが軽く糸を引くと、飛竜は方向転換してアイテールの許へ向かった。

 飛竜の飛行速度は速く、すぐにアイテールに追い付いた。


「お兄ちゃーん!」


 大声で叫ぶアイテールを、空中で捕まえる。

 サディンは片手でアイテールを抱きかかえたまま、糸を操り飛竜を近くの森に降ろした。

 サディンたちは飛竜から降り、森の木陰に隠れる。

 サディンが糸を切ると、飛竜は辺りを見回してから、何事もなかったように飛び去っていった。


 切れた糸は、するするとサディンの手の中に消える。

 この糸こそ、サディンが持つ能力なのだ。

 この糸で繋がったモノを、意のままに操る能力。

 物だけでなく、自我の弱い者をも操ることができる。


 飛竜の姿が完全に見えなくなってから、サディンとアイテールはその場にへたり込んだ。

 どっと疲れが押し寄せてきて、サディンは深く深く溜め息を吐く。


「ああ、死ぬかと思った……」


「怖かったぁ〜……」


 二人でそれぞれ呟き、身を寄せ合って座る。

 今まで気付かなかったが、辺りは暗くなり始めていた。

 もうすぐ日が沈む。

 黒々と葉が茂る森の中では、更に日暮れは早い。

 いつまでもここにいる訳にもいかず、サディンは立ち上がってアイテールを抱き上げた。

 森の中には獰猛な地獄の獣がうろついている危険性がある。

 片足が動かないアイテールでは、いざというときに咄嗟に動けない。

 多少骨は折れるが、サディンが抱えて歩くしかないのだ。


「お兄ちゃん、これからどこ行くの?」


 アイテールが更にボサボサになった髪を弄りながら訊ねる。

 サディンはアイテールの髪を直してやりながら答えた。


「サタンの城だな。アビスのことを訊くなら、やはりサタンを訪ねないと」


 サディンはまっすぐに歩いていく。

 見知らぬ地でありながら、その足取りに迷いはない。

 サディンの中にいる、カストルの能力のためだ。

 カストルには、探査能力が備わっており、一度会った相手ならば、正確な位置を知ることができる。

 サタンのいる城まではかなり遠かったが、どうにか歩いて行くしかないだろう。

 先程の飛竜に乗って行けばすぐに着いたかもしれないが、あまり目立つことは避けたかった。

 飛竜よりも凶悪な地獄の獣に見付かったら厄介だ。

 そうなったら、今度も上手く操れる保証はない。


「まぁでも、サタンの城に行く前に、安全に休める場所を探さないとな」


 サディンは早くも黒に染まりつつある空を見上げた。

 この深い森の中を、夜に歩くのは危険だ。

 何より、子供を抱えたまま夜通し歩き続けられる程、体力に自信はない。

 サディンはアイテールを抱え直し、休める場所を探して周囲に目を向けた。


 幸い、近くに獰猛な獣の気配はなさそうだ。

 しばらくうろついてみると、幹に大きな空洞がある大木を発見した。

 まあまあの広さだ。ここでなら休めるだろう。

 サディンはアイテールと一緒に、木の下に潜り込んだ。


「今日はここで休もう。明日の朝、サタンの城へ出発だ」


「はぁい」


 アイテールは素直にサディンの隣に座り、寄り添うようにして目を閉じた。

 その右手はサディンの手を握っている。


「どこにも行かないでね。一緒にいてね」


「解ってるよ。おやすみ」


 サディンが優しく頭を撫でてやると、アイテールは安心したように静かな寝息をたて始めた。

 やがてアイテールが完全に眠った頃、サディンの中で変化が起こった。

 それはこの状況に対する疑問、不安、疑念。

 今まで当たり前のようにアイテールの隣にいたことが、おかしなことのように思えてきたのだ。


 何故自分はここにいる?

 何故この子供についてきてしまったのだ?

 この子供は誰なんだ?

 何故今まで、そのことを考えなかった?

 疑問にすら思わなかったのは、何故?


 今まで麻痺していた思考が、一気に蘇ってきたかのようだった。

 サディンは片手で頭を抱え、背を丸めて膝に顔を埋めた。

 得体の知れない子供と二人きりでいるこの状況が、急に怖くなった。

 ゆっくりと息を吐き出し、気分を落ち着かせる。


 サディンはまず、何故ここまでついてきてしまったのかを考えた。

 この子供に無理矢理つれてこられた訳ではない。

 自分の意思でこの子供と共にいたのだ。


 それこそが最大の疑問点だった。

 本来ならば絶対にしないはずの行動を、自らの意思で起こしている。

 何かがあったのだ。思考を麻痺させるような何かが。

 それが解れば、この状況を打開する足掛かりになるだろう。


 サディンは頭の中で、この子供と出会ったときのことを思い出した。

 あのときは、この子供から攻撃を受けたのだ。

 右脚をざっくりと切り裂かれ、一度意識を失った。

 そこが腑に落ちない。

 あのとき、この子供は攻撃するような仕草をしただろうか?

 しかし、どんなに思い返してみても、そんな場面は見付からない。

 それどころか、子供には触れてすらいなかったのだ。

 つまり、少なくともこの子供は、物理的な方法を用いずに、他人に危害を加える手段を持っているということになる。

 それは何なのかと考え込み、サディンはふと、ある可能性に気付いた。

 それを当てはめて考えてみると、今まで解らなかったことにも説明がつく。

 それはサディンの推論に過ぎなかったが、それ以外にこの状況をつくりだす方法は考えられなかった。


 サディンはその推論を確信に変えるため、カストルを呼び出した。

 魂の一部が分離して、サディンの外で形となる。

 小柄な人形が、サディンの前に現れた。

 魂の一端が繋がっているため、声に出さずとも互いの意思は手に取るように解る。

 サディンはしばらく無言のままにカストルと言葉を交わし、先程の推論が正しかったことを確信した。


 次にやらなければならないのは、この状況を打開するための行動だ。

 サディンはそのために、カストルを別行動させることを決意した。

 カストルがサディンを励ますように、軽くサディンの肩を叩く。

 それに応えるように、サディンは笑みを浮かべた。

 そしてカストルは一人、外へ飛び出した。

 そのまま遠くへと走り去っていく。

 カストルの後ろ姿を見送り、サディンは静かに目を閉じた。




 翌朝、サディンが目を覚ますと、アイテールは隣でまだ眠っていた。

 辺りはもう明るくなっている。

 外に出ようとして、左手が引っ張られた。

 どうやら、一晩中アイテールに手を握られていたらしい。

 起こさないようにそっと手を外し、サディンは外に這い出した。

 カストルがいないため正確なことは言えないが、近くに地獄の獣はいないようだった。


 安心して振り向くと、目の前にアイテールが立っていた。

 思わずびくっと肩を震わせ、一歩後退る。

 アイテールは俯いているため、その表情は陰になっていてよく見えない。

 呼吸一つ分程の間を置いて、サディンはアイテールに声を掛けた。


「……お、おはよう。よく眠れたか?」


 しかしアイテールは答えない。

 緩慢な動作で顔を上げ、サディンを見上げる。

 血の色の瞳が、ぬらりと光ったように見えた。


「お兄ちゃん、何で一人なの?」


 その言葉にぎくりと身を強ばらせる。

 アイテールはサディンとカストルが分離するところを見ていないはずなのに、そのことを知っているのだろうか。

 サディンは強ばった笑みを浮かべて、首を傾げてみせた。


「な、何のことだ?」


「昨日は、お兄ちゃんの中にもう一人いたのに、今はいなくなってるよね」


 やはり、この子供はサディンとカストルが別れたことを知っている。

 しかし、そのときは確かに眠っていたはずなのだ。

 何らかの力で、内包している魂を見分けることができるのだろうか。

 サディンは咄嗟に嘘をついて誤魔化した。


「あ、ああ、それなら、周囲の見回りに行ってもらってるんだよ。また変な生き物に襲われたら大変だから……」


 嘘だと気付かれて責められるかとも思ったが、アイテールはあっさり納得してくれた。


「じゃあ、戻ってきたら出発するの?」


「いや、待たなくても平気だから、すぐに出発しよう。大丈夫、俺の居場所ならすぐ解るようになってるから」


 サディンは早口気味に言ってアイテールの手を取った。

 アイテールは手を引かれながら、ゆっくりと歩きだす。

 カストルを待つ訳にはいかない。

 カストルが戻ってきてしまったら、意味がないのだから。


 サディンは歩きながら、近くに食べられそうなものがないか探した。

 昨日からほとんど何も口にしていない。

 しかし、この森にはの木々には、果実が実っていなかった。

 鳥でもいれば捕まえて食べることもできるだろうが、森の中に生き物の気配は感じられない。

 まさか得体の知れない草を食べる訳にはいかないだろう。

 毒草だったら堪ったものではない。

 せめて水くらい欲しかったが、付近には川のせせらぎすら聞こえなかった。


「お兄ちゃん、お腹すいたね」


 アイテールにそう言われると、一層空腹感が増したように思える。

 サディンは困ったように笑って、自分の腹に手を当てた。


「そうだなぁ……サタンの城に着いたら、何か食べさせてもらえるさ」


 何の気はなしにサタンの名を口にしたとき、アイテールはすっと目を細めて呟いた。


「サタンがそんなことしてくれるはずないよ。あいつ、いじわるなんだ。ボクたちを閉じ込めて、ひどいやつらなんだ、あいつら。サタンなんか嫌いだ。悪魔なんか嫌いだ」


 初めは呟くように言っていた声が、徐々に大きくなる。

 サディンは歩を止めて、驚いたようにアイテールを見下ろした。


「サタンなんか、悪魔たちなんか、皆死んじゃえばいいのに」

「やめろ!」


 アイテールが叫ぶように言い終わる前に、サディンはその声を遮った。

 突然大声を出されて、アイテールはきょとんとサディンを見上げる。


「……そんなこと言っちゃだめだ」


 サディンはアイテールの前に片膝をついてしゃがみ、アイテールを正面から見つめる。

 その両肩に手を置いて、真剣な表情でアイテールに言った。


「どんなに嫌いな人でも、死んじゃえばいいなんて言っちゃだめだ」


「なんで?」


 アイテールは一つ瞬きしてから首を傾げる。


「死んじゃえばいいって、とても悪い言葉なんだよ。絶対、言っちゃダメ」


「ふーん?」


 アイテールはよく解っていないようだ。

 サディンは立ち上がり、再びアイテールの手を引いて歩きだす。

 その表情は険しかった。

 サディンの予想が正しければ、恐らく今、このアビスは大変なことになっているだろう。

 今のサディンにはそれを確認する手段はないが、その予想は当たっていたのだ。


 その後もしばらく歩き続け、二人はようやく森の外に出ることができた。

 しかし、目の前には大きな崖が広がっている。かなり深い。

 覗き込んでみると、底は霞んで見えなかった。

 周囲を見回してみるが、大地に走った亀裂のような崖には橋など架かっていない。

 ここを降りようとは思えない。しかし、崖の向こう側に飛び移れる程狭くはない。


「どうしよっか?」


 アイテールがサディンを見上げてくる。

 流石に、この崖を渡る方法を思いつかないのだろう。

 しかしサディンは悩む様子もなく、アイテールに笑みを向ける。


「大丈夫だ。ここを渡るくらい、簡単だよ」


 アイテールはまだ不安そうにサディンを見ている。


「ほんと? 落ちない? お兄ちゃん、ボクのこと守ってね」


 サディンは「勿論だ」と言って大きく頷いた。

 そのとき、遠くの空から鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。

 サディンははっとして顔を上げる。

 聞き間違えるはずがない。

 あれは天使たちの羽音。

 音の聞こえた方を見て目を凝らすと、遠くから三人の天使が飛んでくるのが見えた。

 思わず目を疑った。

 あれはルシエルたちだ。

 まっすぐにこちらに向かってきている。

 サディンは咄嗟に、アイテールを庇うように前に出た。


 コノ子供ヲ守ラナケレバ……


 何故か、そう思うのだ。

 アイテールがサディンの手を強く握る。


「ちゃんとボクのこと守ってね……」


 アイテールの言葉が、まるで矢のように心に突き刺さる。

 サディンはもう一度大きく頷いた。


「ああ」


 その直後、三人の天使たちは二人の上まで来て停止した。




 ルシエルが、サディンの姿を見てほっと息を吐く。

 門に残された血から、てっきり怪我をしていると思っていたのだが、今見る分にはどこも怪我などしていないようだ。


「良かった……サディン、無事だったんですね……!」


 ルシエルの声に合わせて、ラファエルとレミエルが降下してくる。

 ルシエルもすぐにサディンの前に降り立った。

 サディンの背後で、アイテールが身を固くする。

 ルシエルたちはアイテールを刺激しないように、口許に笑みを浮かべて近付いていく。


「良かったぁ〜サっちょんが無事でぇ〜」


「あんまり心配かけさせるんじゃないわよ」


「見付かって良かった。さぁ、帰りましょう」


 三人は口々に言ってサディンに手を差し伸べる。

 サディンもほっとしたように笑みを浮かべ、その手を取ろうとした。しかし……


「だめだよお兄ちゃん」


 アイテールの声が響く。

 サディンの手がぴたりと止まった。

 その瞬間、辺りの空気がピンと張り詰めたのが解った。


「そいつらと行っちゃだめだよ。ボクと一緒に行こう?」


 アイテールは言いながらサディンの腕を引っ張る。

 サディンはルシエルたちに伸ばしかけた手を引っ込めた。

 胸の前でぐっと手を握り締め、ルシエルたちを見やる。


「ルシエル、俺は……行けない」


 やっとのことで絞り出したサディンの声は、震えていた。

 自分でも、何故こんなに震えてしまうのか解らない。

 声を出すのが、ひどく苦しかった。


「サディン!」


 ルシエルがその声を遮るように呼び掛ける。

 一歩だけ、前に足を踏み出した。


「来ないで」


 しかし、アイテールはルシエルたちを拒絶する。

 仕方なくルシエルは足を止めた。


「サディン、僕の言葉を聞いてください。彼の言葉に耳を傾けてはいけない!」


 ルシエルはその場に立ち止まったまま、サディンに語り掛けた。

 サディンの瞳は困惑したようにルシエルたちの顔を交互に見やり、握り締める手に力が入る。

 サディンは今、アイテールの能力に囚われているのだ。

 そして、このままではルシエルたちも囚われてしまう可能性が高い。

 ルシエルは両手を広げて見せた。

 アイテールに、自分たちが危害を加えるつもりがないことを知らせるためだ。


「僕は何もしませんよ。だから、一緒に来てください」


 それはアイテールに向けて言った言葉だった。

 しかしアイテールは、頑なにサディンの側を離れようとしない。


「やだよぉ。ボクはこのお兄ちゃんと一緒がいいん……」


 アイテールの言葉の途中、その背後に突如ラファエルが姿を現した。

 ルシエルの陰に隠れて、テレポートしたのだ。

 アイテールが振り向くより早く、ラファエルは彼を無理矢理サディンから引き離す。


「捕まえたよっ」


 アイテールに騒がれないよう、口を塞ごうとしたラファエルだったが、それより先にアイテールが声を張り上げた。


「助けてお兄ちゃん!」


 次の瞬間、サディンが動いた。

 ほとんど何の予備動作もなく背後のラファエルに飛び掛かり、アイテールとラファエルの間に腕をねじ込んで二人を引き剥がす。

 ラファエルは後ろに突き飛ばされたが、アイテールはしっかりとサディンに抱きかかえられていた。


「ラファエル!」

「サディン!」


 レミエルとルシエルの声が、同時に二人の名を呼んだ。

 サディンは困惑した表情のまま、ラファエルから二人へと視線を移す。


「すまない……俺は、この子を守らないといけないんだ……」


 サディンの顔は、心なしか青ざめているようにも見えた。

 アイテールがサディンにしがみ付き、怯えたように身を縮めた。


「お兄ちゃんはボクの味方だもん。ボクを守ってくれるんだもん。ボクをいじめるあいつらをやっつけてくれるもん」


 アイテールはサディンにしがみ付いたままで呟き続ける。

 その言葉を聞いて、サディンは歯を食い縛った。

 一瞬の逡巡の後に、ルシエルたちに背を向けて走りだす。


 ルシエルは咄嗟にその後を追えなかった。

 足が動かない。前へ進める気がしない。

 代わりにレミエルがサディンを追い掛けた。

 レミエルが走りだしてから、ようやくラファエルが起き上がってくる。


「いた〜……頭打った〜……」


 突き飛ばされた拍子に、後頭部をぶつけたのだろう。

 片手で頭を押さえている。

 ルシエルが動けないでいるのを見て取ると、ラファエルもレミエルを追って走っていく。

 ルシエルだけが、未だそこから動けなかった。




 サディンは早くもレミエルに追い付かれそうになっていた。

 翼を持つ者と地を行く者では、移動速度が違う。

 このままでは捕まると判断したサディンは、意を決して彼に呼び掛けた。


「来い、カストル!」


 その声に反応するように、森の中からカストルが姿を現した。

 次の瞬間、サディンは抱えていたアイテールを、崖の下へと放り投げたのだ。

 当然、アイテールの身体は崖下へと落ちていく。


「えっ!?」

「わっ、うわぁっ!」


 レミエルが驚きの声を上げる。

 アイテールも同じように驚愕の表情を浮かべた。

 しかしそこにカストルが飛び出した。

 迷わず崖から飛び降り、空中でアイテールを捕まえる。

 体勢を直してアイテールを抱え、カストルはそのまま下へと落ちていった。


 レミエルは一瞬だけ迷った。

 サディンを無視してアイテールを追うべきか、アイテールを無視してサディンを保護するべきか。

 しかし、その一瞬の間が命取りとなる。

 サディンはその一瞬で間合いを詰め、レミエルの鳩尾に鋭い一撃を叩き込んだのだ。


「……っ!」


 声を出すこともできず、レミエルは仰向けに倒れる。

 レミエルは元々、戦闘が得意ではないのだ。サディンが相手では、分が悪すぎた。


 ラファエルが追い付いたのは、丁度そのときだった。

 倒れるレミエルの姿に、目を見開く。

 急いでレミエルに駆け寄った。


「サっちょん! レミレミに何するんだよ!」


 ラファエルの非難の言葉に、サディンはびくりと肩を竦めた。

 仲間に手をあげたという罪悪感に襲われる。

 それでも、サディンは止めることができなかった。


 あの子を守らなければならない。

 彼らを倒さなければならない。


 最早それは、強迫観念にも似た思いだった。

 しかし、それを良としない自分も、確かに存在する。

 二つの意思が、サディンの中でせめぎ合っていた。

 サディンは大きく息を吐き、ラファエルと対峙する。

 他に方法が思い浮かばない。

 もう、意思に従うしかないのだ。


「すまないな……俺のこと、恨んでるか?」


「そんなことないよ! だって、仕方ないことでしょ?

 ……サっちょんは、あいつに操られてるだけなんだよね?」


 自嘲めいた笑みを浮かべるサディンを、ラファエルは見上げる。

 抱き起こしたレミエルは、意識こそ失っているものの大事には至っていないようだ。

 サディンが手加減したのだろう。

 サディンがレミエルを襲ったのは、自らの意思ではない。

 アイテールにそう仕向けられたのだと、ラファエルは信じている。


 そう、ラファエルはサディンを信じている。

 信じなければならないのだ。

 昔、百年前のあの日、ラファエルはサディンを信じきることができなかった。

 神の手から守ることができなかった。

 サディンはラファエルの友だ。友を信じられない者は、友でいる資格を持たない。

 たから、ラファエルはサディンを信じていなければならないのだ。


 サディンは、そんなラファエルの心を理解している。

 彼は、彼ならば、自分のことを信じていてくれると。

 だからこそ、ここで捕まる訳にはいかない。

 サディンは穏やかに微笑んだ。


「ありがとう……だから、ごめん」


 言葉と同時に、足元の小石がラファエルに向かって飛んだ。

 サディンはただ立っていた訳ではない。

 ラファエルが話している隙に、地面の小石に糸を繋げていたのだ。

 その小石を、ラファエルに向けて飛ばした。

 ラファエルは咄嗟に、片手で目を庇う。

 その一瞬で、サディンはラファエルの背後に回り込んだ。


「サっ……!」


 ラファエルが気付いて振り返るよりも一瞬速く、サディンの手刀がラファエルの首に放たれる。

 衝撃が首から脳へ駆け上がり、視界がぐらりと揺らいだ。

 ラファエルは為す術なく、レミエルの上に倒れ込む。

 その姿を見下ろし、サディンは一人、来た道を引き返した。




 アイテールが崖下に消えてから、ルシエルはようやく前に進むことができるようになった。

 動くようになった足を慎重に前に出してみる。

 あの意思を押さえ込まれるような感じはしない。

 急いでラファエルたちを追おうとするも、再びその足が止まる。

 アイテールに阻まれた訳ではない。

 ルシエルの視線の先、ラファエルたちの向かった方から、サディンが歩いてきたのだ。


「サディン……ラファエルとレミエルは、どうしたんです?」


 ルシエルの言葉に、サディンは薄く笑みを浮かべる。


「別に……少し眠ってもらっただけだ。お前も、俺たちの邪魔をするなら……ただではすまないぞ」


 すっとサディンの目が細められた。

 ルシエルは思わず息を呑む。

 やはりサディンは、アイテールに操られているのだ。

 そして恐らく、本人もそれに気付いている。

 それでも尚ルシエルの前に立ちはだかるのは、アイテールに抗うことができないからだ。

 それが例え神であろうと、アイテールには抗えない。

 サディンを助けるためには、多少手荒な方法でも、力ずくで捕らえるしかないのだ。

 ルシエルは渋面を浮かべる。

 アイテールの思惑通りになるのは悔しいが、サディンを守るにはこれしかなかった。


「サディン……あなたをこれ以上、あれの傍に置く訳にはいきません」


「そうか。ならば仕方ないな」


 ざっと地面を擦るように足を踏みしめ、サディンが構える。

 ルシエルも両手に気を集中する。

 二人の間に、緊張が走り抜ける。

 数瞬の睨み合いの後、先に仕掛けたのはサディンだった。

 力強く地を蹴り、ルシエルとの距離を詰める。

 下から伸び上がるような掌底の一撃を、ルシエルは後ろに跳んで躱した。

 サディンは攻撃の手を休めず追撃する。

 ルシエルの顔のすぐ横を、サディンの手が掠める。

 爪の先が引っ掛かり、ルシエルの頬に一本の赤い筋が出来上がる。


「くっ……」


 ルシエルは堪らず空に逃げる。

 翼を翻し、崖の上へと身を踊らせた。

 サディンは下からルシエルを見上げる。

 翼を持たないサディンには、空を行くルシエルを追い掛ける術はない。

 離れた場所から気弾で攻撃し、躱したところを捕らえるつもりだ。

 ルシエルの両手がぼんやりと光る。

 ぱん! と手を併せ、ゆっくり開くと、両手の間に光る珠が生まれた。

 それをサディンの足元に撃ち出す。

 サディンは難なくそれを横に跳んで躱した。

 その着地点を狙って、ルシエルはもう一撃を放った。

 目の前は崖。左側は先程の一撃が破裂し、砂埃が舞い上がっている。

 避ける方向は背後しかない。

 そこへ回り込んで捕らえれば良い。

 しかし、ルシエルの読みは外れた。

 あろうことか、サディンは崖の方へと跳んだのである。

 このままでは、崖下へ落ちてしまう。


「サディン!?」


 後ろに回り込もうとしていたルシエルは、慌ててサディンを捕まえようと手を伸ばす。

 しかし、急な方向転換が間に合わず、ルシエルの手がサディンに届く前に、サディンの身体は崖へと吸い込まれていく。


「甘い!」


 落ちながら、サディンは袖の針を取り出し、ルシエルへと投げる。

 太い針はルシエルの髪を数本切り飛ばし、空中でぴたりと静止する。

 驚愕の表情を浮かべるルシエルの下、崖の間に張り巡らせた糸の上に立ったサディンが、ルシエルを見上げていた。


 サディンの能力である操り糸は、強度がある。

 その上に乗ることも、充分可能なのだ。

 ルシエルは安堵の溜め息を吐きながら、同時に表情を強ばらせた。

 サディンを捕らえることが、大分難しくなった。

 できることなら無傷で保護したかったが、それも適わぬかもしれない。


「サディン、あなたは……隠し芸が多くて困りますね」


「力のない者は、いくつも手の内を隠しているものさ」


 にやりと口の端に笑みを浮かべ、二人は再度対峙した。

 今度はルシエルから動いた。

 更に上昇し、サディンから距離をとる。

 サディンが下に落ちることはなくなったが、それもこの糸を巡らせてある崖の中だけだ。

 今立っている場所よりも上に昇ることはできないはずである。


 これだけ離れると、サディンの糸はほとんど視認できない。

 まるで何もない空中に浮いているように見える。

 ルシエルは再び両手に気を集中した。

 サディンを狙う訳ではない。

 周囲の糸を切り、足場を無くすのが狙いだ。

 ルシエルの手から、光球が放たれる。

 それはサディンの周囲を撃ち抜き、彼の足元にあった糸を切断した。

 しかしサディンも、ただ黙って立っている訳ではない。

 すぐに次の糸へと飛び移っていた。

 ルシエルも続けて光球を撃ち出す。

 しかし、やはり結果は同じだった。

 いったい何本の糸を張り巡らせたのか、サディンの足場は一向に失われる気配がない。


 このままでは、こちらの方が先に力尽きてしまうかもしれない。

 ルシエルがそんなことを考えたときだった。

 サディンが何かを引くような仕草をしたのだ。

 次の瞬間、ルシエルの足がサディンの方へと引っ張られた。


「な……っ!?」


 ルシエルが驚愕の表情を浮かべて、引っ張られている足の方を見る。

 そこには、サディンが武器として使う針が付いていた。

 先程サディンが投げた針だと、ルシエルは瞬間的に悟った。

 ルシエルの攻撃を避けながら、この針の先に付けた糸を、ルシエルの足に絡めたのだ。

 慌てて糸を切断しようとするが、遅かった。

 その身は既に、崖の間まで引きずり込まれている。


 手に気を込め、なんとか糸を切って体勢を直した瞬間、蜘蛛の糸に絡め取られるような、そんな感触が全身を襲う。

 サディンの糸が全身に絡み付いていた。

 気を編み上げた糸は、とても細く、目に見えない。

 しかも、かなり頑丈でちょっとやそっとでは切れはしない。

 糸の網から逃れようと藻掻く程、それは複雑に絡み付いてくる。

 糸を通して相手を意のままに操るだけがサディンの能力ではない。

 寧ろ、こうして何重にも絡め取り、敵の動きを封じることこそ、彼の本領と言える。

 蜘蛛の巣に捕まった羽虫のように、ルシエルは身動きが取れなくなっていた。


「ちょっ……サディン、僕、縛られるのは嫌いなんですけど。解いてくれません?」


 藻掻き疲れたルシエルは、ずり落ちた眼鏡を直すこともできずにサディンを見上げた。

 サディンは彼の前にしゃがんで、口許に笑みを浮かべている。


「駄目だ」


 にっこり微笑まれてきっぱり断られてしまった。

 ルシエルは力なく項垂れる。

 いったい自分は何をしに来たのか。

 助けに来たはずのサディンに、逆にあしらわれている。

 ルシエルは小さく溜め息を吐き出した。


「……まさかサディンに負けるなんて思いませんでしたよ」


 ルシエルの呟きを聞いて、サディンは可笑しそうに笑う。


「誰がお前に戦い方を教えたと思ってるんだ?

 力押ししかできない後輩に、俺が負ける訳ないだろう」


 そう言われて、ルシエルは言葉に詰まる。

 単に力だけならばルシエルの方が圧倒的に強いのだが、戦闘中の駆け引きとなると分が悪い。

 ルシエルは、攻撃力はあるのだが、それだけなのだ。

 サディンのように、応用が利く能力ではない。

 そのため、手加減しながら相手を牽制し捕獲するような、今回の戦闘にはまるで向いていない。

 力ずくで敵を叩き潰すような戦闘ならば、ルシエル以上の適材はいないのだが。

 ルシエル自身も、それは重々承知していた。

 大天使となってからは、サディンと手合わせする機会もなく、その間に自分も上手く戦えるつもりになっていたのだが……

 やはり、亀の甲より年の功。

 サディンには敵わないと思い知らされた。

 ルシエルが項垂れていると、サディンがいきなり口を開いた。


「ルシエル、俺はこのままあの子と一緒にサタンの城へ行くが、お前たちはついて来るなよ。恐らく、明日の夕方には着くはずだ」


 いきなり何を言うのかと、ルシエルは首だけ上げてサディンを見る。

 サディンは真剣な表情でルシエルを見下ろしていた。


「サディン、あなたは……」


 ルシエルの言葉を遮り、サディンはそっと手を伸ばす。

 その手でルシエルのずり落ちた眼鏡を取り、元の位置に戻してやった。

 その間もルシエルは、頭の中でサディンの言葉の意味を考えていた。

 何故彼は、今後の足取りを教えるような真似を?

 それはつまり……


 ずびっし


 瞬きもせずにサディンを見上げたまま考え込んでいたルシエルの額から、小気味よい音がした。

 サディンが思い切りデコピンを放ったのである。

 眉間に赤く痕を付けたルシエルは、一つ瞬きして我に返った。


「サディン……!」


「最善を尽くせ。いいな?」


 サディンは最後にそれだけ言ってから立ち上がり、崖の下へと跳んだ。

 梯子のように張り巡らせた糸を蹴り、下へ下へと。

 その後ろ姿を見送りながら、ルシエルはじたばたと藻掻く。


「これ解いてから行ってください!」


 しかし、その声にサディンが戻ってくることはなかった。




 サディンが三人の足止めをしている間に、アイテールを抱えたカストルは崖下へと降りていた。

 岩壁に手を掛け、落ちる速度を調節しながら飛び降りたため、アイテールには怪我一つない。

 しかし、途中で何度も岩壁に叩きつけたカストルの右手は、ひどく損壊していた。

 白い手袋はとうに破れて失くしてしまった。

 剥き出しになった右手も、数本の指を失くし、掌には大きな亀裂が入っている。

 痛みを感じないカストルだからできたことだ。

 普通なら、この高さの崖から落ちたら、まず助からない。


 アイテールはカストルにしがみ付いたまま、気を失ってしまったらしい。

 カストルは彼を地面に下ろし、その傍らに座り込んだ。

 アイテールの右手が、カストルの服をしっかりと握り締めていた。


 そのままの状態でしばらくすると、サディンが走ってきた。

 近くまで来ると、サディンはカストルの壊れた右手に気付いたらしく、かなり狼狽えてカストルの右手を取った。


「ああ、なんてことを……すまない、カストル。こんなことになってしまって……」


 カストルの右手をさすりながら、サディンはひどく落ち込んだように項垂れた。

 そんなサディンの頭を、カストルが反対側の手で撫でる。

 気に病むなと言うように、優しくサディンの髪を梳く。

 サディンはカストルの目を見つめながら、小さく頷いてアイテールを抱き上げた。

 カストルの服からアイテールの手をそっと外し、カストルだけ先行させる。

 サディンの推察に過ぎないが、カストルをアイテールから遠ざけておくべきだと考えたからだ。

 ルシエルたちのお陰で少し予定が狂ったが、今ならまだ大丈夫だ。

 アイテールが目を覚まさないうちに、カストルを遠くへ行かせる。

 けれど決して離れすぎない位置へ。

 こうしておくことが、恐らくだが保険になる。

 サディンは未だ目覚めないアイテールを抱いて、サタンの城へと歩きだした。




 ラファエルが気付いたのは、サディンたちがその場を離れた後だった。

 首の後ろが痛む。

 いくら手加減されていたとはいえ、痛いものは痛いのだ。


「いだぁ〜……レミレミ起きて」


 ラファエルは隣に倒れていたレミエルを揺り起こす。

 レミエルが小さく呻き、ゆっくりと目を開いた。


「……あれ? あたしいったっ! お腹痛っ!」


 起きた直後から殴られた腹部を押さえて肩を震わせる。

 レミエルもラファエルも、ああいった戦闘には向いていない。

 サディンが相手では、致し方ないと言える結果だった。


「あんにゃろー後で一発殴ってやる……」


 亀のように蹲ったまま、レミエルが剣呑なことを呟いた。

 首を回し負傷の有無を確認していたラファエルは、そんなレミエルを見下ろしへらへらと笑いながら言う。


「じょーだんキツいなー、レミレミ。サっちょんが悪い訳じゃないでしょ」


 言い終わるとラファエルは立ち上がり、周囲を見回した。

 辺りに人影はない。

 どうやらサディンはもう行ってしまったのだろうと判断し、ラファエルはがっくりと肩を落とした。

 やっと見付けることができたと思ったら、あっさり逃げられてしまった。

 ちょっと悔しい。


「あー、もう……一旦戻りましょ。あの変態もほっとけないし」


 あの変態とはルシエルのことである。

 多少ふらつきながら立ち上がったレミエルに促され、ラファエルもルシエルと別れた地点まで戻ることにした。


 二人が、糸に絡まって藻掻いているルシエルを見て大爆笑するのは、この一分後である。




「助けてくれたのには感謝しますよ……でももう、いい加減笑うの止めてもらえませんかね?」


「あはははははえひゅっ、ひー、お腹……お腹痛い……!」


「ごっめーんルッシー。でもほんと面白ぃひゃひゃひゃひゃ!」


 腹を抱えて笑いながら転げ回る二人を見下ろし、ルシエルはこめかみをひくつかせる。

 ちょっぴり殺意が芽生えそうになるが、そこはどうにか我慢しなければ。


 普段ならば決して見られないものを見られたと、レミエルもラファエルも大喜びだ。

 どうにか笑いの発作が治まったラファエルが、笑いすぎて痛みを訴える腹をさすりながら立ち上がる。

 レミエルはまだ笑いが止まらないようだ。

 糸に絡まって宙吊り状態だったルシエルが、相当ツボにはまったらしい。


「あー、ひー、苦しー……でも良かった、ルッシーが無事で」


 素直にそう言われると怒ることもできず、ルシエルは苦笑いを浮かべて頷いた。


「まぁ……でもサディンには逃げられてしまいましたけどね」


 残念そうに言うルシエルの肩をラファエルが叩く。

 その顔は先程までと変わらぬ笑みだ。


「だーいじょーぉぶ。俺たちも逃げられちゃったから」


「どこが大丈夫なんですか」


 笑いながらばんばん肩を叩くラファエルを半眼で見下ろし、ルシエルは呆れたような溜め息を吐く。

 そこに、ようやく笑いが治まったレミエルが割り込んできた。


「そういえば……ごほっ、あんた何で動けるのよ? あたしたちが走りだしたときには、動けなかったじゃない」


 笑いすぎて息は上がっているが、頭の中はしっかりと切り替えができているようだ。

 レミエルに指摘されて初めて、ルシエルもそのことに気付いた。


「そういえば……一定時間で効果がなくなるものなのでしょうか?」


「え〜? でも悪魔の人たちのケガ、治らなかったよねぇ?」


 ラファエルがかくんと首を傾げて会話に交ざってきた。

 ルシエルとレミエルはその言葉を聞き、怪我をした悪魔たちの様子を思い出す。

 彼らの怪我もアイテールによるものなのだが、一定時間で勝手に治るような様子はなかった。

 ルシエルの動きを封じたのも、悪魔たちに傷を負わせたのも、アイテールの能力である。

 なのに、双方に生じているこの差は何なのだろうか。

 サタンからアイテールの能力について、もっと詳細を聞いておけばよかったと、多少後悔した。

 敵の能力については、いくら知っておいても多すぎるということはない。

 三人は、ひとまずサタンの城に戻り、対策を練ることにした。




 城の前まで飛んでくると、入り口の前に誰かが立っているのが見えた。

 近付くにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。

 そこに立っているのは、ミカエルだった。

 腕組みして、修羅か羅刹かと見紛う形相で、飛んでくるルシエルたちを見上げている。


「……うわっちゃ〜……ミカさん怒ってるよ〜……」


「そりゃそうよね……勝手に出てきちゃったんだし……」


「いやぁ、こんなに怒った顔を見るのは久しぶりですねぇ」


 三人は幾分青ざめ引きつった表情で顔を見合わせ、やがて覚悟を決めたのか、ミカエルの許へと降下していった。


「お前たち……今までどこで何をしていた?」


 降り立った瞬間にドスの利いた声で問われ、三人は思わず後退った。

 ミカエルの全身から溢れる怒気で、周囲の景色が揺らいで見えるような錯覚さえ覚える。


「ちょっと、あんた言いなさいよ!」


「嫌ですよ何で僕が!」


「ルッシーにしかできないよ〜」


「僕よりあなた方の方が古株でしょう!?」


 小声でこそこそ言い合っていると、ミカエルに思い切り睨まれてしまった。

 三人は慌てて口をつぐむ。

 レミエルとラファエルの視線に押され、仕方なくルシエルが口を開いた。


「すみません。サディンを捜しに行ってたんです」


 大方予想はしていたのだろう。

 ルシエルの言葉を聞いても、ミカエルの表情に変化はない。

 冷ややかな目で三人を見遣り、静かに口を開く。


「アビスの集落へ行き、救助活動を手伝うよう言ったはずだが? ラファエル」


 ラファエルの移動能力がなければ、迅速な対応は難しい。

 広いアビスでは、彼の力が必要だった。

 ラファエルはしゅんと項垂れて肩を落とした。


「怪我人が他にいないか、確認するよう頼んだはずだ。レミエル」


 集落を離れている住人がいないとも限らない。

 彼女の遠隔視能力は、そんな人々を捜すために必要だった。

 レミエルは背筋を伸ばし、直角に礼をする。


「すみませんでしたっ!」


 最後に、ミカエルはルシエルに目を向けた。


「お前は邪魔だから帰れ」


「僕の扱い酷くないですか!?」


 あっさり切り捨てられ、ルシエルは不満顔で抗議した。

 実際、救助活動に破壊の力は必要ないのだが。

 ミカエルはルシエルを無視して、ラファエルとレミエルに、城へ戻って天使たちの手伝いをするよう命じた。


「で、でも……」


「人手が足りないのだ。急いで戻れ」


 渋るレミエルたちの背を、軽く押して城に向かわせる。

 レミエルは素直に城へと足を向けたが、ラファエルはそれでも動こうとしなかった。


「ミカさん、サっちょんは……!」


「こちらで捜す」


「違うよ! サっちょんいたんだよ!」


 ラファエルの言葉に、一瞬ミカエルは眉をひそめた。

 サディンを発見したと言うのに、彼の姿がどこにもないからだ。


 サディンを発見したが、アイテールに阻まれて保護できなかったのか。

 それとも、サディンが自らの意思で彼らから離れたのか。

 前者ならば仕方ない。しかし後者ならば……


「ひとまず城に戻れ。詳細はそちらで聞く」


 ミカエルは三人と共に、サタンの城へと入っていった。

 与えられた一室で、テーブルを囲んで車座に座る。

 サディンを発見したときのことを、三人は口々に語りだした。


「あのね、連れ戻そうとしたんだけど、あの子が一緒に行っちゃダメって、邪魔したんだ」


「二時間くらい前に、私がここから北西に二十キロ程の崖に、サディンと標的を発見しました」


「僕たちは標的に足止めをくらってしまいまして」


 話し口がまったく違う三人の言葉を、ミカエルは頭の中で整理しながら聞く。

 大まかな流れを理解したところで、改めて三人の顔を眺めた。


「つまり、サダルメリクを発見したが、標的が邪魔をして連れ戻すことができなかった、と」


 ミカエルの言葉に、三人は同時に頷いた。

 しかし、ミカエルはそんな彼らを咎めるように、鋭い眼光で射ぬく。

 レミエルとルシエルは、思わず背筋を伸ばした。


「……まだ言っていないことがあるだろう。

 お前たちの邪魔をしたのは、本当にアイテールだったのか?」


 ミカエルの静かな声が、さほど広くもない室内に響いた。

 ルシエルは思わず息を呑んだ。

 サディンと一戦交えたことを伏せているのを、見破られている。

 ルシエルは気付いていなかったが、その髪にサディンの糸が一本、絡み付いていたのだ。

 それをミカエルは見逃さなかった。


「お前たちと直接戦ったのは、サダルメリクだろう。何故それを報告しない?」


 冷静なミカエルとは対照的に、声を大きくしたのはラファエルだった。


「サっちょんは、サっちょんは悪くないよ! あの子に言われて、無理矢理、仕方なくやったんだよ!」


 思わずテーブルを叩いて立ち上がり、ミカエルの方へと身を乗り出す。

 レミエルが驚いたように肩を震わせたが、ラファエルは気付かずミカエルに詰め寄った。


「ねぇ、ミカさん、サっちょん悪くないよね? 罰受けたりしないよねぇ!?」


 ルシエルやラファエルが心配していたのは、サディンがカエルスを裏切ったと思われるのではないかということだ。

 アイテールの側にいることで、カエルス、アビス双方から敵対視される可能性があった。

 もしもサディンの行動が敵対行為であると判断されれば、彼はまた処断されてしまうかもしれない。

 それだけは避けたかった。


 だが、それはミカエルも同じだ。

 理不尽な処刑など、二度とやってはいけない。


「落ち着け。サダルメリクの行動が、アイテールの影響であろうことは私も予想している」


 ラファエルを宥めるように、その肩を片手で押し返し座らせる。

 不安そうに己を見つめる三対の目を順に見返し、ミカエルはゆっくりと口を開いた。


「現時点では、サダルメリクはアイテールに洗脳された状態であると見ている。

 彼の保護を最優先にし、安全を確保した上で標的の捕獲を実行する。

 そのときは私が出る。お前たちは己の任務に戻れ」


 ミカエルの説明を聞き、ラファエルはようやく安堵の息を吐く。

 ミカエル自身がサディンの保護に当たってくれるのなら、これ程心強いことはない。

 ラファエルとレミエルは、悪魔たちの救援のために部屋を出ていった。


「ミカさん」


 不意に扉から声を掛けられる。

 ミカエルがそちらに目を向けると、今し方出ていったはずのラファエルが戻ってきていた。

 ラファエルは足早にミカエルに歩み寄り、彼の手を取る。


「絶対だからね。約束だよ。サっちょんのこと、助けてね」


 ラファエルは早口にそう言いながら、強引にミカエルの小指に己の小指を絡めた。

 軽く手を上下に揺らし、指切りをする。

 ミカエルが咎めるような視線を送る前に、ラファエルは部屋を出ていってしまった。


 部屋の外で、ラファエルは誰にも聞こえない程の小声で呟く。


「大丈夫……俺は信じてるから」


 そして己を奮い立たせるように、両手で自分の顔を叩き、治療班を悪魔たちの集落へ移送するべく、広間の方へ走りだした。


 部屋の中では、無理矢理に約束させられてしまったミカエルが、わずかに困惑したように小指を見つめていた。

 ラファエルは解っていて『約束』したのだろうか。

 ミカエルは先程、「現時点では」と言ったのだ。

 それはつまり、今後のサディンの動向次第で、彼を敵とみなす可能性があるということを示している。


「先手を打たれてしまいましたね」


 困惑するミカエルを見ながら、ルシエルはくすりと笑った。

 ルシエルもまた、そのことに気付いている。

 ラファエルの『約束』が、結果として、サディンを討つというミカエルの意思を揺らがせたことに、ひそかに安堵していたのだ。

 ミカエルは笑みを浮かべるルシエルに目を向け、今まで見つめていた小指を解しつつ、テーブルに手を置いた。

 そのまま咳払いを一つ。


「さて、サダルメリクを発見したときのことを、詳しく話してもらおうか。正確に、事実を」


 真剣な表情でルシエルを見遣り、耳を傾ける。

 ルシエルは知らず固唾を呑んだ。

 この説明で、ひょっとしたらサディンは敵対視されてしまうかもしれない。

 しかし、ここで虚偽を述べることは許されない。

 ルシエルは慎重に、先程の出来事を説明し始めた。




「…………」


 ミカエルは黙ってルシエルの話を聞いていた。

 話が終わっても、しばらくの間は無言で目を閉じていた。

 ルシエルにしてみると、その沈黙が意味あり気で怖いのだが。


 何か、サディンの不利になるようなことを言ってしまったのかと、ルシエルは息を呑んでミカエルの言葉を待った。

 やがて、ミカエルは静かに目を開く。

 ルシエルを正面から見据えて、はっきりと言った。


「サダルメリクは、己の意思でアイテールに味方している」


 ルシエルは思わず耳を疑った。

 それはまるで、サディンが自らアイテールの手を取ったようではないか。

 サディンはアイテールに操られているはずだ。

 そうでなければ……


「……何故です?」


 ルシエルの唇が、かすかに震えている。

 その目には、怒りにも似た色が浮かび、じっとミカエルを見据えていた。

 ミカエルは冷静に話を続ける。


「まず、アイテールの能力だが、本人の意識がなくなれば、一時的に効果が弱まるのだそうだ」


 それは、ルシエルたちが無断で出ていった間に、サタンから聞いた情報だった。

 ルシエルの身体の自由を奪ったのは、対象の精神に働き掛ける力だ。

 この場合、能力者本人の意識がなくなれば、効果が薄れ、それ以降自分の意思で身体を動かせるようになる。


 ルシエルたちは知らないが、アイテールはあのとき、崖から落ちていく恐怖で気を失っていた。

 そのため能力が半減し、ルシエルは動くことができたのだ。


 そしてそれは、アイテールを守るよう洗脳されていたサディンも同じだ。

 あのとき、サディンはアイテールと別れて、ルシエルたちと共に行くこともできたのではないか。

 しかし、それでもルシエルたちの足止めをして、アイテールの許へ向かった。

 それは即ち、サディンが自らの意思で、アイテールの側にいることを選んだということだと言える。


「まさか……」


 ルシエルは驚きを隠せないようだった。

 確かにあのとき、アイテールからの支配は感じられなかった。

 それは恐らく、サディンにも言えることだろう。

 やはり、サディンは己の意思でアイテールの許へ戻ったと考えた方が自然だ。


「ですが、それだけでサディンを敵とみなすのは……」


 抗議するルシエルの言葉に、ミカエルは頷いた。


「ああ。私も、サダルメリクが我々を裏切ったとは思っていない」


 思ってもみなかったことを言われて、ルシエルはわずかに眉をひそめた。

 しかし、次のミカエルの言葉で、サディンは敵になった訳ではないと確信した。


「明日の夕方。恐らくそれが標的捕獲のチャンスだ」


 それは、ルシエルも考えていたことだった。

 サディンが去り際に、わざわざ今後の足取りを教えたのは、アイテールを捕獲するための準備をしろと言っているのではないかと。

 サディンは言っていたではないか。「最善を尽くせ」と。

 恐らく彼自身、アイテールの能力に薄々気付いていたのだろう。


 アイテールの『言葉を現実にする』という能力に。


 しかし、気付いたときにはもう、アイテールの言葉に支配されていたのだ。

 アイテールを守りつつ、アイテールを捕獲するためルシエルたちに協力する。

 そのためには、大きな戦力が要る。

 あえてアイテールと行動を共にしたのは、自らアイテールの動向を見張り、上手くサタンの城へと誘導するため。

 ミカエルは、ルシエルの話からそう判断したのだ。


「再びアイテールを封印できるのは、サタンかジュピター様だけだろう。

 その場で無理矢理アイテールを押さえ込まなかったのは、正しい判断だ」


 アイテールの口を塞げば、『言葉を現実にする能力』は防げるかもしれない。

 しかし、サタンでさえ知らない未知の力を秘めている可能性もあるのだ。

 標的の捕獲には、万全を期した方が良い。

 何しろ相手は、サタンとゼウスが二人がかりで、ようやく封印したような人物なのだから。


 ジュピターが来たとしても、対等に渡り合える確率は五分五分といったところだろう。

 サタンたちアビスの住人が動けない今、天使たちがジュピターをサポートせねばなるまい。

 神同士の戦いに、どこまで天使の力が通用するかは解らないが。


「アイテール捕獲の際には、お前にも働いてもらうぞ」


「ええ」


 ミカエルの言葉に、ルシエルは大きく頷いた。




 サディンとアイテールは、手を繋いで荒野を歩いていた。

 崖下の道を辿って行くと、すぐに森の出口が見え、その頃にはアイテールも目を覚まし、今は己の足で歩いている。


 この広い荒野を過ぎれば、サタンの城に着く。

 恐らく、ルシエルたちが待ち構えているだろう。

 戦闘になる可能性は限りなく高い。

 サディンは隣を歩くアイテールを見下ろした。


 アイテールは左足を引きずりながら、ゆっくり歩いている。

 その姿を見ていると、この手で守らなければという思いが込み上げてくる。

 先程アイテールが気を失ったことにより、一時的に洗脳は弱まったのだが、どうしてもアイテールを見捨てることはできなかった。

 近くで直接アイテールの言葉を聞きすぎたせいだろうか。

 アイテールが実の弟のように思えてしまう。

 その思いが深層心理にまで食い込み、離れないのだ。


 こうなってしまうと、もう己の意思とは関係なく、アイテールを守ることを優先してしまうだろう。

 戦闘になったとき、この手で仲間を傷つけてしまうのだろうか。

 サディンは、それが怖かった。

 もしそんなことになったら、自分はどうすれば良いのだろう。

 そんなことを考えながら歩いていて、思わず険しい顔つきになってしまったようだ。

 アイテールがサディンを見上げて、わずかに不安そうな表情になる。


「どうしたの? どこか、痛いの?」


 心配そうなアイテールの声を聞いて、サディンは慌てて笑みを取り繕う。


「いいや、大丈夫だ。少し、考え事をしてただけだよ」


 サディンが笑みを浮かべたのを見て、アイテールは安心したように頬を弛ませる。

 視線を前に戻し、遥か広がる茶色の地平線を見つめた。


「ボクね、エレボスを見付けたら、皆に仕返ししようと思ってたんだ」


 前を向いたまま、アイテールは喋り続ける。

 サディンは黙ってそれを聞いていた。


「ボク、サタンもゼウスも嫌い。ボクを閉じ込めるんだもん」


 外見通りの、子供っぽい言葉。

 アイテールは精神が力に追い付いていないのだと、サディンは感じた。

 この世の理さえひっくり返してしまえる程の力を持ちながら、その危うさに気付いていない。


 このまま喋り続けていたら、またいらぬ言葉を口にしてしまうかもしれない。

 サディンはさりげなくアイテールの言葉を遮った。


「静かに。あんまり喋ってると、魔物に見付かるぞ」


「そっか。しー、だね」


 アイテールは素直にサディンの言葉に従った。

 この子供は、実はサディンにはあまり逆らわない。

 慕ってくれているということなのだろうか。

 サディンはちらりとアイテールを盗み見た。

 しっかりサディンの手を握り、穏やかな表情で歩いている。


 隙だらけだ。

 今なら、当て身でもして気絶させることもできそうな気がする。

 そう思えるのだが、行動に移すことはできなかった。

 仕方なく、サディンはアイテールを連れて、黙々と目的地であるサタンの城を目指す。

 できないことをあれこれ考えるより、今自分ができる最善のことをするべきだ。そう考えたからだ。


 そのために、まずやらなければならないことは何か。

 それは、アイテールとより親密になることだ。

 アイテールから信頼を得ることができれば、上手くコントロールできるだろう。

 現に今、アイテールはサディンの言葉に従って、口をつぐんでいる。

 できることならば、この子を説得して穏便に済ませたい。

 歩きながら、サディンは必死にアイテールを宥める台詞を考えた。




 地の底の国に浮かぶ、偽りの太陽が消える。

 暗くなりかけていた天井は、完全に夜の藍色に染まった。

 この偽りの空もサタンの力によって創られているのだが、本人が負傷している今でも正常に夜空を描いている。


 夜になっても、アビスのあちらこちらで救助活動は続いていた。

 そんな折、カエルスからサタンの城へ、訪問者が現れた。


「不思議……こちらに来るのは初めてなのに、私はこの景色を覚えているような気がします」


 新緑色の長い髪をなびかせて、ジュピターは転移の魔方陣から足を踏み出した。


「お待ちしておりました」


 彼女の前に立ったミカエルが、深々と頭を下げる。

 明日訪れるはずだったジュピターが、予定を早めて訪問してきたのだ。

 ジュピターの背後には、医療の神であるアスクレピオスもいる。

 天使たちだけでは手が足りないとの判断で、彼が呼ばれたらしい。

 ミカエルがルシエルたちから話を聴いている間に、サタンがジュピターに連絡を取ったのだそうだ。

 ジュピターとアスクレピオスはミカエルに案内され、サタンの待つ部屋へと向かった。


 一際大きなその部屋で、サタンは待っていた。

 天使たちの治癒で傷自体はすっかり消えたのだが、未だ貧血にも似た怠さが抜けきっていない。

 ジュピターたちが部屋に入っても、サタンは椅子に腰掛けたままで唇を開いた。


「よく来たな」


「他ならぬあなたの頼みですもの」


 立って挨拶もしないサタンに気を悪くした様子もなく、ジュピターは静かに微笑んだ。

 アスクレピオスはわずかに不快感を表情に出したが、特に何も言わずにジュピターの後ろに控えている。

 ミカエルがそっと扉を閉めると、サタンは現状を語りだした。


「天使どもの報告によると、各集落で数人の悪魔の死亡を確認したらしい」


 そう告げるサタンの口調は淡々としている。

 逆にジュピターの方が、悲しげに表情を歪めた。


「そうですか……せめて、次の輪廻では健やかにあるよう、お祈り申しあげます」


 そう言って静かに目を閉じるジュピターの隣に、アスクレピオスが並んだ。

 無表情にサタンを見下ろし、蛇を象った杖で軽く床を叩く。

 乾いた音が部屋の中に反響した。


「面倒だからさっさと終わらせたい。俺が治すのは例の悪魔どもだけで良いんだな?」


「貴様がもう少し働き者だったら、他の悪魔と幽鬼たちもお願いしたいところなのだがな」


 サタンの言葉にアスクレピオスは小さく鼻を鳴らした。


 アビスにも、カエルスの天使と神のような関係がある。

 ゼウスにより堕とされた、元の世界の人々を悪魔。

 この世界の魂たちが変化した者を幽鬼と呼んでいる。

 この区別はカエルスの神が定めたものだが、アビスに住む者たちは、面倒だからという理由で、全員が悪魔と名乗っていた。


 そして悪魔の中には、サタンに匹敵する強さの者が数人いるのだが、互いに仲が悪く、アビス各地に散らばっているのだ。

 ここ数百年は交流がないという。

 しかし放っておく訳にもいかず、今回、サタン自ら彼らに連絡を取った。

 彼らも同じく、アイテールの影響を受けている。

 もし彼らに大事があれば、その配下の悪魔たちが何をするか解らない。

 血気盛んな悪魔を内包するアビスの秩序を守るためにも、彼らに死なれては困るのだ。


 アスクレピオスはしばし黙り込んでいたが、ややあって口を開いた。


「報酬次第では考えてやっても良いぞ」


 サタンは口の端をにやりと歪め、鷹揚に頷く。


「望むものを一つくれてやろう」


「二言はないな?」


「当たり前だ。俺様を誰だと思っている」


 双方ふてぶてしい態度を崩そうともせずに言葉を交わす。

 アスクレピオスは杖を片手に、颯爽と部屋を出ていった。


「良いのですか? そんな約束をして」


 二人のやり取りを見ていたジュピターが、小さく微笑う。

 サタンは「構わん」と言うようにひらひら手を振った。


「さて、と……例の坊主のことだが……」


 急に真剣な顔で話し始めたサタンに、ジュピターも口許を引き締める。

 明日の夕刻、サディンがアイテールをこの城の前まで連れてくるはずだ。

 そのときどう対応すれば良いのか、ミカエルを交え、ジュピターとサタンは慎重に話し合った。


 そして翌夕、神と天使たちは、サディンとアイテール、二人を迎え撃つことになる。


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