婚約者の交換
――今よりレイラとリベリアが幼かった、ある日のこと。
リベリアは、ごほごほと咳き込みながら自分を心配してくれているレイラを恨めしそうに見た。心配そうな顔はしているけれど、その日はどうしてもそれが我慢できなかった。
『どうして、レイラは健康なの?』
『どうして、レイラは喘息にかかっていないの?』
『私は学校を休まなければいけないのに、レイラはどうして学校行事に参加できているの?』
『私は色んな事を我慢しているのに!』
健康な体が、羨ましい。
走ったり、思いきり笑ったり、何でもできて、楽しく過ごせている、その体が。
それと同時に、リベリアはとてつもなく妬ましくも感じてしまった。
健康だから、学校にも普通に通える。パーティーにも参加できるし、些細なことだけれど中庭だって好きなように散策できる。リベリアにとっては、それすらも出来ないことがあるというのに。
程なくして、それはとんでもない理不尽な怒りへと変化した。
「レイラ、出ていって……」
「リベリア……」
「出ていって、ってば!!」
レイラが何かしたわけでもない。だが、無性にそこに居るだけなのに腹立たしくて、サイドテーブルに置かれていた小物を手に取り、思いきり投げつけた。
「……っ!」
がつん、とレイラに当たるが、リベリアのことを心配している両親からは『さっさと出て行きなさい!』とレイラは叱られている。
リベリアはこっそりと『ざまぁみろ』と思うが、そう思ったところで咳が止まるわけはない。
泣きそうな顔で、小物が当たったところを押さえながら出ていくレイラをちらりと見たが、変わらず咳は酷く出てきてしまう。
ぱたんと扉が閉まってからも、リベリアは何度も何度も咳き込んで、浅い呼吸を繰り返していた。うまく酸素が吸えず、ぐっと体を小さくするも多少楽になったような気がするだけ。
あくまで気休めでしかないが、それでもしないよりはマシだった。
「げほっ、……っ、ひゅ、ごほごほっ!」
「リベリア、ゆっくり、ゆっくり息をしてちょうだい!」
母親の声が聞こえる。そんなこと言われなくても分かっているし、必死に呼吸を整えようとしているけれど、うまく息が吸えないから思いきり吸おうとして、また咳き込む。
レイラが出ていって、母やメイドにはたっぷりと甘やかしてほしいと思っていた。だが、普段よりも咳込む時間が長くなっており、うまく呼吸できないことで放っておいてほしい、という感情が膨れ上がってきてしまった。
そのせいで、声をかけられることすら鬱陶しく感じてしまったリベリアは、咳の合間に必死に言葉を紡いだ。
「でて、いって! げほ、げほごほ!! おか、……っ、ごほごほ! おかあ、さま、も……、み、な……、ひゅ、……出て、いって!!」
「……っ!」
皆出て行け、と言われて、困ったように母であるグレースはメイドに合図をして、そっと退室した。
こうなってしまったリベリアは、そっとしておいた方が機嫌だって早く良くなってくれる。グレースはそれを理解しているから、最大限配慮しなければ、と思って出て行ったのだが、『どうしてもっともっと心配そうに声をかけてくれないんだ」という、また何ともいえない理不尽な感情がリベリアの中を支配していった。
喉の奥からはヒューヒューと耳障りな音が聞こえるし、思いきり咳をすればごぼごぼと聞きたくないような嫌な音まで聞こえてくる。どうにか治めなければ、と必死に呼吸を整えながらリベリアはぐっとシーツを握る。
「っ、は……、はぁ……っ、……ごほっ……」
咳がひと息ついたところで、ほっとしながらも辛くないようにと己を守るために丸めていた体を、のそのそと元に戻した。
「……水」
呟いてから冷えていない水を、一口飲んだ。
冷えていると喉も冷えてしまって、また咳が出てしまうからと冷たいものを飲むことを許可されていないリベリアは、グラスに注いだ水を揺らす。
「……たまには、とっても冷えたジュースが飲みたいわ……」
ボヤいても、誰にも届かない。
どうしてこんな思いばかり、と涙がじわりと滲んでしまい、ぽたぽたと落ちて、シーツにも染み込んでいく。
「……ずるい、ずるいわ……!」
呼吸が苦しくならないように、リベリアは泣く。
どうして自分はこんな体なんだろうと思っても、これがすぐさま改善することはないし、喘息治療は時間がかかってしまう。
両親をはじめとした家系の中で、こういった病を発症している人がいなかったこともあってか、何故リベリアがいきなり喘息になった理由も分からない、と医者も困っていた。
「……謝らなきゃ」
ひとしきり泣いた後で、リベリアは少しだけぬるくなった水を飲んでいく。
喉が潤ってくれるおかげで、呼吸も楽に感じるし咳もしばらく出なさそうだった。
理不尽すぎる八つ当たりをしてしまった、といつもリベリアは後悔するが、両親が甘やかしてくれるから、レイラが何でも言うことを聞いてくれるから、屋敷の使用人も常にリベリアを優先してくれるから。
何もかもが悪い意味でリベリアに作用してしまっているせいで、少しずつ彼女自身の性格は捻じ曲がっていっているのだが、誰もこの時点では気付いていない。
せめて誰かが『あまり何でも言うことを聞くな』と戒めてくれればいいが、気付くのはかなり後のこととなってしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、話は『今』に戻る。
あの頃、リベリアとレイラはまだ十歳だった。
今はもう十七歳になっており、二人揃って同じ学校にも通っているが、朝イチで喘息の発作が出てしまえば、リベリアは当たり前のように休む。ノートはレイラのものを写す、ということが当たり前の日常となってしまっている。
この日も、リベリアは朝から酷い喘息の発作を起こし、朝食もままならないまま部屋で過ごしていた。
ある程度咳が治まって、朝食を終え、薬も飲んでだいぶ体調が落ち着いた頃に、部屋のドアがノックされる。はいどうぞ、とリベリアが返事をすれば、泣きそうになっている母グレースと、父オルドーがリベリアの部屋へと入ってきた。
「リベリア……! あぁ、わたくしの可愛いリベリア! 少しでも咳は治まってきたかしら?」
「お母さま……」
「大丈夫かい、リベリア。何か温かいものを飲むかい? 何か欲しいものはあるかい?」
「……いいえ、大丈夫よお父さま」
見るからにしょんぼりとしているリベリアを見て、両親は心配そうに顔を見合せた。何か自分たちに思うところがあるのだろうか、と感じた二人はリベリアに近付いて行った。
「リベリア、どうしたの。何か悲しいことがあったの?」
「……私ね、やっぱりレイラのことが羨ましいの」
ぽつ、と零された言葉に、両親は顔を見合わせた。健康だから、だろうかと予測してそう問いかけてみたが、リベリアは緩く首を横に振っている。
「……私には、婚約者がいないのに……レイラにはいるでしょう? しかも、貴族令嬢の憧れの公爵令息だなんて……」
「それは……」
「リベリア……」
それは仕方のないことだ。
貴族令嬢として生まれた以上、家のための婚姻を結ぶ必要があるが、体が弱いリベリアにそれをさせたところで、離縁されてしまう未来しか見えない。
だが、レイラは成長するにしたがって、勉学にも打ち込んで、魔法の勉強もしっかりしている。
リベリアのために、と分かりやすいノートだって作成してくれている。そういえば、幼馴染のリッドだってリベリアのお見舞いに来てくれたりしているし、リベリアにだって友人はいる。
皆にこれほどまでに愛されているというのに……と、一瞬オルドーは顔色を曇らせるが、リベリアはベッドの上で少しだけ唇を尖らせていた。
「リベリア……あのね」
「だって、もうジェレミー様は婚約者を交換してくれる、って」
「……何だって?」
自分たちはまだ、その話を聞いていない。
そして、グロネフェルト公爵家からも、そのような書類は届いていない。
「そういえば、レイラが書類がどうとか、って言っていたわ」
まさか、子供たちの間でこんな話がされているなんて、とグレースもオルドーも困った顔をしていた。
つい最近、滅多に体調を崩さないレイラが熱を出した、とは聞いていたが、そのちょうど同じタイミングでリベリアも体調を酷く崩してしまっていた。だから、いつも通り、リベリアに付き添っていたのだが、レイラは回復していつも通りの生活を送っている、とメイドから報告を受けている。
「だ、だがそうなるとレイラの婚約者はどうするんだ?」
「え、レイラは健康なんだからどうにでもなるんじゃないの?」
悪気なく、リベリアの口から出てきた、レイラを軽視しているとも取れる発言。
だが悲しきかな、確かにレイラは学校の成績も優秀だし、健康だから、仮に婚約者を代えたところで何とでもなってしまいそうな雰囲気はある。
それに、グロネフェルト公爵家との縁が切れるわけではないし、跡取りはレイラが産んだ子か、あるいは分家から養子を取ればどうにでもなる。
オルドーはここまで考えたものの、不安そうな顔でグレースはリベリアに問いかけていた。
「ねぇ……リベリア、本当に良いの? 本当にグロネフェルト公爵が了承をしている、って……きちんと確認はとったの……?」
「ジェレミー様が言っていたの! 間違いないってば! お母さま、くどいわ!」
「おい、あまりリベリアを興奮させるんじゃない」
諫めるような言葉に、グレースは渋々ながらも言葉を噤んだが、リベリアの頭の中には『憧れの公爵子息と婚約できる』ということしかないのかもしれない。
ベッドにはいるものの、普段よりも顔色はとても良い。喘息で咳込んではいたものの、ジェレミーのことを思うと、精神的にも気持ちが軽くなっているのだろう。それを考えれば、婚約者の交代ぐらい、なんてことはない。
また、いつも通りレイラに我慢してもらえばいい。
だってあの子は、病弱なリベリアを大切にしているし、姉妹仲だって良いままなのだから、とグレースもオルドーも、とても軽く考えていたのだった――。




