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覚醒

 暗い暗い闇の空間から、それはゆっくりと姿を現した。

 白いボサボサの髪が表情を隠している。

 それは左足を引きずりながら、長い回廊を進んでいった。

 そこは神殿の奥深く、誰も立ち入ることのない闇の牢獄。

 神殿の中にそんなものがあるなど、ほとんどの者は知らない。

 それはたとえ神であっても同じことだ。

 そのため、彼女がその近くを通ったのは、不運な偶然としか言い様がなかった。


 戦神アテナは、珍しく装備を外していた。

 アテナは戦いの女神であると同時に、芸術の神でもある。

 この時季になると、各地の美術会に引っ張りだこなのだ。

 今日も朝から人間たちが描いた様々な作品を見て回り、代わりにまた良い作品が生み出せるよう、念を込めてきたところだ。


 その帰りだった。

 神殿の中で、地震のような大きな揺れを感じたのは。


 アテナも被害者がいないかどうかを確かめるべく、足を踏み出した。

 そのとき、神殿の壁の一部が崩れているのを発見したのだ。

 誰か埋まっているのではないかと、慌てて駆け寄った直後だった。


「邪魔だよ。あっち行け」


 崩れた壁の向こうから、小さな子供の声が聞こえた。

 アテナが声に驚き振り向いた瞬間、まるで強い力に押し出されるように、アテナの身体が吹き飛んだ。

 反対側の壁に罅が入る程強く叩きつけられる。

 背中を打ってしまったようで、立ち上がることもできない。

 うまく呼吸ができず、目の前が暗くなる。

 アテナを吹き飛ばしたそれは、あの暗闇の空間から抜け出したものだった。

 白い髪が顔を隠していて人相は解らないが、背格好からするとまだ子供である。

 その白い子供は、はやアテナには興味を失ったか、左足を引きずりながら歩き去った。


 アテナはなんとか呼吸を整えて立ち上がり、その子供の後を追ったのだが、何故か何処を探しても、その子供の姿を見付けることはできなかった。




 崩れた荷の下から怪我人を救助していたルシエルとミカエルの許に、一人の天使がやってきた。


「ミカさん、るっしー。カミサマが呼んでるよー」


 そう言って手を振るのは、ラファエルだった。

 ルシエルたちは怪我人の手当てを他の天使に任せ、ラファエルに駆け寄る。


「その呼び方はやめろと言っているだろう。

 それで、誰からの召集だ?」


 眉間に皺を寄せたミカエルが、埃で汚れた服の裾を叩きながら言う。

 ルシエルも、同じようにしてラファエルを見た。


「あのねー、アテナお姉さまから〜」


 その名を聞いた瞬間に、ルシエルとミカエル、二人が神経質そうにひくりと片眉を跳ね上げた。

 彼女の気性の荒さは誰もが知っている。

 そんなアテナに呼び出されるとなると、死を覚悟しろと言われても大袈裟ではない。

 二人は軽く溜め息を吐き、ラファエルと共に部屋を出た。

 あまり待たせると、余計な怒りを買うことになるからだ。


 急いでアテナの部屋に向かうと、部屋の中央に仁王像と見紛うばかりのアテナが鎮座していた。

 その姿に一瞬怯んだ二人だが、なるべくアテナと目を合わせないように中に入った。

 よくよく見れば、アテナは包帯や湿布を貼っていて、怪我をしているようだった。

 最後に入ってきたラファエルが部屋のドアを閉める。

 ラファエルもアテナの怪我に気付いたらしく、ルシエルの背後から顔を出して首を傾げた。


「あれ、アテナ様怪我してるの? 大丈夫ですかぁ〜?」


 びしりっ


 音を立てて部屋の空気が固まったような気がした。


 アテナは鈍く光る目でラファエルを睨み付け、不機嫌さを隠そうともせず、ガン! と椅子の肘掛を殴る。


「この程度、どうということもない」


 ドスの利いた声で言い、アテナは足を組んでルシエルを睨み付けた。

 目だけで人を殺せるなどよく言ったもので、この眼力は人だけでなく、魔王さえ仕留めてしまえそうだ。


「あの……僕に何か?」


 耐えきれなくなったルシエルが、恐る恐る問う。

 アテナは眼力を緩めることなく、迫力満点の顔のまま口を開いた。


「貴様の仕業ではないのだな?」


「…………え?」


「この度の騒動は、貴様の仕業ではないのかと訊いている!」


 ガン! と再度肘掛を殴り付け、アテナは声を荒げた。

 ルシエルは慌ててぶんぶか首を振る。


「僕は何もしてませんよ!」


「そうか。前科持ちだから一応訊いてみただけだ」


「………………」


 アテナは今までの剣幕とは打って変わって、ひょいと肩をすくめ椅子に座り直した。

 怒り狂っているように見せたのは、演技だったらしい。


 アテナの怖さを知っている者程、嘘を隠す挙動が表れやすい。

 それで相手が嘘を言っているのかどうか、見極めていたのだ。


 緊張が解けて脱力したルシエルたちを見渡し、アテナは改めて状況を説明し始めた。


「今朝の地震のような揺れの後、不審な子供が現れた。住民登録もされておらず、どの記録にも記載されていない。

 今回の騒動と関係があると見て、調査捜索を開始する。ミカエル、天使たちを捜索に向かわせろ。詳細は広報部から通達される」


「かしこまりました」


 ミカエルが一礼すると、話はそれだけだとでも言うように、アテナから退室を命じられた。

 ミカエルに続き、ルシエルとラファエルも部屋の外に出る。

 ドアを閉めた瞬間に、どっと汗が噴き出した。


「まったく……一々怖すぎるんですよ、あの方」


「るっしーに一票ぉ〜」


「それくらいにしておけ。ラファエル、ヘルメス様からの通達が来る前に、カエルス門番に伝えてきてくれ」


 不審者を外に逃がさないためにも、門の守りを固めておかねばならない。

 ラファエルは「りょうかーい」と片手を挙げ、その場から消え去った。

 門の近くまで瞬間移動したのだ。


 門の外側まで一気に飛ぶことはできないため、通行証を持たない者は一度内側に降り、呼び鈴を鳴らして門を開けてもらう必要がある。

 ラファエルが帰ってくるのを待っている間に、ヘルメスからの通信が入った。


『ぴんぽんぱんぽーん。マイクテス、マイクテス。

 広報部長ヘルメスさんから、臨時のお知らせでーす』


 通信機器など使っていない。ヘルメスの声が直接脳内に響いてくる。

 伝達の神であるヘルメスは、ラファエルやレミエルの上司でもある。

 ラファエルの軽いノリは、上司から伝染したのかもしれない。


『今朝の地震は知ってるね? それに関係してるかもしれない不審者がいるので、皆さんで捜索してくださーい』


 ヘルメスの声に合わせて、白い子供の姿が脳内に映し出される。

 アテナが目撃した子供の姿だ。

 白い乱髪に白い服、顔の左側は包帯に覆われていて解らないが、瞳は血のような赤だった。


『ほんじゃ、天使ちゃんたち、捜索お願いね。ミカエル、チャンネル繋がってるから、天使ちゃんたちに指示してあげて』


 ヘルメスに言われて、ミカエルは声に出さず頭の中で言葉を紡ぐ。

 ヘルメスの力を借りれば、頭で思い描いた言葉を、カエルス全土の天使たちに伝えることができるのだ。


『怪我人を除き、捜索チームを選出する。第二会議室を臨時本部とするので、何かあればそこに連絡を入れてくれ。

 これから名を挙げる者は不審者の捜索、それ以外は通常業務に戻るように』


 ミカエルは歩きながら蕩々と指示を出す。

 臨時本部に着く頃には、捜索チームの選出も終わった。

 名簿など持っていない。

 ミカエルは、すべての天使の名前と能力を暗記しているのだ。


 中々できることではないと感心しながら、ルシエルは会議室の扉を開く。

 通達を聞いた天使たちが、気を利かせて会議室の中を片付けていた。

 地震で倒れた棚や机を直し、通信機器を運び込んでいる。

 これならばすぐにでも捜索に行けそうだ。


「皆、ご苦労。各々自分の仕事に戻ってくれ」


「はっ」


 通常業務組は自分の持ち場に帰っていく。

 広報部から来た助っ人二人が、本部での連絡を担当することになった。


 ミカエルは自室で通常業務がてら、捜索本部の指示をする。

 ルシエルはサディンと共に捜索チームに任命されていた。


 二人とも自分の持ち場に行こうとしたとき、本部の入り口にラファエルが現れた。

 瞬間移動で戻ってきたらしい。

 いきなり目の前に現れたため、ルシエルは正面からラファエルに衝突した。


「うわっ」


「みぎゃっ!」


 特に勢い良く入ってきたラファエルは、潰れた蛙のような声を上げて後ろ向きに引っ繰り返った。

 そのまま一回転して起き上がる。


「ミカさんミカさん! 門番いないよ!」


 ラファエルにしては珍しく慌てた様子でまくしたてる。

 それだけに、非常事態なのだということが想像できた。


「今日は、サディンが行っているはずですよ」


 焦ったようにルシエルが言う。

 サディンに何かあったのかと、酷く心配している様子だ。


「一緒に来て!」


「解った」


 ラファエルはミカエルとルシエルの手を取り、三人一緒に瞬間移動する。

 何かに引っ張られて放り投げられるような、奇妙な感覚を味わった次の瞬間には、門の内側が見えていた。


 普段は閉まっているはずの門が、開いている。

 門番でなければ開けることができないはずであり、それが勝手に開いているだけでも異常なことだ。


 人一人通れるくらいの隙間しか開いていないところからすると、例の不審者がここから出ていった可能性は高い。

 三人は急ぎ門の外に出た。


 いつも門の近くにいるはずの、門番の姿はどこにもない。

 その代わり、門には血痕が残っていた。


 ルシエルとミカエルの顔色が変わる。

 恐らくここで、例の不審者とサディンが争ったのだろう。

 ミカエルはわずかに考え込み、ラファエルに向き直った。


「本部に戻るぞ。捜索チームを外に向かわせる」




 ミカエルは早速本部に戻り、捜索チームをカエルスの外に派遣させた。

 一部にはカエルス内の捜索を命じている。

 不審者が、まだカエルス内にいる可能性もあるからだ。


 天使たちは、それぞれ担当区画へと飛んでいった。 サディンが失踪したことを知ったルシエルも、不審者とサディンを捜すべく神殿から飛び出した。

 その臨時のパートナーに選ばれたのは、レミエルだった。


「何で、あたしがこんな奴と……」


 レミエルはぶつぶつと文句を言っていたが、非常時なのだから仕方ない。

 ルシエルと共に、カエルスの門の外を捜索していた。


「見えましたか?」


「うっさいわね! 集中できないから黙ってて!」


 レミエルの能力、遠隔視。

 遥か彼方まで見渡せるレミエルは、捜索にはうってつけの人材である。


 彼女は眉を寄せて、遠くの一点を睨むように見つめている。

 居場所も特定できていないため、しらみ潰しに捜すしかないのだが、これがかなり大変な作業なのだ。


 世界は広い。

 遠くまで見渡せると言っても、視野には限界がある。

 今レミエルがやっている作業は、世界地図を一ヶ所ずつ拡大して、その中から特定の人物を捜すようなものなのだ。

 すぐに見付かるはずもない。


 カエルス内には不審者の姿は見えなかったから、恐らく地上に逃げたのだろう。

 もしくは、レミエルの死角に隠れて未だカエルスに潜伏しているのか。


 レミエルと同じく透視や遠隔視の能力を持った天使たちが、世界中を捜しているものの、発見の報告はない。

 レミエルは自分の担当範囲である北欧を中心に捜しているのだが、やはり目標は見当たらない。


 焦らずに隅々まで目を凝らすよう心がけているが、見落としている地域もあるかもしれない。

 捜索は、かなりの長期戦になりそうだった。




 何かに揺さ振られるような感覚が全身を襲う。

 その瞬間、右脚に鋭い痛みが走り、サディンは目を覚ました。


 小さく呻いて辺りを見回すが、そこはまったく見覚えのない場所だった。

 白い壁に、白い天井。その他には何もない。

 否、そこには一つ、見覚えのあるものがいた。

 サディンの隣に座っている、白い髪の子供だ。


 ボサボサの髪に、左側を包帯で覆った姿。

 それは紛れもなく、先程自分を襲った人物だった。


 あの地震のような揺れの後、サディンは急いで門の前に戻った。

 そこに、その子供が現れたのだ。

 内側から開けるには通行証が必要なはずだが、その子供の手には通行証となる紋様は見当たらなかった。

 不審に思い捕まえようとしたとき、その子供が言ったのだ。


「……似てる……でも違う」


 何のことかは解らなかった。

 その子供は躊躇いもせずにサディンに近寄り、右手でサディンの服を掴んだ。


「ねぇ、エレボスはどこ?」


 その名に聞き覚えのなかったサディンは、知らないと答えた。

 するとその子供は急に不機嫌な表情になり、催促するように右手を掲げてサディンに差し出した。


「エレボスは、どこ!」


 連れていけと言うように手を出す子供に、サディンは再度知らないと答える。

 とにかく捕まえて神殿に連絡を取ろうとしたそのとき、子供は癇癪を起こしたように叫んだ。


「    」


 何と言ったのかは聞き取れなかった。

 しかしその子供が何か言った瞬間、サディンの右脚から血が噴き出した。


 何が起こったのか。

 反射的に自分の脚を見ると、何も触っていないはずなのに、右の大腿がぱっくりと切れていたのだ。

 骨が見える程深く裂けており、焼けた火箸を押し付けたような痛みが駆け上がってくる。


 驚愕に目を見開き、視線を子供に戻したときに、何故か意識が途切れてしまった。

 直前にあの子供の声を聞いた気がするが、よく解らない。


 そこまで思い出し、サディンはそっと切れた右脚に触れる。

 手当てもされていないようで、未だ血が溢れ続けている。

 失血のショックで死んでいないことから考えると、気を失っていた時間はほとんどないらしい。

 一先ず傷の処置をしようと、サディンは上体を起こした。


「動くな」


 白い子供の声が飛び、サディンはぴたりと動きを止める。

 この子供がどんな能力を持っているのか解らない以上、下手に逆らうことはできない。

 サディンは半身起こした不自然な体勢で、慎重に子供に話し掛けた。


「解った。だが、傷の手当てをしたいんだ。このままでは、死んでしまうよ」


 その子供は、意外にも素直にサディンの言葉に耳を傾けた。


「ほんと?」


「ああ。他には何もしないから、動いてもいいか?」


 早くも貧血気味になり頭がくらくらするが、焦って子供を怒らせても良い結果は得られないだろう。

 サディンは子供の返答を待った。


 その子供はサディンの脚の傷を見下ろし、何事か考えるように首を傾げた。


「これが、治ればいいの?」


「ああ……」


 徐に顔を上げた子供は、何故か得意そうに笑う。

 いったい何を考えているのかとサディンは眉をひそめるが、子供は気付いていない様子でサディンの右脚を指差した。


「それなら、大丈夫だよ。全部きれいに治ってるもん」


「何……!?」


 サディンが再び脚に目をやれば、そこにあったはずの傷口はなくなっており、裂けた服も染み込んだ血の跡も消えていた。

 触ってみても、なんともない。


 何が起こったのか解らず、サディンは白い子供を見つめることしかできなかった。

 その子供は笑顔のままでサディンに近寄り、彼の服の裾を握る。


「一人で行こうかなって思ったけど、お兄ちゃん、ボクに似てるから、一緒に行くことにしたんだ」


「何のことだ……?」


 やはり、言っていることの意味が解らない。

 サディンは不快感を顕にして眉間に皺を寄せた。

 その子供は口許に笑みを浮かべ、話を続ける。


「ボクとお兄ちゃんは、似てるの。だから、お兄ちゃんがボクのお兄ちゃんになってよ」


 その子供の声に、妙な響きが混じったように聞こえた。

 何か、思考がぼやけるような、奇妙な声。

 その声が、サディンの中で何かを揺さ振った。

 眩暈のような感覚を覚えると共に、何かが麻痺していく。

 サディンはゆっくり瞬きして、その子供の顔をまじまじと見つめた。


「ねぇ、一緒にエレボスを捜してよ、お兄ちゃん」


「……ああ」


 サディンはゆっくりと頷いた。

 この子供と一緒に、エレボスを捜しに行く。

 それが、自分が取るべき行動なのだと、そう思えたのだ。

 何かがおかしいという奇妙な感覚が抜けなかったが、サディンは立ち上がってその子供の手を取った。

 そうしなければならないような、そんな気がした。




「見付からないとは、どういうことだ?」


 カエルスの神殿に作られた捜索本部で、ミカエルは目標を完全に見失ったと報告を受けた。

 どこを捜しても、見付からないと言うのだ。


 捜索を開始してから、既に丸一日が経過している。

 報告に来たレミエルたちも、表情には疲労の色が滲み出ていた。


「言葉通り……世界中を捜したのに、見付からないんです」


 レミエルは悔しそうに唇を噛んだ。

 透視能力者、遠隔視能力者、すべてでそれこそ世界中を捜したのに、発見することができなかったのだ。

 こんなことは初めてだった。


 目標が追跡の目から隠れる能力を持っているのか、それともこの世界にはもういないのか。

 もしそうならば、見付けられる可能性はゼロに等しい。


 捜索は続けなければならないが、このままではいけない。何か別の方法を考えなくては。

 ミカエルは顎に手を当て、しばし考え込んだ。


 今回の事件はとにかく異様だった。

 今捜している子供が、どこから現れたのかも判らない。

 その子供が何者なのかも判っていない。

 戦神アテナさえ圧倒したという、その子供の能力も何なのか解らない。


 判別できていないこと、理解できていないことが多すぎる。

 この件は最高神であるジュピターにも伝えられているが、彼女もその子供が何者なのか解らないと言うのだ。


 ジュピターは今、先代の残した記録を探している。

 そこに何か、手がかりになるものがあれば良いのだが。


「あの、ミカエル?」


 不意にルシエルが話し掛けてきた。

 普段は見ない真剣な表情から、彼の心情が窺える。

「何だ」


「これだけ捜して見付からないのなら、ここから見える場所にはいないのかもしれません」


「……その可能性は、私も考えていた」


 ルシエルが何を言いたいのか。

 他の天使たちは解らないかもしれないが、ミカエルには解る。


 このカエルスからは決して見えない場所がある。

 カエルスの裏側、地の底に広がる国、アビス。

 あそこならば、天使はおろか神の目すら届かない。

 自由に行き来できるような場所ではないが、標的である子供は未知の力を持っているのだ。

 ひょっとしたら、アビスに行くことも可能だったのかもしれない。

 だが……


「難しいところだな」


 アビスとカエルスは徐々に友好関係を築き始めている。

 とはいえ、それはアビスとカエルスの上層部だけでのやり取りであり、相変わらずアビスの他の住民は、カエルスに対して好戦的な態度を示しているという。

 捜索のために天使がアビスを訪れ、そこで問題が発生しないとも限らない。


 両者の関係を悪化させるようなことがあってはならない。

 アビスでの捜索には、あまり大人数を動員する訳にはいかないのだ。


「ああ、くそっ、何か方法は……」


 普段の丁寧な言葉遣いも忘れて、ルシエルが呟く。

 それだけ焦っているのだろう。

 気持ちは解るが、ミカエルにもどうにもできないことはある。

 今は、ゼウスが残した記録に手がかりがあることを祈るしかない。

 刻一刻と時が過ぎていく中、焦燥感ばかりが募っていった。




「ねぇお兄ちゃん、エレボスはどこにいると思う?」


 レミエルたちが捜索を開始した頃、その子供はサディンと手を繋いで歩いていた。

 手を伸ばせばカエルスの門に届きそうなくらい近くにいるのに、捜索に出た天使たちは誰も気付かない。


 二人がいる場所は、カエルスでありながらカエルスではない場所。

 その場所は、誰にも見付かることのない空間だ。

 例え神であろうと、今二人がいる空間を感知することはできないだろう。


 サディンの手を引いて歩く子供の足が、ぴたりと止まった。

 サディンが歩こうとしていない。その場に立ち止まったまま、カエルスの門を見上げている。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


「いや……俺は、あそこに戻らなければならないんじゃないかと……」


 サディンの目は門を見つめている。

 先程からずっと、サディンは自分自身の行動に違和感を感じていた。

 この子供と共に行くべきなのか、あの門の前に戻るべきなのか。

 己のとるべき行動が、解らなくなってきている。


 その子供はサディンが迷っていることを知ると、歯をむき出しにしてサディンを睨み、彼の手を握り締めた。


「何、言ってるの!? お兄ちゃんは、僕と一緒にエレボスを捜しに行くんだよ!」


 子供特有の甲高い声が響く。

 しかし、その声にも周囲の天使たちが気付いた様子はない。

 その子供の声は、まるで水面に投げ込んだ小石のように、不思議な音の波紋を描く。

 言葉の波に飲み込まれるように、サディンの思考は沈んでいく。


 気付けば、サディンは笑顔で子供に頷いていた。


「ああ、解ってる。じゃあ、どこから捜しに行こうか」


 サディンは子供の手を引き、カエルスに背を向けて歩きだした。

 子供も左足を引きずりながら並んで歩く。

 彼らが後ろを振り返ることはなかった。




 標的発見ならずの報告を受けてからしばらくした後、ミカエルは一人でジュピターの許を訪れていた。

 ジュピターは資料室で古い記録をひっくり返しているところだった。

 ゼウスが残した記録書は、数百にも及ぶ。

 それを一人で確認しているのだ。

 まだ半分も読み終えていない。

 効率は悪いが、極秘資料であるため他の者に手伝わせる訳にはいかなかった。


 ミカエルが資料室に入ってくるのに気付いたジュピターは、開いていた本を閉じ、顔を上げる。

 梯子に腰掛けて高いところの本を見ていた彼女は、ミカエルの前にふわりと舞い降りた。


「どうしました?」


 澄んだ鈴のような声がミカエルに向けられる。

 ミカエルは常磐色をしたジュピターの瞳を見つめ、徐に口を開いた。


「私を、アビスへ向かわせていただけませんか」


 ミカエルの言葉に、ジュピターは口許に片手を当て目を丸くした。

 ルシエルならばともかく、ミカエルからその言葉が聞けるとは思わなかったのだ。


「アビスへ? ……何か、心当たりがあるのですか?」


 常に冷静に物事を見ているミカエルである。短絡的にアビス行きを申し出るはずがない。

 ジュピターは、ミカエルから理由を言ってくれるのを待った。

 ミカエルはわずかに躊躇った後、その理由を口にした。


「世界中を捜索しましたが、標的を発見することはできませんでした。こちらの目が届かない場所にいる可能性もあります。

 その場所へも捜索範囲を広げたいのですが、何分危険な場所であるため、一般の天使たちを向かわせる訳には参りません」


 アビスでの捜索は自分一人で行う。ミカエルはそう言っているのだ。

 勿論、ジュピターはそんな申し出を承諾することはできない。

 しかし、それはジュピターも考えていたことだった。

 標的は、アビスに向かったのかもしれないと。


 しかし、一つ気がかりなことがあった。

 アビスの王であるサタンが、何も言ってこないのだ。


 もし標的がアビスに入ったならば、サタンがそれに気付かないはずがない。

 サタンの実力は、ジュピターをも遥かに凌いでいるのだから。


 そのサタンが何も言ってこないということは、標的はまだアビスに入っていないのでは?

 ジュピターはそう考えているのだ。


 だが、もし……もしも標的がサタンの目からも逃れる術を知っていたら。

 サタンがこちらに連絡をする前に、標的から攻撃を受けていたとしたら。

 そうだとしたら、標的がアビスに入っても、サタンからの連絡は来ないだろう。

 ならば、こちらからサタンに訊ねてみるべきかもしれない。


 ジュピターにはアビスへの道を開く力がある。

 この神殿から、サタンの城へ繋がる道だけだが。


 問題は、アビスに派遣する人材だ。

 神々には個々の役割があり、それを手放してまでアビスに行くことはできない。

 今のところ動ける神は、アテナくらいだ。

 しかしアテナは怪我人である。何でもない様を装ってはいるが、実は壁に叩きつけられた際に肋骨を数ヶ所と、わずかに脊椎を損傷していたのだ。

 いくら何でも、そんな彼女を動かす訳にはいかない。


 かと言って、手の空いている天使を向かわせたのでは、有事の際に対処できるかどうか。

 神魔と天使の間には、大人と赤子程の力差があるのだ。


 神にも追い付く程の実力を持つ天使もいるが、それは今のところミカエルだけだ。

 三人いた大天使は、一人は転生し、一人は地位を剥奪され力を削がれた。

 最後の大天使がミカエルなのだ。

 アビスに行かせるとしたら、ミカエル以外あり得ない。


「……仕方ありませんね。サタンの許へ行き、事情を説明してきていただけますか?」


「はい」


「くれぐれも魔王たちと問題のないよう、気を付けて」


「承知しております」


 ミカエルとジュピターは静かに資料室を出て、奥の間に入っていった。

 そこは最高神の部屋の、更に奥にある小さな部屋。

 材質の判らない青白い石の床に、部屋の隅一杯まで魔法陣が描かれている。

 薄暗い部屋の中には灯りになるものは置いていない。

 それでも部屋の隅々まで見渡せるのは、床に描かれた魔法陣が、淡く青い光を帯びているからだ。


 ジュピターとミカエルは魔法陣を挟み、部屋の両端に立った。

 五芒星を模る紋様の、頂点に位置する場所にジュピターが立ち、反対側の入り口付近にミカエルが立っている。


 ジュピターが魔法陣に手をかざし、小声で何か呟くと、魔法陣の光が青から金色へと変化する。


 カエルスとアビスの間に築かれている結界は、ゼウスが去った後も存在し続けている。

 ゼウスに代わり、ジュピターが新たに結界を造り直したからだ。

 アビスから現れる獰猛な魔物からカエルスを守るために、アビスと友好関係を築き始めているこのときでも、結界を外す訳にはいかない。


 今、この結界を抜ける道を自在に造ることができるのはジュピターと、アビスの王であるサタンだけなのだ。

 ジュピターの呪文が終わると、魔法陣は益々強く輝いた。

 ミカエルが魔法陣の中央へと足を踏み出した。

 そのとき。


 ひゅっ


 と、空気が裂ける音がした。

 それと同時に、ミカエルの目の前に見知った人物が現れる。


「間に合った!?」

「ばっちりです!」

「ちょっとドコ触ってんのおばか!」


 また、それと同時に聞き覚えのある声も降ってきた。


「な……!?」


 ミカエルが驚愕の表情で固まる。

 ミカエルの目の前に現れたのは、ラファエルとルシエル、レミエルの三人だった。

 ジュピターも口許に手を当て 驚いたように四人を見つめている。


 呪文が完成した直後に現れたのが、幸いだったのか災いだったのか。

 魔法陣の輝きはミカエルだけでなく、三人までも呑み込んで弾けた。


 再び薄青い光を取り戻した魔法陣は、残されたジュピターを青白く照らしている。

 そこに佇むばかりのジュピターは静かに魔法陣を見下ろし、ぽつりと呟いた。


「あら、まぁ……何とかなりますかしら……?」


 案外楽観的なジュピターであった。




 ぶわっと光が広がり、やがて収束して消える。

 薄暗い部屋の中、かすかに黒い光を明滅させる魔法陣の上には、ミカエルを含む四人の天使の姿があった。


 先程までいた部屋ではない。

 全体的に黒い石材で覆われたこの部屋には、黒い逆五芒星の魔法陣が描かれている。


 不気味な黒い光に照らされて、ミカエルの顔がぼんやりと浮かび上がった。

 眉間に皺を寄せて、三人の天使たちを睨み付けている。


「何てことをしてくれるのだ、馬鹿者!」


 珍しく声を大きくして怒鳴るミカエルを見て、レミエルはばつが悪そうに目を逸らす。

 ラファエルは相変わらずへらへらしていたが、その頬には一筋の冷や汗が流れていた。

 ルシエルだけが、いつもの調子でのらりくらりとミカエルの言葉を躱している。


「まあまあ。旅は道連れって言うじゃないですか。

 水臭いですよ、僕ら一緒にアビス巡りした仲なのに」


「ふざけるな! どれだけ軽率なことをしたか解っているのか!」


 ミカエルの声が、狭い部屋の中に響く。

 そのとき、部屋の扉が重い音を立てて開かれた。

 ミカエルの声が聞こえたのか、彼らが来るのを見越していたのか、開いた扉の先にいたのは、アビスを治める地底の魔王、サタンだった。


「なぁ〜にやってんだ俺様の城で」


 開けた扉に寄り掛かり、サタンはミカエルたちを睨み付けた。

 どうやら、ミカエルたちは無事にアビスへと来られたらしい。

 サタンの存在が、それを証明している。


 ミカエルは他の連中が余計なことを言う前に、サタンの前へと歩み出た。


「ご無礼の程、ご容赦を。火急の用件にて貴殿に確認したいことがあって参りました」


 ミカエルは丁寧に腰を折る。

 その堅苦しさを拒むように、サタンはフンと鼻鳴らしてミカエルを見下ろした。


「いったい何の用だ? 定例会議はまだ先だろう」


 サタンは表情を変えずに口を開いた。

 どうやら、カエルスで起こった異変には気付いていないようだ。

 そこへルシエルが、ミカエルを押し退けるように前に出る。

 眉を吊り上げるミカエルに構わず、ルシエルはサタンに訊ねた。


「こちらに、サディンが来ていませんか?」


「あのちっこいガキのことか? 奴がどうした?」


 サタンはルシエルの表情を探るように目を細める。

 しかしルシエルはミカエルに押し返されてしまって、その表情を読むことは叶わなかった。


「いい加減にしろ!

 ……失礼。実は昨日、カエルス神殿内にて突然不審者が現れたのです。その者はすぐに姿を消し、それとほぼ同時刻に門番が行方不明になりました。

 捜索は続けていますが、未だ発見ならず、何らかの方法でアビスに侵入した可能性を考慮し、こうして訪ね参った次第です」


 片手でルシエルを押さえ付けながら、ミカエルはサタンに事情を説明した。

 サタンは扉に寄り掛かったまま腕組みし、ミカエルの話を聞いている。

 何か思うところでもあるのか、指先で形の良い顎を掻きながらぽつりと呟いた。


「神殿内に……か」


 その様子を見て、ルシエルだけでなくラファエルとレミエルまで、ミカエルを押し退けて前に出た。


「あんた、何か知ってんの!?」

「ねーねーこの人誰ー?」

「サディンは、どこにいるんですか!?」


 三人に一斉に詰め寄られ、サタンも思わず後退る。

 押し退けられたミカエルが、怒りの形相で三人を無理矢理引き戻した。


「お前たち、止めろ!」


「ちょっとミカエル……!」


「黙らないと二度とその口を使えなくしてやるぞ!」


 どうやら、ミカエルは心底ご立腹のようだ。

 般若の如き形相に、レミエルとラファエルは慌てて自分の口を押さえた。

 ルシエルも不満顔ながら、一応口をつぐむ。

 ミカエルは一つ咳払いして、サタンに向き直った。


「部下が失礼した。

 本題に戻るが、その不審者がこちらに侵入した形跡はありますか? それだけでも、お聞かせ願いたい」


 サタンはしばらく黙り込んでいたが、ミカエルの顔を見下ろし、真剣な表情で口を開いた。


「その前に訊かせろ。その不審者とやら、どんな成りをしていた?」


「見た目は八歳前後の子供で、左目、左手、左足を包帯で覆っていた。白い髪に赤い瞳の男児だ」


 ミカエルはヘルメスから見せられた不審者の姿を思い出しながら、なるべく細かく説明した。

 それを聞いたサタンの目が見開かれる。

 明らかに何かを知っている様子だ。


 ミカエルたちはサタンの言葉を待った。

 サタンは静かに口を開く。


「……まずいことになったな。そうか、あのジジィがいなくなってすぐに動き出さなかったから、油断していた……」


 眉根を寄せて舌打ちする。

 事態を把握しきれていない天使たちは、わずかに眉をひそめるだけだ。

 サタンは彼らには構わずぶつぶつと呟き続ける。


「そうすると……いや、既に入り込んでいる可能性も……」


「サタン?」


 ルシエルに声をかけられ、サタンはようやく我に返った。

 珍しく動揺している。

 そんなサタンの姿を見るのは初めてで、さしものルシエルも困惑しているようだ。

 サタンは彼らを見渡してはっきりと宣言した。


「ああ……この件は貴様たちの手に負えん」


 あまりにきっぱり言われてカチンときたのだろう。

 レミエルが明らかに不機嫌そうに眉を寄せた。

 事態を把握しきれていないミカエルやルシエルも、訝しげにサタンを見つめる。

 サタンは皆を魔法陣の部屋に押し込め、自らも中に入り扉を閉めた。


「その神殿に現れたという不審者は、おそらくアイテールだ」


「アイテール?」


 聞き慣れない名前に、ルシエルたちは首を傾げた。

 サタンの話は続く。


「その昔、俺様とゼウスとで、一人の神を封印した。その身体を二つに分け、カエルスとアビスに幽閉していたのだ。

 あのジジィがいなくなったことで、封印が解けたのだろう。すぐに動かなかったのは、力を回復させるためか……」


 サタンの話を聞いていたミカエルとルシエルは、あることに気付いていた。

 レミエルとラファエルは気付いていないようだが。


 サタンは、最高神だったゼウスと二人で『封じた』と言った。

 『倒した』ではなく、『封じた』と。

 それはとりもなおさず、この世界で最強の二人でも、その子供を倒すことができなかったことを示している。

 その子供は、それ程までに強力な力を有しているということだ。


 想像していた以上に危険な相手なのだと理解したミカエルの背を、冷たい汗が伝った。

 軽く緊張を覚える。


 サダルメリクは無事なのだろうかと、ミカエルは門番が消えたカエルスの門を思い出した。

 あそこに残された血痕を見るに、無事とは言えない状況だろうとは推測できる。

 最悪の事態も考えなければなるまい。

 ちらりとルシエルを見やると、彼も同じことを考えていたのだろう。

 祈るように目を閉じているその顔が、心なしか青ざめて見えた。


「その子供を二つに分けたとき、便宜上名前を付けた。

 カエルスに封じたのがアイテール。アビスに封じたのがエレボス。

 おそらくアイテールは、エレボスを求めてここに来るはずだ。しかし、奴の能力が問題……」


 説明を続けていたサタンが、急に言葉を切った。

 どうしたのかとサタンの顔を見上げれば、彼は大きく目を見開きその身を震わせていた。


「サタン……?」


 ルシエルが声をかけるが、サタンは返事をしない。

 それどころか、何もしていないのに彼の額から血が流れてきたのだ。

 赤い雫が頬を伝い、顎から滴り落ちる。


「サタン!?」


 倒れそうになった彼を、ルシエルとミカエルが両脇から支えた。

 サタンは驚愕の表情で己の血を拭い取る。

 掌が真っ赤に染まった。


「サタン、どうしたんです? いったい、何が!?」


 ルシエルが軽くサタンを揺さ振ると、サタンは目だけ動かしてルシエルを見た。

 その唇が薄く開き、かすれた声で言葉を紡ぐ。


「奴の仕業だ……! くそっ、俺様が遅れを取るとは……」


 奴、とは訊かなくても解る。

 アイテールだ。

 やはりアイテールはアビスに来ており、何らかの方法で攻撃を仕掛けてきたのだ。


 いったい、どんな能力を使ったのかは解らないが、地獄王であるサタンが膝を付く程、強い力を持っていることは解った。

 おそらく、ミカエルはおろか、他の天使たちでは太刀打ちできまい。


 しかも、サタンが攻撃を受けたとき、敵の姿はどこにも見えなかった。

 少なくとも離れた位置から、障害物など関係なく攻撃できるようだ。

 その証拠に、この部屋の壁には傷一つ付いていない。


「他の……連中は……!」


 サタンが小さく呻く。

 城の中にいる他の悪魔たちも攻撃を受けている可能性は高い。

 ミカエルはサタンをルシエルに預け、部屋の扉を勢い良く開いた。

 すぐ外の通路には誰もいない。

 周囲を警戒しながら、ミカエルはレミエルを呼んだ。


「レミエル、私の後に続け。前方、及び左右の監視を頼む」


「はいっ!」


 レミエルはすぐにミカエルの後ろに並び、遠隔視の能力は発揮した。

 とりあえず半径数百メートル四方を見回したが、アイテールの姿は見えなかった。


「周囲に敵の姿は見えません!」


「よし、ルシファー、ラファエルもそこから出ろ。城の中でまだ無事な者を捜しながら、怪我人を収容できる場所へ向かう。

 構わんな? サタン」


 ミカエルは背後を振り返り、サタンに声を掛けた。

 一応確認する形をとってはいるが、実質命令に近い。


「ち……いいだろう」


 サタンは溢れ続ける血を押さえながら、ルシエルの肩を借りて部屋を出た。

 その後ろにラファエルが続く。


 五人は急いで通路を駆け抜けた。

 途中で悪魔たちを数人発見したが、誰もサタンと同じように額から血を流して倒れている。

 神と同等の力を持つ悪魔が、全員抵抗もできなかったという事実が、天使たちの危機感を煽る。


 ひとまずサタンの怪我を手当てするため、彼の自室に急いだ。

 サタンの部屋にたどり着くまで、無事な悪魔には一人も出会えなかった。

 皆、どこかしら血を流して倒れている。


「サタン、誰か治癒能力を持つ方はいないんですか?」


「癒し系悪魔なぞいる訳ないだろうが」


 サタンの怪我の具合を看ながらルシエルが訊くが、あっさりサタンに否定されてしまった。

 悪魔の力は破壊的なものがほとんどで、治癒能力を有する者はいない。


「カエルスから助っ人を呼ぶより他にないか……ジュピター様に連絡を取りたいのだが」


 ミカエルが椅子に座ったサタンを見下ろす。

 サタンは壁に掛けてある、顔程の大きさの黒い鏡を指差した。


「会話だけなら、そこに手を付いて念じるだけで可能だ」


 ミカエルはすぐに言われた通り、何も映さない黒い鏡に手を付いた。

 頭の中で数度ジュピターを呼ぶと、本当にジュピターから返答がきた。


 ミカエルが事情を説明している間に、レミエルとラファエルは城中の怪我人を広間に集めていた。

 全員を収容できるような広い部屋は、広間しかなかったのだ。

 レミエルが遠隔視で怪我人を捜し、ラファエルが瞬間移動ですぐさま怪我人を連れてくる。

 広間は徐々に怪我人で一杯になっていった。


「はっ、カエルスの連中に借りができたな」


 頭に包帯を巻いたサタンが、不敵な笑みはそのままにミカエルを見上げた。

 しかし声には柔らかい響きが見え隠れしている。

 これでも、ミカエルたちの迅速な対応には感謝しているのだ。


「元は、こちらがアイテールを逃がしたことが原因だ。

 貴殿が気にする必要はない」


「それを言うなら、アイテールを滅さず封じるに止まったのが、そもそもの原因だろうよ」


 静かに首を振るミカエルを遮り、サタンは立ち上がりながら言った。

 傷自体は然程酷いものではないはずなのだが、何故か足元が覚束ない。

 ルシエルが肩を貸そうとすると、サタンは片手でそれを遮った。


「いい。それより聞け。奴の能力のことだが……」


 サタンはミカエルとルシエルに、アイテールの持つ特別な能力を話始めた。

 その力は確かに、今まで見たことのない『特殊』な能力だった。




 広間に集められた怪我人たちに、カエルスから派遣された天使が治癒の術を施している。

 かつて治癒の大天使と謳われたリリスに比べれば大分力は弱いが、小さな傷ならばみるみる治っていく。

 だが、彼らもサタンと同じく、傷自体は治療できるのだが、何故か起き上がることはできなかった。

 アイテールが何かしたのは間違いない。


 助けられた悪魔たちは、皆一様に複雑な表情をしていた。

 カエルスとアビスの確執のためである。

 しかし、上層部であるサタンやジュピターが友好関係にあること、天使たちに助けられた事情などから、嫌な顔もできないのだ。


 そんな奇妙な空気が漂う広間に、サタンとミカエル、ルシエルが入ってきた。

 皆の視線が、彼らに注目される。


「よく聞け貴様ら。このアビスに今、昔俺様とゼウスが協力して封じた犯罪者が逃げ込んでいる。今回の襲撃もそいつの仕業だ。

 おそらく、アビス中の住人は同じく襲撃を受けていることだろう。俺様たちには今、自由に動かせる手足がない。

 そこで、カエルスの神、及び天使に協力を仰ぐこととした」


 ざわっ……


 サタンのその宣言に、広間にいた悪魔や天使たちから騒めきが起こる。

 アビスとカエルスが協力するなど、今までにない事態だ。

 皆が困惑している様子が、手に取るように解る。

 ミカエルはサタンの横に並び、天使たちを見渡した。


「天使たちに告ぐ。これよりアビス中の集落に赴き、悪魔たちの救援活動を開始する。

 数人で組み、各地の集落へ飛んでくれ。僻地へはラファエル他、移動能力を持つ天使を付ける」


 天使たちは多少途惑いながらも、ミカエルの言葉に従った。

 サタンに用意してもらった地図を元に、周辺の集落へと飛んで行く。

 やや釈然としない天使や悪魔たちもいたが、サタンとミカエルがにこやかに握手する様を見せられ、慌てて指示に従った。


 これは、サタンとジュピターが考えたことだった。

 この状況を上手く利用して、カエルスとアビスの友好関係を確かなものにしようとしたのだ。


 いくら上辺だけの言葉を並べたところで、納得できない者はいるだろう。

 だが、こうして目の前で魔王と天使が手を取り合う姿を見せられれば、この気持ちは伝わるはずだ、と。

 明日にはどうにか都合をつけて、ジュピターを含む数人の神が、アビスに訪れることになっていた。

 友好関係の補強はあくまで二次目的であり、アイテールを捕獲することが第一の目的だからである。


 悪魔たちが動けない以上、アイテールに対抗できるのは神しかいない。

 それに、ここでアイテールを捕まえないことには、カエルスとアビスの関係を修復することも困難になる。

 逆に言えば、アイテールさえ捕獲できれば、カエルスがアビスを救ったという形になる。

 恩を売るつもりはないが、これをきっかけに両者の関係を良くすることはできるだろう。


 だがここで問題になるのが、消えたサディンの存在だ。

 既にアイテールに殺されているならどうしようもないが、もし人質として盾にされた場合。

 その場合は、サディンを見捨てる覚悟が必要かもしれない。

 だがそれは、本当に最後の手段だ。

 出来うる限り、彼の発見、救出を最優先に考えている。


 そしてここに、サディンの犠牲を最も忌避すべしと集まった者がいた。

 ルシエルとラファエルとレミエルである。

 彼らは神の到着を待たずして、ミカエルの目を盗み魔王の城から飛び出した。


「政治が絡むとこれだから……もう二度とサディンを犠牲になんてさせる訳にはいきません!」


「もちろん! サッちょんは親友だもん」


「そうよ。それに、あの子が危ないってことは、カストルだって危ないってことじゃない!

 そんなのダメよ! あんな可愛くて賢いお人形、他にいないんだからね!」


「あなたがついてきた理由って、それだったんですね……」


 三人の天使は土に覆われたアビスの空を舞う。

 目的の人物を捜して、当てもなく。

 レミエルは気合いを入れて、遠隔視能力を発揮した。

 今度こそ見付けてみせると、自分に言い聞かせて。


 城の周辺から捜索を始めて、しばらく経ったそのとき。


「い、いたぁーっ! あっち、崖の上の森!」


 レミエルが大声で叫んで、北の方を指差した。

 ルシエルたちがそちらを見ても、森など見当たらない。

 かなり遠い場所のようだ。


 三人は頷きあって、レミエルが指した方角へと羽ばたいた。

 サディンを助ける、そのために。

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