02.父親を名乗ったその人と、突然のキス
ずっと森に囲まれた屋敷で生きてきたから、最初は広い草原に囲まれた別荘地から見渡せる景色の広さに驚いたけれど、そこで五年以上を過ごすうちにすっかり慣れた。
「ママ!」
草むらに座り込んでいた息子が、ぱっと顔を上げて私を見た。新緑を思わせる薄緑色の髪が、陽を受けてキラキラと光っている。空のような鮮やかな青色の目も、毎日陽の下で遊んでいても白いままの肌も、整いきった顔立ちも、人間離れしている。それでもフォレスは一般的な五歳児と変わらぬ大きさで、出産前から診てくれている医師も、この子は間違いなく人間だと言ってくれていた。
こちらに駆け寄ってきたフォレスが、指で挟んだ何かを私の前にずいと出してくる。
「ママ、みて!」
「これは……うん、ずいぶん大きな虫を捕まえたのね」
「でしょ!」
得意げに笑って、フォレスが私の腰に抱きついてくる。愛しい我が子の額に、軽くキスを落とした。とたんにふにゃりととろける笑顔が本当に可愛い。
《フォレス、おにごっこはー?》
《おにごっこやだー。かくれんぼしよー!》
小さな光が二つ、私たちの周りをくるくると飛んでいる。光に誘われて、フォレスは笑い声を上げて駆けていった。このあたりに住み着いている小さな精霊の子どもたちが、毎日フォレスと遊んでくれているのだ。自分が精霊と遊んでいた頃のようで、子どもたちを眺めるのは私にとって憩いの時間。
ただ、このあたりには幼い精霊しかいないので、実家近くの森の様子を聞いても《しらなーい》としか返ってこない。両親や兄の手紙を読んでいる限りは、人間の密猟者の取り締まりに苦戦しているものの、森は平穏であるらしいのだけれど。
「そろそろ、私だけでも一度森を見に戻れないかしら……」
何度呟いたかわからない言葉を口にし、視線を落としてため息をつく。私だけ、一日でもいいから実家に顔を出したいとお父様に願い出ても、返事はいつも同じ――否。自宅まで歩いて戻れるような距離ではないし、お父様の許可がなければ馬車も屋敷まで走ってくれない。私には、この別荘地に留まり続ける以外の選択肢を与えられていないのだ。
「はあ……」
いつもどおりのため息を、いつもと違う清涼な風がさらっていった。ハッとして顔を上げると、フォレスの前に見覚えのない男性が立っている。慌てて駆け寄り、フォレスを背にかばうように彼らの間に割り込んだ。
「どなたですか!?」
私を見て目を丸くしたその人は、フォレスが大人になったらこんな風になるんじゃないかと考えてしまうくらい、フォレスによく似ていた。薄緑色の陽に輝く髪も、空のような瞳も、端正な顔立ちも。髪がやわらかくうねるところも、人懐っこく笑うときの、細くなった目も。見ているとなぜか懐かしさを感じるところも。彼の周りにはどんどん精霊たちが集まってくる。
《おーさまだ》
《ねー、おーさま、げんきー?》
《あそぼー》
精霊たちが王と呼ぶなら、彼も同じく精霊で。だから、彼が口を開く前に、何を言われるかは察してしまった。
「はじめまして、僕はその子の父親だよ。その子を迎えにきたんだ」
ああ、やっぱり――理性は彼の言葉に納得したけれど、感情は理解を拒否していた。これまでまったく接触してこなかったのに、いきなり迎えに来ただなんて、そんなの。
「あなたが父親だと証明できますか?」
「えっ」
「急に現れてそんなことを言われても、信じられません。証明をお願いします」
「えー?」
男性の両眉の端が、ゆるく下がる。フォレスが困った時に見せる表情と同じように。
「髪も、目も、人の持つ色じゃないでしょ? それだけじゃだめ?」
「『人の持つ色じゃない』ことの証明が足りません」
「僕ら、似てない?」
「他人の空似の可能性が否定できません」
「えー? うーん、困ったなあ」
へらっと笑いながら頬をかく男を睨みつけながら、自分の手を握りしめる。こんな子どもの駄々みたいな屁理屈をこねてどうするんだ、私は。フォレスは精霊から預かった子。いつかは精霊に返さなきゃいけないことくらい、わかってる。わかってたのに。それに、そっくりな二人を見れば、親子関係を疑う必要なんてないのに――
「……ママ?」
私の後ろにいたフォレスが、私のドレスのスカートをぎゅっとつかんで、不安げに見上げてくる。いけない、この子を不安にさせちゃ。こわばっていた自分の顔に無理やり笑顔を貼り付けて、息子を抱き上げた。
「ごめんね、大丈夫」
頬に軽くキスをしてから、フォレスの顔が別荘を向くようにくるりと回る。
「あのね、ママはこの人と、大人のお話があるの。だからフォレスは先に家に戻って――」
「ねえ! 今の、なに!?」
「……は?」
肩に手を乗せられて振り向くと、驚いたような表情の男の人の顔がすぐ近くにあった。目をしばたくと、首をかしげられる。
「気づいてないの?」
「何にですか?」
「えー、これこれ」
ふ、と、男の人の影が私に落ちてきて、唇にあたたかいものが触れた。キスされたのだという理解はあとからやってくる。首から徐々に熱が上がってきて、考えるより前に。
「何するんですか!」
「ママにちゅーするの、だめ!」
私の平手と、フォレスのグーパンチが、男の人の頬を直撃した。手の平が痛い。でも、その痛みより、胸の奥に残った温度のほうが、ずっと厄介だった。




