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ヤンデレに逆婚約破棄をしたら大変なことになった話

作者: りきやん
掲載日:2026/05/22

 王城のシャンデリアが眩い光を放ち、大広間には優雅なワルツの調べが流れていた。色とりどりのドレスに身を包んだ貴族たちが談笑する中、私、エリアーナ・ヴァン・ルージュ公爵令嬢は、人生で最も大きな賭けに出ようとしていた。


 心臓が早鐘のように鳴っている。扇を持った手は微かに震え、それを隠すために私はきつく指に力を込めた。


 視線の先には、この国の王太子であり、私の婚約者であるルシアン・ディ・オルブライト殿下の姿がある。


 プラチナブロンドの美しい髪、湖のように澄んだ青い瞳。誰に対しても温和で、文武両道、非の打ち所のない完璧な王子様。令嬢たちの憧れの的であり、彼と婚約した私は「国で一番幸せな少女」と呼ばれていた。


 ――ああ、反吐が出る。


 あの完璧な笑顔の裏に隠された、底なしの狂気を知っているのは私だけだ。


 今日、この場で全てを終わらせる。大勢の貴族の目があるこの夜会こそが、私にとって唯一の安全地帯なのだから。


 私は大きく深呼吸をし、音楽が途切れた瞬間を狙って、広間の中央へと進み出た。


「ルシアン殿下!」


 凛とした声を出したつもりだったが、緊張で少し上ずってしまったかもしれない。しかし、広間の喧騒を断ち切るには十分だった。


 ざわめきが波のように引き、人々の視線が一斉に私に集まる。


 ルシアン殿下は、手にかけていたグラスを給仕に渡し、優しげな微笑みを浮かべて振り向いた。


「どうしたんだい、エリアーナ。急に名前を呼んだりして。私の愛しい婚約者、何かあったのかな?」


 甘く、とろけるような声。以前ならその声に胸をときめかせていたかもしれない。しかし今の私には、その声すらも粘着質な蜘蛛の糸のように感じられて鳥肌が立った。


 私は背筋を伸ばし、毅然とした態度で彼を指差す。


「ルシアン殿下。私は本日、この場を借りて、貴方との婚約を破棄させていただきます!」


 静寂。


 文字通りの、水を打ったような静寂が大広間を支配した。

 誰かの手から滑り落ちたグラスが床で砕け散る音だけが、やけに大きく響いた。


「……え?」


「公爵令嬢が、王太子殿下に……逆婚約破棄?」


「そんな馬鹿な、何かの冗談だろう」


 貴族たちのヒソヒソ声が広がり始める。無理もない。通常、婚約破棄といえば身分の高い男性側から突きつけるものだ。公爵令嬢とはいえ、王太子に向かって公衆の面前で婚約破棄を宣言するなど、前代未聞の不敬である。


 だが、私にはそうせざるを得ない理由があった。そして、この「公衆の面前」こそが、彼から逃れるための最大の防御なのだ。


 ルシアン殿下は目を丸くし、驚いたような顔をした後、少し困ったように眉を下げた。


「エリアーナ……急にどうしたんだい? 私が何か君を怒らせるようなことをしたなら謝る。だが、婚約破棄だなんて物騒な冗談は……」


「冗談ではありません! 私は本気です!」


 私は用意していた言葉を、まるで台本を読み上げるように一気にまくし立てた。


「貴方が私に対して行ってきた数々の異常な行為……もう限界なのです! 私は貴方の操り人形でも、所有物でもありません!」


「異常な行為、とは……?」


 周囲の貴族たちがざわめく中、私はドレスの隠しポケットから、数枚の羊皮紙と、小さな鍵を取り出して高く掲げた。


「皆さま、聞いてください! この完璧な王太子殿下の真の姿を! 殿下は……殿下は、重度のストーカーであり、常軌を逸した異常者です!」


 私は震える声を振り絞り、これまで集めてきた証拠と事実を突きつけた。


「第一に、私の身の回りの品の窃盗です! 私が紛失したと思っていたハンカチ、リボン、果ては使いかけの香水瓶や抜け落ちた髪の毛に至るまで……全て殿下が裏で手を回し、回収していました! この鍵は、王城の離れにある『開かずの間』のものです。偶然私が手に入れ、中を見たとき……私は気を失いかけました。部屋中が私の肖像画で埋め尽くされ、私の私物がまるで祭壇のように飾られていたのです!」


 貴族たちの顔から血の気が引いていくのがわかった。信じられないといった目で殿下と私を交互に見ている。


「第二に、私の交友関係への異常な干渉です! 私と親しく話した令息たちが、次々と原因不明の事故に遭ったり、遠方の領地へ左遷されたりしているのは偶然ではありません。殿下が裏で手を引いていた証拠の書簡がここにあります! 従兄のアルバートが馬から落ちて大怪我をしたのも、彼が私の手を取ってエスコートした翌日のことでした!」


 私の告発が続くにつれ、広間の空気は疑惑から恐怖へと変わっていった。


 完璧な王太子が、婚約者に執着するあまり犯罪すれすれ――あるいは完全な犯罪)行為に手を染めていたという事実。


「そして第三に……殿下は私の自室にまで盗聴の魔導具を仕掛け、私の毎日の行動、睡眠時間、さらには寝言まで記録していました! これがその記録簿の写しです!」


 私は証拠の書類を床に叩きつけた。


 息が上がる。恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪えて、私はルシアン殿下を睨みつけた。


「私は殿下の狂気から逃れるため、お父様にも内密に証拠を集め、今日この場を選びました。これほど多数の証人、そして明確な証拠がある以上、王家も私との婚約を白紙に戻さざるを得ないはずです! 私は、貴方のような恐ろしい人とは絶対に結婚などいたしません!」


 言い切った。


 全てを暴露した。これで私は自由になれる。


 王家の体面は丸潰れだが、ここまで公になれば、もはやルシアン殿下も私に手出しはできない。王や宰相が彼を幽閉するか、王位継承権を剥奪するはずだ。


 私は勝利を確信し、大きく息を吐き出した。


 ――ところが。


 告発を全て聞き終えたルシアン殿下の反応は、私の予想とは全く異なるものだった。


 弁明するわけでもなく。


 激高して私を怒鳴りつけるわけでもなく。


 ただ、静かに、うつむいていた。


「……殿下?」


 不気味な沈黙。周囲の貴族たちも、固唾を飲んで王太子の次の言葉を待っている。


 やがて、彼の肩が小刻みに震え始めた。


「くっ……ふふ……」


 それは、微かな笑い声だった。


「あはは、あはははははははは!」


 広間に、ルシアン殿下の高笑いが響き渡った。


 普段の温和な彼からは想像もつかない、腹の底から湧き上がるような、狂気に満ちた歓喜の笑い。


 私はゾッと背筋が凍るのを感じて、思わず数歩後ずさった。


「で、殿下……? 何がおかしいのですか!」


「ああ、いや……すまない、エリアーナ。あまりにも、あまりにも君が愛おしくて、可愛らしくて……我慢できなかったんだ」


 顔を上げたルシアン殿下の表情を見て、私は絶望的なミスを犯したことを悟った。


 彼の瞳は、怒るどころか、とろけるような熱情と、暗い執着にドロドロに濁っていたのだ。青い瞳の奥に、真っ黒な底なし沼が口を開けているように見えた。


「素晴らしいよ、エリアーナ。まさかあの部屋の鍵を見つけるなんて。まさか私の工作の証拠を自力で集めるなんて。あんなに鈍感で無防備だった君が、私のためにそこまで頭を使い、行動してくれた。君の頭の中が、私への恐怖と疑念でいっぱいになっていたと思うと……ああ、興奮で頭がおかしくなりそうだ」


 殿下は陶酔したように自らの顔を両手で覆い、身悶えしている。


 狂っている。完全に狂っている。


「頭がおかしいのは元からでしょう! 近寄らないで!」


「近寄らないで、か。ふふっ。……でも、エリアーナ。君は大きな勘違いをしているよ」


 ルシアン殿下は、ゆっくりと、肉食獣が獲物を追い詰めるような優雅な足取りで私に近づいてきた。


「勘違い……?」


「そう。君は『婚約破棄』をすれば、私から逃げられると思っている」


 殿下は私の目の前で立ち止まると、周囲で怯えきっている貴族たちをぐるりと見渡した。


「君は、私がなぜ自分の感情を必死に抑え込み、夜会で見えないように立ち回り、わざわざ『婚約者』という枠組みの中で君を愛でていたかわかるかい?」


「そ、それは……王太子という立場と、王家の体面があるから……」


「違うよ」


 ルシアン殿下は、私の言葉を冷たく遮った。


「『君が、私を立派な王太子だと信じていたから』だ」


「……え?」


「君はいつも言っていたよね。『ルシアン殿下は立派な未来の王です。私も、殿下に相応しい王太子妃になれるよう努力します』って。君がそう望むから、私は君の理想の王子様を演じていた。君が『真っ当な世界』での結婚を夢見ているから、私も『婚約期間』という面倒くさい手順を踏み、『社交』という鬱陶しい時間を許容し、君に群がる羽虫どもを裏でコソコソと片付けるという手間をかけていたんだ」


 殿下は私の頬に手を伸ばした。私は反射的にその手を払いのけようとしたが、彼の腕力は見た目からは想像もつかないほど強く、私の顎をがっちりと捕らえて逃さなかった。


「だけど、君は今、自らその『真っ当な世界』のルールを壊してくれた」


 至近距離で覗き込まれる彼の瞳。その奥にある純粋な狂気に、私は声も出せなくなった。


「私を異常者だと公衆の面前で罵り、王太子の体面を泥にまみれさせ、そして『婚約破棄』を宣言した。……つまり、君はもう『完璧な王子様』も『王太子妃としての未来』も望んでいないということだ」


「ちが、私はただ、貴方から離れたくて……!」


「同じことだよ、愛しいエリアーナ」


 殿下は私の唇に親指を這わせながら、甘く囁いた。


「婚約という『社会的な契約』があるから、私は君を城の地下室に監禁するのを我慢していた。王太子妃という『公的な立場』があるから、君から手足の自由を奪って私だけのベッドに縛り付けるのを我慢していた。……その枷を、君自身が外してくれたんだ」


 ゾワリと、全身の毛穴が開くような悪寒がした。


 私は、とんでもない思い違いをしていたのだ。


『婚約』は私を彼に縛り付ける鎖ではなかった。


 彼という怪物を理性の側に繋ぎ止めておくための、唯一の首輪だったのだ。


 ――その首輪を、私は自らの手で断ち切ってしまった。


「な、誰か! 衛兵! 衛兵を呼んで! この人を捕まえて!」


 私はパニックに陥り、叫んだ。


 しかし、広間の入り口に控えていた衛兵たちは微動だにしない。それどころか、ガチャリという重い音とともに、大広間の巨大な扉が外から施錠される音が響いた。


「無駄だよ。今日の警備を担当している近衛兵は、すべて私の息がかかった者たちだ。私の指示がなければ動かないし、誰もこの部屋から出しはしない」


「お、お父様……!」


 私は人混みの中にいるはずの父、公爵の姿を探した。しかし、父は青ざめた顔で震え上がり、隣に立つ殿下の側近に剣を突きつけられていた。他の貴族たちも同様だ。いつの間にか、広間は武装した殿下の私兵たちによって完全に制圧されていた。


「これを見ろ、エリアーナ。君が助けを求めた世界は、私の一声で容易くひれ伏す。君が頼りにした法律も、身分も、ここでは何の役にも立たない」


 殿下は私の腰を強く抱き寄せ、私の耳元に唇を寄せた。


「ああ……清々しい気分だ。もう、無理に微笑む必要もない。君を他の男の目に触れさせる必要もない。君が誰かと話すたびに、そいつの首をどうやって刎ねてやろうかと我慢する必要もないんだ」


「いや……いやぁっ! 離して!」

「離さないよ。絶対に。君が私を拒絶したこの記念すべき日に、私たちは真の結びつきを得るんだ」


 私は絶望のあまり膝から崩れ落ちそうになったが、殿下の強靭な腕がそれを許さなかった。


 彼は私を抱きかかえたまま、周囲の貴族たちに向けて冷酷な声で言い放った。


「皆の者、今日この時をもって、エリアーナ・ヴァン・ルージュと私との婚約は破棄された。彼女の望み通りにな」


 貴族たちは青ざめたまま、声を発することもできない。


「しかし、彼女は私の最も愛する女性であり、今後一生、私の『特別保護下』に置かれる。彼女の身柄は私が預かる。これに異議のある者は前に出よ」


 誰一人として動く者はいない。王家の威光と、目の前で剥き出しにされた暴力的なまでの狂気。それに逆らえる者など、この国にいるはずがなかった。


 父でさえも、剣を突きつけられ、ただ無力に目を伏せることしかできなかった。


「よろしい」


 殿下は満足そうに頷くと、私を見下ろして微笑んだ。


 それは、以前の「完璧な王子様」の仮面を被った笑顔よりも、ずっと美しく、そしておぞましい笑顔だった。


「さあ、行こうか。エリアーナ。君の新しい部屋はもう用意してある。あの証拠の品を置いていた離れなんかじゃない。私の寝室の奥深く、誰も鍵を開けられない、窓もない、君と私だけの愛の巣だ」


「やめて……お願い、許して……!」


 私は涙を流しながら懇願した。


 自分がどれほど愚かだったか、今ならわかる。


 証拠を集めて公の場で告発? 逆婚約破棄で立場を逆転?


 そんなものは、相手が「常識」という土俵に立っている人間にしか通用しないのだ。


 最初から狂っている彼に対して、社会的な抹殺など何の意味も持たなかった。むしろ、彼を縛っていた社会のルールを私が取り払ってしまったことで、彼は正真正銘のバケモノとして羽ばたいてしまったのだ。


「許す? 何を言っているんだい。私は君に感謝しているんだよ」


 殿下は私の涙を指で優しく拭い、チュッと音を立てて私の額にキスをした。


「君が私を解放してくれた。だから私も、君をこの退屈な世界から解放してあげる。もう政治も、礼儀作法も、人間関係も、何も考えなくていい。君はただ、私の腕の中で、私のためだけに鳴いていればいいんだから」


 彼の言葉が、呪いのように私の脳髄に響く。


 私は抵抗する力も失い、ただ彼の腕の中で絶望の淵へと沈んでいった。


 遠退く意識の中で、私は最後に思った。


 もし、もしも時間を巻き戻せるのなら。


 私は絶対に、あんな中途半端な正義感で彼に立ち向かったりしない。


 笑顔の仮面を被った彼に愛想笑いを返し、少し不気味な婚約者としてやり過ごしながら、隙を見て他国へ夜逃げでもすればよかったのだ。


「愛しているよ、私のエリアーナ。永遠に、私だけのものだ」


 甘い囁き声とともに、大広間の重い扉が開かれ、私は深い深い闇の中へと連れ去られていった。


 ◆


 現在。


 私が今どこにいるのか、正確にはわからない。


 ただ、敷き詰められた最高級の絨毯と、豪奢な天蓋付きのベッド、そして私の手足に繋がれた、黄金で作られた細く美しい鎖の感触だけが、ここが現実であることを教えてくれる。


 窓はない。あるのは、魔法の明かりだけ。


 時折、ルシアン殿下がやってきては、私に食事を与え、髪を梳き、狂気じみた愛の言葉を延々と囁き続ける。


「おはよう、私の小鳥。今日も美しいね」


 ガチャリ、と重い扉が開く音がして、彼が入ってきた。


 手には、私の大好きな焼き菓子が乗った銀の盆を持っている。


 彼は本当に、私の好みを何でも知っている。私が何を考え、何を恐れているのかさえも。


「……殿下。お願いです、少しだけ、外の空気を……」


 私が掠れた声で懇願すると、彼は悲しそうに眉を下げた。


「外? 外には君を傷つける悪い虫がたくさんいるじゃないか。君が無理をして笑う必要のある嫌な奴らがたくさんいる。ここは安全だよ。私以外、誰も君を見ないし、君に触れない」


 彼はベッドに腰掛け、私の口に甘い焼き菓子を運んだ。


「ほら、あーんして。君の大好きな店のものだよ。君が婚約破棄をしてくれたおかげで、私は毎日こうして君の世話をすることができる。最高の気分だ」


 逆婚約破棄。


 あの夜の自分の決断を思い出すたび、私は後悔で胸が張り裂けそうになる。


 私は自由になるために彼を切ったはずだった。


 しかし結果として、私は彼にとっての「理性のタガ」を外し、完全な飼育動物へと成り下がってしまった。


「美味しいかい? エリアーナ」


 無邪気に笑う彼の顔を見ながら、私はただ、涙を流すことしかできなかった。


 ヤンデレに逆婚約破棄を突きつけるなどという、己の分を弁えない行為の代償は、あまりにも大きすぎた。


 永遠に続く、甘くて重い、黄金の鳥籠。


 私の心と体が完全に壊れて、彼の人形になり果てるまで、この地獄は終わることはないのだ。

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