03.近すぎる距離、触れてはいけない線
『ライムウッド』と名乗ったその人は、私とフォレスにしか見えていないようだった。それでも使用人たちは、『精霊が客として来ている』と伝えると、応接室にティーセットを準備し、私にしがみつこうとするフォレスを連れ出してくれた。
「ご自由におくつろぎくださいませ」
使用人たちがそう言って頭を下げて出ていく前から、ライムウッドさんは私の向かいのソファーにだらんと寝そべっている。
いくらなんでも、くつろぎすぎでは!?
眉間に刻まれたしわを指で押し伸ばし、咳払いすることで自分の心を落ち着ける。精霊に人の常識を求めても無駄なんだろう。きっとそう。
「今、森はどうなっているのですか?」
「説明が難しいな。君以外の人間の目には、いたって平穏な森に見えると思うよ」
「あなたの目から見て何が起きているかを知りたいです」
膝の上のドレスをきゅっと握り、ライムウッドさんを見据える。表情も手振りも、何一つ見逃すまいという気持ちで。なのに、ライムウッドさんはへらっと笑って目を閉じた。
「うーん……その話、あとでいい? 僕疲れたから一回寝る」
「は?」
「キスしてくれたらもうちょっと頑張ってもいいけど」
「しません」
「じゃあ寝る。おやすみー。しばらく出てってもらっていい?」
「ふざけないでください!」
思わず立ち上がって彼の前に歩み寄ったけれど、私がソファーの前にたどり着く頃には、彼はもう目を閉じていた。
「……嘘でしょ」
初めて訪れた他人の家で、大事な話の前に眠るなんて。どれだけ自由なのよ!
私の言いつけをキッチリ守るフォレスとは正反対だ。似ていない。全っ然、似ていない! 寝顔を睨みつけてみたところで彼が起きることはなく、苛立ちが増しただけだった。寝顔がフォレスに似ているところが、さらに腹立たしい。
――ふと。
「……?」
彼の姿がすうっと薄くなり、見えないはずのソファーの柄が目に入った。思わず彼の頬に触れたら、元の色を取り戻す。
「目の錯覚、よね……?」
きっとそうだ。ライムウッドさんが現れてから緊張し続けていたから、疲れたのかもしれない。
彼の頬を触ったついでに軽くつねってみたけれど、ライムウッドさんは身動きひとつしなかった。
◇
自室に向かう途中、軽い足音が近づいてくると思ったら、フォレスが廊下を走ってくるところだった。不安げな表情のまま、私に抱きついてくる。
「ママ! おはなしおわったの?」
「ううん、ちょっと休憩。どうしたの? 何かあった?」
「……」
黙ってしまったフォレスを連れて部屋に戻ると、ローテーブルの上には積み木で作られた家があった。三体の精霊が、笑い声を上げながら出たり入ったりしている。ドレスを軽く引かれてフォレスに視線を向けると、彼は不安げな顔で私を見上げていた。
「あのね、ぼく、ママとずっといっしょがいい」
「……」
ママもずっと一緒にいたい、とは返せなかった。私だって、できることならフォレスが大人になるまで側にいたい。でも彼は精霊から預かった子なのだ。
そっと抱き上げ、彼の額にキスを落とす。ぎゅうと抱きついてくるフォレスの背を、優しくなでた。
――そういえば。
さっきライムウッドさんが、私がフォレスにキスしたのを見て「今の、何!?」と聞いたのは、なんだったのだろう。
「ねえ、フォレス。ママのキスって、何か変?」
「? ううん、あったかくて、だいすき。ぼくもちゅー」
「ふふっ」
私の頬に小さな唇が触れる。そのくすぐったさが、私の胸を幸せで満たしてくれた。この子は何より大切な宝物。フォレスの父だと名乗ったあの人は、この子の幸せを一番に考えてくれるかしら――?
ライムウッドさんのことを考えたら、さっきキスされた時の感触を思い出してしまって、胸がざわついた。慌てて首を振る。思い出さなくていい、それは。なんだか体温も上がってきてしまった気がして、手の平をぱたぱたと振り、自分に気持ち程度の風を送った。
◇
ライムウッドさんがようやく起きたのは、外が真っ暗になり、フォレスも寝てからのことだった。
「ふあー、よく寝た。おはよう」
「もう夜です。こんばんは」
「こんばんは? 起きたのに? 人間の挨拶って難しいよね」
嫌味はまったく通じていないようだ。長時間爆睡しておいて、ライムウッドさんに悪びれる様子はない。それどころか、ソファーに座る私の横に移動してきたかと思ったら、自分の頭を私の膝に乗せて寝転がった。なぜ膝枕……?
「あの、降りてください」
「なんで?」
不思議そうな表情で見上げられたけれど、なぜかという問いを向けたいのはこっちだ。眉間にしわが寄りかけたのをなんとか耐え、落ち着くために心の中で唱える。
――相手は精霊、相手は精霊、人の常識を求めるだけ無駄……っ!
「降、り、て、く、だ、さ、い」
「えー? 前はいいって――ああ、あれは前の護り人か……」
そう呟いてから、ほんの一瞬だけ視線が私の頬に落ちた。懐かしむような、困ったような、でもすぐに誤魔化すみたいな目。
「ごめんごめん、懐かしい夢を見たから間違えちゃった。君が嫌なら降りるよ」
ふっと遠い目をしてから、ライムウッドさんが億劫そうに体を起こした。元の席に戻るでもなく、私の隣に座る。もう文句を言う気力もわかなくて、私はライムウッドさんの向かいのソファーに移動した。
今の発言が気にならないこともないけれど、今は森とフォレスのことだ。
「そろそろ聞かせてください。フォレスを預かったあの日、森で何が起きたのか」
「わかったよ……でも、一つだけ約束して。何を聞いても、君は手出ししないで」
穏やかに笑っているのに、声に拒絶の響きが混ざった。何なんだろう、この人は。物理的な距離感は近すぎておかしいくせに、こんなふうに線を引いてくる。
「わかりました。それが精霊の領域の話であれば、手出しはいたしません」
「うん。約束は守ってね」
ホッとした表情を向けられ、ずるい言い方をした罪悪感で胸が痛んだ。
「まずは、あの森の役割から話そうか」




