胎動
あの駆け抜けるような五日間の出来事が、この世界を変えた。
それはとてつもない苦難の道に乗り上げたようで、しかしとても素晴らしいことなのだと、彼は思うのだ。
ルシエルは病院のベッドに横になったまま、窓を見上げる。
四角く切り取られた青いスクリーンに、真っ白な綿菓子が千切れては流れ、また結合し、刻一刻と違う映像を映し出す。
この景色をずっと眺めているのも退屈ではあるが、この世界の最高神であるジュピターに絶対安静を言い渡されてしまったため、先程から寝転がったままなのだ。
先日の事件で過ぎた力を行使したことにより、内側に針を仕込んだギプスで全身を固められたような、重度の筋肉痛に襲われているので、動きたくても動けないような状態ではあるのだが。
病室の外には、事件について取材したいと、神殿広報部のヘルメス及びその部下である天使が押し寄せている。
これもジュピターから面会謝絶を言い渡されており、彼らが傾れ込むようなことはないが、正直、多人数に囲まれてインタビューなど、頼まれてもやりたくない。
こん、と小さな音が病室のドアから聞こえた。
ヘルメスが叩いたのかと思ったが、違う。
ルシエルの返事を聞く前に部屋に入ってきたのは、ミカエルとサディンだった。
「時雨の見送りに行ってきた。無事に身体の方に戻れたようだ」
そう言いながら、車椅子に乗ったサディンを押して、ルシエルのベッドに近寄る。
ふとドアの向こうを見ると、中に入れないヘルメスが羨ましそうにミカエルを見ていた。
ドアは自動で閉まったため、その顔を見たのも一瞬だったが。
ルシエルは横になったまま、ミカエルを見上げて「そうですか」とだけ言った。
ミカエルも自分と同じく大きな力を行使したはずなのだが、一人だけけろりとしている。
ルシエルにはそこだけが疑問であったが、流石大天使といったところなのだろう。
自分もまだまだ精進が足りない。
車椅子に座っているサディンも、ルシエルと同じように辛そうな様子だ。
どうやら彼の方は、ルシエルと同じく地獄の筋肉痛を味わっているらしい。
「用はそれだけですか? サディンまで無理に連れてきて」
サディンは今の自分と同じく、動くだけでも辛いはずである。
それをわざわざ連れてきたということは、それなりの理由があるのだろう。
ミカエルは静かに首を振る。
「別々の部屋に置いておくと、いちいち診察に行くのが面倒なのだそうだ」
誰がそんなことを……と訊こうとしてやめた。
そんなことを言うのは、この病院の院長であるアスクレピオスだけだ。
そんな理由で無理矢理部屋から追い出されたサディンが、哀れでならない。
「なんて横暴な……」
引きつった苦笑を浮かべて、ルシエルは溜め息と共に呟いた。
そして再び、窓の外に目を向ける。
相変わらず廊下では、ヘルメスが取材させろと喚いているが、ドアに遮られているため、ただの囀りにしか聞こえない。
ミカエルもサディンも、そのまましばらく黙っていた。
たっぷり数分は黙ったままだったろう。
窓の外を白い鳥が飛んでいくのを目にして、ミカエルはようやく口を開いた。
「ルシファー、時雨から伝言を預かっている」
「……何と?」
時雨からの伝言と聞いて、ルシエルは顔ごとミカエルの方を向く。
それだけでも首や肩に痛みが走るが、そんなことがどうでもよくなるくらい、その話に興味があった。
それはサディンも同じだろう。顔を上げてミカエルを見ている。
ミカエルは、一拍間を置いてから、時雨に託された言葉を口にする。
「世界一の長寿になって自慢してやるから、それまで待っていろ。だそうだ」
一言一句漏らさずに聞いていようとミカエルを凝視していたルシエルは、小さく笑って目を閉じた。
「彼らしいですね」
嵐のように通り過ぎた五日間が、頭の中に蘇ってくる。
初対面でいきなり変態呼ばわりされ、道中ではポチタマ扱いされ、命の危機に瀕したり、知り合いに殴られたり……
…………思い返すと、ろくなことがない。
ルシエルはちょっとだけ、人生ってなんだろう、と遠い目をして考えた。
「どうしたルシファー?」
それに気付いたのか、ミカエルがルシエルの顔を覗き込む。
ルシエルはなんでもないと言って、ミカエルから目を逸らした。
「そうか。ゆっくり休め」
ミカエルはそれだけ言うと、サディンを置いて病室から出ていってしまった。
残されたサディンは、俯いたまま車椅子に座っている。
心なしか、顔色が悪い。
サディンの体調が良くないのかと、ルシエルは眉をひそめた。
「サディン? 大丈夫ですか?」
ルシエルの問いにも、サディンは答えない。
ただ悲しげに俯き、胸の辺りを押さえている。
「サディン?」
普段からは想像できない程の落ち込み様に、ルシエルは身体が痛むのも忘れて起き上がった。
サディンは目に涙まで浮かべている。
そんな顔を見るのは初めてで、ルシエルは目を丸くした。
「どっ、どうしたんです!? どこか痛むんですか?」
「…………五日」
サディンは俯いたままぽつりと呟いた。
「はい?」
何のことかさっぱり解らず、ルシエルは聞き返す。
サディンは眉根を寄せて悲しげに口を開いた。
「まともに動けるようになるまで、五日はかかると言われた……」
「はあ……」
それがどうかしたのだろうか。
ルシエルは、急に起き上がったことでずきずきと痛む身体に顔をしかめた。
まあ、これがあと五日も続くと思うと憂鬱だが、泣くほどではないと思う。
いったい何をそんなに思い詰めているのかと、ルシエルはサディンを注視した。
サディンは徐に体内からカストルを呼び出した。
サディンの魂の中にいる、もう一人の魂。
サディンの祖父が創った人形が、いつしか魂を宿し、サディンと共生するようになったのだ。
カストルは先日の事件で破損しており、左腕の肘から先がなくなっている。
その痛々しい姿を見て、サディンは思わず目から涙を溢れさせた。
「あと五日もカストルを修理できないなんて……!」
ついに、わっと泣き出しカストルに抱きついた。
カストルは残った手で励ますように、サディンの頭を撫でている。
ルシエルはがっくりと肩を落とし、再びベッドに横になった。
「何かと思ったら、そんなことですか……」
ルシエルが思わず呟いた言葉を聞いて、サディンは彼を睨み付けた。
「そんなこととは何だ!」
そのあまりの迫力に、ルシエルは思わずベッドから落ちそうになる。
サディンと馴染みのない者は驚くかもしれないが、サディンはカストルのこととなると人格が変わる。
とにかく、この人形の悪口は許さないのだ。
幼い頃から一緒だったサディンにとって、人形と言えどカストルは兄弟同然。
たとえ友人のルシエルの言葉でも、許してはおけない。
「カストルは俺の兄弟だぞ。今度そんな口をきいたら人相が変わる程殴るからな!」
「あ、いや、すみません……」
ルシエルは素直に謝った。
今回は気が弛んでうっかり口を滑らせただけだが、過去に充分痛い目を見ている。
あのときは酷かった。一週間近くシカトされまくったうえ、少しでも近寄ろうものなら凶器が飛んできた。
ルシエルは当時を思い出し、引きつった顔で全身を震わせた。
あんなのはもう懲り懲りだ。
サディンはカストルに手伝ってもらってベッドによじ登る。
二人並んで寝転がって、窓の外を眺めた。
ベッド脇に座ったカストルは、ミカエルが置いていった荷物を開き、冷蔵庫にプリンを仕舞っている。
ちなみに、このプリンは最高神からお見舞いの品としていただいたもので、こだわり卵と産直のミルクで作られた逸品だ。
「何と言うか……」
徐にルシエルが口を開く。
窓から差し込む日の光が、部屋の中を明るく暖かく照らす。
耳を澄ませば、小鳥の囀りが聞こえた。
「平和ですねぇ……」
「……そうだな」
穏やかに、緩やかに流れていく時間。
退院したあかつきには、事情聴取やら広報部からの取材やらで忙しくなるだろう。
そのことはなるべく考えないようにしながら、二人はぼんやりと窓の外を眺めていた。
「あっ、おっはよ〜う」
間延びした声と共に、サディンは背後から抱きつかれた。
あまり高身長とは言えない自分よりも、更に低い位置にある相手の顔を振り向いて見下ろし、サディンは不機嫌そうに眉を寄せた。
「往来で抱きつくな。恥ずかしい奴……」
今し方サディンに抱きついた少年は、にぃっと笑って益々きつくサディンを抱き締める。
「いいじゃーん。こんなの挨拶のハグだもーん。サッちょんは照れ屋さんだにゃ〜」
少年はサディンとは対照的に、にこにこと笑みを絶やさず白い翼を広げる。
彼の名はラファエル。れっきとした天使である。
サディンとは同期で生れ故郷も近かったこともあり、ラファエルが一方的にサディンを慕っているのだ。
サディンも万更ではない様子で、子供のように戯れついてくるラファエルに、表面上は嫌そうな顔をしながらも付き合ってやっている。
サディンたちが退院してからというもの、ラファエルは暇を見つけてはサディンの許を訪れるようになった。
ずっとサディンのことを心配していたため、そのような行動をとっているのだろう。
それを解っているからこそ、サディンもラファエルが来ると仕事の手を休め、ラファエルのお喋りに付き合っているのだ。
「大体、往来ったって、ここ誰も来ないじゃん。ねーねー、サッちょん、一緒におやつ食べよ?」
「……少しだけだぞ」
苦笑いしながらラファエルの手を解くと、サディンはウエストポーチから菓子を取り出した。
このところほぼ毎日のようにラファエルが遊びに来るため、こうして彼のための菓子を用意してある。
今日のおやつは、ピーナッツをチョコレートでコーティングしたもので、蓋についている当たりくじを集めると、お菓子の詰め合わせが貰えるというものだ。
ラファエルが集めていると聞いて、これを選んだ。
案の定、ラファエルは目を輝かせて喜んだ。
「ああーっ、サッちょん、それチョコピーじゃん!
ねねね、俺開けていい? いい?」
「はいはい」
笑いながら手渡した箱を、ラファエルが開ける。
残念ながら、くじはハズレだったようだ。
ラファエルはがっくりと肩を落とし、中からチョコを一つ取り出して口に放った。
「ああ〜、ハズレだぁ〜……」
「気を落とすな。また買えばいいだろ?」
「えっ、サッちょん買ってくれんの!?」
「自分で買え」
べしん
サディンに軽く頭を叩かれ、飛び付こうとしていたラファエルはその場で転んでぽてくり倒れた。
「痛ぁ〜いサッちょん酷ぉ〜い」
下から見上げるラファエルを、サディンはくすくす笑いながら見下ろす。
あんまり楽しそうに笑うものだから、ラファエルも嬉しそうに笑った。
天の国の門前で、二人は声を上げて笑う。
一方その頃、神の住まう社では、他の天使たちが忙しなく働いていた。
天使たちを束ねる大天使とて例外ではない。
寧ろ、彼はここで最も忙しい人物だろう。
大天使ミカエルは、自分のために与えられた執務室で、大量の書類の前に突っ伏していた。
先日の事件で少し神殿を留守にしていた間に、書類の山が山脈になっていたのだ。
サディンやルシエルたちが休んでいる間も、ミカエルは一人黙々とこの書類山脈と格闘していた。
最初は終わる気がしなかったが、やってみればなんとかなるもので、部屋を埋め尽くしていた山脈も、今では小高い山一つを残すだけになった。
ほぼ毎日徹夜で働いていたため、疲労も限界に達していたのだろう。
ほんの数分前に、ミカエルはペンを握り締めたまま、机に頭を乗せて動かなくなった。
魂が抜けたような、とは、正にこの状態を表すのであろうと、ルシエルは思った。
ミカエルに呼び出されて来たのはいいが、肝心のミカエルが書類にKOされていたのでは話にならない。
少々酷かと思ったが、ルシエルはミカエルを容赦なく揺り起こした。
「ミカエル、起きてください。朝ですよ。ご飯食べちゃいますよー」
激しく揺り動かされて、ミカエルは目を開いた。
別にご飯に反応した訳ではない。決して。
「……私はどれ位眠っていた?」
「僕が来たときにはもう死んでましたけど、そんなに時間は経ってないと思いますよ?」
軽い目眩を覚えながらも、ミカエルはよろよろと顔を上げる。
目の下に濃い隈をこさえて、些かやつれたように見えるのは、気のせいではないだろう。
「ちょっとミカエル……あなた、ちゃんと休んでます?」
「睡眠はとった」
「今のは睡眠じゃなくて、気を失ってたって言うんですよ」
呆れたように言うルシエルを見上げ、ミカエルは袖の跡が残る頬をこすった。
気を抜くとまた意識を飛ばしてしまいそうで、ミカエルは朝煎れておいた濃い目のコーヒーを口に含む。
それはすっかり冷めてしまっていた。
「で、いったい何の用ですか?
……まさかこの仕事を手伝わせるために呼んだとか?」
未だ呆れた半眼のままで、ルシエルは机を挟んで正面に回る。
ミカエルはコーヒーのカップを置いて、引き出しから薄い書類の束を取り出した。
「それは名案だな。手伝ってくれるなら有難い」
「その書類は?」
「カエルス入国門番人単独就業撤廃、複数人による交代制導入の企画案だ。いつまでも、サダルメリク一人に門番を任せる訳にはいくまい」
言いながら手渡された書類を捲り、ルシエルは目を瞬かせた。
発案者の名はミカエルになっている。
この仕事を片付けながら、こんなものを考えていたなんて……
ルシエルも事件の後始末のために忙しかったとはいえ、そこまで頭が回らなかった。
それはサディンも同じである。
門番は一人というのが当たり前になりすぎていて、思い付きもしなかった。
「後は上からの通告待ちだ。早ければ来週から導入が決定する」
どうやらルシエルたちが知らない間に、ミカエルがすべて手続きを終わらせていたらしい。
改めて尊敬の念を覚えずにいられない。
「あなたという人は……」
「サダルメリクにもそれを届けてくれないか。それと、引き継ぎのためのマニュアルを作っておくように伝えてほしい」
こんな仕事をわざわざルシエルに頼むのも、ミカエルなりの思いやりなのだろう。
ルシエルもつい先日まで、事件の報告書やら始末書やらに追われていたのだ。
これはミカエルがくれた、仕事という名目の休憩なのだ。
「他人のことばかりでなく、自分のことも心配しないと、本当に過労死してしまいますよ?」
天使が過労で死ぬなど、笑い話にもならない。
ルシエルの忠告は受け取らず、ミカエルは再び仕事を続けた。
結局ミカエルが過労で倒れたのは、この二日後のことである。
澄んだ空気を、少し肌寒い夜風が運んでくる。
季節は秋に変わり、故郷の山々は紅葉で赤く染まっている頃だろう。
早いところでは、もう雪が降っているのではないだろうか。
遥か昔に旅立った郷里に思いを馳せ、わずかに口許が綻ぶ。
そんなサディンの頭上で、星が瞬いた。
ここは天空に創られた、魂が集う国カエルス。
言うなれば天国である。
雲のような地面の上に、神が創った箱庭がある。
人々の魂は、死後そこに集められるのだ。
魂は天使によって管理され、新たな輪廻の輪に組み込まれる。
ここはもちろん死後の国であり、人々が生きている世界とは、紙一枚隔てた異なる次元に存在している。
そのため、どんなに最新鋭の衛星でも、このカエルスをカメラに収めることはできない。
かくて魂の楽園たる天国は、生きている人間たちに知られることなく、長く平和の刻を保っていた。
しかし、そんなカエルスを脅かすものもいる。
地獄の怪物たちである。
奴らは時折カエルスに迷い込み、そこに住まう魂を襲う。
そのため、カエルスは国を囲むように高い壁が造られており、中に入るには唯一の門を通らねばならない。
しかも、その門を守るために、腕利きの門番がいるのだ。
サダルメリク――サディンも、その門番の一人だ。
今まではずっと、この少年が一人で門を守り続けていたのだが、最近になり新しい天使が門番として赴任してきた。
今ではサディンも、決まった日に休みをとって、門の内側でくつろいでいる。
ずっと門の外から眺めていた星空は、遥か遠くまで、果てしなく続いていた。
しかし今、家の屋根に登って見上げる星空は、カエルスを守る門と壁に切り取られ、そこから先を見ることはできない。
それでも壁の反対側はずっと遠いので、そちらの空は切り取られることなく見渡せる。
壁に遮られた空を狭いと感じるか、広いと感じるか。
どちらかと問われれば狭いと答えるだろう。
しかし、その狭さは守られているが故であり、寧ろ安心感を覚える。
サディンはちびちびと炭酸水を飲みながら、壁の向こうから顔を出した月を見上げた。
雲一つない空。今夜は絶好の月見日和だ。
あの月を毎晩輝かせるのは、月の女神アルテミスの役目である。
美しく金色に輝いているところを見ると、今日は機嫌が良いらしい。
兄と喧嘩したときなど、赤い月が昇ったりするので人間たちも大騒ぎである。
月見仲間が家に集まってくるのを待ちながら、サディンは一人、お手製の団子を頬張った。
料理の本を見ながら初めて作ったのだが、まあまあ美味くできたと思う。
先日、カエルスの最高神であるゼウスが、カエルスから姿を消すという事件が起きた。
事件の真相は、天使たちを使い、力ずくで世界を統一させようとしていたゼウスを、サディンを含む数名の天使と一人の人間によって食い止めたというものだ。
これはゼウスの跡を継ぎ最高神となった、ゼウスの娘であるジュピターが、カエルス全土に公表したため、衆知の事実となっている。
急に指導者が変わり、神殿内部はかなり混乱しているようだが、ここ数日は随分と落ち着いてきた。
神、及び天使たちの職務見直しや今後の方針なども、順次決定されている。
門番の単独就業も改変され、今では交代制になっている。
そのため、サディンの休日には、新しい家に昔馴染みの友人が訪れるようになった。
友人たちが来るのを待ちながら、サディンは月見団子をもう一つ頬張る。
ぴんぽーん
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
次いで、サディンのよく知った声が聞こえてくる。
「こんばんは。おつまみ持ってきましたよ」
「サッちょーん、いないの〜?」
サディンは屋根の上から身を乗り出して、玄関前に立っている二人を見下ろす。
「こっちだ。上がってこい」
頭上から降ってきた声に気付いて、下の二人は天を仰ぐ。
屋根の縁に手をつき、二人を見下ろすサディンの姿を発見すると、それぞれ手を振って答えた。
サディンの声に従って、二人の天使は羽を広げ地を蹴る。
ゆっくりと屋根の上に降り立ち、持参したスーパーの袋を置いた。
中には酒とつまみが入っていた。転がらないように、屋根との間に雑誌を挟んでストッパーにする。
「いやあ、絶好の月見日和ですねぇ」
先程のサディンの考えと同じことを言うのは、ルシエル。
黒髪を肩まで伸ばし、重そうな黒縁の眼鏡をかけた、背の高い天使だ。
ストレートの髪の、左側だけがやたらと跳ねている。
かつては破壊の大天使ルシファーとして名を馳せたのだが、今から百年程前に、大天使の資格は剥奪されてしまっている。
だがその話はまた別の機会にしよう。
「おおっ、月見団子! うーまそーう」
笑いながらサディンの隣に座ったのは、サディンと同期で天使になったラファエルだ。
象牙色の髪があらゆる方向に跳ねていて、青い瞳は落ち着きなく周囲を見回している。
彼は自ら、サディンの親友だと豪語している。
だが、そう言っているのは本人だけで、周囲の者は餌に釣られた犬のようだと言っていたが。
事実、ラファエルはサディンに会う度に食べ物をせがんでいる。
だって美味しいんだもん。の一言で、何度サディンの飯をたかったことか。
彼は日々、このおちゃらけた態度で周囲を和ませたり、苛立たせたりしているのだ。
が、残念ながら苛立ちの方が比率は大きい。
サディンとルシエルとラファエル、三人は各々飲み物を手に取り、美しい月に向けて乾杯する。
夜中の宴会は、始まったばかりだ。
今より、五ヶ月前に遡る。
暗闇の中で、何かが動いた。
それはゆっくりと手を握り、そして再び開く。
まるで動き方を忘れてしまったかのように、ぎこちない動作だった。
動き方を思い出そうとしているようでもあり、動こうとしているのを無理矢理押さえ込まれているようでもある。
しかしそれは、動きだけでなく意識もはっきりしていないのか、しばらくして眠り始めた。
その短い活動に気付いた者は、誰もいなかった。
「ちょっとぉ、ラファエル出てきなさい」
翌朝、チャイムも鳴らさずに、サディンの家の玄関の扉が開いた。
そこに立っていたのは、腰に手を当てて眉を吊り上げ、怒ったように家の中を見回す女性だ。
金の髪を二つに結った、少々幼い顔立ちの天使。
実際の年齢はもう少し上なのだろうが、おさげと童顔のせいで子供っぽく見える。
サディンたちよりも後から天使になった女性で、名をレミエルという。
「あれれ〜? レミレミじゃん。おっはー」
寝癖も直さずに、リビングからひょっこり顔を出したラファエルが、にへらと笑ってひらひら手を振る。
レミエルはそんなラファエルを見て、益々眉を吊り上げた。
断りもなくずかずかと家の中に入ってくる。
「あんたねぇ、今日はあたしと組んで仕事でしょ! 今何時だと思ってんの!」
怒りの表情でラファエルの胸ぐら引っ掴み、鋭い眼光で睨み付ける。
ラファエルはきょろきょろと部屋を見回し、時計を発見して時間を確認した。
「今くじら〜」
「お・ば・か! 完璧遅刻じゃないの!」
レミエルはへらへら笑うラファエルの頭に拳骨を落とす。
騒ぎを聞き付けて、ルシエルが顔を出した。
「どうしました?」
ラファエルとは違い、きっちり身支度も整えて現れたルシエルに目を遣り、レミエルはさっと身構えた。
「黙れ変態。あんたまで何してんのよ。仕事は……
って、寄るな触るな近付くな!」
レミエルは首を振って、激しくルシエルを拒絶する。
この二人、どうも初めて会ったときから、馬が合わないのだ。
ルシエルの方はあまり気にしていないようなのだが、レミエルは彼を毛嫌いしている。
恐らく、ルシエルの性格が悪いことが、原因の一つだろう。
「失礼ですね……昨日は中秋の名月でしたから、お月見をしてたんですよ。
ラファエルも、今日は休みになったのだと言ってたんですが」
「うん。休みになるといいな〜って思って」
頭に大きなたんこぶを付けたラファエルが、へらっと笑って舌を出す。
その反省も何もない態度に、レミエルは再度ラファエルの頭を殴った。
「おばか! 早く行くわよ! あんたのせいで怒られるなんて、まっぴらなんだからね!」
ずるずるとラファエルを引きずって家を出る。
ラファエルは引きずられながら、ルシエルに手を振った。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
今より、四ヶ月前に遡る。
暗闇の中でそれは、ゆっくりと両手を握り締めた。
一月前よりは流暢に指を動かしている。
それでも、まだぎこちない。
腕を持ち上げてみた。
なかなか思うように上がらない。
足を上げてみても、同じようなものだった。
そのうち、眠気に襲われて、それは再び眠りについた。
「おはようございます。起きてますか?」
ルシエルは寝室のドアを開けて、中を覗き込んだ。
とうに朝日は窓際から撤退し、斜めに差し込む光は薄いカーテンに阻まれ、部屋の中は朝より薄暗い。
丸くなった毛布の中から、小さな呻き声が聞こえてきた。
ベッドの上で、サディンが俯せに寝ている。
薄く目を開くが、顔色が悪い。
「大声出すな……気持ち悪い……」
青い顔で呟いて、頭を押さえる。
どうやら二日酔いのようだ。
実はサディンはほとんど酒が飲めない。
にも拘らず、ルシエルとラファエルが、サディンのジュースにこっそり酒を混入したのだ。
ほんの悪戯心というやつである。
すぐに酔いが回ったサディンは、あっさり昏倒してしまった。
悪戯好きなルシエルとラファエルが、顔に落書きしたり他にも色々悪戯したようなのだが……本人の名誉のために黙っておこう。
実際、サディンの顔には、昨夜の悪戯の名残で、額や頬にうっすら落書きの跡が残っている。
油性ペンを使わなかったのは、なけなしの良心というやつである。
今日が休みの日で本当に良かったと、サディンは心の中で呟いた。
こんな状態では、門番の仕事などできはしない。
寝返りをうつだけで、ガンガンと巨大なドラを打ち鳴らす頭を抱え、サディンはぐったりと伸びている。
ルシエルは、流石にやりすぎたか、と微妙に反省の色を滲ませ、頭痛薬を取りに行った。
早々に酔い潰れたサディンに、面白がってあんなことやこんなことをした張本人である。
多少は負い目引け目を感じていたりするのだ。たぶん。
ちなみに、サディンはどう見ても未成年だが、天使としては二百年以上活動している古株である。
見た目と実働年数のギャップは、天使たちにはよくあることだ。
天使は亡くなった人間の魂で、自我の強い者だけがなれる、天国のエリート職なのだ。
外見年齢は、享年に由来する。
そのため、見た目が老人な天使もいるにはいる。
だが、それでは活動に支障が出るという理由で、少し若い年齢に設定して、器となる肉体を作成することが多い。
だから、見た目若いのに爺言葉な天使もいたりする。
断っておくが、サディンもルシエルもラファエルも、外見年齢そのままの天使だ。
ルシエルの方が、サディンたちより実働年数は下だが。
ルシエルが持ってきた薬を飲んで、サディンは再び横になる。
しばらくは動けそうにない。
この殺人的な頭痛が治まったら、とりあえずルシエルを一発殴ってやろう。
それまでは、回復に集中せねば。
重い溜め息を吐いて、サディンは頭から布団を被った。
今より、三ヶ月前に遡る。
それは少しずつ手足を動かすことに成功していた。
今では肩の上まで腕を上げることができるし、その場で足踏みをすることもできる。
しかし、何故だか左半身が妙に重く、そちらだけ思うように動かせないのだ。
それは幾分はっきりしてきた思考で、自分が置かれている状況を理解しようと、周囲を見回した。
確実に、眠り続ける時間は少なくなっていった。
昼頃になれば頭痛も吐き気も随分楽になってきて、サディンは昼食を作るために寝室から出てきた。
ルシエルはとりあえず一発殴ってから、家を追い出した。
あんなのが家にいたら、休みたくても休めない。
買い置きしてあった卵とハムで、ハムエッグを作る。
一人暮らしは長いのだ。この程度の料理など、朝飯前である。
いや、今は昼飯前だが。
出来上がった昼食を一人で食べながら、午後の予定を考える。
そろそろ切れそうな食材があるから、近所のスーパーに買いに行こうか。
そういえば、今朝の新聞にチラシが入っていたはずだ。
安売りしてるものをチェックしておかないと。
やたら主婦じみているが、それは仕方ない。
何しろ、生前からあまり裕福な家庭ではなかったため、節約癖がついているのだ。
いくら天使の収入が良いといっても、それは譲れない。
カエルスの物品は、すべてにおいて割高なのだ。
天使にならず、輪廻の輪に戻される魂たちには、収入源がない。
そのため、彼らにはすべて無料で提供する代わりに、天使や神には多額の税が掛けられている。
消費税八十パーセントはほとんど詐欺に近いが、それがカエルスのシステムなのだから仕方ない。
そのため、高収入ではあるが、支出もハンパではない。
人民に優しく政治家に厳しいのが、カエルスという国なのだ。
サディンは、リビングに無造作に置いてあった新聞を取り、挿んである広告を抜き取る。
スーパー激安で、サラダ油と洗剤が半額セール中。
夕方からは食品コーナーでタイムセール。
それを見た瞬間に、午後の予定は決まった。
今より、二ヶ月前に遡る。
最初の頃に比べれば、随分楽に身体を動かせるようになってきた。
それは何もない空間で這いずり回る。
相変わらず左半身が麻痺したように動かないので、歩いて移動するのは困難なのだ。
暗闇が支配するその空間で、それは出口を探しているように、一心不乱に這いずっていた。
だが、どこまで行っても空間の終わりは見えず、壁に触ることもなかった。
出口を、光を求めて、それはただひたすらに這っていく。
夕方のスーパーは賑わっていた。
転生待ちの魂や、買い物に来た天使たちが、かごを持って店内を歩いている。
サディンはチェックを入れた広告を片手に、なるべく安いものをかごに入れていく。
パンにバター、肉と魚、野菜も選んで、ついでに半額になっている商品も手に取った。
そのままレジに行く途中で、嫌な顔を発見する。
「おやぁ、サディンじゃないですか。偶然ですねぇ」
買い物かごをぶら下げた、ルシエルだった。
奴のかごの中には、酒とおつまみしか入っていない。
いったい、何を食べて生活しているのだろうと、少々疑問に思う。
「今日の夕食は、何ですか?」
「秋刀魚の塩焼き……うちに来る気か?」
うっかり答えてから、サディンはジト目でルシエルを見上げる。
ルシエルはこうやって顔を合わせる度に、サディンの飯をたかりに行くのだ。
ラファエルも含めて、いい加減、食費を請求してやろうかと本気で考えている。
どうして自分の周りには、飯目当ての奴しかいないのだろう。
「嫌ですねぇ、当たり前じゃありませんか。
いいですね、秋刀魚。今が旬ですし」
ルシエルは躊躇もせずに頷いた。
サディンは深い溜め息を吐き、ルシエルの前を通り過ぎてレジに向かう。
その後ろから、ルシエルがついてきた。
基本的に、カエルスではどの店もセルフレジだ。
何故かと問われれば、勿論人材不足が為である。
こういった店舗の経営も天使の仕事なのだが、レジにまで人員を回せる程、天使の数は多くない。
サディンはカードで支払いを済ませ、買い物かごを持った。
ルシエルも支払いを済ませて店から出てくる。
やはり、ついてくる気だ。
まあ、こんなときのために、いつも多めに買い込んでくるので問題はない。
自分の甘さにほとほと呆れながら、それも楽しいと思っている訳で、サディンは何も言わずに帰途についた。
今より、一ヶ月前に遡る。
それは終わりのない闇の空間を彷徨い歩いていた。
相変わらず左半身はまともに動かなかったが、どうにか立って歩けるようにはなった。
片足を引きずりながら歩いていく。
それでも、這うよりは余程効率が良い。
いつまでここで彷徨い続けなければならないのだろう。
それは初めて、自分の境遇に疑問を持った。
秋刀魚の塩焼きに椎茸を添えて、真っ白なライスを椀に盛り付ける。
スープカップに注がれているのは、トーフのミソスープだ。
所謂、和食というものである。
このカエルスには、様々な国から魂が集まる。当然、食文化も様々だ。
中でも最近人気なのが、小さな島国の食文化で、これはいくら食べても太らないと言われている。
最初は半信半疑だったのだが、食べてみるとなかなかヘルシーで美味しい。料理本を買ってまで作った甲斐はあった。
サディンはテーブルの真ん中に、でんと漬物が乗った皿を置く。
この本にはヌカに漬けた野菜が美味しいと書かれていたのだが、その独特の香りが苦手なので、今日のものはただの浅漬けだ。
キャベツとニンジンとキューリ、それとジャパニーズラディッシュと呼ばれる、太くて長いカブを切ったものが山盛りになっている。
この和食を食べるときには、ナイフとフォークではなく、ハシと呼ばれる細長い棒を使うのだが、これがなかなか難しい。
最初はこの二本の棒を使いこなせなくて、ポロポロ零していたのだが、今では普通に使うことができる。
「……やあ、サディンはこと料理になると、本当になんでもありですねぇ」
ぷるぷるとハシを持ち、慣れない手つきで秋刀魚をつつくのはルシエルだ。
ルシエルがハシに慣れていないのを知った上で、わざとハシを出したのだ。
ナイフとフォークなど、ルシエルの目を盗んで隠してある。
これくらいの意趣返しはしても良いだろう。
サディンは秋刀魚のワタを除けて、器用に身だけ食べている。
「どうした、食べないのか?」
未だハシと格闘しているルシエルに、勝ち誇ったような笑みを向ける。
ルシエルはむっと押し黙り、徐にハシを置いた。
そしてにっこり笑って口を開ける。
「……何だ?」
「食べさせてください」
ほら、あーん。と自ら言って、ルシエルはテーブルを叩き催促する。
サディンは呆れたように見ていたが、やがて可笑しそうに笑った。
「仕方ないな」
そう言ってルシエルの皿にハシを伸ばす。
秋刀魚をまるごと一匹ハシで持ち上げ、その頭をルシエルの口元に運んだ。
「ほれ。あーんしろ」
「…………」
虚ろな目の秋刀魚が間近に迫り、ルシエルははらはら落涙する。
普段悪戯ばかりしているから、こういう場面で仕返しされるのだ。
一種の自業自得である。
ルシエルは落胆した表情で、
「やっぱり自分で食べます」
とハシを持った。
今より、三週間前に遡る。
それは自分の置かれた状況を、冷静に分析しようとした。
まず、この闇の空間がいったい何なのか、何処なのか。
何故自分がここにいるのか。
思い出そうとして、立ち止まった。
歩きながらでは考えられないのだ。
それはまだ、同時に二つ以上のことができない。
なかなか思い出せずに、むぅと唸った。
そこで初めて、それは自分の声を聞いた。
自分は声が出せるのだということに気付いたそれは、意味のない音の羅列を叫んだ。
かなり時間をかけて和食を攻略したルシエルは、ぐったりとテーブルに突っ伏した。
これはいったい何の苦行かと、本気でサディンを問い詰めたくなる。
当のサディンは、洗い物を済ませて本を読んでいる。例の料理本だ。
しかも、今度は中華。
サディンはもともと西洋に住んでいたのだが、どうやら他国の食文化に興味があるようだ。
ひょっとしたら、ただ単にハシの使えないルシエルに、嫌がらせをしたいだけなのかもしれないが。
ルシエルは溜め息を吐いて、今日買ってきた缶ビールを開け、おつまみのピーナッツを取り出した。
麦の喉越しが、疲れた身体に染み渡る。
この一杯のために、第二の人生を生きているようなものだ。
「よく飲めるな、そんな苦いもの」
ちゃっかりピーナッツをつまみ食いしながら、サディンは星のロゴをあしらったビール缶に目を向ける。
生前、アルコールの類を口にしたことがないサディンにとって、酒というものは理解不能の物質だ。
ルシエルは一気に飲み干した缶を置き、二本目を開けている。
「サディンってば、まだ子供ですねぇ。この美味しさが解らないなんて」
ニヤニヤ笑いながら言われると、かなりムッとくるが、ここで言い返してはならない。
売り言葉に買い言葉で、何度ルシエルの奸計に乗せられたことか。
サディンはルシエルから目を逸らし、再び料理本を眺めることにした。
今より、二週間前に遡る。
それは、色々な声を出しているうちに、言葉というものを思い出した。
音の羅列を組み合わせて、意味のある音にするのだ。
そうして言葉を思い出してからというもの、今まで思い出せなかった様々な記憶が蘇ってきた。
頭の中で言葉を並べて記憶を整理することで、よりスムーズに思考が働くようになったのだ。
そして、自分が置かれている状況を理解すると、それは狂ったように雄叫びを上げた。
翌朝、目覚まし時計の音に起こされ、サディンは目を覚ました。
ルシエルの姿はどこにもない。
明日は仕事で朝早いから、と言って夜中に追い出したのだ。
一人で静かにぐっすり眠ったお陰で、寝覚めはとてもスッキリしている。
トーストにジャムを塗っただけの簡単な朝食をとり、手早く身支度を整えた。
門番の制服に着替え、暇潰し用の本だけ持って家を出る。
門番というのは、忙しいときはとことん忙しいのだが、何もないときはとことん何もないという、やたら極端な職場なのだ。
以前など、丸三日何もない日が続いたと思ったら、いきなり四日連続で地獄の獣が襲ってきたこともあった。
忙しい分には構わないのだが、やることがないと暇で仕方ない。
よって、暇潰しアイテムは、門番には必須なのだ。
八時少し前に、サディンは門の前に着いた。
そこには、新しく門番となった天使が、眠そうな顔で待っていた。
どうやら、昨日はとことん暇だったようだ。
お疲れ様、と軽く挨拶を交わして、サディンは門の脇に座り本を開く。
空は一面の快晴。今日もまた暇を持て余しそうだな、と心の中で呟いた。
今より、一週間前に遡る。
言葉を口にできるようになり、それは新たなことを思い出した。
自分だけの、特別な能力のことだ。
そう、自分はこの能力があるために、このような空間に閉じ込められたのだ。
許せない。理不尽に自分を閉じ込めた者どもは、許さない。
そう考えて、初めて自分の中に様々な感情があることを思い出した。
これが心というものだと、それは思い出すことができた。
自分の能力は、言葉と心が組み合わさって、初めて真価を発揮する。
それは、今までよりも効率的に、この空間から脱出する方法を考え始めた。
本を閉じて、邪魔にならないように端に置く。
いつの間にか辺りに霧が立ちこめてきて、血生臭い気配が漂ってくる。
どうやら、今日は真面目にお仕事しなければならないらしい。勘が外れた。
サディンはすぐさま立ち上がり、気配のする方向に走りだす。
気配がするのは、比較的門の近くからだ。
これくらいならば、多少門から離れても大丈夫。すぐに戻ってこれる。
サディンは袖の中に仕込んである、長くて太い針を取り出した。
サディンが使う飛び道具である。命中率は百発百中。
敵は霧の中に姿を隠しているが、サディンにはどこにいるのかが手に取るように解るのだ。
見えない敵に向かって針を投げれば、小鬼の短い悲鳴と共に、敵の気配が消えていく。
この雲のような地面が、死骸を取り込み分解してくれるので、いつもそのまま放置している。
サディンは二匹目も始末するために、再び針を構えた。
今より、数分前に遡る。
それは己をここに閉じ込めた者に復讐を果たすために、この空間から抜け出そうとしていた。
そう。すべてを思い出したのだ。
奴らに復讐するため、自分の能力を使って、ここから出る。
そのために、もっとも相応しい言葉を選ぶ。
ゆっくりと息を吸って、口を開いた。
「ここから、出せ!」
一面闇ばかりだった空間に、わずかな光が差し込んだ。
あれは、外の光。
もっと、もっと大きな出口を作らなければ。
それは無理矢理にでも出口を広げるため、更に力を込めた言葉を重ねた。
どくんっ
と、世界が脈打つように震えた。
まるで地震でも起きたかのように、カエルス全体が揺れる。
だが、遥か天空に存在するカエルスに、地震など起こるはずがない。
揺れは徐々に小さくなって消えた。
地面に倒れたサディンは、驚きを顔に貼りつけたまま立ち上がる。
門の内側で起こった異変に、サディンはまだ気付いていなかった。
カエルスが揺れたそのとき、ルシエルは神殿に来ていた。
報告書をミカエルに提出するためである。
期限が今日までだったので、慌てて書きあげて持ってきたのだ。
ミカエルは、カエルスに唯一の大天使であり、神殿の中に住んでいる。
執務室も神殿の中にあり、毎日そこで送られてくる報告書に目を通すのだ。
朝から晩まで書類と格闘し、先日などは過労で倒れたと聞いたが、翌日には復帰していたという。
ルシエルが彼の執務室を訪れたときも、ミカエルは書類の山に囲まれてペンを走らせていた。
「おはようございます。先日の轢き逃げ事件の報告書、お持ちしましたよ」
ルシエルにそう声を掛けられて、ミカエルは初めて彼の存在に気付いた。
ペンの先で、机に乗った書類の山を指し示す。
「そこに置いておけ。後で見る」
ルシエルは言われた通りに報告書を置き、未処理の書類の山を眺める。
大きな机の上に、高さ七十センチ程の山が四つ。
このすべてに目を通さなければならないのだ。ミカエルの苦労が窺い知れる。 しかも、これが一日で終わらせる仕事の量だと言うのだから、恐れ入る。
明日にはまた違う書類が、同じような山になっていることだろう。
「貴方も大変ですねぇ、こんなに沢山、一人で片付けるなんて」
「用がないなら出ていけ邪魔だ」
ルシエルと言葉のキャッチボールなどしている暇はない。
ミカエルは煩そうに手を振ってルシエルを追い払おうとした。
そのとき、地下から突き上げるような、激しい揺れがカエルスを襲った。
書類の山が崩れ、机の上に雪崩となって落ちてくる。
ルシエルは立っていられずに座り込んだ。
ミカエルも驚いたように、机にしがみ付いている。
ほんの数瞬のうちに揺れは治まり、後には慌てた天使たちの声が、扉の向こうに残るだけとなった。
ルシエルとミカエルは立ち上がり、お互いの顔を見合わせる。
カエルスに地震などあるはずがない。
どこかで大規模な爆発でもあったのかとも思ったが、揺れの直前にそんな音は聞こえなかった。
崩れた書類はそのままに、扉を開けて通路に出る。
そこには、自分たちと同じように、事態を理解できない天使たちが右往左往していた。
非常事態を報せる警報すら流れないところを見ると、神々も何が起こったのか、完全に把握していないのだろう。
神殿内の者の無事を確かめるために、ミカエルとルシエルは走りだした。
棚が倒れて下敷きになった者や、割れたガラスで怪我をした者を救助して回る。幸い怪我人は多くなかった。
無事な者には、国内の魂たちの様子を見に行かせた。
魂だけの状態で深刻なダメージを受けると、二度と転生できずに消滅してしまうのだ。
天使たちは急いでカエルス中に飛び散った。