ひと時の平穏
「レイラ! もう体調は良いのかい?」
「まぁリッド、おかげさまでこの通り」
学校に来ていると、家で起こる煩わしいことから解放されて、とても気分が楽だ、とレイラは感じていた。登校したところに、ちょうど幼馴染であるリッドがやってきて、朝の挨拶をしてくれる。
リッドの問いかけに笑顔で頷いて、ひらひらと手を振ってから、並んで歩き始めた。
婚約者であるジェレミーとは別々の学校だったのが幸いしたが、そもそもの話として婚約者を交換することになっているのだから、別にリッドと歩いていても何ら問題はないはず。
それを知っているのは当人たちだけだが、いずれは父や母、そして公爵夫妻とも書類が取り交わされて、早々にリベリアがジェレミーの婚約者になるだろう。
「この前、雨の中立ち尽くしていただろう?」
「あの時はごめんなさい、情けないところを……」
「そうじゃなくて」
こら、と軽く叱られてしまうが、リッドの目の奥には本気の色があった…
「リッド?」
「本当に、俺のところに来る気はない?」
「……」
歩きながら、二人はあまり多くの人に聴かれないようにしながら会話をしている。
リッドには婚約者がいないが、レイラには婚約者がいる。聴かれてしまえば、どこにどんな風にして吹聴されてしまうか分からない。
いくら幼馴染といえど、モノには限度というものがある。
二人はそれをきちんと理解をしている、のだが。
「それにしても、君の婚約者はあまりに不誠実じゃないか」
「まぁ、うん」
レイラは否定しない。
実際、ジェレミーの興味や寵愛の対象は、すっかりリベリアに移ってしまっているのだ。
だから、あの時の待ち合わせだって、あんなことになってしまったのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「いやだわ、雨……」
待ち合わせをしている中、ぽつ、ぽつ、と雨が降ってくる。
どうしようか、傘を買ってくれば気にせずに待っていられるのだろうが、ジェレミーはここ最近とても気まぐれだ。だから、待ち合わせ場所にレイラがいない、となれば到着しても待っていてくれるかどうかが分からない。
到着して、レイラがいないと分かった途端、気分を損ねて帰ってしまう可能性だって大いにある。
「……困ったわね」
ここ最近、リベリアとジェレミーが大変仲がいい。
家族としてならばいいのだが、若干、それを超えてきているような感じすらある。そもそも、レイラとジェレミーの婚約は、お互いが六歳の頃に成立している。
外になかなか出られないリベリアに、将来の家族を紹介しよう、ということで両家の両親、そしてレイラとジェレミーだって納得した上で、紹介をして三人でたまに遊んでいたのだが、だんだんと、それはおかしな関係になっていっていた。
レイラの身支度が終わらないから、といって先にリベリアがジェレミーに会うことが増えていった。
両親は、それを止めないどころか『将来の義兄と親睦を深めているだけだから、気にするな』と何の配慮を見せることもなかった。
たった一言、レイラが来てから、リベリアが顔を出せばいいのよ。そう言ってくれるだけで良かっただけなのに、両親はあろうことか、それを望んだレイラを叱りつけたのだ。
「リベリアは、お前の夫になるべき相手と、少しでも親しくなろうと……『家族』になろうとしているんだぞ! それをお前はみっともなく嫉妬なぞ、恥を知れ!!」
「(そうね、お父様はそう言って私をあの時ひどく叩いたんだっけ)」
レイラの心の中を代弁するかのように、雨は次第に本降りになっていく。
「……」
ぱらぱらという音は、次第にざぁざぁという音に変わっていく。この王都にしては、珍しいほどの本降りの雨だなぁ、とレイラはどこか他人事のようにぼんやりと考えていると、すっと傘が差し出された。
それによって、雨が遮られ、一体誰が、と見上げた先にいたのは、幼馴染のリッドだった。
「こんなに雨が降っているのに……何をしているんだ!」
「……リッド」
どこかぼんやりとしたような声で、レイラはリッドのことを見上げる。すっかり濡れてしまい、髪からもぽとぽとと雫が落ちている。
早く乾かさないと、このままでは風邪を引いてしまう。
リッドはそう判断してレイラの腕をぐい、と引いたがレイラはテコでも動こうとしなかった。緩く首を横に振って、困ったように微笑んでいるだけだった。
「どうして……」
「今日はね、ここで待ち合わせをしているの。いつくるか、だなんて分からないけれど」
変わらず困ったような笑顔のまま、レイラは言葉を続けた。
「ようやく、ジェレミー様とお出かけできるんだから」
「俺なら、こんなにもずぶ濡れの婚約者を連れ回したりしない」
「それはリッドだから、でしょ?」
「そうかもしれない、けど!」
「いいの。きっと、リベリアに付き添っていて、時間を忘れているだけかもしれないしもう少し、待つわ」
まるで、何かを諦めたような、そんな声音にリッドはぐっと胸が締め付けられそうになる。
こんな風になるまで、婚約者を待ち続ける必要があるのだろうか、という思いも出てきているが、それよりもこんな状況に慣れてしまっているレイラの精神状態が不安でたまらなかった。
幼馴染だから、ということもある。
だが、こんなにも娘のことを蔑ろにしている婚約者に、レイラの両親は何も言わないのだろうか、とリッドは困惑の表情を浮かべた。
「レイラ、一時的でもいい。俺の家に避難するつもりはない?」
「避難、ってそんな大袈裟な」
「どこが」
「え……」
「何も、大袈裟なんかじゃない。おじさんやおばさんは、どうしてジェレミー様に対して何も言わないんだ!? リベリアだってそうだ!」
「リッド……」
どうして、リッドはこんなにも怒ってくれるのだろう、とレイラはとても不思議な気持ちになる。
まるで、自分が声に出せない感情を、全て代弁してくれているかのようで、じわりと心に染み込んで行くようだった。
「だって、私は健康、だから……」
「……レイラ?」
「リベリアが、辛いなら私は我慢しなくちゃ……」
「それは、本心?」
本心だ、と今までならレイラは断言していただろう…
だがこうして、レイラの深く閉じ込めた心の声を代弁してくれているかのようなリッドの言葉を聞いてしまえば、首を縦には振れなかった…
「それ、は」
レイラが言葉を紡ごうとした時、ばしゃり、と少しだけ大きく水音が聞こえた…
「ご立派なことだ、俺を待ちながら、他の男とのんびり優雅に会話か?」
「……ジェレミー、さま」
どうしてこういう時には躊躇することなく来るのだろう、とレイラは思う。いっそ、来てくれない方が色んな意味で諦めがついたのに……と考え、ハッとした。
ああそうか、わかりきっていたことじゃないか、と。ジェレミーが、心からレイラを心配してくれたことなんて、ここ最近ありはしない。
レイラのことをとても鬱陶しそうに見ているジェレミーの口から、時間に大幅に遅れたことに対する謝罪は、最後までなかった。
そうして、彼はレイラを引きずるようにして歩いていき、馬車に押し込めるとそのまま馬車を発進させた。
「(どうか、彼女があのまま帰宅できて、ゆっくりと休めますように)」
ただ、リッドはそうやって願うことしかできなかった。
とはいえ、ついでに今回の件だけでなく、レイラから聞いている色々なことを家族に共有することだけは忘れない。
何せレイラは、アンダース侯爵家の皆様から、とんでもなく愛されているのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「レイラ? おーい、レイラ」
「……はっ」
ついついあの日のことを思い返していたレイラは、どうやら黙ったままで歩いていたらしい。リッドに呼ばれてようやく我に返り、ぱちぱちと数回瞬きする。
「ごめんなさい、ついあの日のことを思い返してしまっていて」
「そうじゃないかと思ってたよ、けど……何となく吹っ切れたような顔に見えるね」
「そう?」
「うん」
あはは、と笑ってくれるリッドを見ながら歩いていると、前の方で大きく手を振ってくれている生徒が一人。
「あら、チェスカだわ。チェスカ、おはよう!」
「おはようレイラ! もう体調はいいの?」
「チェスカにも心配をかけちゃって、ごめんなさいね」
「いーいーの! 大事なお友達なんだから……って、リッドもおはよう」
「おまけか?」
「おまけよ」
うん、と大きく頷きながら、チェスカは真顔で答える。
ウェルドリン男爵家の長女であり、レイラやリッドとは初等科から一緒の幼馴染だ。この二人になら、だいたい何でも話せるし、馬鹿げた内容だとしても真面目に聞いてくれる。
レイラにとっては、とてもとても大事な友達。
そして、リベリアの言うことを全て真に受けることなく、きちんと両者の話を聞いた上で色々と判断してくれるから、リベリアは彼女たちのことをあまり好んではいないようだった。
「熱があった、って聞いたけれど……」
「ああ、うん。……」
「チェスカにも話しておきなよ。君が話さないなら、俺が言おうか?」
「何!? 何があったの!?」
一瞬興味津々の目をしたチェスカだったが、リッドの言葉に苦い顔をしている様子を見てから何かあったな、と察してくれたらしい。
思いきりジト目になって、ずい、とレイラに顔を近付けてから、にやぁ、と笑った。
「レイラ、じーっくりランチの時間に聞かせていただくわ。どうせあの仮病娘と、ろくでなし婚約者のことなんでしょうからねぇ?」
「(…………一応…………仮病ではないのだけれど)」
逃がさないからね! と言いながらがっちりとレイラと腕を組んだチェスカは、レイラをぐいぐいと引っ張りながら教室まで歩いていく。
腕が痛いわ、もう、と言いながらも微笑んでいるレイラ。
離してあげないんだから! と悪戯っ子のように笑っているチェスカ。
そして、そんな二人を見ながら困ったように笑っているリッド。
周囲は『ああ、いつものトリオだ』と笑いながら、彼らを見ているのだが、お昼休みに突入した途端にチェスカの絶叫が響いたのは、もう少しだけ後のお話。




