05.口付けと、静かな拒絶
予想したとおり、ライムウッドさんはソファーから動いていなかった。そっと揺すると、彼は目をこすってから体を起こす。
「おはよう。もう朝?」
「いえ、起こしてすみません。ベッドで寝ていただけないかと思って。必要なら、肩をお貸しします」
「なんで?」
「ソファーよりもベッドのほうがやわらかく、体力回復に繋がります」
「僕、普段野宿だし、これで十分すぎるくらいだけど……?」
「ベッドはもっといいですよ」
「そう?」
ライムウッドさんは、不思議そうな顔を私に向けてくる。普段は野宿だなんて、この人は一体どこでどう生活しているのだろう。
「ね、せっかく戻ってきたなら、もう少し話さない?」
「でも、体調は……」
「大丈夫だよ」
座り直したライムウッドさんが、自分の隣の座面をぽんぽんと叩く。ここにおいでという意図は理解したけれど、私はあえて向かいのソファーに腰を下ろした。
「あの、ライムウッドさんは、フォレスに森の浄化をさせるつもりなんですよね?」
「させるっていうか……手伝ってほしいなと思ってる。今は僕だけじゃ浄化しきれないし、もともと彼は、次の王として還ってきてもらった存在なのだし」
私はドレスの裾をキュッと握る。代々森を守ってきたウッドリアン家の人間としては、フォレスを説得して浄化に関わってもらうという判断をするべきなんだろう。でも私は、問いを重ねずにはいられなかった。
「では、もしも、フォレスが嫌だと言ったらどうされますか……?」
私は絞り出すように言ったのに、返事はあっけらかんとしていた。
「えー、それは困るなー」
「いえ感想を聞いたわけではなくて」
「えっ?」
不思議そうな表情で首をかしげられてしまった。無理やり連れて帰ると即答されなくてよかったけれど、大丈夫なのか、この人は。でも拍子抜けしたついでに、肩からも手からも力は抜けた。ふうと息を吐いて、ライムウッドさんをまっすぐ見つめる。
「森の浄化が重要なのは、私にもわかります。ただ、まだ小さなあの子は浄化の負担に耐えられるでしょうか。それに、できればフォレスには、意に反することはしてほしくないのです」
「うーん、僕を手伝う程度なら、負担というほどではないと思うよ。君があれだけ力を注いできたんだから」
「力を注ぐ、とは……?」
どういう意味だろう。フォレスの育児には全力を注いできたつもりだけれど、そういうことを言われたわけではない気がする。反応に困っていると、ライムウッドさんが首をかしげた。
「さっき見るまで、僕も君の力のことは知らなかったけど、君も自覚ない?」
「なんのことでしょうか……」
「あの子にキスをしたでしょう? その時に、あの子の力が少し増していたよ。どうやら君は、キスした精霊に力を与えられるみたいだね」
「そんな、冗談」
「嘘じゃないよ」
そんな冗談みたいな力があるわけない。そう思う一方で、ライムウッドさんと最初に会った時、フォレスの額にキスした直後に言われたことを思い出した。ライムウッドさんは、『ねえ、今のなに!?』と、驚いた様子だった。あれが演技だとは思えない。
「ねえ、試しに、僕にも力を分けてくれない?」
「……治療ということでしたら」
少し抵抗はあるけれど、キス一つでライムウッドさんが回復するなら、森にとってもフォレスにとってもいいことだ。照れる必要なんてない……はず。一度はねた心臓を落ち着けてから立ち上がる。
ライムウッドさんの前に移動し、息を止めて額に口付けしようと身をかがめた。でも、私の唇が彼の額にたどり着く前に、腕をぐいと引かれた。
「きゃっ」
彼の顔が近づいて、唇と唇が重なる。表面が触れるだけの軽いキス。何度も重ねられそうになり、慌てて身を起こした。
「待ってください。唇同士じゃなくてもいいんですよね?」
「うん? 大人の男女のキスは口にするんでしょ?」
「誤解です! 額へのキスは祝福、唇へのキスは愛情、と意味が違いまして。ライムウッドさんがご存知なのは、恋人同士か夫婦の男女のことかと」
「んー? 愛しい人には唇に口付けるであってる?」
「恋愛感情のある相手にのみ、です」
「じゃあ、あってるよ」
立ち上がったライムウッドさんの唇がまた重なり、すぐに離れる。私を見下ろしている青い瞳は、澄んだ空と同じ色をしていた。透明で、どれだけ手を伸ばしてもつかめそうにない、不思議な色。
頭の奥で、覚えのない映像がチラついた。森の木漏れ日の下で、ライムウッドさんが何か話している。知らない光景のはずなのに、胸の奥がじんと熱くなる。
彼と何かの約束をした気がする。それは、とても大切な――
「大丈夫? 今ので疲れちゃった?」
ライムウッドさんに声をかけられ、はっと我に返った。途端に脳裏に浮かんでいた景色は霞のように消え、あとには疑問だけが残る。私はライムウッドさんに会ったことがあるのだろうか。
「ミア? もしもーし」
「あっ、大丈夫です。少し考え事を――って、どうして急に愛称」
「精霊はみんなそう呼んでるよ?」
「……私たちは今日が初対面ですよね?」
「うん、ミアに会うのは今日が初めてだね」
不思議そうなライムウッドさんの顔が、『それがどうしたの』と聞いている気がする。初対面の異性をいきなり愛称で呼ぶなんて、なかなかしないのだけど……。でも文句を言う気も失せてしまい、ため息をつくだけにした。
「少しは回復されましたか?」
「うーん。こういうの、人間の言葉でなんて言うんだっけ?『焼け石に水』?」
「ああ、そうですか……」
「あっ待って、違うかも。『ないよりマシ』かな?」
「あんまり変わりませんよ」
どっと疲れが押し寄せてきたけれど、まだ話を終わらせるには早い。あまり意味がないなら、根本の問題を取り除くことに注力すべきなんだろう。
「では、精霊の王であるあなたと交渉がしたいです」
「何の?」
「森周辺で命を落とす動物が増えている件、私たちも手を焼いている、密猟者のせいだと思われます。取り締まりに協力いただけないでしょうか? 精霊たちを通じて密猟者の動きを教えていただければ、こちらも警備兵を向かわせることが――」
「やだ」
ライムウッドさんの声が急に固いものに変わり、唇がきゅっと結ばれる。ずっと浮かんでいた温和な笑みも消え、彼は私から目をそらした。
「約束したはずだよ。話を聞いても手出ししないって」
「『それが精霊の領域の話であれば』と申し上げました。話を聞く限り、どう考えても人間のせいなのですから、それは私たちが動くべきです」
「ずるい言い方をしてもだめ。君が出てくるなら、僕は協力しないし、皆にもさせない」
「どうしてですか?」
「だって――っ」
開かれた唇から理由が出てくるのを待ったけれど、しばらく経っても続きの言葉は発せられなかった。小さくため息をついたライムウッドさんがようやく私を見たけれど、なんだかとても悲しそうに見えた。
「あの子を連れていくならちゃんと話すのが誠意だと思ったんだけど、何も言わなきゃ良かったね。君はここから動かないで。この話はおしまい」
その言葉が終わるやいなや、ライムウッドさんの姿が音もなく消えた。最初から、応接室には私しかいなかったみたいに。
「……ライムウッドさん?」
呼んでみても反応はない。試しに案内するはずだったゲストルームを覗いてみたけれど、誰もいなかった。自分の部屋に戻ると、ベッドではフォレスが健やかな寝息を立てている。
「どうして……?」
私は何か、触れてはいけないところに触れてしまったのだろうか? 疑問を口にしたところで答えが返ってくるはずもなく、フォレスを見てくれていた使用人が困った顔で私を見ただけだった。




